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摂関政治への道

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摂関政治(せっかんせいじ)とは、平安時代に藤原北家(ふじわら・ほっけ)の良房(よしふさ)の一族が、天皇の外戚(がいせき)として摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)あるいは内覧(ないらん)という要職を占め、政治の実権を代々独占し続けた政治体制のことです。藤原房前(ふじわら・の・よしふさ)とは藤原不比等(ふじわら・の・ふひと)の次男で、房前の息子が藤原真楯(ふじわら・の・またて)、真楯(またて)の息子が藤原内麻呂(ふじわら・の・うちまろ)。内麻呂は桓武(かんむ)天皇、平城(へいぜい)天皇そして嵯峨(さが)天皇と、三代の天皇に仕え、右大臣にまで出世しました。内麻呂の息子が藤原冬嗣(ふじわら・の・ふゆつぐ)。冬嗣は父親を上回る左大臣にまで出世しました。そして冬嗣の息子が藤原良房、藤原不比等の孫の孫の子に当たるわけです。

別の動画で「薬子の変」について解説していますが、「薬子の変」が起きた原因は天皇と上皇との関係でした。大宝律令(たいほう・りつりょう)により上皇は天皇を親権者として支え、独自に詔を発することができるほどの、天皇と同格の権威と権限を有するものと定められていました。だからこそ、平城(へいぜい)上皇は平城京に遷都するなどという無茶なことを言い出せたわけでした。そもそも、恵美押勝(えみ・の・おしかつ)の乱の後(のち)に孝謙(こうけん)上皇が淳仁(じゅんにん)天皇を廃位してしまった件も、上皇の権力が小さければ絶対に不可能でしたから。

つまり、律令(りつりょう)国家時代の日本は上皇の権力が最も強かった時代でした。平城(へいぜい)上皇が平城京に移り、これから平城京を都とすると宣言したことは別に法的には問題がなかったわけです。何しろ律令(りつりょう)で上皇は天皇と同じ権限を持つとされていましたから。『日本後紀』(にほんこうき)では当時の状況を二所朝廷(にしょちょうてい)、二ヶ所の朝廷と表現されています。更に問題なのは奈良時代までは上皇のみならず皇后も天皇と同等の権能を行使できるとみなされていたことでした。

皇后の権力も強かったからこそ、藤原不比等や藤原四兄弟は光明子(こうみょうし)を皇后にしようとしたわけです。光明子の前に皇族ではない皇后がほとんどいなかったのは権力が大き過ぎるためでした。

実際、非皇族としては、仁徳天皇の皇后である磐之媛命(いわの・ひめの・みこと)以来の二人目の皇后となった光明皇后(こうみょう・こうごう)の権力が高まり、それが藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)の野望と結びつき、最終的には恵美押勝(えみの・おしかつ)の乱につながったわけでした。光明皇后はほとんど女性天皇のように振舞っていましたから。

持統天皇にしても、元々が皇后という権力者でしたが、天武天皇が崩御した後に天皇として即位することになりました。上皇や皇后が天皇に匹敵する権力を持っていたというのが奈良時代までの日本の政治の特徴でした。

それが嵯峨(さが)天皇の時代から変化を始めました。「薬子の変」以降、天皇直属の蔵人所(くろうど・どころ)や検非違使(けびいし)といった機関が設置され、天皇の意思を効果的に官僚機構に伝達し動かすことができるようになりました。蔵人所は、天皇の財産である書籍や御物の管理し、また機密文書の取り扱いや訴訟を扱う所でした。薬子の変の際に天皇と官僚をつなぐ内侍司(ないしのつかさ)を平城(へいぜい)上皇に抑えられてしまった反省から、嵯峨天皇は天皇直属の組織を新設し、腹心だった藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に据えました。

検非違使は平安京の治安を担当する、現代で言えば警視庁です。検非違使とは不法を取り締まる天皇の使者という意味です。桓武天皇による軍団の廃止以来、朝廷は軍事力を事実上放棄していましたが、その当然の結果として、治安が悪化しました。そのために、軍事・警察の組織として検非違使が創設されたわけです。

