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経済を通して読む歴史

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以前、別の形で、このテーマの動画を作ったのですが、大きなテーマなので、短い動画では作りにくかったので、以前のような形で作っていきたいと思います。
「戦争はなぜ起きるのか、あるいはその戦争に勝つにはどうしたらいいのか」という事について、過去の2度の世界大戦や戦前、戦後の戦争を取りあげて、いろいろと解説していきたいと思っています。
そもそも、戦争というのは、戦力の均衡が崩れた時に起こります。
そういう意味でも、現在の東アジアは大変危険な状態になっています。
アメリカの軍事予算は中国の3倍ぐらいなのですが、アメリカは全世界に目配りをしているのに対して、中国は東アジアのみに注力することができるので、日米で対応するといっても、東アジアの軍事バランスは中国側に傾いているものと思われます。
2012(平成24)年ぐらいまでは拮抗していたのですが、2013(平成25)年以降、日本は防衛予算を全く増やさなかった一方で、中国側が凄まじく予算を増やしていったため、どんどん差を付けられてしまい、台湾有事や尖閣有事もいつでもあり得る状況になってしまいました。
そういう意味で、現在、東アジアは大変危険な状態になっている訳です。

特にロシア・ウクライナ戦争で決定的な事実が明らかになってしまいました。「アメリカは核保有国相手には直接的には戦争をしない」という事です。
つまり、例えば台湾有事や尖閣諸島の問題で台湾や日本が中国と戦争状態に入った場合、アメリカが直接助けには来ないという事です。
もちろん、ウクライナに対してのように、もの凄い支援をしてくれるでしょうが、直接、対峙する事はありません。
理由は簡単で、億が一の可能性で、ロシアのプーチン大統領が核ミサイルを使用して、アメリカの領土のどこかに落ちた場合、アメリカの大統領が国民に対して、どのように説明すれば良いのでしょうか?アメリカにすれば、戦術核をウクライナのどこかに撃ってもらってアメリカには被害が及ばないようにしたい訳です。
ということは、東アジアで中国が台湾や尖閣に攻めてきた場合、台湾なり日本に代理戦争をさせたい訳です。という事は、中国が核を打ち込むのは、台湾であったり日本である訳なのです。
アメリカとしては、例えば日本と中国が本当に戦争状態になったとして、別にそれは決着が付く必要などなく、ずっと戦っていてくれても構いません。
アメリカの国益を考えた場合、どう考えても、とにかくアメリカに核が飛んで来ない事こそが最優先ですから。

それが維持できるのであれば、日本がずっと中国と戦争してくれていても構わない訳です。

もちろん憲法9条で戦争の放棄を謳ってはいますが、コロナ禍の時でお分かりのように、日本政府は政治力で憲法を無視します。財産権の侵害になるので、保障なしの行動の制限をやってはいけない、と憲法に書かれているにも関わらず、です。それを平気でやるということは、「日本は憲法9条があるので戦争しない」といった前提ももう崩れています。
私は別に戦争を望んでいるわけではありませんが、現実はそうなのだということなのでしょう。
そういうことで、日本としては速やかに経済力を回復させて、アメリカとの同盟のもとに中国との軍事バランスを回復させないといけないのですが、大東亜戦争の敗北後、日本では戦争について語ることをタブー化してきました。それ故、戦争が何なのかという事を知りません。

ちなみに、大東亜戦争に敗北する前の日本の軍部や政治家というのは「戦争は何なんなのか。それに勝つにはどうしたらいいのか」というのを完全に理解していました。それでも勝てなかったわけなので、やらない方が良いのですが。
例えば、軍隊が戦争をするというのは、それは実はサービスの生産なのです。
「日本国民に対して、安全保障、あるいは防衛のサービスを提供していますよ」という考え方が取れます。つまり、これは純然たる経済的な話なのです。戦前には、こういうテーマで話した人が結構いたのですが、戦争に負けて以降は誰も話さなくなっただけのことです。
なので、戦争とは何なのかというと、「安全保障サービスの生産」です。
生産というのは、工場で製品を作ることだけではなくて、働いて財やサービスを生み出すことを言います。
ある集団が生存や独立など価値ある何か、これは状況によって違うので何か分かりませんが、その価値ある何かについて何らかの脅威が及ばぬように、何らかの手段を講じることで安全な状態を保障することです。

何が起こるか分からないので、それに備える、そのための手段はさまざまありますが、それを「安全保障」と言います。それでは、保障というのは何なのかというと「障害がないように保つこと」を言います。
現在の東アジアでは中国の一強となっており、軍事バランスが崩れてしまっている状態です。なので、戦争が起きる可能性、確率は少なくとも確実に上がりました。将来の状態や地位を保全するためにも、軍事バランスを維持しなければなりません。

我々は、日本国という共同体に属しています。共同体というのは何なのかというと、3つ大きな役割があります。
1つ目が「権利の認定」です。
共同体が存在しない場合、我々は何の権利も持ちません。生まれながらの権利など存在しないのです。なぜなら、権利という概念自体が、あくまで共同体が認めることによってこの世に生まれるからです。
つまり、「無人島のロビンソン・クルーソーには何の権利もない」ということになります。

そして、「生産性が高い経済の実現」です。
我々は1人1人が働いて、財やサービスを生産して、それが有機的に結び付いています。そうする事によって、全体的な生産性を高めることができるわけです。
「私はこれに特化して生産します」「私はこれに」という形で、それぞれが専門に特化して、それが結び付くことによって、ようやく我々は生産性が高い経済を実現できます。なので、自給自足の生活というのは本当に大変です。
「食料を手に入れられなくなるんじゃないか」とか「エネルギーの供給が途絶するんじゃないか」とか、あるいは「病気になった時に全く助からないんじゃないか。お医者さんがいない、看護師さんがいない、病院がない、病床がない」、あるいは「次なる自然災害で私は死んでしまうんじゃないか」、あるいは「敵軍が攻めてきて我々が皆殺しにされるんじゃないか」というような、さまざまなリスクに備えるためには共同体が絶対必要になるわけです。

特に、「敵軍の侵略に対して1人で立ち向かえますか?」というと、不可能なのです。
この最大の共同体、国家、今は国家が主力になっていますが、われわれ人間は例えば家庭であったり、中間組織、企業など、さまざまな組織に属して、最終的には国家という共同体に属しています。この国家よりも広い共同体はありません。
もちろんアメリカは日本の同盟国ですが、アメリカが自分たちの国益を捨ててまで日本を救うというような決断をする事はあり得ません。
つまり、中国から核ミサイルが飛んでくる可能性を考慮しても日本を助けるということは絶対にやりません。なぜなら、アメリカという国家は、アメリカ人のための国だからです。
我々もそうです。日本という国家が一番で、他の選択肢はないというのが現実なのです。
そういう事で、その国家について、もう少し深く説明していこうと思っています。このシリーズの全動画を見たら確実にピンと来ると思いますが、国家には2種類あります。

