当チャンネルの別の動画で何度も説明していますが、人類史に無数に登場した王朝において、現実的な政治的な能力は置いといて、一般民衆が最も権威を感じるのは、君主の血統です。偉大なる先祖の血を引いているというだけで、人々は国王や皇子にそれなりの権威を感じてしまいます。という訳で、その偉大さが物凄いと、その後の国体や政体がどのように変遷しようとも、偉大なる人物の血を受け継ぐ者は、本人の資質とは無関係に存在自体が価値を持つ事になります。
例えば、大モンゴル帝国の始祖チンギス・ハンの血統は、「黄金の氏族」こと、「アルタン・ウルク」と呼ばれ、ユーラシア全域で崇拝されました。ロシア帝国の初代ツァーリであるイヴァン4世はチンギス・ハンの長男のジョチ家の出身の女性と結婚し、自らを権威づけました。イヴァン4世だけではありません。14世紀から15世紀にかけ、中央アジアから西アジアにわたる大帝国を築き上げたティムールも、チャガタイ・ウルスの王女。つまりは、同じくチンギス・ハンの子孫を妻にし、自らはハンの座に就かず、婿の将帥ティムールを名乗りました。
イスラム教も開祖の子孫の血脈が現代に残っています。イスラム教の開祖、預言者ムハンマドの娘、ファーティマの子孫です。イスラム教の第4代カリフ、アリーとファーティマの息子ハサンとフサインですが、2人の子孫はムハンマドの血を受け継ぐサイードとして、イスラム世界で崇拝され続けました。
ちなみに、1921年から現在に至るまで、ヨルダン・ハーシム王国の国王の座には、ハサンの子孫が就いています。別に現在のヨルダン国王が、ムハンマド・ファーティマ・ハサンの血を引くから国王でいられるとまで言う気はありませんが、血統は、人間にそこまで権威を与えるという話です。世界中で最強の血脈による伝統を誇る皇統を生まれた時から頂(いただ)いている日本人には、逆にピンとこないかもしれませんが。
我が国の最強の血統を誇る人物と言われて、頭に浮かぶのが、聖徳太子の子である山背大兄王(やましろの・おおえのおう)でしょう。なにしろ、聖徳太子自身が神武天皇以来の男系の皇統の継承者。用明天皇の長男ですから。しかも、本人は日本の古代史において、並び立つ者がいない程の大政治家にして、聖なる徳というおくり名をもらうほどの聖人ですから。
おまけに、聖徳太子の血族は、上宮王家(じょうぐうおうけ)と呼ばれました。西洋の王家とは少し違います。とはいえ、大兄(おおえ)を名乗る者を擁する一族は、他の皇族よりも上の位として認識されていたのは確かのようです。有力な大王位継承資格者と考えられていました。
そして、山背大兄王(やましろの・おおえのおう)と対立したのが蘇我入鹿(そがの・いるか)です。蘇我入鹿は蘇我馬子(そがの・うまこ)の孫です。蘇我馬子の息子が蘇我蝦夷(そがの・えみし)。その息子が蘇我入鹿であり、蘇我馬子の孫と聖徳太子の息子が熾烈(しれつ)な政治闘争を戦う事になりました。
推古天皇は、聖徳太子がお隠れになって以降、皇太子を定めていなかったため、次の天皇に誰が即位するのかが問題になってしまいました。当時、蘇我入鹿の父親、蘇我蝦夷は大臣(おおおみ)の地位にありましたので、群臣を集め、皇位をどうするかを諮りました。が、その際に推古天皇の遺言が問題になりました。『日本書紀』には、このように書かれています。
壬子、天皇、痛甚之不可諱、則召田村皇子謂之曰「昇天位而經綸鴻基・馭萬機以亭育黎元、本非輙言、恆之所重。故、汝愼以察之、不可輕言。」卽日召山背大兄教之曰「汝肝稚之。若雖心望、而勿諠言。必待群言以宣從。」
3月6日。天皇は痛みがひどくなって、死が避けられない状態になりました。すぐに田村皇子(たむらの・みこ)を呼び寄せて語って言いました。
「天下を治めるということは大任です。たやすく言うべきものではありません。お前は、慎重によく物事を見通すようにして、しっかりとやりなさい。」