上皇や皇后に対し、天皇の権力を相対的に強化したわけです。もっとも嵯峨天皇自身は弘仁(こうにん)14(西暦823)年に、弟の大伴(おおとも)親王に譲位してしまい、淳和(じゅんな)天皇が即位することになりました。嵯峨天皇の譲位の詔が『日本後紀』に、このように記されています。

朕本諸公子也、始望不及。於太上天皇、曲垂褒餝、超登儲弐。遂遜位于朕。躬辭不獲免、日慎一日、未幾而身嬰P6163疹疾、彌留不廖。爲萬機擁滞、令右大臣藤原朝臣園人、奉還神璽。朕始有歸閑之志、太上天皇、不允所請。當此之時、有小人之言、令太上皇、與朕有隙。公卿相共議、逐君側群少。太上天皇、不察愚款、有入東之計。「群臣不安社禝遣邀之。(この間、脱字あるか。)」朕赤心有〓日。朕以寡昧、在位十有六年、太弟與朕、春秋亦同。朕雖乏知人之鑑、與太弟周旋年久。太弟之賢明仁孝、朕之所察。仍欲傳位於太弟、已經數年。今果宿心、宜知之。

今上避座跪言。臣以闇劣、疏派天〓。昔屬世花〓、自謂不免於禍、會逢聖明、更同再生。幸莫大焉、又何所望。而陛下殊奨、忝茲儲兩。然身有犬馬之病、不堪承〓之状、屡語右大臣。戦々恐々、得到于今。而今復以大寶、俯授愚蒙。心魂迷惑、不敢承勅。仍答曰。今日以前、朕遇太弟如子。今日以後、遇朕亦如子耳。今上奉表曰。臣聞。云々。帝不聽、詔曰。現在神〈止〉大八洲所知、。云々。〉翌日、今上朝于冷然院、重抱表陳讓曰。云々。帝遂不許。

朕(ちん)は本(もと)はと言えば庶子(しょし)で、皇位につくなど思いもよらないことであったが、平城(へいぜい)太上天皇は朕を称揚(しょうよう)して皇嗣(こうし)とし、位(くらい)を譲ったのであった。朕は辞退したが許されず、皇位について日々慎む生活を送ったのであるが、間もなく病となり、長引いて治らず、政務が滞(とどこお)るようになり、右大臣藤原朝臣園人(ふじわら・の・あそん・そのひと)を通じて、皇位を平城(へいぜい)太上天皇に返還しようとした。朕は皇位を離れ、閉居する志をもっていたが、太上天皇は許してくれなかった。このとき、不徳(ふとく)の輩(やから)がいて、太上天皇と朕との間を裂(さ)こうとする事件がもち上がり、公卿(くぎょう)らが協議して太上天皇の側近に侍(じ)していたよからぬ者たち(藤原仲成(ふじわら・の・なかなり)、薬子(くすこ)ら)を追放したが、太上天皇は朕の誠意を無視して、伊勢へ向かう計画を立てたのであった。これに対し、群臣らは国家を不安にするものとし、軍勢を遣(つか)わして防いだ。朕の平城(へいぜい)太上天皇に対する気持ちは、太陽の光のごとくはっきりとしていて、少しも、後ろめたいものはない。朕は少ない徳ながら14年間在位してきた。皇太弟(こうたいてい)と年齢が同じである。朕は人を見る才能が乏しいとはいえ、皇太弟と長年一緒に過ごしてきており、皇太弟が賢明で仁(じん)と孝(こう)の徳に優れていることは、よくわかっている。そこで皇位を皇太弟に譲ろうと思いながら、すでに数年となっている。いま、かねての志(こころざし)を果たそうと思うのであり、よく理解してほしい。