1つは「国民国家」(Nation State)です。
国民が主権を持つ国家という意味ではなくて、共同体の構成員、われわれ人間が共通の歴史や言語、伝統、文化、宗教、価値観、生活様式などによって何となく統合されていて、何となくお互いに「同じ国民でしょ」という認識がナショナリズムなのですが、これを共有するのが国民国家です。
ロシアというのは、非常に面白い国で、あれはロシア人の国家ではありません。
ロシア人が多数派なのは間違いないのですが、ソ連時代よりも減ったものの、それでも、100以上の民族がロシア連邦に住んでいます。ということは、共通の歴史などはありません。そして言語、伝統文化、宗教、価値観、生活様式などもバラバラな国なのです。なので、昔のソ連も今のロシアも国民国家ではありません。
本当に不思議な話なのですけれども、歴史などが全く異なり、言語も異なるけれども同じ国民ということになっているわけです。
そういう国を「帝国」というのですが、とりあえず「国民国家」にとって重要なのは国境です。
国境は、お互いに絶対に侵さないという前提になっています。

今、日本はある意味で完全な国民国家になっています。日本国民の国家です。
戦前は違いました。戦前は異民族の土地である台湾と朝鮮を国の一部として併合していた「大日本帝国」という帝国だったのですが、今は日本人のための国民国家なのです。われわれ日本国民が、国境の向こう側に領土を欲するということはやりません。
なぜ、そのようなことをやるのかというと、もちろん日本列島に住むことができなくなってしまったというような切羽詰まった理由があれば別なのですが、国民国家は「日本列島の中でみんなが幸せに生きていけるのであれば、それで構わない」という話になるからです。世界中には、ここまで統一された国民というのはあまり存在していないのですが、日本のような国民国家しかないという場合には多分戦争が起きません。「何で国境を越えてまで戦わなきゃいけないの?」となりますから。 内戦は別として、基本的に戦争というのはどちらかが国境を越えてやって来ます。「お互いに国境をちゃんと守りましょう。この国境の内外でインターナショナルな付き合いをしましょう」と考える国際的な国家だらけで、しかも国民の統合がそれぞれほぼ完璧になされていたら、戦争など起きません。意味がないからです。
もちろん、日本人が日本列島で暮らしていけなくなってしまったら、生存のために国境を越えてしまう可能性はあるので、そういうものがないという前提です。

ところが、現実は、国民国家を束にしたような国家というのが存在しています。
それが「帝国」です。帝国というのは複数の共同体によって成り立っています。
もともと歴史や文化や言語を共有している共同体があり、その複数の共同体を統合して別の共同体を作っているわけです。
帝国というと君臨する何かは一般的には皇帝ということになるのですけれども、実際は特定の民族であったりします。今のロシアはロシア民族の帝国です。
あとは思想です。これはずばり欧州連合、EU がそれに当たります。
「グローバリズム」という思想のもとに、国民国家を束ねて最終的には欧州連邦を目指すという理想の下に創設されましたが、コロナやロシア-ウクライナ戦争に対応できず、挫折していっています。
普通、民主制の国民国家の場合は多数決であらゆる事が決められていきます。なので、この場合は、多数派が政権を握ります。
「私は日本をこうしたい」と思って、それをみんなに伝えていき、賛同を得て、多数派を構成したら、もともとは1人の意志だったのに、それによって政治を変えることが出来ます。簡単ではないですが、不可能ではないのです。

経済を通して読む歴史 その11
帝国の場合は別です。帝国の場合は、多くの国民国家、共同体の一員には主権がないか、もしくは制限されています。
欧州連合がいい例なのですけれども、欧州連合の場合、ブリュッセルにある欧州委員会が君臨していて、ブリュッセルの EU の官僚たちが法律などを決めてしまいます。
それに各国民国家が従うという事になっていて、そこに各国民国家の主権者の意志は通じません。なので、イギリスは欧州連合から脱退したのです。
今のロシアでは、プーチン大統領の周囲の権力というのが君臨しています。
ロシア・ウクライナ戦争が勃発して、戦争反対の運動がロシアの各地で起きていますが、それは当然暴力で鎮圧するという形にならざるを得ません。
例えば、「ロシアに対して悪い印象を与えるような動画を作った場合には、懲役20年」というような法律を作ってしまうなどの形で対応しています。
もちろん帝国にも法律はありますが、その法律を誰かが人々の意志に基づかずに変えてしまうというのが帝国の特徴なのです。
国境を越えて、別の民族、別の共同体の者たちと戦うという戦いが帝国的。
「攻められているから反撃する」という戦いが防衛的。
今のロシアが帝国的であって、ウクライナは完全に防衛的という事です。

国民的、共同体的と言ってもいいですが、「国民一丸となって戦う」という場合も確かにあります。これに対するのが傭兵的です。もちろんお金を払って兵隊を雇うという伝統的な傭兵もあるのですが、支配下にある他民族、共同体意識を持っていない人達を戦わせるという事です。
戦争というものにはいろいろなパターンがあります。
例えば、十字軍戦争です。クレルモン公会議でローマ教皇ウルバヌス2世が「エルサレムを取り戻せ」と演説をしました。もともと反目し合って、しょっちゅう戦っていた欧州の諸侯たちが、その演説に心を打たれて団結しました。
そして、「神、キリストの名のもとに。神がそれを望んでおられる」というスローガンのもとで、十字軍という一種の共同体を作りました。
そして、コンスタンティノープルを経由して、小アジアからシリアに攻め込んでいき、最終的にはエルサレムを落としました。
その時、ムスリム側、イスラム教徒側、セルジューク朝トルコ人たちは、やはり欧州と同じで領主たちが反目し合って戦争ばかりしていました。
時々コンスタンティノープルの皇帝、東ローマ帝国、ビザンチン帝国の皇帝がフランク人の傭兵をを雇って、それで小アジアに攻め込んで来ました。

この時のフランク人というのは、フランス人というよりはヨーロッパ人という意味です。まさに、このコンスタンティノープルの東ローマ帝国ことビザンティン帝国の皇帝というのは、傭兵(ようへい)を使いまくりました。お金を払ってフランク人を雇って自分の国のために、小アジアに攻め込んでセルジューク朝に奪われた領土を取り戻すというようなことをやっていました。
そこに、十字軍かやってきました。イスラム教徒側は何が目的か全然気付きませんでした。「また、コンスタンティノープルの皇帝がフランク人雇って攻めて来た」と思っていたのでしょう。
信じられないかもしれませんが、イスラム教徒側が十字軍の本当の目的、つまり「神がそれを望んでおられる。イスラムに奪われたエルサレムはキリスト教に属すべきだ」という、非常に宗教的な考え方で侵略してきたという事を知ったのは、それから70年ほど後のサラディンの時代。
単に「こいつら、何だ、またビザンチンの皇帝に言われて来たのか。いつの間にか国建ててるし」というような、自分たちと同じように一種の領主の感覚で戦っていたのでしょう。なので、イスラム教徒側が団結する事はありませんでした。