その日のうちに、山背大兄(やましろの・おおえ)を呼び寄せて教えて言いました。
「お前は、やかましく騒いではならぬ。必ず群臣の言葉に従って、謹んで道を誤らぬように。」
山背大兄王(やましろの・おおえのおう)は、どうやら皇位を継げない事に気づき、叔父の大臣(おおおみ)、蘇我蝦夷と直談判し、群臣も田村皇子派と山背大兄王派に分かれて激論になったのですが、結局は敏達(びだつ)天皇の男系の孫に当たる田村皇子が第34代舒明(じょめい)天皇として即位しました。その後、舒明天皇は弟の娘、つまりは、姪に当たる宝女王(たからの・ひめみこ)を皇后に立てました。
舒明天皇の御代(みよ)は、推古天皇ほど長く続かず、12年で終わり、今度こそ山背大兄王も出番かと思いきや、そうはなりませんでした。当時、朝廷の実権は蘇我蝦夷・蘇我入鹿の親子が握っていました。というよりも、既に蝦夷ではなく入鹿が政治を動かしている状況でした。入鹿は、次なる天皇として舒明天皇の長子、古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・みこ)を擁立しようとしました。とはいえ、さすがに若すぎたため、入鹿は中継ぎとして、舒明天皇の皇后で、敏達天皇の男系の血を受け継いでいる宝女王(たからの・ひめみこ)を皇極(こうぎょく)天皇として即位させました
推古天皇以来、二人目の女帝という訳です。ちなみに、当チャンネルの別の動画で何度も語っているように、女性天皇と女系天皇は全くの別物です。
神武天皇以来の男系の血を受け継いだ女性の天皇が女性天皇。そして、母親のみが皇族で、父親は皇統とは無関係な人が即位したら女系天皇。正しくは、非男系天皇という訳です。
日本の女性の皇族、つまりは、内親王殿下(ないしんのう・でんか)か女王殿下(じょうおう・でんか)が皇族以外の男性とご結婚され、その子供が、万が一、天皇に即位した場合、非男系天皇。いわゆる女系天皇になります。その瞬間に、神武以来の皇統は途絶え、王朝が変わる事になってしまいます。
「そこまで男系にこだわる理由は何ですか?他の国の王室は、男系だろうが女系だろうが関係なく王朝(おうちょう)が継続しています。」などと言う人もいますが、欧州の王室にしても、母親のみが王統(おうとう)を受け継いでいる場合は、王朝が変わっています。例えば、現在のイギリス王室は、確かにノルマンディー公ギヨーム2世、後のウィリアム1世の血を受け継いではいるのですが、王朝名はノルマン朝(ちょう)ではなく、ウィンザー朝(ちょう)です。イギリス王室はノルマン朝以来、プランタジネット朝・ランカスター朝・ヨーク朝・テューダー朝・ステュアート朝・ハノーヴァー朝・サックス=ゴーバーグ=ゴータ朝・ウィンザー朝、と何度も王朝が変わっています。つまり、母親のみが王族の子供がイギリス国王に就いた瞬間に変わるという事です。女性に王位継承を認めていた事で、欧州では戦争が絶えませんでした。男系にこだわれば、そういう不毛な戦争が起きません。「よその国を乗っ取ってやろう」などという良からぬ事を考えるのは、大抵、男性であるからです。
という事は、日本の内親王殿下が、例えば、中村さんという名字を持つ男性と結婚し、お二人の子供が皇位を継いだ場合、神武以来の皇統は断絶し、新たに中村朝(なかむらちょう)が始まる事になります。我々が頂く皇室は、神武天皇・日本武尊(ヤマト・タケルノ・ミコト)・神功皇后といった、いにしえの英雄たちとのつながりが断たれる事になります。
だからこそ、女系天皇なる非男系天皇や女性宮家とやらには、議論にする事についてですら反対している人が多い訳です。なにしろ、現在は悠仁(ひさひと)親王殿下というれっきとした男系の皇統の継承者がいらっしゃる訳です。それにもかかわらず、今の時点で女系天皇だの女性宮家だのについて、先走った議論をしようとする理由がわかりません。要するに、皇統自体を潰したいのでしょう。