これに対し、今上(きんじょう)(おおとも・しんのう)は座席をさけ、ひざまずいて次のように言った。

私は愚かで劣りながら皇族に連なっています。昔、皇嗣(こうし)が問題になったとき、巻きこまれないようにと思いつとめたことでした。たまたま陛下に巡り合い、再生の思いをすることができ、これ以上の幸せはありませんでした。このうえ、何の望みがありましょうか。しかし、陛下は私を引き立て、かたじけなくも皇嗣としたのでした。ただし、私には欠点があり、皇嗣にふさわしくないことを何度も右大臣こと藤原 冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)に伝え、おそれおののきながら今日(こんにち)に至っております。いま、再び陛下は皇位を私に授(さず)けようとしていますが、精神は迷い、どうしたらよいか判(わか)らない状態です。勅命(ちょくめい)をお受けすることができません。

嵯峨天皇は皇太弟(こうたいてい)の申し出を許可せず、「今日以前、朕は皇太弟を子のように待遇してきたが、今日以後は皇太弟が朕を子のように待遇せよ」と答えた。今上(きんじょう)は表文(ひょうぶん)を棒呈(ほうてい)して「現神(あきつかみ)として大八洲(おおやしま)を治(おさ)める。うんぬん」と言い、許さず、譲位(じょうい)を宣言した。

翌日、今上(きんじょう)が冷泉院(れいぜいいん)へ出向き、重ねて辞退の表(ひょう)を提出したが、嵯峨(さが)天皇は譲位の意思について「現神(あきつ・かみ)として大八洲(おおやしま)を治(おさ)めること。」と語り、ついに皇太弟(こうたいてい)の辞退を許可しなかった。

冬嗣曰。聖唯知聖。今陛下、以萬機、付託聖人、天下幸甚。但比年之間、豐稔未復。若一帝二太上皇、臣恐天下難堪。臣願〓暫)待年復、然後傳位、於事不晩。

藤原冬嗣は「聖人のことは聖人のみが知ることができることです。今、陛下は皇位を皇太弟(こうたいてい)に預けようとしていますが、天下にとり、はなはだ幸いなことです。ただし、年来豊作が回復しておらず、もし一帝二太上天皇となりますと、天下にとり、耐えがたくなる恐れがあります。私が思いますには、しばらく豊年となるのを待って、そののちに譲位してください。そのようにして遅くはありません。」と言った。

財政上の問題から2人の太上天皇が存在するのはまずいと言いたかった訳でしたが、

帝曰。朕心素定。又推賢讓位、唯爲天下。賢君臨政、何有年之未復乎。

天皇は「朕(ちん)の気持ちはもとより決定している。また賢人を推薦して皇位を譲るのは、ただ天下を思ってのことである。賢君が治政すれば、年穀の回復しないことを心配する必要があろうか」と言った。

結局、そのまま大伴親王(おおとも・しんのう)が淳和(じゅんな)天皇として即位することになり、嵯峨(さが)天皇は嵯峨上皇になりました。既に平城(へいぜい)上皇がいたため、朝廷には二人の上皇が存在することになりました。

嵯峨(さが)上皇は譲位の際に、自分の息子である正良親王(まさら・しんのう)を皇太子としました。新たに即位した淳和(じゅんな)天皇から見ると兄の息子、つまり甥です。

嵯峨天皇は弟の大伴(おおとも)親王を皇太子とし、大伴親王が淳和天皇として即位すると嵯峨天皇の息子の正良親王(まさら・しんのう)を皇太子とし、さらに後に正良親王が仁明(にんみょう)天皇として即位すると淳和天皇の息子、つまりは自分のいとこである恒貞(つねさだ)親王を皇太子としました。

変則的な皇位継承が続きましたが、取り敢えず、薬子の変以降、嵯峨上皇が存命の間は平安京は文字通り平安な都として宮廷文化が大発展しました。

弘仁(こうにん)15(西暦824)年7月7日、平城(へいぜい)太上天皇が崩御。そして、天長(てんちょう)10(西暦833)年に淳和天皇が譲位し、正良親王が仁明天皇として即位しました。淳和天皇の譲位で『日本後紀』が終わり、続きの史書は『続日本後紀』(しょく・にほんこうき)となります。