しかも、「イスラム教徒の人たちが一致団結して十字軍に立ち向かおう」となったのは、サラディンの時代であって、当初はバラバラで、しかも傭兵的でした。「金を出
すから助けてくれ」というノリで十字軍を相手に戦って負けていました。
その後にサラディンのもとで共同体的になり、キリスト教徒、あるいは十字軍に対する戦いはジハード、つまり「宗教のために努力する」こととなりました。
「ジハードで死んだら天国に召される」のですが、それは十字軍側も同じく、「キリストのために戦って死んだら天国に行ける」のです。
そういう形で大変だったのですが、サラディンがイスラム教徒を団結させて、最終的にサラディンがエルサレムを奪い返す事になりました。
だからと言って、サラディンはエルサレムを落とした後、「コンスタンティノープル、あるいはローマに攻め込もう」というようなことはやりませんでした。
イスラム教徒側は常に防衛的でした。

次にフランス革命戦争です。
フランス革命戦争は、恐らく人類史上初めての国民戦争です。
フランス国民が一丸となって、そして侵略者と戦いました。
なぜ侵略者が出てきたのかというと、それは革命を起こしたからです。
フランス革命によって、ルイ16世が処刑されてしまいました。
それを聞いた周囲の王国が恐怖したわけです。
「この革命がうちの国に及んだらどうなんだ」という事もあり、各国はフランス革命に干渉するべく軍隊を送りました。
もちろん様々なイデオロギーやプロパガンダがありましたが、その時にフランス側では、人民がフランス国民として戦うという形になり、フランス国民軍が編成されました。しかも、国民軍は結構強いのです。なぜかというと、他の国が送ってくるのは基本的には雇われ兵ですが、その侵略に対して、フランス国民は「我が祖国フランスを守るために」という意志の下で戦うので、フランス側が勝つことになるのですが、その後にいろいろあり、最終的にはナポレオン戦争という全然スタイルが違う戦争に突入することになりました。これは完全に侵略的で、かつ傭兵的です。
何が傭兵的かというと、もちろんフランス国民も戦うのですが、支配下に置いた地域の人々を徴兵して、それで戦わせるというスタイルになったからです。

次はロシア・ウクライナ戦争です。
ウクライナ側は、完全なる防衛的かつ国民的な戦いを今やっています。
それに対して、ロシア側というのは侵略的かつ傭兵的なのです。
意外にも、本当の意味での民族的なロシア人はあまり最前線に行っておらず、地方の異民族の方々が徴兵されて前線に送られています。
プーチン大統領は、このロシア・ウクライナ戦争をロシアの国民の戦争にしようとするべく、様々なプロパガンダを仕掛けていますが、完全にはそこに至っていないと思われます。
そして、日本の例ですが、
明治維新前の日本の例というのは1つしかありません。元寇です。
モンゴル側は侵略的かつ傭兵的です。
何が傭兵的かというと、実際に日本に襲来したモンゴル軍というのは、もちろん
指揮官はモンゴル人なのですが、戦っている兵士たちの大半は、例えば高麗人であったり、あるいは南宋の人々でした。

日本側は完全に共同体的、かつ防衛的に戦いました。
当時の鎌倉武士たちがなぜそこまで真剣に元寇と戦ったのかというと、それは自分の領土を守るためという理由があったわけです。
もちろん鎌倉武士も鎌倉側から九州に行っていますけれども、一番主力で活躍したのは九州の武士たちです。
それは「自分たちの領土を守れないんじゃないか」という恐怖があったので懸命に戦ったということです。
過去の歴史、戦争を見ると、モンゴルが典型なのですが、国民的、あるいは共同体的な相手に侵略していくと、結構、撃退されています。
モンゴル軍は無敵ではありません。
モンゴルが戦って勝った相手というのは、相手も帝国なのです。
つまり、共同体としてはバラバラなケースが大半です。
それが神聖ローマ帝国のドイツ騎士団であったり、あるいは日本の鎌倉武士であったり、あるいはエジプトのマムルーク朝であったり、「自分の共同体を守るために」という形で戦う人々相手だと、結構モンゴル軍は負けています。

世界の歴史上、国家には2つの種類があることがわかったと思います。
実際には簡単に2種類に分類できないのですが、ここは少し抽象的に考えてください。
帝国には複数の共同体が君臨する何かの中にあります。
それが、1個の共同体である国民国家と対立するという構図が、基本的には戦争のスタイルなのです。
日本を帝国と名付けたのは英国の外交官であるアーネスト・サトウで、幕末の頃、300程の藩があり、それを統括する権威者が天皇だったのを見て、天皇を皇帝、日本国を帝国と呼んだのですが、日清戦争で台湾、日露戦争で朝鮮を併合し、大日本帝国は純然たる帝国となりました。ロシアが清から奪っていた満州の南半分をもらい、そこに満州人の国を作り、日本が後ろ盾となることで、白人の国から直接攻撃を受けないために、緩衝地帯として重視することになりました。そのため、われわれの先人たちは、国境の向こう側で戦わなくてはいけなくなりました。
日本はそうでもなかったのですが、帝国の厄介なところは、多民族、多言語、多宗教にありました。共同体の中にバラバラに存在しており、数も多いのです。そのため、「1つの共同体」と認識させるために、強引に、基本的には暴力で統治する事になります。

その場合、君臨する何かの正当性を証明するために拡張主義にならざるを得ないのです。一応、ロシアは、現在は、国民国家という形になっているので国民なのかもしれませんが、基本的には帝国では人民、つまり、主権のない方々が常に外国で戦うことになります。
対して国民国家の場合、国民はきちんと主権を持っていました。日本やアメリカ、西欧がそうです。
そういうことで、この2つの種類の国家があるというのが、基本的には戦争が起きる最大の原因と言っても過言ではないと思われます。
ちなみに、今のロシアのプーチン大統領が自分を正当化するために使っている考え方が「大ロシア主義」です。確かにウクライナのキエフというのは、ロシアの起源であるキエフ大公国の首都でした。ルーシの国です。
ベラルーシや、ウクライナも、もともとロシア帝国の支配下にありましたが、ずっとそうだったわけではなくて、基本的にはピョートル大帝やエカチェリーナ2世といった皇帝が侵略をして、それで支配下に置きました。
なので、ベラルーシは「白(しら)ロシア」、ウクライナは「小(しょう)ロシア」と呼ばれていました。
「もともとロシアじゃないか。同じスラブ民族じゃないか」という建前を示して、「当然同じ民族なんだから1つの国であるべきだ」という理由で侵略しました。

