朱鳥(しゅちょう)元(西暦686)年9月11日に、天武天皇が崩御してしまう訳なのですが、後を継いだ持統(じとう)天皇の歌が日本最古の和歌集である『萬葉集』(まんようしゅう)に残されております。
燃火物 取而■而 福路庭 入澄不言八面 智男雲
燃(も)ゆる火も、取りて包(つつ)みて、袋(ふくろ)には、入(い)ると言はずやも、くもを
歌の訳:燃えている火でさえも取って包み、袋に入れられると言うではないか。それなのに、天武天皇の崩御をとどめる術(すべ)を誰も知っているとは言わない。
天武天皇の死を押しとどめることができると誰も言わないことを嘆いた歌なのですが、持統天皇とは、日嗣の御子(ひつぎの・みこ)、つまり、皇太子であった草壁皇子(くさかべの・おうじ)ではありませんでした。
『日本書紀』には、このように記されております。
高天原廣野姫天皇、少名鸕野讚良皇女、天命開別天皇第二女也、母曰遠智娘更名美濃津子娘、天皇深沈有大度。天豊財重日足姫天皇三年、適天渟中原瀛眞人天皇爲妃。雖帝王女而好禮節儉、有母儀德。天命開別天皇元年、生草壁皇子尊於大津宮。十年十月、從沙門天渟中原瀛眞人天皇、入於吉野避朝猜忌、語在天命開別天皇紀。
天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月、從天渟中原瀛眞人天皇、避難東国、鞠旅會衆遂與定謀、廼分命敢死者數萬置諸要害之地。秋七月、美濃軍將等與大倭桀豪、共誅大友皇子、傳首詣不破宮。二年、立爲皇后。皇后、從始迄今佐天皇定天下、毎於侍執之際、輙言及政事、多所毗補。
高天原広野姫天皇(たかまがはら・ひろのひめの・すめらみこと)は幼少の時の名前は鸕野讚良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)と言います。天命開別天皇(あめみこと・ひらかすわけの・すめらみこと、こと、天智(てんじ)天皇)の二番目の皇女(ひめみこ)で、母を遠智娘(おちの・いらつめ)、別名を美濃津子娘(みのつこの・いらつめ)と言います。
天皇は落ち着いていて、大きな器を持っていました。天豊財重日足姫天皇(あめ・とよ・たから・いかし・ひたらしひめの・すめらみこと、こと、斉明(さいめい)天皇)の3年に天渟中原瀛真人天皇(あまの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと、こと、天武天皇)の妃(きさき)となりました。帝王の皇女(ひめみこ)といえども、礼を好み、節度があって完璧で欠けるところのない人物でした。母としての道徳も持っていました。
天命開別天皇(あめみこと・ひらかすわけの・すめらみこと、こと、天智(てんじ)天皇)の即位元年に草壁皇子尊(くさかべの・みこの・みこと)を大津宮(おおつのみや)で産みました。
天智天皇即位10年の10月に沙門(しゃもん、つまり、僧)となった天渟中原瀛真人天皇(あまの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと、こと、天武天皇)に従って、吉野に入って、朝廷からの疑いを避けました。このことは天命開別天皇(あめみこと・ひらかすわけの・すめらみこと、こと、天智(てんじ)天皇)の紀(き)にあります。
天渟中原瀛真人天皇(あまの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと、こと、天武天皇)の即位元年の夏6月。天渟中原瀛真人天皇(あめみこと・ひらかすわけの・すめらみこと、こと、天智(てんじ)天皇)に従って、災いを東国に避けました。軍に告げて、民衆を集めて、一緒に謀略を定めました。そして軍を分けて、死を恐れぬ人、数万人を、諸々(もろもろ)の要害の地に置きました。