日本の平安時代に成立された歴史書で、『六国史』の四作目にあたり、仁明天皇の代である天長10年(西暦833年)から嘉祥嘉祥(かしょう)3(西暦850年)までの18年間を記録しています。文徳(もんとく)天皇の勅命により、斉衡(さいこう)2(西暦855)年に編纂が開始され、貞観(じょうがん)11(西暦869)年に完成しました。天皇親政(てんのう・しんせい)から摂関政治(せっかん・せいじ)へ移る時代の根本史料です。編年体で書かれ、全二十巻からなっています。藤原良房(ふじわら の よしふさ)、伴善男(とも の よしお)、春澄善縄(はるすみ の よしただ)、安野豊道(やすの の とよみち)によって始められました。その後、良房の弟・藤原良相(ふじわら の よしみ)が加わったものの、完成前に薨去(こうきょ)してしまいました。おまけに、伴善男は応天門の変(おうてんもん・の・へん)で流罪となり、安野豊道の下総介(しもうさのすけ)赴任などがあったにもかかわらず、編纂者の追加が行われなかったために最終的には藤原良房と春澄善縄の2名のみが編纂しました。このため、編纂方針については良房の、記述については善縄の意向が強く反映されたといわれている歴史書です。

太上天皇朕〈我〉不徳〈乎〉不棄賜〈志天〉。寳位〈乎〉授賜〈閇理〉。忝鍾重〓〈弖〉日々畏愼〈太麻布〉。春秋〈乃〉往隨〈爾〉。舊痾〈毛〉稍發〈流〉。故機務〈乃〉暫〈毛〉虧怠〈牟許止乎〉恐賜〈弖〉。朝夕煩懷念〈須許止〉久矣。今念行〈佐久〉。皇太子〈止〉定〈太流〉正良親王。賢明夙彰〈禮〉。仁孝〈毛〉兼P7002厚〈久之天〉。太能毛之久於太比之久在。是以撫安國家〈牟止之天〉。此位〈乎〉授賜〈布〉。

「朕は太上天皇の熱い恩顧を受け、日々かしこみ謹んで過ごしてきたが、年月が経過していく間に時折以前の病が再発するようになり、政務に少しでも欠けることを恐れ、明け暮れ、心配しながら過ごすことが久しくなっている。今思うに皇太子に定めた正良親王は早くから賢明であることが知られ、仁と孝の徳も篤く身につけ、頼もしく穏やかな性格である。そこで国家の安定のために皇位を皇太子に譲ろうと思う』

またまた、即位からそれほど経たないうちに皇太子に譲位してしまう事になりました。それで、仁明天皇の皇太子には淳和上皇の息子、恒貞親王が付くことになりました。叔父から甥に皇位が譲られて、今度は天皇のいとこが皇太子になったわけです。

ちなみに淳和上皇の皇后は嵯峨上皇の娘である正子内親王(まさこないしんのう)でした。つまりは皇太子の恒貞親王(つねさだ しんのう)は淳和上皇の息子であるのと同時に嵯峨上皇の孫でもあったわけです。

とはいえ、仁明天皇の御代は淳和上皇と嵯峨上皇が相次いで崩御するまでは平穏無事に過ぎました。嵯峨上皇が皇族の重鎮として存在していた点が大きかったのでしょう。嵯峨上皇は表向きには政治的権力や権威はなかったのですが、嵯峨上皇は家父長として仁明天皇の後見を務めたのでした。ちなみに淳和上皇も譲位後に息子の恒貞皇太子の後見人になりました。

仁明天皇が即位した年齢は23歳でした。その時点で桓武天皇の息子であり、薬子の変を巧みに収め、天皇の権力を強化した嵯峨上皇はまだ40歳代で、まだまだ現役で頑張れる年齢でした。

