『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、文武(もんむ)天皇について、このように記されています。
天之真宗豊祖父天皇。天渟中原瀛真人天皇之孫。日並知皇子尊之第二子也。〈 日並知皇子尊者。宝字二年有勅。追崇尊号。称岡宮御宇天皇也。 〉母天命開別天皇之第四女。平城宮御宇日本根子天津御代豊国成姫天皇是也。天皇、天縦寛仁。慍不形色。博渉経史。尤善射芸。高天原広野姫天皇十一年。立為皇太子。
《文武元年(六九七)八月甲子朔》○元年八月甲子朔。受禅即位。
天之真宗豊祖父天皇(あめの まむね とよおほじの すめらみこと、こと、文武(もんむ)天皇は、天渟中原瀛真人天皇(あまの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと)こと天武天皇の孫で、日並知皇子(ひなみしの・みこ)こと草壁皇子(くさかべ・の・おうじ)の第二皇子(おうじ)です。〈 日並知皇子尊 (ひなみしの・みこ・の・みこと)は宝字(ほうじ)二(西暦758)年に詔(みことのり)があって、天皇の号を追贈し、岡宮御字天皇((おかのみやに・あめの・したしろ・しめしし・すめらみこと)と称した。 〉母は天智天皇の第四皇女である阿陪皇女(あへの・ひめみこ)こと、後(のち)の元明(げんめい)天皇です。天皇は天性ゆったりしていて、めぐみ深く、怒りを外にあらわす事もありませんでした。ひろく儒教や歴史の書物を読み、特に弓を射る事に優れていました。持統天皇11(西暦697)年に皇太子となりました。
文武天皇元(西暦697)年8月1日。持統天皇から位(くらい)を譲り受けて、即位しました。
文武天皇は性格が温和であることに加え、わずか14歳という先例のない若さで、即位しました。結局のところ、持統天皇の「どうしても自分の直系に継がせたい」という願いが政治的に勝利したという話だと思われます。もっとも大津皇子(おおつのみこ)の事件に加え、孫息子を強引に即位させた事もあり、持統天皇はどうしても強権的という印象が拭えません。
ちなみに、文武天皇の事績として最も有名なのは、大宝(たいほう)元(西暦701)年の大宝律令(たいほう・りつりょう)の制定です。
持統天皇は夫の天武天皇の夢だった日本の律令国家化を譲位後も上皇として強力に推進し、孫息子の文武天皇に公布させました。となると、大宝律令公布も、実のところ、持統上皇の事績という訳(わけ)です。
天武時代から政治権力を握り続けた持統上皇も大宝3(西暦703)年に崩御しました。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《大宝二年(七〇二)十二月甲寅(廿二)》○甲寅。太上天皇崩。遺詔。勿素服挙哀。内外文武官釐務如常。喪葬之事、務従倹約。
大宝2(西暦702)年12月22日、大上天皇(だじょう・てんのう)が崩御しました。遺詔(ゆいしょう)として、次のように述べました。
「麻の白い無地の喪服を着たり、死者を悼(いた)んで泣き叫ぶ儀礼をすることがないようにせよ。内外の文官・武官は任務を平常の通り行なえ。葬儀の儀礼については、つとめて倹約にせよ。」
自分が死んだからといってあまり大仰な葬儀をすることなく、平時と同じように仕事に励みなさいという話です。
ちなみに、持統天皇は天武天皇と同じく檜隈大内陵(ひのきくまの・おおうちの・みささぎ)に埋葬されました。死後も夫と共に過ごす事を望まれたわけです。
その後、文武天皇は、上皇が崩御してから、わずか4年しか政務を執りませんでした。慶雲(けいうん)4(西暦707)年、文武天皇は病いに倒れられて、24歳でその短い人生を終えることになりましたので。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《慶雲四年(七〇七)六月辛巳(十五)》○辛巳。天皇崩。遺詔。挙哀三日。凶服一月。