蘇我入鹿(そがの・いるか)は、祖父の蘇我馬子(そがの・うまこ)が大臣(おおおみ)、父の蘇我蝦夷(そがの・えみし)も大臣(おおおみ)、皇極(こうぎょく)天皇の即位後には、自ら政治を執り行うという訳で、エリート中のエリート。今で言うと、安倍晋三のような世襲政治家です。安倍晋三は、祖父が元内閣総理大臣の岸信介(きし・のぶすけ)、父が元外務大臣の安倍晋太郎(あべ・しんたろう)。自らも元内閣総理大臣。すごく似ています。安倍元総理にしても、蘇我入鹿にしても、世襲の権力者なので、我々、一般庶民とは異なる常識の下で生きてきたのでしょう。
蘇我馬子(そがの・うまこ)や蘇我蝦夷(そがの・えみし)は、物部守屋(もののべの・もりや)等(ら)、廃仏派との権力闘争をくぐり抜け、権力を勝ち取り、更に、大政治家である聖徳太子とわたり合ってきたという経験を持っていますが、蘇我入鹿は生まれながらにしての政治家です。入鹿は、日本国の最高権力を握る事を初めから約束されていたようなものですから。となると、先代までとは違って、権力を振るうことについて、ためらいがない人物だったのではないかと思われます。権力をとるための努力がさして必要なかった訳です。長年権力を握り続けると、どんな人間でも政治的に腐敗していくものなので、当然ながら腐敗していたのだと思われます。
もちろん、父親の蝦夷(えみし)にしても、政治的な腐敗は相当なものでした。『日本書紀』には、このように記載されています。
是歲、蘇我大臣蝦夷、立己祖廟於葛城高宮、而爲八佾之儛。遂作歌曰、
野麻騰能、飫斯能毗稜栖鳴、倭柁羅務騰、阿庸比陀豆矩梨、舉始豆矩羅符母。
又盡發舉国之民、幷百八十部曲、預造雙墓於今來。一曰大陵、爲大臣墓。一曰小陵、爲入鹿臣墓。望死之後、勿使勞人。更悉聚上宮乳部之民、(乳部、此云美父)。役使塋垗所。於是、上宮大娘姫王、發憤而歎曰、蘇我臣、專擅国政、多行無禮。天無二日、国無二王。何由任意悉役封民。自茲結恨、遂取倶亡。是年也、太歲壬寅。
即位1年。この年、蘇我大臣蝦夷(そがの・おおおみぼ・えみし)は自分の祖先を祀(まつ)る廟(びょう)を葛城(かづらき)の高宮(たかみや)に立てて、八佾之儛(やつら・の・まい)をしました。その時、歌を作って言いました。
大和の忍の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らふも
やまとの おしの・ひろせを わたらんと あよい、たづくり、 こしづくらんも(←読んで下さい)
歌の訳:大和の忍海(オシミ)の曽我川(そががわ)の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰の帯を締めて、身支度をしよう
また、多くの国にいる民と合わせて180部民(べみん)を起こして、前もって双墓(ならびの・はか)を吉野郡大淀町今木と御所(ごせ)市東南・古瀬(こせ)・水泥の境界に作りました。一つは大陵(おお・みさざき)といいます。大臣こと、蘇我蝦夷(そがの・えみし)の墓としました。一つは小陵(こ・みさざき)といいます。蘇我入鹿(そがの・いるか)の墓としました。願わくば、死んだ後に人が苦労しないようにと。更にすべての上宮(かみつみや)の乳部(みぶ)の民を集めて、墓を造らせました。
聖徳太子の娘である上宮大娘姫王(かみつみやの・いらつめの・ひめみこ)は憤慨して嘆いて言いました。
「蘇我臣(そがおみ)はもっぱら国政を欲しいままにして、無礼な行ないが多い。天に二つの日はなく、国に二つの王はいない。どうして心のままに、ことごとく封じる民を使役するのか!」
これで恨みを結び、ついに滅ぼされました。
この年、太歳壬寅(たいさい・みずのえ・とら)