承和(じょうわ)7年、西暦840年に淳和上皇が、そして、承和(じょうわ)9年、西暦842年に嵯峨上皇が崩御すると、まさに重しが外れたという感じで平安京は混乱に突入することになりました。仁明天皇と恒貞親王(つねさだ しんのう)の双方が同時期に後立てをなくしてしまい、いわゆる政治権力のバランスが崩れたわけです。ちなみに恒貞皇太子の母親は正子内親王ですが、祖母は橘 諸兄(たちばな の もろえ)の曾孫であり嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばな の かちこ)でした。それに対し、仁明天皇は藤原冬嗣の長女である藤原順子(ふじわら の のぶこ)を娶っていました。仁明天皇と順子皇后との間には道康親王(みちやすしんのう)という皇子が生まれました。

つまりは藤原良房(ふじわら の よしふさ)は仁明天皇の義理の兄ということになるわけで、ということは、仁明天皇の次の天皇として順調に恒貞皇太子が即位してしまうと良房としては面白くなく、藤原良房は天皇の叔父になるべく、道康親王が即位するよう動き始めました。

というわけで、嵯峨上皇崩御の直後である承和(じょうわ)9年(西暦842年)に承和の変が勃発しました。平城(へいぜい)上皇の孫であり歌人として有名な在原業平(ありわら の なりひら)の父親にあたる阿保親王(あぼしんのう)が橘嘉智子皇太后に書状を届けたのがきっかけでした。橘皇太后が慌てて、信頼していた藤原良房にその書状を届け、事件が発覚。直ちに兵が派遣され、伴健岑(とも の こわみね)と盟友であり三筆の一人である橘逸勢(たちばな の はやなり)らが逮捕されます。尋問の結果、恒貞親王(つねさだ しんのう)も拘束され、皇太子の地位から追われてしまいました。

『続日本後紀』(しょく・にほんこうき)には、このように記されています。

《卷十二承和九年(八四二)七月己酉【十七】》○己酉。解固關使等。』是日。春宮坊帶刀伴健岑。但馬權守從五位下橘朝臣逸勢等謀反。事發覺。令六衞府固守宮門并内裏。遣右近衞少將從五位上藤原朝臣富士麻呂。右馬助從五位下佐伯宿禰宮成。率勇敢近衞等。各圍健岑逸勢私廬捕獲其身。于時伊勢齋宮主馬長伴水上來在健岑廬。有嫌疑同被捕。又召右近衞將曹伴武守。春宮坊帶刀伴甲雄等。令解兵仗。并五箇人分付左近衞左衞門左兵衞等三府。並令〓禁。仰左右京職警固街巷。亦令固山城國五道。遣神祇大副從五位下藤原朝臣大津守宇治橋。彈正少弼從五位上丹〓眞人門成守大原道。侍從從五位下清原眞人秋雄守大枝道。散位從五位上朝野宿禰貞吉守山埼橋。大藏少輔從五位下藤原朝臣勢多雄守淀渡。先是。彈正尹三品阿保親王緘書。上呈嵯峨太皇太后。太后喚中納言正三位藤原朝臣良房於御前。密賜緘書。以傳奏之。其詞曰。今月十日伴健岑來語云。嵯峨太上皇今將登遐。國家之乱在可待也。請奉皇子入東國者。書中詞多。不可具載。

【巻十二 承和9年(842年)7月17日 】

この日、「関所を守る役人」などの任務を解かれた。
同じ日、皇太子の官署(かんしょ)の護衛である伴健岑(ともの・こわみね)、但馬の副長官で従五位下(じゅ・ごい・げ)の橘逸勢(たちばな・の・はやなり)らが謀反を企てたことが発覚した。

