文徳(もんとく)天皇の母親は藤原北家筆頭である藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)の娘、藤原順子(ふじわら の のぶこ)。更には妻が藤原良房(ふじわら の よしふさ)の娘である藤原明子(ふじわら の あきらけいこ)。系図を見ると、本来は淳和(じゅんな)天皇の皇子である恒貞親王(つねさだ しんのう)に受け継がれるはずだった皇統を、承和の変で藤原北家(ふじわら・ほっけ)が強引に自分の身内の血統に引っ張ってきました。
特に文徳天皇と明子(あきらけいこ)の子である惟仁(これひと)親王が生後8ヶ月で皇太子となった時点で仁明(にんみょう)天皇、文徳天皇そして惟仁親王という系統が確定することになりました。
天安2年(西暦858年)に文徳天皇が崩御した時点で、惟仁親王の兄の惟喬親王(これたか・しんのう)は15歳で成人していました。ところが、わずか9歳の惟仁親王がそのまま、清和(せいわ)天皇として即位しました。清和天皇は史上初めて成人前に即位した天皇、つまり幼帝(ようてい)です。
文徳天皇の崩御で『日本文徳天皇實録』(にほんもんとくてんのうじつろく)が終わり、続きの史書は『六国史』(りっこくし)の第六にあたる『日本三代實録』(にほんさんだいじつろく)となります。清和天皇、陽成(ようぜい)天皇、光孝(こうこう)天皇の3代である天安(てんあん)2年(西暦858年)8月から仁和(にんな)3年(西暦887年)8月までの30年間を記しています。延喜(えんぎ)元年(西暦901年)に成立しました。編者は藤原時平(ふじわら の ときひら)、菅原道真(すがわら の みちざね)、大蔵善行(おおくら の よしゆき)、三統理平(みむね の まさひら)など。編年体の漢文で書かれています。全50巻。国家儀礼、慶事、災異は全て載せてあり、『六国史』(りっこくし)の中で最も精緻(せいち)に記載されており、後世の史書の規範となっています。詔勅や表奏文を豊富に収録し、先例のできあがった慣行(かんこう)、節会(せちえ)や祭祀(さいし)など年中行事の執行(しっこう)が記載されており、読者である官人(かんにん)の便宜を図ったもの。現存する写本は、叙位任官や詔勅(しょうちょく)・上表(じょうひょう)の本文、薨卒(こうしゅつ)に関する記述に脱文やところどころに写本の省略箇所が多く、全文が伝わっていません。
幼帝が天皇に即位したので藤原良房が摂政(せっしょう)に任じられたものと思われます。摂政とは天皇が幼いとか病弱で政務を摂れない場合に、代わりに政務を摂る役職です。
『公卿補任』(くぎょうぶにん)によると、この時に摂政に就任して貞観(じょうがん)6年(西暦864年)の清和天皇の元服と共に摂政を退いたとありますが、正史である『日本三代實録』の清和天皇の巻には摂政に関する記述がないことから、藤原良房は太政大臣として天皇を後見したものと思われます。しかも、清和天皇が元服後には、一時的にですが政界からは引退した形になりました。
清和天皇もやはり父親の文徳天皇同様に病弱だったようで、31歳で崩御することになりました。この清和天皇の第六皇子である貞純親王(さだずみしんのう)が、源頼朝や源義経に連なる清和源氏の始祖となります。先祖をたどると清和天皇に行き着くから清和源氏と呼ばれています。
当チャンネルの別の動画で語っていますが、源氏の元祖は嵯峨天皇の皇子たちでした。臣籍降下した嵯峨天皇の皇子の一人に源 信(みなもと の まこと)という人物がいました。源氏の中で最も官位が高い者が朝廷から認められると源氏長者(げんじのちょうじゃ)となるのですが、この人物は初代源氏長者となります。源信は文徳天皇から惟仁(これひと)親王ではなく兄の惟喬(これたか)親王を中継ぎでも構わないから次の天皇として立てたいとの相談を受けた、という説があります。
それに対し源信は惟仁親王に罪があるならば廃すべきであるが、罪がないのであれば他の皇子を擁立すべきではない、天皇の命令であっても承諾できないと答えたと伝えられています。