慶雲(けいうん)4(西暦707)年6月15日。天皇は崩御しました。遺詔(ゆいしょう)されて「死者を悼(いた)んで泣き叫ぶ儀礼をするのは三日間、喪服を着るのは一ヶ月だけとせよ」と言われた。
当時の皇后は皇族出身である事が条件でした。文武天皇に皇后がいたという記録は残されていないのですが、もちろん何人か皇后以外の女性はいました。その中で、藤原不比等の娘である藤原宮子が最も上位の夫人でした。文武天皇と宮子との間には首皇子という皇子が産まれていました。後に聖武天皇として即位しますが、文武天皇が崩御した時点では、首皇子はわずかに6歳でした。
というわけで、またまた後継者を誰にするかで論争が起こりました。当時は、天智天皇や天武天皇の皇子たちが多数、健在でした。にもかかわらず、後継者となったのは、天智天皇の娘にして草壁皇子の后、文武天皇の母にあたる阿陪皇女でした。持統天皇から見ると妹にして嫁、という事になります。
どうして、阿陪皇女が選ばれたのかというと、文武天皇が病気になった際に、その時点で天皇の位を阿陪皇女に譲ろうとしていたからです。自分の母親に譲位、というのも異例なのですが。
阿陪皇女は息子からの譲位を断ったのですが、その直後に文武天皇が崩御してしまい、結局、阿陪皇女が、第43代の元明天皇、として即位する事になりました。
『続日本紀』には、このように記されています。
去年十一月、威我王朕子天皇詔。朕御身労坐故、暇間得而御病欲治。此乃天豆日嗣之位者、大命尓坐世大坐坐而治可賜止譲賜命乎、受被坐賜而答曰豆羅久。朕者不堪止辞白而受不坐在間尓。遍多久日重而譲賜倍婆、労美威美。今年六月十五日尓、詔命者受賜
止白奈賀羅。此重位尓継坐事乎奈母天地心乎労美重美畏坐左久止詔命衆聞宣。
「去年11月、恐れ多いことであるが我が大君であり我が子でもある天皇が仰せられるのは、「自分は病んでいるので、暇(いとま)を得て治療をしたい。この天津日嗣(あまつ・ひつぎ)の位(くらい)は大命(おおみこと)に従って、母上が天皇としておつきになり、お治めになるべきである」と、お譲りになられる言葉をうけたまわり、「私はその任に耐えられません」と答え申し上げ辞退しても、度重ねてお譲りになるので、お気の毒でもあり畏れ多いので、今年の6月15日、ご命令をお受けしますと申し上げ、その通りにこの重大な位を継ぐのであるが、このことを天地の神々は心をいたわり、重大に考えられることであろうと、畏れ多く思っている、と述べられるお言葉をみんな承れと申し述べる」
文武(もんむ)天皇は崩御する前から繰り返し、阿陪皇女、つまり、自分の母親に皇位を継いでくれるよう、頼んでいた訳でした。という訳で、文武天皇が崩御して、たくさんの皇子がいたにも関わらず、慶雲4(西暦707)年に、阿陪皇女が元明天皇として即位する事になりました。ちなみに元明天皇は天智天皇の娘で持統天皇の異母妹にあたりますが、夫であった草壁皇子は天皇として即位しておりませんでした。つまり、元明天皇は初めて息子から皇位を引き継いだばかりでなく、皇后としての経験を持たない、初めての女性天皇でもありました。
その5年後の和銅5(西暦712)年、ついに『古事記』が完成し、太 安万侶らが元明天皇に献上しました。天武天皇から持統天皇、文武天皇と引き継がれてきた国史編纂事業のひとつがついに完遂しました。
『古事記』の序文にはこのように記されています。
於焉惜舊辭之誤忤正先紀之謬錯 以和銅四年九月十八日詔臣安萬侶 撰錄稗田阿禮所誦之勅語舊辭以獻上者謹隨詔旨、 子細採摭 然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字卽難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。卽、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帶字謂多羅斯、如此之類、隨本不改。