そこで、宮中警備を担当する六衛府(ろくえふ)に命じて宮門(きゅうもん)と内裏(だいり)の警備を強化させた。また、右近衛少将(うこんのえの・しょうしょう)の従五位上(じゅ・ごい・じょう)・藤原富士麻呂(ふじわらの・ふじまろ)、右馬助(うまのすけ)の従五位下(じゅ・ごい・げ)・佐伯宮成(さえきの・みやなり)に命じ、勇敢な近衛兵(このえ・へい)を率いて、健岑(こわみね)と逸勢(はやなり)の私邸をそれぞれ包囲し、本人たちを捕らえさせた。

そのとき、伊勢の斎宮(さいぐう)の馬の世話係である馬長(うまおさ)が水を汲みに来ており、健岑(こわみね)の家にいた。疑わしい行動とされ、同様に逮捕された。

さらに、右近衛将曹(うこんのえの・しょうそう)の伴武守(ともの・たけもり)、春宮坊(とうぐうぼう)の護衛官・伴甲雄(ともの・かぶお)らを召喚し、武装を解除させた。そして、計5人を左近衛府(さこんえふ)、左衛門府(さえもんふ)、左兵衛府(さひょうえふ)の三つの役所に分けて引き渡し、拘禁(こうきん)させた。

また、左右の京職(きょうしき)に命じて、都の街々の警備を固めさせ、山城国の五街道にも封鎖の命を出した。

以下の者たちを各街道の守りにつけた:

神祇大副(じんぎたいふ)・従五位下(じゅごいげ)の藤原大津守(ふじわら・おおつのかみ)は宇治橋(うじばし)を担当。

弾正少弼(だんじょうしょうひつ)・従五位上((じゅごい・じょう)の丹比門成(たじひの・かどなり)は大原道(おおはらどう)を担当。

侍従(じじゅう)・従五位下(じゅごいげ)の清原秋雄(きよはら の あきお)は大枝道(おおえどう)を担当。

散位(さんい)・従五位上(じゅごいじょう)の朝野貞吉(あさのの・さだよし)は山崎橋(やまさきばし)を担当。

大蔵少輔おおくらのしょうゆう)・従五位下(じゅごいげ)の藤原勢多雄(ふじわらの・せたお)は淀の渡しを担当。

この事件に先立ち、弾正尹(だんじょうのかみ)という従三位(じゅさんい)の高官である阿保親王(あぼしんのう)が一通の密書を太皇太后(たいこうたいごう)・嵯峨天皇の后(きさき)へ届けた。

太皇太后は中納言・正三位の藤原良房(ふじわらの・よしふさ)を御前(みまえ)に呼び、この密書を手渡して、その内容を上奏させた。

その密書の内容は以下の通りだった:

「今月10日、伴健岑(とも の こわみね)が来て言うには──『嵯峨上皇は今にも崩御されようとしている。国家の混乱は避けられないであろう。ゆえに、皇子を奉じて東国へ向かいたい』とのことだった。」

※この密書には、他にも多くの言葉が記されていたが、ここにはすべて記すことはできない。

承和の変で、位(くらい)の高い官僚たちが相次いで失脚し、逆に藤原良房(ふじわら の よしふさ)が階段を駆け上り、大納言に出世しました。さらに良房の甥である道康親王(みちやすしんのう)が皇太子となりました。

承和の変で最も利益を得たのは、間違いなく藤原良房なので、良房の陰謀である可能性が高いのですが、『続日本後紀』(しょく・にほん・こうき))に記載されている内容が全く当てになりません。理由は『続日本後紀』の編纂者の一人が藤原良房その人であるためです。

承和の変は実は日本の歴史にとって一つの転換点になりました。これ以降、橘氏や伴健岑(とも の こわみね)は大伴氏なので、大伴(おおとも)氏の官僚たちが政治の中枢から排除され、藤原氏や嵯峨源氏(さがげんじ)など、要職が限られた氏族によって占有されるようになったのでした。

更に、同じ藤原氏とは言っても南家(なんけ)や式家(しきけ)の政治力は著しく弱まり、その後の藤原北家(ほっけ)の繁栄への道が開かれました。そして、承和の変以降は、官僚の任命などの人事権について天皇が前面に出てくることが次第になくなり、藤原良房が担うようになりました。