秋7月。美濃の将軍たちと大倭(おおやまと)の勇ましい人達とで共に、大友皇子(おおともの・みこ)を誅殺して、首を不破宮(ふわのみや、現、岐阜県不破郡(ふわぐん)関ケ原町(せきがはらちょう)野上(のがみ)の宮(みや))に持っていきました。
天武天皇即位2年。皇后となりました。皇后は、最初から今まで天皇を助けて天下を定められました。常に仕えている間には、政治に進言して、補うところが多かったからです。
天智天皇は4柱(はしら)の皇女(ひめみこ)たちを大海人皇子(おおあまの・おうじ)、後(のち)の天武(てんむ)天皇に嫁がせました。その皇女たちの1柱が草壁皇子(くさかべの・おうじ)の母である鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)で、他の皇女たちの1柱が大津皇子(おおつのみこ)の母である大田皇女(おおたの・ひめみこ)です。
つまり、草壁皇子と大津皇子は父方では兄弟、母方では従弟(いとこ)に当たるわけなのです。
ところが、当チャンネルの別の動画でも語っているように、「謀反」(むほん)という話が出て来ました。『日本書紀』には、このように記されています。
朱鳥元年九月戊戌朔丙午、天渟中原瀛眞人天皇崩、皇后臨朝稱制。冬十月戊辰朔己巳、皇子大津謀反發覺、逮捕皇子大津、幷捕爲皇子大津所詿誤、直廣肆八口朝臣音橿・小山下壹伎連博德與大舍人中臣朝臣臣麻呂・巨勢朝臣多益須・新羅沙門行心及帳內礪杵道作等、卅餘人。庚午、賜死皇子大津於譯語田舍、時年廿四。妃皇女山邊、被髮徒跣、奔赴殉焉、見者皆歔欷。皇子大津、天渟中原瀛眞人天皇第三子也、容止墻岸、音辭俊朗、爲天命開別天皇所愛、及長辨有才學、尤愛文筆、詩賦之興、自大津始也。
朱鳥(しゅちょう)元年9月9日。天渟中原瀛真人天皇(あめの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと、つまり、天武(てんむ)天皇)が崩御しました。皇后は、即位せずに実務を行ないました。
冬10月2日。大津皇子が謀反(むほん)しようと企(たくら)んでいたのが発覚しました。大津皇子を逮捕して、大津皇子のために騙された直広肆(ぢきくわう)の八口朝臣音橿(しやくちの・あそん・おとかし)・小山下(しょうせんげ)の壱伎連博徳(ゆきの・むらじ・はかとこ)と大舍人(おおとねり)の中臣朝臣臣麻呂(なかとみの・あそん・おみまろ)・巨勢朝臣多益須(こせの・あそん・たやす)・新羅の僧の行心(ぎょうしん)、帳内(とねり)の礪杵道作(ときの・みちつくり)たち30人余りを捕らえました。
10月3日。大津皇子は訳語田(おさた)の家、こと、磐余(いわれ)の自宅で殺されました。その時、年齢は24歳。妃(きさき)の山辺皇女(やまのべの・ひめみこ)は髪を振り乱して、裸足で、走って行き、殉死しました。見た人は皆、嘆きました。大津皇子は、天渟中原瀛真人天皇(あめの・ぬなはらおきの・まひとの・すめらみこと、つまり、天武(てんむ)天皇)の第三子です。容姿は優れていて、言葉は優れていて朗らかでした。天命開別天皇(あめみこと・ひらかすわけの・すめらみこと、こと、天智(てんじ)天皇))に愛されていました。年長となり、弁舌素晴らしく、才学がありました。文筆を愛しました。詩や文を書くことは大津皇子から始まったと言われています。
天武天皇が崩御した途端、大津皇子が謀反の罪で逮捕されて殺されてしまいました。
ちなみに皇太子の草壁皇子については、『日本書紀』には特に記述がありません。なのに、なぜか大津皇子のみ、人となりが描写されています。
大津皇子が自分の息子である草壁皇子の代わりに天皇に即位する事を心配した鸕野讚良皇后の陰謀なのでしょうか?