この挿話は『吏部王記』(りほうおうき)に記載されていたと言われています。ところが、現存する『吏部王記』では、その原文を確認する事が出来ず、様々な論文集の年表や注記に「吏部王記 承平(じょうへい)元年9月四日条に〜とある」とあるだけで、本文引用や翻訳は見られません。伝写の過程で段落の欠落や註釈の付加があった可能性があり、現在流通する写本群ではその文が削られているのかもしれませんし、「伝聞史料」に由来するものかもしれません。
というわけで、惟仁(これひと)親王が生後8ヶ月で皇太子として立てられる事になりました。もちろん、藤原良房は源信(みなもと の まこと)に大いに感謝したものと思われます。赤ちゃんを立太子するという無茶を通せたのは、源氏長者(げんじのちょうじゃ)である源信の助力があったためなのでしょう。源氏姓とはいっても何しろ嵯峨天皇の息子だから発言力もそれなりにあったものと思われます。
源信の政敵に伴善男(ともの よしお)という人物がいました。『続日本後紀』(しょく・にほんこうき)の編纂者のひとりです。伴善男はもともとは大伴善男(おおともの よしお)だったのですが、大伴親王が淳和(じゅんな)天皇として即位した際に避諱(ひき)により伴姓(とも・せい)に改名しました。避諱(ひき)とは、君主と同じ苗字や名前を名乗り続ける事を遠慮する慣習です。支那(しな)が元祖で、例えば、唐の太宗(たいそう)である李世民(りせいみん)が即位した際に、政治家の一人、李世勣(り せいせき)が李勣(り せき)と名前を改めているのが有名です。
その伴善男は、清和天皇即位後である貞観(じょうがん)6年(西暦864年)、大納言に昇進しました。大伴氏の大納言就任は、天平2年(西暦730年)の大伴旅人(おおとも の たびと)以来約130年ぶりのことでした。
当時、藤原良房は半引退生活を送っていました。もっとも相変わらず太政官(だじょうかん)は藤原北家に支配されており、右大臣は良房の実弟にあたる藤原良相(ふじわら の よしみ)でした。父母ともに同じ兄弟という事です。
その2年後である貞観8年(西暦866年)、平安京の応天門(おうてんもん)が放火されるという事件が勃発しました。
応天門(おうてんもん)とは、平安京において皇居である平安宮の内側の政務が取られる朝堂院(ちょうどういん)の正門です。応天門は完全に炎上し、焼け落ちてしまいました。中心部の中の中心部であるため、世間では大騒ぎとなりました。現在の平安神宮の応天門は焼け落ちた門を縮小復元したものです。というわけで「犯人は誰だ」という話になったのですが、伴善男と藤原良相(ふじわら の よしみ)は不仲で政治的なライバルであった源信(みなもと の まこと)が犯人だと訴えました。応天門は伴善男の先祖である大伴氏が造営したもので、伴善男は源信が大伴氏を呪って火をつけたと告発したのでした。
『日本三代實録』(にほん・さんだい・じつろく)ではこのように記されています。
右大臣藤原良相命捕源信兵出囲其宅
右大臣の藤原良相は源信(みなもとのまこと)の捕縛を命じ、軍勢を出してその屋敷を包囲した。
これだけの記述しかないので、例により真相は闇の中です。
すると当時は参議だった藤原基経(ふじわら の もとつね)が父親の太政大臣(だじょうだいじん)つまりは藤原良房に源信の危機を報告しました。良房は久々に表舞台に姿を現し、清和天皇に奏上して源信を弁護しました。太政大臣は、官職上は左大臣や右大臣、大納言の上に位置していました。その太政大臣の奏上をうけ、源信は無実とされ、屋敷の包囲は解(と)かれました。
藤原良房は「惟喬親王(これたかしんのう)を天皇に」と言い出した文徳天皇に反対してくれた源信に恩義を感じていたのでしょうか。清和天皇にしても同じですが。源信の反対がなければ惟喬親王が即位して、惟仁(これひと)親王が清和天皇として即位しなかった可能性もあったので。
源信(みなもと の まこと)が釈放されると応天門放火の真犯人は伴善男と息子の伴中庸(とも の なかつね)だと訴える大宅鷹取(おおやけ の たかとり)という人物が現れました。鷹取は「応天門の前から善男と中庸が走り去ったのを目撃した。直後に門が炎上した」と主張しました。
『日本三代實録』(にほん・さんだい・じつろく)には、このように記されています。