政治とは予算と人事です。今までは、桓武政権、嵯峨政権など政権に天皇の名を冠して区別されていたのですが、承和の変以降は藤原政権と呼ばれるようになりました。

承和の変の処分が終わり、事実上政界のトップに躍り出た藤原良房ですが、彼は娘の藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)を道康皇太子(みちやすこうたいし)に嫁がせていました。

承和の変の8年後である嘉祥(かしょう)3年(西暦850年)に仁明(にんみょう)天皇が崩御。この時点で藤原良房は右大臣に昇進していたのですが、道康皇太子(みちやすこうたいし)が文徳(もんとく)天皇として即位することで天皇の叔父という立場を手に入れることになりました。

仁明(にんみょう)天皇の譲位で『続日本後紀』(しょく・にほんこうき)が終わり、続きの史書は『日本文徳天皇實録』(にほんもんとくてんのうじつろく)となります。六国史の第五にあたり、文徳天皇の代である嘉祥3年(西暦850年)から天安2年(西暦858年)までの8年間を扱っています。略して文徳実録とも言います。編年体、漢文、全10巻。本書の編纂は清和天皇が貞観(じょうがん)13年(西暦871年)、藤原基経(ふじわら の もとつね)、南淵年名(みなぶち の としな)、都良香(みやこ の よしか)、大江音人(おおえ の おとんど)らに編纂を命じました。年名(としな)と音人(おとんど)(共に貞観(じょうがん)19年(西暦877年)没)の死後、元慶(がんぎょう)2年(西暦878年)に菅原是善(すがわら の これよし)を加え、基経・良香との3人で翌元慶3年(879年)11月に完成成立させました。

なお、なお『菅家文草』によれば、菅原是善(すがわら の これよし)の息子である菅原 道真(すがわら の みちざね)が父に代わって序文を執筆したと記されています。

続いて、文徳天皇の后である明子(あきらけいこ)が皇子を産みました。藤原良房(ふじわら の よしふさ)は生まれたばかりの惟仁親王(これひと・しんのう)を皇太子の座に付けさせました。赤ちゃんの皇太子といえば、聖武(しょうむ)天皇の長男の基皇子(もといのみこ)以来になります。基皇子は生後1年に満たずに崩御してしまいましたが、惟仁親王は成人しました。

基皇子のときは長屋王を始め有力者たちがこぞって反対したのと同じく、もちらん、赤ちゃんを皇太子にすることに抗議はありました。何しろ、文徳天皇自身が反対したようです。文徳天皇には当時すでに3人の皇子がおり、中でも第一皇子である惟喬親王(これたか・しんのう)を後継者にしたいと文徳天皇は望んでいたようです。惟喬親王は当時は6歳でした。惟喬親王の母親が紀 名虎(き の なとら)の娘でした。後に『古今和歌集』(こきんわかしゅう)の撰者として有名な紀貫之(き の つらゆき)を排出する紀氏(きうじ)で、藤原北家ではありませんでした。結局のところ、後ろ盾が誰なのかで勝負が決まる世界なのです。当チャンネルの『源氏物語』の動画を見てもらうと、よくわかると思います。そのため、惟仁親王(これひと・しんのう)が生後8ヶ月で皇太子に選ばれ、惟喬親王(これたか・しんのう)は出家することになりました。

文徳天皇は病弱であったため、それほど長く生きられないことを察していたようでした。というわけでせめて惟仁親王が成人する前に自分が死んだ場合は、中継で構わないから惟喬親王(これたかしんのう)を天皇にと願ったのですが、それも叶いませんでした。文徳天皇は即位からわずかに8年後、天安(てんあん)2年(西暦858年)に崩御しました。今まで最も若く天皇に即位したのは15歳の文武天皇でしたが、惟仁皇太子が清和天皇として即位したのはわずかに9歳でした。