梅棹忠夫(うめさお ただお)元京都大学名誉教授は『文明の生態史観』で、この帝国と国民国家の関係を見事に説明しています。世界を第1地域と第2地域に分けており、第2地域とは、厳密にはユーラシアと北アフリカなのですが、ユーラシア大陸の真ん中には満州からハンガリーまで続くユーラシアステップという遊牧民が住んでいる乾燥地帯があります。遊牧民というのは、家畜を育てて生活しており、家畜に食べさせる草がなくなるとそれを求めて移動していく人々です。
これは何が問題かというと、例えば「やっと草原があるところに来た」と思い、家畜を連れていっても、反対側から別の部族がやってきた場合には、必ず戦いになってしまうという事です。基本的には戦闘を日常茶飯事として繰り返します。負けたら飢えて死んでしまうので、どうしても食べていけなくなると、穀倉地帯に向けてなだれ込んでいきました。時には国を滅ぼしたりもしていました。そういう人民がユーラシアステップに住んでいて、その周りに4つの帝国が存在していました。支那帝国、インド帝国、ロシア帝国、そしてイスラム帝国です。この地域にある国々では、封建制の経験を持ちませんでした。純然たる専制帝国です。タージマハルのような燦然(さんぜん)と輝く宮廷を造りました。そして広大な領土、多様な民族、複雑な言語構成、そして常に辺境が存在しました。

国民国家などの場合は、日本が典型ですが、国境がはっきりしています。
日本では辺境地帯というのはありませんが、帝国は辺境が常にあるのです。奪うべき地域なのです。
そして、植民地ではなく、外側の辺境地帯の向こう側の国々を衛星国化します。
ソ連が典型ですが、ポーランドやハンガリー、チェコ・スロバキアなどの国々は完全にソ連の衛星国になっていました。第2地域では全てが皇帝に属しています。
ソ連では、ソ連共産党中央委員会書記長です。当然、人民には言論の自由などありません。今のロシアがどうなのかはわかりませんが、普通は、このような体制では官僚政治の腐敗が深刻化していきます。
それに対して、ユーラシアの西と東に封建制の経験を持つ地域があります。これが第1地域です。日本と西ヨーロッパです。これらの国々には、基本的には言論の自由があり、知識人が過剰なくらい存在しています。おまけに日本では、言論の自由は、他国ではありえないと言われるほど過剰で、昭和の頃は、何を言っても許されるという感じでした。

封建制のもとで市民、日本だと町民と呼ばれましたが、そういった存在が現れて、上からの宗教ではなくて、庶民の宗教というのが成立しました。
そしてギルドという共同体がありました。日本では「座」と言いました。
そして自由都市が現れました。完全な皇帝がすべて支配しているわけではないので、都市が発展して、いつの間にか主権みたいなものを持ち始めました。日本だと堺がその典型です。
基本的に領土は狭いのですが、国境の向こう側に攻め入ろうとはあまりせず、西欧人は海外貿易や例えば遠く離れたアジアやアフリカ、アメリカ大陸に植民地を持ちました。国内で言語の統一がほぼなされているという特徴があります。
これは、17世紀ごろのユーラシアを見ると、それがはっきりとわかります。
支那こと大清帝国、インドはムガール帝国、ロシア帝国、オスマン帝国という4つの帝国がほぼユーラシアの真ん中部分、東西を抜いた部分というのは支配するという状況になっていました。この4つの帝国というのは拡張主義に従っていました。ロシアは、もともとはモスクワ大公国というモスクワ周辺の小さな公国だったにもかかわらず、その後だんだん大きくなり、ついにはアラスカまで辿り着きました。クリミア戦争による財政難から、アラスカはアメリカに売却されましたが。そのクリミア戦争でトルコから得た土地がソ連時代にウクライナに編入され、今になって、それをロシアが「返せ」と言っているのは、ある意味、象徴的な出来事でしょう。

このように拡張していくと、確実に異民族、あるいは違う言語、違う宗教の人たちを統治の支配下に置かなければならなくなります。すると、確実に治安が悪くなっていきます。すると、強権的にならざるを得ません。
強権的になると、皇帝たちは自分の正当性というものを主張するために、なおさら拡張主義にならざるを得ないという形になっていきました。
そうなると、支配下に置かれた人々は悲惨な状況になるので、その状況から何とか抜け出そうとして苦難の歴史を歩むという事になりました。
実際、中華人民共和国に支配されている南モンゴルこと、内モンゴル自治区の方々や東トルキスタンこと、新疆ウイグル自治区の方々やチベットの方々というのは、今もその抗争をせざるを得ないという状況になっているのです。
ちなみに、大清帝国は満州人がつくった国です。
1858年のアイグン条約にて大清帝国発祥の地である北満州はロシア領となりました。日露戦争以降、南満州を日本が制圧し、満州国を設立させますが、1945年にソ連が攻め込み、その後中華民国に返還されました。1949年に中華人民共和国が建国され、女真(ジュルチン)という民族であり、もともと言語も違いましたが、今では完全に民族として消滅してしまいました。ただ、戸籍は残っているようですが、戸籍以外は満州人と漢人の区別はつかないという状況になってしまいました。

ウクライナは、ピョートル大帝に負けて、その後エカテリーナ2世に征服されて、ロシア帝国の支配下に入りました。ところが、その後もずっとロシア帝国から独立するべく、多くの方々が戦い続けました。
そのことが、ソ連時代にスターリンから怒りを買うことになってしまい、いわゆるホロドモールという大飢饉(ききん)が起こされるという惨憺(さんたん)たる歴史を経験してきたわけです。
ウクライナの農民の方々は、もともとコサックが始まりなので非常に独立心が強いこともあり、ソ連の農業集団化に抵抗しました。農業集団化の本質は農奴制、つまりは、農民から土地と家畜、種を取りあげて、集団農場の労働者にするということでした。
本当の労働者であれば職業選択の自由などもあるのですが、移動の自由すら認めないという形で、「集団農場の指令に従って耕作しなさい」という形を押し付けられました。
ロシアは伝統的に農奴の歴史をずっと積み重ねてきたので、それの延長線上にあるものでした。そうなると、農業の生産性はガクンと下がるという形になりました。
その状況から脱して、自分の土地で生きていくという、独立農民としての魂を取り戻すべく戦い続けたのがウクライナの人々で、ようやく完全にソ連の支配下から脱して独立したのが1992年ですが、またもやロシア帝国の侵略を受けているというのが今の流れです。

これが第2地域の帝国なのですけれども、18世紀ぐらいから第1地域の攻勢が始まり出しました。
イギリスの産業革命を皮切りに、西欧諸国の生産性が急上昇し始めて、世界が変わり始めました。
生産性というのは、財やサービスの生産の量のことですが、イギリスをはじめとして、その余剰生産物の市場が必要になりました。更には、一次産品の生産地、綿花であったり、ゴムの木などの生産地が必要となりました。
ヨーロッパでは生産する事が出来なかったので、西欧諸国は世界各地に植民地を獲得していきました。
江戸末期の日本の周辺の状況は、インドから今のミャンマーにかけては、イギリスの植民地、清は各国に分割され、ベトナムはフランスの植民地、フィリピンはアメリカの植民地、マレーシアもイギリスの植民地、インドネシアはオランダの植民地という形で、要は欧州の帝国主義の流れというのが、確実に日本の方に近づいているという状況でした。そして、北にはロシア帝国が存在していました。