《卷十三貞觀八年(八六六)八月三日乙亥》○三日乙亥。左京人中權史生大初位下大宅首鷹取告大納言伴宿禰善男。右衞門佐伴宿禰中庸等同謀行火燒應天門。
8月3日、備中権史(びっちゅう・ごん・し)の大宅鷹取(おおやけ の たかとり)が申し出て言った。「応天門の火事の犯人は伴善男とその子・伴中庸である」と。鷹取は、応天門の前で善男とその子および紀豊城の三人が走り去るのを見て、ほどなく門が燃え出したことを告げた。そこでこれを朝廷に訴え申し上げた。
ちなみに大宅鷹取は、伴善男に娘を殺され自分も負傷した、と『日本三代実録』に記されており、娘の仇である伴善男を陥れる絶好の機会が訪れたということで目撃談をでっち上げた可能性は高いものと思われます。
いずれにせよ、清和天皇は詔を下し、伴善男・中庸親子を取り調べさせました。当時の尋問はほとんど拷問であり、多くの場合尋問側に有利な証言がなされました。伴家(ともけ)に仕えていた家来たちも尋問されました。その1人が善男・中庸親子が真犯人であると自白。結局、応天門の放火は伴善男らの犯行と断定されました。伴一族の多くは流罪となり、天孫降臨(てんそん・こうりん)の際に、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と下った天忍日命(あめの・おしひの・みこと)を祖(そ)とし、武烈(ぶれつ)天皇から欽明(きんめい)天皇の時代に全盛期を迎えた名門の大伴家(おおともけ)は没落することになりました。これが応天門の変です。
百数十年ぶりに大納言になった伴善男が結局は大伴一族を凋落させてしまったわけです。応天門の変は、何しろ首謀者と疑われた人物が大納言の伴善男、左大臣の源信という大物だったため、事態を重く見た清和天皇は太政大臣藤原良房に天下の政(まつりごと)を摂行せよと命じました。というわけで、藤原良房は政(まつりごと)を摂り行うという意味を持つ摂政(せっしょう)になりました。摂政の摂の字は摂り行う、代行する、といった意味を持つ漢字ですから。
応天門の変以降、弟の藤原良相(ふじわら の よしみ)は辞職し、翌年亡くなりました。更には源信も出仕しなくなってしまいました。しかも伴善男は流罪となっており、太政官(だじょうかん)の上層部がみんないなくなり、藤原良房は太政大臣にして摂政なので、圧倒的な権力を手に入れました。応天門の変も承和の変同様に政敵を追い落とすために良房が仕組んだ陰謀だったのでしょうか。しかも承和の変にせよ応天門の変にせよ、事件を記録した歴史書の編纂に良房本人や孫にあたる藤原時平(ふじわら の ときひら)が深く関わっているので、本当だったにせよ、正史に残すはずなどありません。
藤原良房は、承和の変、応天門の変、と二度の政変から同じような実利を得たわけで、二度続けてとなると良房の関与がなかったと考える方が不自然な気がします。ちなみに応天門の変はおよそ300年後に後白河法皇(ごしらかわ・ほうおう)が常盤光長(ときわ みつなが)に書かせたとされる「伴大納言絵詞」(ばん・だいなごん・えことば)でも有名です。伴大納言(ばんだいなごん)とは大納言だった伴善男のことです。
伴大納言(ばん・だいなごん)とは、大納言だった伴善男(ともの よしお)のことで、「伴大納言絵詞(ばんだいなごん・えことば)」は『源氏物語絵巻』、『信貴山縁起絵巻』(しぎさんえんぎ・えまき)、『鳥獣人物戯画』(ちょうじゅう・じんぶつ・ぎが)と並んで四大絵巻物(えまきもの)と称されていて、もちろん、国宝です。応天門の変における大納言伴善男の物語を描いた絵巻物で、まずは放火され炎上する応天門、さらには無実の罪で捕らえられた源信(みなもと の まこと)と嘆き悲しむ女房たち、真犯人の発覚、伴善男を捉える検非違使(けびいし)の一行(いっこう)という構成になっています。完全に伴善男真犯人説に立っています。この絵巻物は、現在は東京の出光美術館(いでみつ・びじゅつかん)所蔵になっています。10年ごとに公開されていますので、機会があれば、現物を観る事が出来ます。
それにしても、伴善男は冤罪だった可能性もあるのに、国宝の絵巻物でも真犯人扱いされてしまいました。藤原良房の摂政就任のために貢献したようにも思えます。もっとも、嵯峨(さが)天皇以降、天皇の役割が次第に変化しつつあったため、応天門の変がなかったとしても、天皇の職務を代行する摂政の役職がこの時代に誕生していたものと思われます。