ここでいう八佾之儛とは王だけが舞って良いとされるもので、これを舞わせるという事は蘇我蝦夷が「自分が王だ!」と主張しています。しかし、この八佾之儛というものは『論語』にも出てくる言葉で、果たして実際に日本に「天皇だけに許された舞」があり、それを八佾之儛と呼んでいたのかは、よくわかっていません。ちなみに『論語』でも「王を蔑ろにする不忠の証」として八佾之儛が登場します。
『日本書紀』が完成したのが養老4(西暦720)年であり、私たちは、この後、蘇我氏が不忠を理由に滅ぼされた事を知っているので、八佾之儛のところを見ても、納得してしまいがちですが、「八佾之儛」の部分は、国政を蔑ろにしていた蘇我氏をより悪く見せるための創作ではないか、という説もあります。
それにこの挿話で蘇我氏が歌ったとされる歌も、一般には「川を渡って大和を攻め滅ぼすぞ!」という意味に解釈される事が多いのですが、『記紀』に載っている歌の多くは本来は農民や漁民の歌であり、そう考えるとこの歌も、川で漁を始める時に歌ったとも、川を越えて交易をしようとする民の歌謡とも解釈できます。
という訳で、親戚同士でありながら上宮王家と蘇我氏は決定的な対立への道を突き進んでいきました。『日本書紀』によると、
壬子、蘇我大臣蝦夷、緣病不朝。私授紫冠於子入鹿、擬大臣位。
10月6日。蘇我大臣蝦夷(そがの・おおおみ・えみし)は病気のために朝廷に参上しませんでした。密かに、紫冠(むらさきの・かんむり)を息子の入鹿(いるか)に授けて、大臣(おおおみ)の位(くらい)に匹敵するようにしました。
戊午、蘇我臣入鹿、獨謀、將廢上宮王等、而立古人大兄爲天皇。于時、有童謠曰、
伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。蘇我臣入鹿、深忌上宮王等威名振於天下、獨謨僭立。
紫の冠を授かった蘇我入鹿は、父親以上に暴走し、独断で上宮王家(じょうぐうおうけ)の皇族、つまりは、山背大兄王(やましろの・おおえのおう)らを排して、皇極(こうぎょく)天皇の次に古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・みこ)を天皇にするべく動き出しました。この様子を歌った次のような「わらべ歌」が当時、流行(はや)りました。
伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。
岩の上に、小猿(こざる)米(こめ)焼く、米(こめ)だにも、食(た)げて通(とお)らせ山羊(やまじし)の老翁(おじ)。
歌の意味:岩の上で子猿が米を焼く。米だけでも食べていらっしゃい。カモシカのおじいさんよ
山羊(やまじし)の老翁(おじ)こと、カモシカのおじいさんとは、山背大兄王を表しています。岩の上で米を焼く子猿が蘇我入鹿。臣下の身でありながら、君主であるかのごとく振る舞った蘇我入鹿を皮肉った歌です。
難解で、よほど事情に精通していなければ、何を意味しているのかサッパリ分からない歌ですが、直接的に蘇我入鹿を批判した歌を作ると、なにしろ相手は最高権力者なので、すぐに潰されてしまいます。このような、蘇我入鹿を皮肉る「わらべ歌」が流行ったくらいですから、当時の人たちにしても、朝廷を壟断(ろうだん)する入鹿のことを快く思っていなかったのでしょう。当時は聖徳太子がお隠れになられて、それほど歳月が経っていたわけではありませんので、依然として、聖徳太子の権威は絶大でした。もちろん、わらべ歌が流行ったくらいで逡巡(しゅんじゅん)する蘇我入鹿ではありませんでした。『日本書紀』によると、
十一月丙子朔、蘇我臣入鹿、遣小德巨勢德太臣・大仁土師娑婆連、掩山背大兄王等於斑鳩。或本云、以巨勢德太臣・倭馬飼首爲將軍。於是、奴三成、與數十舍人、出而拒戰。土師娑婆連、中箭而死。軍衆恐退。軍中之人、相謂之曰、一人當千、謂三成歟。山背大兄、仍取馬骨、投置內寢。遂率其妃、幷子弟等、得間逃出、隱膽駒山。三輪文屋君・舍人田目連及其女・菟田諸石・伊勢阿部堅經、從焉。巨勢德太臣等、燒斑鳩宮、灰中見骨、誤謂王死、解圍退去。由是、山背大兄王等、四五日間、淹留於山、不得喫飲。三輪文屋君、進而勸曰、請、移向於深草屯倉、從茲乘馬、詣東国、以乳部爲本、興師還戰、其勝必矣。山背大兄王等對曰、如卿所噵、其勝必然。但吾情冀、十年不役百姓。以一身之故、豈煩勞萬民。又於後世、不欲民言由吾之故喪己父母。豈其戰勝之後、方言丈夫哉。夫損身固国、不亦丈夫者歟。