大抵所記者、自天地開闢始、以訖于小治田御世。故、天御中主神以下、日子波限建鵜草葺不合尊以前、爲上卷、神倭伊波禮毘古天皇以下、品陀御世以前、爲中卷、大雀皇帝以下、小治田大宮以前、爲下卷、幷錄三卷、謹以獻上。臣安萬侶、誠惶誠恐、頓首頓首。
和銅五年正月廿八日 正五位上勳五等太朝臣安萬侶
元明(げんめい)天皇は歴史や伝承に間違いや嘘が混じっていることを悲しみ、これを正そうと、和銅(わどう)四年9月18日に太 安万侶(おお の やすまろ)に、稗田 阿礼 (ひえだ の あれ)が天武天皇の命で記憶していた歴史・伝承を書いて書物にするように命じました。太 安万侶は物語を編纂することになりました。
上古の時代は、言葉も、その内容も、素直で、素朴で、文章や語句、文を、漢字で書き表すことは、困難です。全て漢字の訓によって述べただけでは、詞が心に通じません。また、音だけで、それを連ねて書いたらば、文章は長くなってしまいます。そこで、訓で書いたり音で書いたり混ぜたりしました。あと、言葉の分かりにくいものには注意書きをしました。名前の「日下」を「クサカ」と読んだり、「帯」を「タラシ」と読んだりするものは変えませんでした。
書いたものは天地開闢(てんち-かいびゃく)から推古天皇時代のことです。
天御中主神(あめの・みなかぬし・の・かみ)から鵜葺草葺不合命(うがや・ふきあえず・の・みこと)までを上巻、神武天皇から応神天皇までを中巻、仁徳天皇から推古天皇までを下巻としまして、合わせて三卷を記して、謹んで獻上(けんじょう)いたします。わたくし安萬侶、謹(つつし)み、かしこまつて申しあげます。
和銅(わどう)五年正月二十八日。正五位の上(しょうごい・の・じょう)勳五等(くん・ごとう) 太 朝臣安万侶(おお の あそん・やすまろ)
という訳で、天武天皇が稗田阿礼に命じて集めさせた物語は、元明天皇の代になって、やっと書物にされる事となりました。それが和銅4年の9月。書物を献上したのが和銅5年の正月ですから、わずか三カ月余りで編纂し献上したということになります。当チャンネルの動画へのコメントに「『古事記』はデタラメ」と書き込んでいる人もいますが、このあたりにも原因があるのかもしれません。
和銅(わどう)元(西暦708)年、武蔵(むさし)国、秩父から精錬を必要としない銅である和銅が献じられました。元明天皇は大変喜ばれ、詔しました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
東方武蔵国自然作成和銅出在奏而献焉。此物者、天坐神・地坐祗相于豆奈奉福奉事依而。顕出宝在神随所念行。是以、天地之神顕奉瑞宝依而、御世年号改賜換賜詔命衆聞宣。故、改慶雲五年而和銅元年為而、御世年号定賜。
治めているこの国の東方にある武蔵の国に、自然に生じた熟銅(にぎあかがね)が出たと奏上して、献上してきた。この物は天におられる神と地におられる神とが共に政治を愛でられ祝福されたことによって現れでた宝であるらしいと神として思う。そこで天地の神が現(あらわ)された瑞宝(ずいほう)により、御世(みよ)の年号を新しく替えると仰せられるお言葉を皆、承(うけたまわ)れと申し付ける。そのため、慶雲(けいうん)五年を改めて和銅(わどう)元年として、和銅を御世(みよ)の年号と定める。
こうして、慶雲(けいうん)5(西暦708)年から元号(げんごう)が和銅(わどう)に改められました。
元明天皇は武蔵の国から献上された和銅を近江の国で銅銭に鋳造させました。和銅元年8月10日に使用が始まった銅銭こそが日本初の流通貨幣と言われている和同開珎(わどうかいちん)です。和同開珎(わどうかいほう)と読む説もあります。現物としての銭貨「和同開珎」(わどうかいちん)は、日本以外にまで及んで各地から多量に発掘、発見されています。その科学的研究の結果、質量分析法によって、和同開珎(わどうかいちん)は間違いなく、和銅の時代に日本で鋳造されたことが証明されています。ただし、読み方や銭文(せんもん)の意味や由来になると、書き残されたものの分析や、周辺の諸事実を総合した多くの研究によるより他に確かめようがなく、今のところ、「わどうかいちん」と「わどうかいほう」の二つの説があります。