かつての天皇は自ら甲冑を着て先頭の陣頭指揮をすることも珍しくありませんでした。神日本磐余彦天皇(かん・やまと・いわれびこの・すめらみこと)は東征で軍隊を率いて長髄彦(ながすねひこ)を打ち滅ぼしましたし、大海人皇子(おおあまの・おうじ)も壬申の乱(じんしんのらん)に際し、先頭に立って兵士たちを指揮しました。自ら軍隊を率いた訳ではありませんが中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)も唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍から百済(くだら)を救うために玄界灘(げんかいなだ)を越えて軍隊を派遣しています。孝謙(こうけん)上皇も反乱を起こした恵美押勝(えみの・おしかつ)に討伐軍を差し向けました。桓武(かんむ)天皇も蝦夷(えみし)制圧のため坂上田村麻呂(さかのうえの・たむらまろ)を征夷大将軍(せいい・たいしょうぐん)として派遣しました。ところが、嵯峨天皇以降は天皇が陣頭指揮(じんとう・しき)を取ることがありませんでした。蝦夷(えみし)や渡来人、それに群盗(ぐんとう)による小規模な騒乱が起きるのみで大規模反乱や内戦とは無縁になったためでした。
しかも、安禄山の乱(あんろくざんのらん)以降、唐の力が著しく衰え、侵略を警戒する必要性も薄れていきました。という訳(わけ)で、嵯峨天皇以降の日本では、天皇自らが軍隊を率いる、あるいは指揮する必要がほぼなくなりました。なので、清和(せいわ)天皇は9歳であったにもかかわらず即位することが出来ました。国内や海外で敵対勢力の脅威が高まっていたのでは幼帝の即位が認められるはずがありませんから。
摂政(せっしょう)とは天皇の行政権を代行する役割ですが、平安初期までの日本は国内情勢も国外情勢も代行者を立てられるほどの余裕がありませんでした。ここに至って、「幼帝でも構わない」という、政治的な安定を手に入れ、ようやく聖徳太子(しょうとくたいし)の目指した権威と権力との分散が完成したという事でしょう。
天皇個人の能力や資質はそれほど問題視されず、男系の血統を受け継ぐのであれば構わないという風になりました。
清和天皇以降の日本では、10歳前後で即位する天皇も珍しくなくなりました。六条(ろくじょう)天皇は長寛2年、西暦1164年に数え2歳(満7か月と11日)で立太子(りったいし)し、その1ヶ月後に即位しています。言葉も満足にしゃべれなかったものと思われます。
平安前期の摂政政治は本格的に権力と権威が分裂した故の政治体制でした。権威は勿論、天皇で、権力は摂政(せっしょう)や関白(かんぱく)、要するに藤原北家(ふじわら・ほっけ)です。権威と権力が切り離されたことで逆に天皇の地位は安泰になったとも言えます。天皇が権力を持っていると打倒の対象となり得ますが、権威は大きくても権力がなければ天皇を打倒せよとはなりません。なにしろ打倒しても別に何も変わらないので。
無論、平安時代以降も権力を振るおうとする天皇や上皇は出現しました。その場合、天皇が権力闘争の参加者になり、勝ったり負けたりしました。大抵はろくなことになっていません。最も典型的な事例は承久の乱(じょうきゅうの・らん)で、鎌倉幕府の北条氏による執権政治(しっけんせいじ)打倒を目指した後鳥羽上皇(ごとば・じょうこう)でしょう。上皇に討伐の対象とされた北条義時(ほうじょう よしとき)は鎌倉幕府全体への攻撃だと主張し、東国(とうごく)の御家人(ごけにん)たちを率いて京都に攻め上り(せめのぼり)ました。後鳥羽上皇側は敗れ、隠岐の島(おきのしま)に流されることとなり、上皇側に与(くみ)した武士たちはみな処刑されてしまいました。
天皇が権威のみを保有し、権力者でなかったことが日本の皇統をここまで長く続かせた理由の一つですから。
摂関政治(せっかんせいじ)の時代は藤原北家(ふじわら・ほっけ)が政治権力を独占していました。天皇や皇族は摂政や関白の専横を腹立たしく感じていたかもしれませんが、逆に、だからこそ、天皇の存続が担保されたと言えました。打倒の対象は権力者である藤原北家という事です。