この状況で日本はどういう選択をせざるを得なかったのかというと、実は、国民国家としての性質を捨てざるを得なかったのです。
つまり、自分たちも欧州のように、帝国主義的、国民国家を君臨する何かとしておいた、帝国への道を歩まざるを得なかったわけです。
ただ、日本は、確かに台湾を割譲してもらい、朝鮮半島を併合しましたけれども、別に台湾の人々や朝鮮半島の人々に対して、下級の市民として見下すようなことはやりませんでした。「同じ国民になろう」として、さまざまな教育施設を造ったり、インフラの整備をしていったので、白人がアジアやアフリカにおいてやったこととは別物でした。ヨーロッパ人のやり方では、支配下に置いた住人たちを分断しました。
知恵を付けられたら困るので、教育など施しません。言語的にバラバラだと最高です。「話し合えないから、まとまって俺たちに攻めてくることはないだろう」ということで、いわゆる”divide and rule”「分割して統治せよ」というのが採用されましたが、日本はやっていません。
いずれにしても、始まりは何なのかというと、経済成長なのです。

この経済成長において、ロシア帝国は唯一の例外として、先ほどの第2地域の中華帝国、インド帝国、そしてイスラム系の帝国というのが、西欧諸国の支配下に入っていくという形になってしまったのです。
世界の工業生産に占める各国の相対的なシェアを見ると、イギリスは1750年ぐらいは世界の工業生産に占めるシェアが3%ぐらいだったのに、最終的に4分の1近くにいきました。
その後にアメリカ、ドイツというのが上がってきました。
反対側で落ちていったのが、中国とインド・パキスタンでした。
これを見ると明らかなように、このイギリスを世界の覇権国に押し上げた、あるいは帝国主義を可能にさせたのは生産性なのです。つまり、経済の話なのです。
結果的に、インドは複数のイギリスとの戦争を経たうえで、イギリス領インド帝国となってしまいました。
改めて安全保障サービスの生産について考えてみましょう。
インド側がなぜイギリスに勝てなかったのかというと、もちろんいろいろな理由がありました。

最大の理由はやはり生産性です。
というよりは、生産性の違いによって、もともとイギリスがインドの市場を欲した結果、戦争になったという事なのです。
生産者が財やサービスを生産して、それを用いて消費・投資によって生み出されたサービスを、お客さんに支出をしてもらって、所得を得ます。
その所得をもって、その人はお客さん側に回って、別の生産者が生産した財やサービスを買います。そうすると、別の生産者に所得が生まれるというのが所得創出のプロセスで、これをどれだけ効率よくというのではなく、生産者当たり1人の生産する財やサービスの量をどれだけ増やすかというのが経済成長するという事です。
イギリスでは羊毛を使った服ばかり着ていました。ところがインドから綿製品、キャラコが輸入されるようになると一大ブームとなりました。当初は輸入に頼っていたイギリスも、自分たちで作ればもっと大きな利益が得られると思い、さまざまな発明や技術投資、設備投資を行ないました。
結果、同じ洋服を作るのに、インド人労働者とイギリス人労働者の生産性は数百倍の差が生まれるようになりました。

そういうことで、綿製品をたくさん作れるようにはなりましたが、その原材料である綿花を得るためにインドに行かなければなりませんでした。その際に、イギリス商人たちは、あまりにも生産できるので余ってしまった綿製品を安くインドで販売を行いました。手で編みながら作っていくインド製の綿製品と機械で大量に作るイギリス製の綿製品では、品質には差がないにも関わらず、価格面では大きく異なったため、インド人たちは安いイギリス製の綿製品を買い始め、結果、インド製の綿製品が壊滅状態となりました。インド政府はイギリスの綿製品の販売を規制しようとするのですが、すると、イギリス側が怒り出し、インドへ武力攻撃を仕掛けていきました。インド側は、もちろんみんな勇敢に戦ったのですが、生産性が違うということは技術力が違うということなので、技術力の違いは、兵器の差に反映され、兵器の質と量の違いから勝てず、イギリス領インド帝国になってしまいました。
経済というのは、資本、労働、技術という生産の3要素、別名「物、人、技術」と、需要、資源によって成り立っています。
戦争を考えた場合、資本とは、例えば軍艦を製造するための工場などに当たります。
労働、これは兵士の練度です。
さらには技術というものも重要なのですけれども、実は最終的にこれが決定するのは、資源ということになります。

ちなみに、ロシアのプーチン大統領は、日本を主権国家としては認めていません。
主権国家というのは何なのかというと、プーチン大統領は、一次産品、すなわち資源であったり、エネルギーであったり、食料まで含めて、きちんと自分の国で、生産あるいは確保していて、そして自分の主権のもとでどこにも頼ることなく戦争できる国家の事であると述べています。なので、ロシアのプーチン大統領にとっては、ウクライナは主権国家ではないと見なしている訳です。
アメリカ、インド、中国は、彼にとって主権国家ですが、日本は違っています。
アメリカに頼らなければ戦争ができないからです。
ドイツも違います。防衛安全保障をNATO に依存していますし、しかもエネルギー安全保障もロシアから買っていたり、フランスから原発で発電された電気を買っているくらいですから。
それはある意味もっともなのです。なぜかというと、自分の国を守るという防衛安全保障のサービスを生産しようとしたとしても、資源がないとどうにもならないからです。

資源、あるいは一次産品と言い換えてもいいでしょう。
戦争のバリュー・チェーンというのを考えてみるとよくわかります。
どのような兵器も、もともと資源から出来ていますが、その資源を獲得したうえで、さまざまな生産の工程を経て兵器になります。その過程でもいろいろな一次産品が必要になります。例えば工場を動かそうといったときに、当然電気が必要になりますが、発電する際に必要となるのは、日本の場合は、主に鉱物性燃料です。
そういう形で、常に一次産品の影響を受けながら生産のバリューチェーンを経て、最終的に兵器というものが作られています。
これを全体的に統合するのが技術ということになるわけなのですけれども、逆に言うとどれだけ技術があったとしても、一次産品がなかったら戦えないのです。
もちろん技術も重要です。どれだけ資源があったとしても、技術がなかったら兵器は作れないわけですから。
つまりまず技術がない、あるいは一次産品がないとなると、戦争ができません。
この悩みを、江戸末期から大東亜戦争敗北までの日本は常に抱え続けてきたのです。