(皇極(こうぎょく)即位2年)11月1日。蘇我臣入鹿(ソガノオミ・イルカ)は小徳(ショウトク)の巨勢徳太臣(コセノ・トコダノ・オミ)・大仁(ダイニン)の土師娑婆連(ハジノ・サバノ・ムラジ)を派遣して、山背大兄王(ヤマシロノ・オオエノミコ)たちの住む斑鳩(イカルガ)を襲わせました。
ある本によると、巨勢徳太臣(コセノ・トコダノ・オミ)・倭馬飼首(ヤマトノ・ウマカイノ・オビト)を将軍としたと言います。
そこに奴三成(ヤッコ・ミナリ)と数十人の舎人(トネリ)が出て防ぎ、戦いました。土師娑婆連(ハジノ・サバノ・ムラジ)は矢に当たって死にました。軍の衆(ヒトドモ)は恐れて退却しました。軍の中の人は、語り合って言いました。
「一人で千人に当たるというのは、三成(ミナリ)というのか」
山背大兄は馬の骨を取って、寝起きしていた寝室に投げ入れました。その結果、妃と子供と兄弟たちを連れて、人のいない隙に逃げて出て、現在の奈良県と大阪府の間にある生駒山に逃げ込みました。三輪文屋君(ミワノ・フミヤノ・キミ)・舍人田目連(トネリ・タメノ・ムラジ)とその娘・菟田諸石(ウダノ・モロシ)・伊勢阿部堅経(イセノ・アベノ・カタブ)が従者として仕えました。巨勢徳太臣(コセノ・トコダノ・オミ)たちは斑鳩宮(いかるがの・みや)を焼きました。寝室跡から骨が見つかったことを受け、王が死んだものと誤解して囲みを解いて退却しました。それで、山背大兄王たちは4、5日の間、山の庵(いおり)に留まり、食事をすることもできませんでした。三輪文屋君(ミワノ・フミヤノ・キミ)が進み出て言うには、
「どうか深草屯倉(フカクサノ・ミヤケ)に行って、そこから馬に乗り、東国に赴き、上宮の乳部(ミブ)の民(たみ)で軍を起こし、引き返して戦いましょう。そうすれば、勝つことも難しくはないでしょう。」
乳部(ミブ)とは、要するに皇子(おうじ)の養育費を負担する上宮王家の直轄領のことです。直轄領の民と共に軍勢を整え、引き返し、蘇我入鹿を討ち果たしましょうと提案したわけです。それに対し山背大兄王が答えて言うには、
「お前の言うようにしたら勝てるだろう。しかし、自分は10年間人民を労役に使うまいと心に決めている。自分の一身上のことがもとで、どうして万民に苦労をかけることができようか。また人民が私に付いたために、戦いで自分の父母を亡くしたと後の世の人に言われたくない。戦って勝ったからといって、「ますらお」と言えようか。己が身を捨てて国を固められたら、また「ますらお」と言えるのではなかろうか。」実に聖徳太子の息子っぽいです。
有人遙見上宮王等於山中、還噵蘇我臣入鹿。入鹿聞而大懼、速發軍旅、述王所在於高向臣国押曰、速可向山求捉彼王。国押報曰、僕守天皇宮、不敢出外。入鹿卽將自往。于時、古人大兄皇子、喘息而來問、向何處。入鹿具說所由。古人皇子曰、鼠伏穴而生。失穴而死。入鹿由是止行。遣軍將等、求於膽駒。竟不能覓。於是、山背大兄王等、自山還、入斑鳩寺。軍將等卽以兵圍寺。於是、山背大兄王、使三輪文屋君謂軍將等曰、吾起兵伐入鹿者、其勝定之。然由一身之故、不欲傷殘百姓。是以、吾之一身、賜於入鹿、終與子弟妃妾一時自經倶死也。于時、五色幡蓋、種々伎樂、照灼於空、臨垂於寺。衆人仰觀稱嘆、遂指示於入鹿。其幡蓋等、變爲黑雲。由是、入鹿不能得見。蘇我大臣蝦夷、聞山背大兄王等、總被亡於入鹿、而嗔罵曰、噫、入鹿、極甚愚癡、專行暴惡、儞之身命、不亦殆乎。時人、說前謠之應曰、以伊波能杯儞、而喩上宮。以古佐屢、而喩林臣。林臣、入鹿也。以渠梅野倶、而喩燒上宮。以渠梅拕儞母、陀礙底騰褒羅栖、柯麻之々能鳴膩、而喩山背王之頭髮斑雜毛似山羊。又棄捨其宮匿深山相也。是歲、百濟太子餘豊、以蜜蜂房四枚、放養於三輪山。而終不蕃息。