「大津皇子の変」については、昔からいろいろな解釈があるのですが、大津皇子と同時に、30人以上の重臣が捕らえれて処罰されているので、一概に皇后の陰謀と断定する事は出来ません。
もしかしたら、皇太子である草壁皇子ではなく、優秀な大津皇子を担ぎ上げようとした勢力があり、天武天皇の崩御と同時に、彼らが大津皇子の即位のために動き出したものの、失敗したという事なのかもしれません。
『日本書紀』には、持統天皇の詔が記されているのみです。
丙申詔曰、皇子大津謀反、詿誤吏民帳內不得已、今皇子大津已滅、從者當坐皇子大津者皆赦之、但礪杵道作流伊豆。又詔曰、新羅沙門行心、與皇子大津謀反、朕不忍加法、徙飛騨国伽藍。
朱鳥(しゅちょう)元(西暦686)年10月29日。詔(ミコトノリ)しました。
「大津皇子は謀反しようとした。欺かれた役人や従者は止むを得ない。大津皇子はすでに亡くなったので、従者で大津皇子と関わっているものを、皆、赦しなさい。ただし礪杵道作(とちの・みちつくり)は伊豆に流しなさい。」
また、詔しました。
「新羅の僧の行心(こうじん)は大津皇子の謀反に関与したけども、罪に問うのは忍びないので、飛騨国の伽藍(てら)に移しなさい。」
ちなみに、現存する日本最古の漢詩集である『懐風藻』(かいふうそう)には、天智天皇の息子である川島皇子が大津皇子を裏切り、皇后に謀反を密告した事が記されています。
皇子者淡海帝之第二子也。志懷溫裕。局量弘雅、始與大津皇子、為莫逆之契。及津謀逆、島則告變。朝廷嘉其忠正、朋友薄其才情、議者未詳厚薄。然余以為。忘私好而奉公者、忠臣之雅事。背君親而厚交者、悖徳之流耳。但未盡爭友之益、而陷其塗炭者、余亦疑之。位終于淨大參。時年三十五。
皇子(おうじ)は淡海帝(おうみてい)の第二子なり。志懷溫裕(しくわいおんゆう)、局量弘雅(きょくりょう・こうが)、はじめ、大津皇子と莫逆(ばくぎゃく)の契りをなし、津の逆を謀るに及びて、島すなわち変を告ぐ。朝廷その忠正を嘉(よみ)し、朋友(ほうゆう)その才情を薄んず。議者、いまだ厚薄を詳(つまびら)かにせず。しかも余おもへらく、私好(しこう)を忘れて公に奉ずる者は中心の雅事(がじ)、君親に背(そむ)きて、交を厚くする者は背徳の流のみ。ただ未(いま)だ争友の益に付くさざるに、その途端に陥(おとしい)るる者は、余またこれを疑う。位(くらい)淨大參(じょう・さいさん)に終わる。時に年、35。
現代語訳:皇子(おうじ)は天智天皇の第二子です。気持ちのおだやかな人で、度量が広く正しく上品な方でした。はじめ大津皇子と意気投合し深く交際していましたが、大津皇子が謀反を計画したとき、河島皇子は密告しました。
朝廷ではその忠誠を賞したが、朋友は薄情者とみた。この是非についての論議は未だはっきりしない。
余が思うに、私情を捨て公に仕えるは忠臣の賀事、君や親に背いて交友を重んじるは背徳の行為である。
しかし、友に忠告もせず、水火の苦しみに追い込んだ者を、余はその気持ちを未だに疑う。
位は浄大参(じょう・だい・さん)で終わり、時に三十五歳。」
とあるのですが、『日本書紀』には何の記述もありません。『万葉集』には、逮捕された大津皇子が処刑前に詠んだ歌が残されています。
百伝 磐余池尓 鳴鴨乎 今日耳見哉 雲隠去牟
ももづたう 磐余(いわれ)の池(いけ)に 鳴く鴨(かも)を 今日のみ見てや 雲(くも)隠(がく)りなん
歌の訳:この磐余の池で泣いている鴨を、今日が見納めで、自分は死んでいく
「謀反人として処刑されるのは、別の大津皇子である(本当の大津皇子は謀反人ではないことは、この私(大津皇子自身)が一番よく知っている。)ので、処刑される大津皇子を客観的な存在としてとらえている。」という説もあります。