日露戦争は1904年(明治37年)に勃発しましたが、連合艦隊の旗艦三笠はイギリス製です。ということは、イギリスの技術です。
かつ、資源は絶対に日本から送っていないので、つまりイギリスに一次産品であったり、技術を依存して、何とか軍艦を手に入れて、それで戦ったのです。
その際にイギリスでポンド建ての国債を起債し、それでポンドを手に入れて軍艦を買ったのが高橋是清(たかはし・これきよ)でした。
そういう形にならざるを得なかったのでした。
日露戦争に勝ったことで、安政の不平等条約を改正させることに成功したその後の日本は、当然、技術をとにかく手に入れようとしました。その甲斐もあって、世界最高水準の軍事技術まで獲得するに至ったのですが、結局、一次産品がないという悩みだけは解決のしようがありませんでした。台湾にも朝鮮にも満州にも資源がなく、それを解決しようとした事が、日米開戦につながってしまったわけなのでした。
同じような立場にある国というのがヨーロッパに1ヶ国あります。イギリスです。イギリスには技術はありましたが、一次産品がないのは日本と同じでした。

イギリスは、日本と同じく一次産品、資源等が乏しい国ではありましたが、世界各地に植民地を獲得していき、そこから一次産品を調達することで、自分の国で生産をして、覇権国になりました。その前の覇権国であるオランダも、その前の覇権国っであるスペインも、植民地によって覇権国になったので、イギリスもそれに倣っただけなのですが。
イギリスは石炭は取れましたが、石油は取れませんでした。第二次世界大戦の時代には完全に石油の時代となっていたので、イギリスは石油を植民地として押さえている地域から石油を採掘させて戦いました。例えば中東などです。今のイラクなどは、当時は完全にイギリス領でした。これは逆に言うと、イギリスの帝国としての覇権というのは、海上航路に完全に依存していたということになります。
これがロシアやアメリカや、中国やインドなど、まさに今プーチン大統領が主権ある国家だと認めている地域では、自分の国にそれなりの資源があるので別なのでしょうけれども、イギリスは違いました。
つまりは海上航路の安全性、いわゆるシーレーンというのが守られないと、イギリスは戦争ができないようになり、覇権国からすぐに転がり落ちることになるのです。

第二次世界大戦の時代は、すでに軍艦は原油、石油で動いていましたから、その石油が手に入らないとなると、海上航路の安全を確保するも何もあったものではないのですから。
日本も、技術は何とか獲得しましたが、一次産品はどうにもなりませんでした。
その一次産品を手に入れようと、世界各地へ出かけると、他の国の支配下にあるところばかりで、必ずイギリスやアメリカとぶつかるという状況だったのです。
今では経済というと金銭の事を想像する人が大半ですが、経済というのは、生産力、生産性であり、同時に 一次産品であるということです。
「資本、労働、技術、そして資源」をかき集めて、需要、すなわち戦争に勝利するという需要に対して供給していくということをやらなくてはいけないという状況になったのです。
これはもともと、例えばイギリスであったり、フランスであったり、オランダであったり、アメリカであったりが、アジアに植民地を持つなどという発想が全くなかったということであれば、絶対に大東亜戦争は起きていません。別の事情があるので、第二次世界大戦は起きていたと思われますが。  

まさにヨーロッパ、先ほどで言うと第1地域の逆襲、あるいは攻勢によって、ロシアを除く第2地域の帝国が侵されて、イギリス領、あるいはフランス領、アメリカ領、オランダ領、ロシア領が拡大しつつ、どんどん日本に迫って来ていました。
その状況で戦うには自ら帝国になるしかありませんでした。とはいうものの、どうしても資源がない、一次産品が少ないという弱点は克服できませんでした。
台湾と朝鮮半島と南満州を得てはいましたが、それを守り切るために、常に戦い続ける必要があり、それを続けていると、確実にイギリスやオランダの覇権とぶつかってしまうという状況があり、すでに超大国となっていたアメリカ、ソ連、とどう戦うかという選択をせざるを得なかったのが、実は大東亜戦争の真実です。
実際に、それをきちんと考えている人々がいました。
当チャンネルの別の動画でも語っていますが、内閣総理大臣だった石破茂でさえ、よくわかっていない状況を見ると、当チャンネルをご覧の皆様にも、再度説明させていたたきたいと思います。

明治時代までの日本は、必ずしも国民国家ではなく、天皇を君主とした、いわゆる帝国でした。将軍という宰相がおり、その下に260程の藩という国家があり大名という国主が統治していました。ところが幕末になり、西洋型の帝国主義である、植民地主義が次第に日本に迫ってきていました。
例えば、イギリスであったり、アメリカ、フランス、オランダなどは、一応、国民国家です。国民国家が宗主国として君臨していて、その下に植民地各国が帝国の属国としてぶら下がっている状態でした。
基本的に、英国なら英国の国民には主権があったのですが、植民地の住民には主権などありません。少し別格だったのがロシアです。ロシアは相変わらず皇帝というのがいて、その下に様々な民族、言語、宗教が入り乱れていて、領土を拡大するという形で帝国を強大にしていきました。
そのロシアとイギリスの権益がインドの北部、アフガニスタンで激突することになりました。
というわけで、イギリスとしては植民地であるトルコとその隣の国であるロシアの隣の国である日本と同盟を結び、ロシアを挟み撃ちしようというような流れになっていきました。

江戸から明治にかけて、ほとんどの日本人たちは、特定国を宗主国とする帝国、要は、西欧諸国とアメリカとロシアが次第に迫ってきていて、このままではのみ込まれてしまうというような恐怖を間違いなく強く感じていました。多くの文学作品を読めばわかると思います。
それに対抗するために、日本も国民が兵士として、国境の向こう側で戦う帝国と化さざるを得ませんでした。すなわち大日本帝国が誕生したということなのです。
江戸末期から明治初期にかけて、いわゆる維新と呼ばれていますが、日本人の国民国家としての統一国家という形の再編がなされなかったら、多分バラバラに分断されてお互いに戦わされて、おそらくイギリスとフランスの植民地になっていたのではないかと思われます。
江戸時代を通じて、オランダが江戸幕府と交易していましたが。
日本は言語的に統一されており、宗教も統一されています。更には天皇という、国民国家として成長するうえの、国民を束ねるための権威がきちんとありました。
これらの、ナショナリズムの基盤、あるいは機軸というものがあったおかげで、なかなかこの日本を征服するのは大変ではないか、などという手記をオランダ人が残しています。 

ところが、イギリスやフランスはやろうとしました。
最も分かりやすいのが、薩長と江戸幕府が戦ったわけですが、それでボロボロになったところで支配するという、divide and rule というのを確実にやってくるつもりだったのだと言われています。
別の動画で説明していますが、坂本龍馬の自筆の手紙を読むと、大政奉還後、武力にて幕府を滅ぼす計画があり、龍馬自身も薩摩の軍艦で江戸を攻撃するつもりであった事がわかります。ところが、江戸幕府の方々は比較的しっかりした政治的センスを持っていて、さらにさっさと降伏しました。
やはり戊辰戦争で将軍の徳川慶喜が戦争を放り出して蟄居してしまい、その後、江戸城の無血開城を決めた、勝海舟と西郷隆盛の会談が決定的だったのです。
あそこで血みどろの江戸幕府対薩長の戦争みたいな形になったら、日本の国民国家としての統合はおそらく成し得なかったと思われます。
そうするとそれこそ、インドネシアのようにバラバラにお互い争わされて、それでオランダの支配下になり、インドはイギリスの支配下になり、ベトナムはフランスの支配下になるという感じになってしまったものと思われます。