通貨というものになじみのない当時の人々の間では、なかなか流通しませんでした。全国各地で発見されている以上、かなり普及していたのでしょうが、和同開珎(わどうかいちん)の使用が始まった当時の税制は租庸調(そようちょう)、つまりは米や布、塩、特産品そして労役が中心で、貨幣による納税はほとんど行われていませんでした。「租税貨幣論」的に述べると、和同開珎の流通が始まった時点で、元明天皇が「税金は和同開珎で支払わなければならない」と詔(みことのり)していたら、その時点で、日本は一気に全面的な貨幣経済に移行していた可能性がありました。もっとも、租税と貨幣の関係について、当時の日本人も気が付いていたように思われます。朝廷は流通を促進させるために税を貨幣で納めさせたり、地方から税を納めに来た旅人に旅費としてお金を渡すなど様々な手を打ち、和銅4(西暦711)年には蓄銭叙位令が発布されましたから。
和同開珎(わどう・かいちん)が発行されたのと同じ和銅元(わどう・がん)(西暦708)
年、元明(げんめい)天皇は都を藤原京から平城京へと移す詔しました。実際には平城京への遷都は、文武(もんむ)天皇の時代から議論が始まっていました。理由は『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、はっきりと書かれていませんが、元明天皇というよりは藤原不比等(ふじわらの・ふひと)達、朝廷に仕えていた人々の意向でした。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
而王公大臣咸言。往古已降。至于近代。揆日瞻星。起宮室之基。卜世相土。建帝皇之邑。定鼎之基永固。無窮之業斯在。衆議難忍。詞情深切。然則京師者。百官之府。四海所帰。唯朕一人。豈独逸予。苟利於物。其可遠乎。昔殷王五遷。受中興之号。周后三定。致太平之称。安以遷其久安宅。方今、平城之地。四禽叶図。三山作鎮。亀筮並従。宜建都邑。宜其営構資、須随事条奏。亦待秋収後。令造路橋。子来之義、勿致労擾。制度之宜。令後不加。
ところが王公大臣(おう・こう・だいじん)は皆言う。昔から近頃に至るまで太陽や星を観測して東西南北を確かめ、宮室(きゅうしつ)の基礎を定め、世を占い、地層を見て帝皇(ていこう)の都を立てている。天子の証である鼎(かなえ)を安定させる基礎は長く固く無窮(むきゅう)で天子の業(わざ)もここに定まるであろう」と。衆議も無視しがたく、その詞(ことば)も心情も深く切実である。そして都というものは百官の府であり、四海の人々が集まるところであって、ただ自分一人が遊び楽しむだけでよかろうか。いやしくも利点があるならば、従うべきではあるまいか。昔、殷の諸王は五回遷都して、国を中興したと称され、周の諸王は三度都を定めて、太平のほまれを残した。安じて、その久安の住居を遷そう。正に今、奈良の地は、青竜・朱雀(すざく)・白虎(びゃっこ)・玄武の四つの動物が、陰陽の吉凶に配され、三つの山が鎮護の働きをなし、亀甲や筮竹(ぜいちく)による占いにもかなっている。ここに都邑を建てるべきである。その造営のための資材は、必要に応じて箇条書きにして参上せよ。また秋の収穫の終わるのを待って、路(みち)や橋を造らせよ。子が親を慕うように寄って来て、仮にも人民に騒ぎや苦労をさせるようなことがあってはならぬ。制度を適切なものにして、後から負担を加えることがないようにせよ。
詔(みことのり)によると、天皇ではなく、大臣たちが遷都を求めたわけですが、なぜ大臣達は都を藤原京から平城京に移す必要があったのでしょうか?