生駒山に逃げ込んだ上宮王家(じょうぐうおうけ)の人々を見た人物がいて、蘇我臣入鹿(ソガノ・オミ・イルカ)に報告が行きました。入鹿は大いに驚き、恐れ、高向臣国押(タカムクノ・オミ・クニオシ)に語って言いました。
「速やかに山に向かい、かの王を探し求め、捕らえるのだ」
国押(クニオシ)は答えて言いました。
「私めは、天皇(すめらみこと)の宮(みや)を守っているので、どうして外に出られるでしょうか」
入鹿はすぐに自ら行こうとしました。その時、古人大兄皇子(フルヒトノ・オオエノ・ミコ)は息急き切って来て、問いました。
「どこに向かうのか?!」
入鹿は詳細にその理由を説明しました。古人皇子は言いました。
「ネズミは穴に潜伏して生き、穴を失って死ぬ」
入鹿はそれで、行くのを止めました。将軍たちを派遣して、生駒山で探し求めさせましたが、見つけることができませんでした。その頃、山背大兄王(ヤマシロノ・オオエノ・ミコ)たちは山を下りて、斑鳩寺(いかるがでら)、つまり、懐かしき父親である聖徳太子が建てた法隆寺に戻っていました。すぐに蘇我入鹿の配下に見つかってしまい、入鹿はすぐさま軍隊を派遣し、斑鳩寺を包囲させました。その時、山背大兄王が三輪文屋君(ミワノ・フミヤノ・キミ)を通じ、入鹿の手下の将軍たちに向けて言うには、
「自分がもし軍を起こして入鹿を討てば、勝つことは間違いない。しかし、自分一身のために人民を死傷させることを望んではいない。だから我が身1つを入鹿にくれてやろう。」
そして、山背大兄王は上宮王家の人々と共に、首をくくって共に死んでしまいました。その時、大空に五色の旗や衣笠が現れ、様々な舞楽(ぶがく)と共に空に照り輝き、寺の上に垂れかかりました。幻想的な光景を仰ぎ見た人々は、蘇我入鹿に指し示しました。すると、旗や衣笠は黒い雲に変わり、入鹿は恐れおののき、見ることができませんでした。
入鹿が上宮王家を滅ぼした事を知った蘇我蝦夷(そがの・えみし)は、怒り罵り叫びました。
「入鹿の大馬鹿者め。甚(はなは)だ極めて愚痴(おろか)で、全く乱暴な悪行をしてしまった! お前の命も、危うくないことがあろうか!」
当時の人は、前の「わらべ歌」の答えを説明して言いました。
伊波能杯儞、古佐屢渠梅野倶、渠梅多儞母、多礙底騰裒囉栖、歌麻之々能烏膩。
岩の上に、小猿(こざる)米(こめ)焼く、米(こめ)だにも、食(た)げて通(とお)らせ山羊(やまじし)の老翁(おじ)。
「『岩の上に』というのを上宮(カミツミヤ)に喩(たと)え、『小猿』というのを林臣(ハヤシ・ノ・オミ)こと蘇我入鹿に喩えています。
『米焼く』というのは上宮(カミツミヤ)を焼くことに喩えています。『米(こめ)だにも、食(た)げて通(とお)らせ山羊(やまじし)の老翁(おじ)』というのは山背大兄王(ヤマシロノ・オオエノ・ミコ)の頭の髪が白髪混じりで山羊に似ているのに喩え、宮を捨て、深い山、つまりは、生駒山に隠れたことを喩えている」と当時の人達は解釈したそうです。
この年、百済の太子の余豊(ヨホウ)が、蜜蜂の房(ふさ)4枚を三輪山(みわやま)に放ち飼いしました。しかし、蜜蜂は増えませんでした。
本気で兵を集めて、蘇我入鹿に対抗すれば、勝つことはできた。とはいえ、自分のために人々を苦しめることは受け入れられないため、粛々と死を選んだ。山背大兄王(やましろの・おおえの・おう)や上宮王家の人々は、偉大なる聖徳太子の子孫として恥ずかしくない生き方を貫き。そして、死んでいった訳です。あるいは、理想を掲げた聖徳太子の子どもたちだったからこそ、実用的な選択ができず、滅びる道しかなかったのかもしれません。戦うべきか滅亡するべきか。どちらが正しい道だったのでしょうかは誰にもわかりません。