ただ、これは改めて考えてみて欲しいのですが、このような時代が始まったのは、
イギリスの産業革命がきっかけなのです。
産業革命でイギリスの生産性が激増し、数百倍になりました。
それは今まで手作業でやっていたのを全部機械化、自動化したからです。
そして、あり余っている、あふれかえっている製品の市場を求めて、ほかの国の主権を奪って、そこに製品をなだれ込ませました。そして、その国の人民の所得をチューチュー吸い上げるというようなスタイルでしたが、これはもしかして江戸幕府が鎖国をしなかったらかなり世界の歴史は変わっていったのではないかと思われます。
慶長5年(西暦1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利し、その3年後、江戸幕府が開かれますが、寛永16年(西暦1639年)に、井伊直弼の言う閉洋之御法(へいよう・の・みのり)が始まり、次第に当時の覇権国だったオランダ以外からの入国を禁じていったわけです。
当時、日本人は相当数が東南アジアに行って交易をしていました。東南アジアの日本街というのが16世紀末から17世紀初頭に最盛期を迎えており、かなりの日本人が東南アジアに行って、交易をしていました。

ルソンの日本街の人口は日本人だけで約3,000人でしたが、これは相当多いのです。
例えばオランダがインドネシアを植民地にして支配していましたが、そこにいたオランダ人はせいぜい500人でしたから。ポルトガルやイギリスもそうです。
意外とこの時代の欧州の歴史を見ると、東南アジアで何かいろいろ権益を争っているから、例えば、ポルトガル対イギリスなどのように、しょっちゅう戦っているわけなのですが、そこで結構、日本人傭兵(ようへい)が活躍していました。
イギリスの歴史書によると、何しろ戦国時代をくぐり抜けてきた日本の侍たちなので、桁違いに強かったようです。
なので、日本人傭兵(ようへい)が結構ポルトガルに雇われたり、イギリスに雇われたりして、それで戦っていたりしていました。
アユタヤでも1,500人 から 1,600人、各地に300人 から 350人ほどの日本人が在住して、その総数は5,000人以上いたと言われています。
何で多いかというと、ヨーロッパと違って、近いからです。
当時、まだスエズ運河はありませんでしたから、西欧人たちが東南アジアに来るのは大変でした。アフリカ西部を南下して、喜望峰を超えて、インド洋を完全に横断して入って来なければなりませんから。

日本が鎖国をしないでそのまま東南アジアと交易を続けていると、欧米との接触がかなり密になり、おそらく相当の技術を吸収したのではないかと思われます。
何しろ、ポルトガル人が日本に漂着して鉄砲を伝えたら、あっという間にみんな作り始めて、欧米の技術力をあっという間に追い越し、大坂の陣の頃には世界一の軍事技術を持っていたくらいですから。戦国時代であったという事情もあるのですけれど、要は需要が大きかったからです。
ということは、例えば、イギリスの綿製品、紡績関係の技術とかも容易く習得してしまったのではないでしょうか。
そして、日本の国内でさまざまな製品を欧米からの技術を基に生産して、それで東南アジアなり、清(しん)なりに売っていたのではないでしょうか。すると、最終的には、インドのベンガル湾辺りで、イギリスの権益と日本の権益がガチンコで激突して、同じような形で起こる大東亜戦争が数百年先駆けて起こったであろうと思われます。こういう事を唱える人は結構います。
例えば、文明の生態史観を描いた梅棹忠夫は仮に幕府が鎖国政策をとっていなかったとすれば、関ヶ原の戦いから半世紀後ぐらいに、ベンガル湾辺りで極東から東南アジアに進出する日本とヨーロッパ諸国、特に、東インド会社の経営に乗り出していたイギリスとの間に決戦が行われていただろうと書いています。
あるいは元ミュンスター大学名誉哲学博士の故渡部昇一先生も「鎖国さえしていなければ、大東亜戦争はなかったはずだ」と言っています。

厳密には大東亜戦争になるずっと前から欧米と衝突していたということなのです。西暦1494年のトルデシリャス条約で、スペインとポルトガルによる世界の分割が決められており、その後、覇権国がオランダ、続いてイギリスに変わっていきますが、ヨーロッパ人が植民地支配していくのは神から許されているのであり、日本も植民地になるべきであると信じ込んでいる人達との戦争は避けられないものでした。
ただ、大東亜戦争並みの猛烈な大戦争というのは起きなかったと思われます。ただ、その未来が日本にとって幸せなのかどうかは全然分かりません。いずれにしても、江戸幕府は鎖国政策を採った訳です。おかげで、日本独自の文化が花開いていく事になりました。その反面、技術発展という点ではやはり遅れてしまいました。基本的に外から入って来ないし、戦争もしなかったので、当然の結果でもあります。
欧州諸国がなぜあれだけ産業革命後に一気に技術を発展させたかというと、もちろん産業革命による技術というものもあるのですが、主な原因は戦争ばかりやっていたので、製造のノウハウが蓄積されて工業力が大発展したという事です。

17世紀のユーラシア大陸には、まだ4つの帝国が梅棹忠夫のいう第2地域に存在していました。清(シン)帝国、ムガル帝国、ロシア帝国、そしてオスマン帝国、です。
この中で最も弱体化したのがムガル帝国でした。イギリスにやられたからなのですが、もし、日本が鎖国していないで、タイなどと交易を続けていって、その先にその先にと進んでいたら、確実にイギリスと激突していたでしょう。
当時はまだ蒸気船が登場するかどうかの時代なので、帆船(はんせん)が主力でした。なので、イギリスがベンガル湾まで艦隊を持ってくるのは大変でした。どれだけ途中で沈むのかがわかりません。それに対して日本は比較的距離が近いのです。
これが大東亜戦争でも威力を発揮しますけれど、いわゆる兵站(へいたん)を決定づけることになるので、全然、今とは違う世界になっていた事でしょう。もちろん、ご存知の通り、実際にはそんなことはなかったのですが。