応天門の変以降も藤原北家対北家以外の藤原氏、あるいは別の家、さらには藤原北家内でも熾烈な政治闘争が繰り広げられることになりました。最終的には藤原氏は新興勢力である武家、平家(へいけ)に権力を奪い取られていき凋落してしまいました。
当チャンネルの別の動画でも解説していますが、武家の中でも、源氏や平氏は先祖を辿ると天皇にまで行きつくので、ということは日本の武家の勃興とは、藤原氏に政治権力を奪われた皇統が何百年もかけて権力を自分たちの血統に取り戻したという見方も出来るでしょう。もっとも、最終的には皇統出身の武家、つまり源氏と平氏が政治権力をめぐって、本家の皇族と戦争することになりましたが。
ところで、藤原良房(ふじわら の よしふさ)は貞観(じょうがん)14年、西暦872年に薨去(こうきょ)しましたが、その4年後の貞観18年、西暦876年、清和天皇は突然わずか9歳の皇太子、貞明親王(さだあきら・しんのう)に譲位し、太上天皇(だじょうてんのう)になってしまいました。またまた幼帝の即位でした。
貞明親王が成人するまで待つことなく、清和天皇が譲位に踏み切った理由はよくわかっていません。譲位後、清和上皇(せいわ・じょうこう)は出家し、畿内巡行の旅に出たり、絶食を伴う厳しい苦行をしたりしています。変わった人物だったのでしょうか。
ところで清和上皇から譲位された貞明親王は陽成天皇(ようぜい・てんのう)として即位しましたが、何しろまだ9歳ということもあり、当然摂政をつけることになりました。
藤原良房(ふじわら の よしふさ)は既にこの世を去っていたため、良房の甥で養子である藤原基経(ふじわら の もとつね)が太政大臣(だじょう・だいじん)かつ摂政(せっしょう)に任じられました。
『日本三代實録』(にほん・さんだい・じつろく)には、このように記されています。
卿、宜體良房之輔朕、以奉事新帝。
そなたは、良房が朕を補佐してくれたように、新しい帝に仕えてほしい。
清和上皇は譲位の際に基経にこのように伝えました。
清和天皇は幼少で即位しましたが、その政権を実際に支えたのが、外祖父(がいそふ)である良房でした。つまりこの言葉は、「私は、良房に守られてここまで来た。
だから今度は、お前がこの子を守ってくれ」という、政略を超えた“継承の感情”なのでしょう。
ちなみに摂政になったとはいえ、基経は天皇の職務の全てを代行したわけではありませんでした。代行したのは政務や人事のみで天皇の神事や儀礼などは陽成天皇(ようぜい・てんのう)に課せられた責務でした。
いくら、9歳の子供であろうが、神様を祀る行事や儀式を執り行わなければならないのは当然の事でした。何しろ良房や基経ら藤原北家の人々は天照大御神(あまてらす・おおみかみ)の子孫ではありませんから。神事(しんじ)や儀礼はあくまで皇族である天皇の役目であり、これは今上(きんじょう)天皇陛下も同じです。ところで譲位した清和上皇は無理な修行がたたったのか、元慶(がんぎょう)4年、西暦880年に31歳の若さで崩御してしまいました。
となると、9歳の陽成(ようぜい)天皇が一人残されてしまいました。実は陽成天皇は素行が悪いことで有名だったようです。雄略(ゆうりゃく)天皇のように、身内を殺しまくったわけではありませんが。
清和天皇と藤原良房との組み合わせとは異なり、陽成天皇と藤原基経との間はそれほどうまく行きませんでした。清和上皇が存命の時期は陽成天皇は両親や基経の下で政務を摂っていましたが、上皇の崩御後、次第に父親が任命した摂政、基経との関係が悪化していきました。天皇は自分であるにもかかわらず、何故、政治の実権を基経に握られなければならないんだ、とか考えたのでしょう。
基経は陽成天皇の母親である藤原高子(ふじわら の こうし)とは母親を同じくする兄妹でした。つまりは陽成天皇にとっては伯父。身内であるものの疎ましかったのには間違いがないようで、陽成天皇の元服後、基経は出仕を拒否するようになりました。そんなに自分でやりたいならば、どうぞご勝手に、という感じなのでしょうか。かつての藤原良房と同じように基経が政界から距離を取っていたある日、大事件が起きました。元慶(がんぎょう)7年、西暦883年11月10日、陽成天皇は乳母(めのと)の子である(みなもと の まさる)が殿上(てんじょう)で天皇に近侍していたところ、突然何者かに殴殺されてしまいました。