藤原不比等(ふじわらの・ふひと)は、平城京の天皇が住まう大内裏(だいだいり)である平城宮(へいじょうきゅう)を見下ろせる東の一等地に自らの屋敷を建てました。
というわけで、藤原京から平城京への遷都は、皇族に次ぐ最高権力者であった藤原不比等(ふじわら・の・ふひと)が自らの権威を誇示するためにやったことであるという説が一般的なのですが、かなりおかしな話で、ちょっと違うのでは?と思われます。
そもそも、新たに都を建設し、天皇や百官公卿が一斉に移動する遷都はとてつもない大事業ですが、そんな大事業を一個人、しかも皇族でもない藤原不比等(ふじわらの・ふひと)の個人的な意向で推進できるはずなどありません。
むしろ藤原京に都を置き続けることができなくなっていたと考える方が自然です。
藤原京は耳成山、畝傍山、天香久山という大和三山に囲まれていました。つまりは三つの山に降った雨が全て藤原京に流れ込む構造だったわけです。となると排水技術が現代のように発達していなかった当時では、都が汚水に浸かり衛生的な問題が生じていても不思議ではありません。
もちろん藤原京は、排水施設もきちんと計画に基づき整備されていたのですが、人口の急増や三方を囲む山々からの水量が想定を上回ってしまったのではないでしょうか。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)によると、文武天皇が慶雲(けいうん)3(西暦706)年3月に以下の詔を発しています。
又如聞。京城内外多有穢臭。
『また聞くところによると京の内外に汚れた悪臭があるという』
また、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このようにも記されております。
《慶雲三年(七〇六)是年》◎是年。天下諸国疫疾。百姓多死。始作土牛大儺。
慶雲(けいうん)3年、この年、全国で疫病が流行り、多くの民が死んだので、初めて土牛を作って追儺(ついな)、つまり、大晦日に行われる、疫鬼(えきき)や疫神を払う宮中行事、の行事を行った。
このような事が続いており、元明天皇は平城京への遷都を認めざるを得なかったのでしょう。さすがに、天武天皇が夢見た新都である藤原京を20年もたたないうちに捨てるとなると、皇族でもない藤原不比等(ふじわらの・ふひと)の権威の誇示といった個人的な理由で進める事など出来るわけがありません。ちなみに平城京は藤原京よりも面積が小さかったため、官僚が増えすぎ、藤原京の狭さが問題になったという説にも説得力がありません。
いずれにせよ、和銅3(西暦710)年、朝廷は平城京に移り、飛鳥時代が終わり、奈良時代が始まりました。そもそも、「奈良」という言葉は「平城」という単語の意味「土地を均(なら)す」から来ているという説もあります。「奈良」という漢字表記以外にも色々あったと言われていますし。
その四年後である和銅7(西暦714)年、藤原不比等(ふじわらの・ふひと)の娘、宮子(みやこ)と文武(もんむ)天皇との間に生まれた首皇子(おびと・の・おうじ)が元服して皇太子となりました。また、不比等は妻の一人である橘三千代(たちばなの・みちよ)との間に生まれた安宿媛(あすかべひめ)こと光明子(こうみょうし)を首皇子と娶せることにも成功していました。藤原不比等としては、このまま、首皇子が即位して、天皇の祖父にして義理の父親という立場になり、外戚として権力を振るう事を狙っていたものと思われますが、そう簡単にはいきませんでした。藤原不比等の権力が大きくなりすぎることを嫌った勢力があった、という事です。当然、廷臣や皇族たちの中には藤原不比等に反感を持つ人たちがいましたが、他ならぬ元明天皇もその一人でした。
元明天皇が崩御されると、自動的に、皇太子である、藤原不比等の孫である首皇子が天皇として即位することになります。
だからこそ、和銅8(西暦715)年、元明天皇は皇位を娘の氷高皇女(ひだか・の・ひめみこ)に譲位する事を決心しました。
ここを、女系天皇、つまり非男系天皇擁護派は、「母親から娘に皇位が受け継がれてしまった事実がある」と強く主張するのですが、全く女系天皇ではありません。氷高皇女は文武天皇と同じく元明(げんめい)天皇と草壁皇子(くさかべの・おうじ)の間に生まれた皇女(ひめみこ)です。天武(てんむ)天皇の息子が草壁皇子、草壁皇子の娘が氷高皇女です。どう見ても、女系ではなく、男系の女性天皇です。