そもそも、戦争に勝つためにはどうしたら良いのでしょうか。
勇敢な兵士でしょうか? ほとんどの戦っている国の国民というのは、もともと勇敢なので、それは必ずしも正しいとは言えません。
戦争という需要に対する供給能力を維持することでしょうか? これはもう最低条件です。この供給能力というのは、資本と人と技術ですが、戦争の場合はそこに資源が加わります。
戦争でない場合はどうなるかというと、資源は外国から買ってくればいいのです。
まさにグローバリズムです。資源は基本的に外国から輸入できるという前提ならば、供給能力というのは資本、人、技術の3つで済むのですけれど、現実は戦争の場合は資源が入ります。なぜならば戦争になった場合には資源を調達できないからです。
海上でも戦っている訳なので、陸上の戦地まで、資源を運ぶことが非常に困難になります。
ということで、要は設備投資、工業生産力の強化、当然技術投資、そして日本の場合は毎回毎回これが決定的になるのですけれど、資源産出地の確保というものが必要なのです。

海洋資源は豊富にあるのですが、日本列島にはそれほど鉱物資源がありません。
石炭はあるのですが、大東亜戦争の時代には、燃料は、原油、石油の時代でしたから。
同時に、敵国の戦争という需要に対する供給能力を断てば良い訳です。
つまり、敵国の資源調達を妨害して、生産設備を破壊すれば、まず負けません。
そして物流を破壊します。例えばロシアと中国が戦った場合とかは、少し違うと思われますが、大東亜戦争のような海戦が伴う戦争の場合は、当然周りは海なので、日本もアメリカもイギリスも、海を越えて渡ってこないといけません。
アメリカの場合はある程度の資源というのは自給出来ますが、イギリスも日本と同じように石炭は出るのですけれども、別に鉱物性燃料とか鉱物資源などの資源にあふれ返っている国ではないのですが、それでも覇権国だったのです。もちろん海外植民地のおかげなのです。
つまり、インドであったり、あるいはミャンマーであったり、マレーシア、アラブ諸国、エジプト等のアフリカ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、等、イギリスという国家を君主国とした帝国でしたから。

そして、もちろんイギリスで生産された製品の市場でしたが、同時に資源の産出地でもあった訳なのです。
つまりイギリスの覇権にとって決定的に重要なのはシーレーンの確保だったのです。
これは、その前の覇権国でもあるオランダも、その前のスペインも同じでした。モンゴルやアメリカは違いますが。
これが1941年、つまりは独ソ戦が始まる前、あるいは日米開戦の前夜、第二次世界大戦中盤の状況でした。
アメリカによって、日英同盟が終結させられた日本は、満州国建国の件で世界中から袋叩きにあって孤立を深めていきます。そのため、全体主義国家として、これまた欧州で孤立を深めていたしていたドイツとイタリアとともに三国軍事同盟を1940年(昭和15年)に締結しました。そして1941年(昭和16年)に日ソ中立条約が結ばれました。その頃には、フランスはすでにドイツの支配下に入っていて、ヨーロッパ戦線はイギリスが孤軍奮闘している状況でした。
実は、資源産出地の確保などを考えた場合に、実はアジアにおける日本の主敵はアメリカではなくてイギリスでした。これが結局決定的に重要なのです。

これが大英帝国なのですが、資源産出地がこの赤い網掛けの部分になります。
スエズ運河が使えるようになっていたので、ドイツはさらにスエズ運河をめぐってイギリス、エジプトと戦った訳です。  
 ただ基本的には、インド、オーストラリアからの資源というのはインド洋から希望峰を回って、イギリスまで届けられるという状況でした。
すでにドイツとエジプトで死闘を展開していたので、そこを抜けてスエズ運河を通過してイギリスまで、というのは、なかなか行きにくい状況でした。
ドイツもそんなことは分かっているので、そのイギリスを屈服させるためにシーレーンを押さえるべく、U ボートによる船舶の攻撃を続けていました。
ドイツはそれを大西洋で攻撃していたのですが、もともとインド洋を通過して資源が送られているので、インド洋を越えなければ、スエズを通るにせよ、希望峰も回るにせよ、イギリスに資源は届かないという現実がありました。とにかく海運が止められてしまうと、イギリスは干上がってしまう訳なのですから。

その上で各国の生産力を少し見てみたいのですけれど、これが第二次世界大戦中盤、1941年の主要国の GDP 国内総生産です。
この時点で実はドイツの GDP はイギリスを上回っていました。
これは多分征服地なども入れているからだと思われます。
それでドイツ、イギリス、ソ連が同じ程度の GDP、生産力でした。
アメリカが突き抜けていて、ドイツの2.5倍ぐらいあります。
日本はイタリアよりは上だけれども、ソ連、イギリス、ドイツには勝てないというようなGDP でした。財やサービスの生産能力であって、別に軍事力ではありません。
これを人口1人当たりで見てみると、やはりアメリカというのは人口が多いから全体の GDP も多いのですが、ただ、国民1人当たりの GDP というのは国民1人当たりの生産量になるので、これを生産性と呼びます。
やはり生産性は高いです。イギリスも高いです。
ドイツも高いのですが、まだイギリスには及んでいません。

人口が多いのでドイツの方が GDP は大きくなります。
ソ連の数字がないのですが、この時期にはもうソ連の数字が公開されなくなっていたという状況だったのでしょう。
そしてイタリアは実は日本よりも生産性では高かったのでした。日本が一番低いのですが、逆に伸びしろがあるという事です。
生産性が低いという事は、日本が、アメリカ並みの技術を整え、設備の導入を果たす事が出来たら、例えば3倍とは行かなくても、2倍強ぐらいに GDP を増やす事が出来るという状況だったのです。
いずれにしても、全体で見ても、1人当たりの生産性で見ても、アメリカの存在感というのは他を圧しているという状況でした。
1937年の大国の相対的に見た潜在的戦力というのがこういう風に評価されています。
とにかくアメリカが大きく、1国で世界の4 割を占めています。 ドイツが14.4%で続いてソ連です。ドイツとソ連はかなり拮抗しています。イギリスが10.2%、日本が3.5%です。つまり、軍事力で潜在的な戦力だけを見たら、日本はアメリカの10分の1なのです。

そういう状況だったのですが、なぜ、例えばGDP がイギリスと同じ程度のドイツがここまで軍事力を高める事が出来たかというと、生産力のおかげだったからです。
財やサービスの生産が GDP ですが、その中には当然軍需というものがあります。
兵器の生産や兵隊さんの給料なども、政府最終消費支出という事になり、GDP にな
ります。
ということで、ドイツはナチスの政権下で民生品の生産は相当制限されていたものの、軍事にはかなりのリソースをつぎ込んだ訳です。消費をしたい国民というのは、それなりの制限というのを受けざるを得ませんでした。
例えば GDP というのは、生産能力です。結果として、これだけ生産できますという話です。けれども、軍事の生産はどんどん増えていくかもしれませんが、生産能力
というのは無限ではありません。
基本的には技術開発をして、投資して、人員を育ててとやらなくては拡大しませんから、そんなに一気に供給能力は増えません。
ということは、普通に我々が生活するうえで必要な、他の財やサービスの生産は、相対的に小さくなって低くなっていくわけで、普通、国民は不自由な生活を強いられる事になる訳なのです。

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