『日本三代実録』には、このように記されています。
禁中之事、秘而不宣、外人不得而知。
宮中での出来事は秘密とされ、公(おおやけ)にされなかったため、外部の者は知ることができなかった。
思わせぶりな書き方ですが、陽成天皇がやったとは書かれていません。もっとも宮中で源益(みなもと の まさる)が殺害されたのは確かで、しかも陽成天皇が無関係とは思えません。理由は源益の死の3ヶ月後である、元慶8年、西暦884年2月に陽成天皇がいきなり退位してしまったためです。つまりは源益の死の責任を取らされたということなのでしょうか。何しろ陽成天皇は退位時の年齢が17歳であり、事件と完全に無関係だったならば、この時期に退位する理由は全くありません。表向きは病気による自発的な譲位をしたことになっていますが、太上天皇(だじょうてんのう)として80歳近くまで生きたので、本当に病気だったのか疑わしいものです。
つまりは事故なのか故意なのかはともかくとして、陽成天皇が源益の死に何らかの関係があった可能性が高いと思われます。今となっては真相はわかりません。陽成天皇に退位を迫ったのが政界に復帰した藤原基経でした。さらに基経は陽成天皇の兄弟ではなく、既に55歳だった仁明(にんみょう)天皇の皇子、時康親王(ときやす・しんのう)を引っ張り出し、新天皇として即位させました。時康親王は陽成天皇の父親の父親の父親の息子なので、随分と皇統が遡ってしまいますが、さすがに2代連続で幼帝が続き、宮中で殺人事件まで起きたとなると壮年の経験豊かな男性を天皇にと考えたのではないでしょうか。
こうして本来は皇位につく可能性がゼロだった時康親王が光孝天皇(こうこうてんのう)として即位しました。光孝天皇は自分を即位させてくれた基経に感謝したようです。即位直後、光孝天皇は宣命を下しました。
『日本三代実録』には、このように記されています。
凡奏事與下事、必量而受之。
およそ、朝廷に奏上すべきことや、(天皇が)決定して命を下すべきことについては、
必ずよく考えたうえで受け取りなさい。
つまりは天皇へ奏上すべきこと、天皇から下すべきことについて必ず基経を経由しなさいという意味です。この時点で基経は事実上の関白になりました。
関白(かんぱく)とは前漢(ぜんかん)の第10代皇帝である宣帝(せんてい)が皇帝とのやりとりについては全て霍光(かくこう)が預かり申すようにしたいという故事に由来します。関白の「関」が「預かり」で、「白」が「申(もう)す」という意味です。
さらに、仁和(にんな)3年、西暦887年に光孝天皇が重体に陥ると、臣籍降下していた源定省(みなもと の さだみ)がに皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚(せんそ)し、11月17日に宇多天皇として即位しました。宇多天皇は藤原基経や百官に対して詔しました。
『日本三代実録』には、このように記されています。
親王諸臣百官人等、天下公民衆聞食〈止〉宣。隨法〈爾〉可有政〈止志天〉、定省親王〈乎〉立而皇太子〈止〉定賜〈布〉。故此之状〈乎〉悟〈天〉、百官人等仕奉〈禮止〉詔天皇〈我〉勅旨〈乎〉衆聞食〈止〉宣。
天皇が仰せになる。
親王・諸臣・百官の人々、そして天下の公民衆よ、よく聞きなさい。
法に従って政(まつりごと)を行うべきであるので、定省親王を皇太子に立てることと定めて授ける。この趣旨を悟り、百官の人々は謹んで仕え奉りなさい。
これが天皇の勅旨であると、広く人々に知らせるものである。
全ての事柄について百官達は皆、太政大臣(だじょうだいじん)つまりは藤原基経を経由せよというわけです。こうして藤原基経は日本史上初の関白に就任。後に幼少の天皇を補佐するのが摂政、成人して以降は関白という形で使い分けられるようになりましたが、いずれにせよ摂関(せっかん)を藤原北家(ふじわら・ほっけ)の者たちが独占する摂関政治が始まりました。