とは言うものの、さすがに母親から娘に譲位されたのは、長き日本の歴史において、唯一であり、異例な出来事でした。そこまでしても、元明天皇は皇位を首皇子に譲りたくなかったということです。
というわけで、天武天皇の孫にして、元明天皇の娘、文武天皇の妹である氷高皇女が独身のまま第44代、元正(げんしょう)天皇として即位しました。
独身である氷高皇女が皇族以外と結婚し、その子供が皇位を継いでしまうと男系が断絶する事になるのですが、もっとも氷高皇女は天皇に即位した後も独身を貫きました。日本の女帝としては推古天皇、斉明(さいめい)天皇、持統天皇、元明天皇に次いで5人目となりますが、独身で即位したのは元正天皇が初めてです。それ以降の女性天皇は、孝謙天皇、明正天皇、後桜町天皇、と3人いますが、全員が生涯独身で、結婚していません。天皇は「神道」で最も偉い柱(はしら)ですから。ローマ法王が結婚しないのと同じです。
首皇子というれっきとした皇太子を飛ばして、異例づくしの皇位継承がなされたのですが、『続日本紀』には、このように記されています。
霊亀元年九月庚辰天皇禅位于氷高内親王詔曰乾道統天。文明於是馭暦。大宝曰位。震極所以居尊。昔者。揖譲之君。旁求歴試。干戈之主。継体承基。貽厥後昆。克隆晢祚。朕君臨天下。撫育黎元。蒙上天之保休。頼祖宗之遺慶。海内晏静。区夏安寧。
然而兢々之志。夙夜不怠。翼々之情。日慎一日。憂労庶政。九載于茲。今精華漸衰。耄期斯倦。深求閑逸。高踏風雲。釈累遺塵。将同脱〓。因以此神器。欲譲皇太子。而年歯幼稚。未離深宮。庶務多端。一日万機。一品氷高内親王。早叶祥符。夙彰徳音。天縦寛仁。沈静婉〓。華夏載佇。謳訟知帰。今伝皇帝位於内親王。公卿・百寮。宜悉祇奉以称朕意焉。
霊亀元年九月二日。天皇は位(くらい)を氷高内親王に譲位しました。そして、次のように詔(みことのり)しました。
天の道が天を統(す)べており、明らかな徳があって、初めて天下を治める事ができる。成人の大きな宝は位(くらい)であり、天子の位(くらい)は尊いものとなっている。
昔、支那では徳のある人を天下に広く求め、次々と試して、位(くらい)を譲った人、あるいは武力によって天下をとった人も、位(くらい)を継ぎ、それを受け、その地位を子孫に残し、王朝を興隆させている。朕(ちん)は天皇として天下を治め、万民をいつくしみ養うのに、上天の助けを蒙(こうむ)り、先祖代々の遺(のこ)された徳のおかげで、国内は穏やかで、天下は安らかに治まっている。しかし、その間も恐れつつしむ心は、朝から夜まで怠る事はなかった。うやうやしく慎(つつ)しむ心を日々に固くし、諸政に心を労すること九年にわたった。
今、生き生きとした若さも次第に衰え、年老いて政事(まつりごと)にも倦(う)み、静かでのどかな境地を求めて風や雲のようなとらわれない世界に、身を任せたいと思う。様々な関わりを捨て、履物を脱ぎ捨てるように俗を離れたい。そこで皇位の神器を皇太子に譲りたく思うが、まだ年幼くて奥深い宮殿を離れることができない。しかし政務は多端で、一日に処理せねばならぬことは無数にある。
一品の氷高内親王は、若いうちからめでたいめぐり合わせに合い、早くから良い評判が世に知られている。心広く憐れみ深い性質を天から授かっており、物静かで若く美しい。天下の人々はこの内親王を戴き、仰ぎ、褒め称えることを知るであろう。今、皇帝の位を内親王に譲るのであるが、公卿百官はことごとくこの詔を慎み奉戴し、朕の心に適うようにせよ。
この詔の中で、元明天皇は首皇子(おびと・の・おうじ)について、
而年歯幼稚。未離深宮。
まだ年幼くて奥深い宮殿を離れることができない。
などと言っていますが、この時の首皇子は15歳であり、持統天皇が軽皇子(かるの・みこ)こと、文武(もんむ)天皇に位(くらい)を譲られた時の、文武天皇の年齢が14歳でしたが。
というわけで、日本はまたもや女帝の時代になりましたが、収まりつかないのが藤原氏でした。それで、皇室と藤原氏の対立がある悲劇を生み出すことになるわけです。