文徳天皇は生前、斉衡(さいこう)4年(西暦857年)に藤原良房を太政大臣に任命しました。皇族以外からの太政大臣就任は藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)と太政大臣禅師(だいじょうだいじんぜんじ)となった道教(どうきょう)以来の三人目でした。道教はその後に法王となりましたが。もともと太政大臣は太政官の最高位で大友皇子(おおともの・みこ)、高市皇子(たけちの・みこ)といった皇族が就任する役職でした。

『日本文徳天皇實録』(にほん・もんとくてんのう・じつろく)にはこのように記されています。

○丁亥。右大臣正二位藤原朝臣良房爲太政大臣。大納言從二位源朝臣信爲左大臣。大納言正三位藤原朝臣良相爲右大臣。宣制曰。
天皇〈我〉詔旨〈良萬止〉勅御命〈乎〉。親王諸王。諸臣百官人等。天下公民。衆聞食〈止〉宣〈不〉。
右大臣正二位藤原良房朝臣〈波〉。朕之外舅〈那利〉。又稚親王〈止〉大坐時〈與利〉助導〈支〉。供奉〈禮留〉所〈毛安利〉。今〈毛〉又忠貞〈留〉心〈乎〉持〈天〉。食國〈乃〉天下〈乃〉政〈乎〉相〈安奈那比〉申賜〈比〉助奉〈留〉事〈毛〉漸久〈玖那利奴〉。
古人有言〈利〉。徳〈止之天〉無不酬〈止奈毛〉聞食〈須〉。而今所在〈乃〉官〈波〉。掛畏〈支〉先帝〈乃〉治賜〈留〉所〈那利〉。朕未有所酬。是以。殊〈爾〉太政大臣乃官〈爾〉上賜〈比〉治賜。
又大納言從二位源信朝臣〈毛〉。朕之伯父〈那利〉。亦舊故〈毛〉有〈爾〉依〈天奈毛〉。殊〈爾〉左大臣乃官〈爾〉任賜〈不〉。大納言正三位藤原良相朝臣〈乎波〉右大臣乃官〈爾〉任賜〈久止〉。
勅〈布〉天皇御命〈乎〉。衆聞食〈止〉宣。

「天皇の勅命をもって、親王・諸王・諸臣・百官、そしてすべての天下の人民に告げる。
右大臣・正二位の藤原良房朝臣は、我が外舅(義父)であり、かつて幼き親王を補佐し導き、礼儀を尽くして奉仕してきた人物である。今また忠誠心を持って国政を補佐しており、その勤労は久しく重なるものとなっている。
古人は言った──『徳は天が必ず報いる』と。今、彼が勤める官職は、先帝の治世から続く重職であり、まだ十分な報いを与えていなかった。
よって、特別に太政大臣の官位を授け、これに応えんとする。
また、大納言・従二位の源信朝臣は朕の伯父であり、旧き縁を以て、左大臣に任ずる。
大納言・正三位の藤原良相朝臣についても、右大臣に任命する。
天皇の命である。すべての者よ、これを聞き届けよ。」

天皇の叔父であることと太政大臣への任命はあまり関係ないような気がします。官僚の任命権は文徳天皇ではなく藤原良房が持っていたはずなので、表向きは天皇が任命した風を装ってはいるものの、太政大臣任命は良房自身の意思だったのでしょう。
もしくは、死期を悟った文徳天皇は自分の死後の惟仁(これひと)親王について後見人を求めたのではないでしょうか。何しろ文徳天皇の時代には上皇が1人もいませんでしたから。仁明(にんみょう)天皇には父親の嵯峨(さが)上皇、恒貞(つねさだ)親王には父親の淳和(じゅんな)上皇が後見人だったように、文徳上皇が、まだ幼少の惟仁皇太子を即位させ後見したかった。とはいえ、もはや間に合いそうにない。しかも譲位をしたところで自分が死んでしまうと結局は後見人を務めることができない。というわけで文徳天皇は藤原良房を太政大臣にすることで恩を売り、死後の惟仁親王を守ってほしいと考えたのではないでしょうか。

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