さらに大津皇子の亡骸が葛城(かつらぎ)の二上山(ふたかみやま)に移され葬られた際に、姉に当たる大来皇女(おおくのひめみこ)が悲しんで作った歌
宇都曽見乃 人尓有吾哉 従明日者 二上山乎 弟世登吾将見
うつそみの ひとなるわれや あすよりは ふたかみやまを いろせと、あがみん
歌の訳:現実の世の人である私は、明日からは弟の眠る二上山(ふたかみやま)を弟だと思って偲び見て過ごします
天武天皇は大伯皇女(おおくの・ひめみこ)を伊勢神宮の斎皇女(いつき・の・みこ)として送っていたのですが、当時、伊勢神宮の斎皇女には、身内に罪人がいてはならない事になっていたので、飛鳥に戻されていました。
大津皇子が謀反(むほん)の罪で命を失ったのと同じ年の朱鳥(しゅちょう)元(西暦686)年、草壁皇子が、崩御した天武天皇の殯(もがり)を執り行いました。殯とは、死者を埋葬するまでの期間、遺体を納棺し、仮安置(かりあんち)し、別れを惜しむ儀式を繰り返す葬送儀礼です。
『日本書紀』には、このように記されています。
元年春正月丙寅朔、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。納言布勢朝臣御主人、誄之、禮也。誄畢衆庶發哀、次梵衆發哀。於是、奉膳紀朝臣眞人等奉奠。奠畢、膳部采女等發哀。樂官奏樂。庚午、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。梵衆隨而發哀。庚辰、賜京師年自八十以上及篤癃・貧不能自存者、絁綿各有差。甲申、使直廣肆田中朝臣法麻呂與追大貳守君苅田等、使於新羅、赴天皇喪。
持統天皇即位元年春1月1日。皇太子は臣下・役人たちを率いて、殯宮(もがりのみや)に参り、泣いて悲しむ儀式を行いました。納言の布勢朝臣御主人(ふせの・あそん・みぬし)が故人に言葉をかける儀式をしました。礼に適(かな)うことです。故人に言葉をかける儀式を終えて、諸々の人たちが泣いて悲しむ儀式をしました。次に僧たちが泣いて悲しむ儀式をしました。宮内省の長官の紀朝臣真人(きの・あそん・まひと)たちが、お供えの食事を奉りました。お供えの食事が終わり、膳部(かしわで)と采女(うねめ)が泣いて悲しむ儀式を行いました。楽官(うたまいの・つかさ)が楽(うたまい)を奏じました。
1月5日。皇太子は臣下・役人たちを率いて、殯宮(もがりのみや)にお参りして、泣いて悲しむ儀式を行いました。僧侶たちは随伴して発哀しました。
1月15日。年齢が80以上の人、病気や障害を持った人や、貧しく自分で生きていけないものに、それぞれ品物などを与えました。
1月19日。直広肆(ぢきくわうしやくち)の田中朝臣法麻呂(たなか・あそん・のりまろ)と追大弐(ついだいに)の守君苅田(もりのきみ・かりた)たちを新羅に使者として送り、天皇の喪を告げさせました。
五月甲子朔乙酉、皇太子率公卿百寮人等、適殯宮而慟哭焉。於是、隼人大隈阿多魁帥、各領己衆、互進誄焉。
5月22日。皇太子は臣下と役人たちを率いて、殯宮に参りでて、泣いて悲しむ儀式をしました。隼人(はやと)の大隈国(おおすみのくに)阿多郡(あたぐん)の首長(くびちょう)はそれぞれの自分の仲間たちを率いて、互いに進み出て、死者を弔い、その生前の功徳をほめ称えました。
天武天皇は史上最強の天皇で、その権威は圧倒的であったため、殯の儀式は3年近く続き、持統天皇2(西暦688年)になって、ようやく埋葬されました。
乙丑、布勢朝臣御主人・大伴宿禰御行、遞進而誄。直廣肆當麻眞人智德、奉誄皇祖等之騰極次第。禮也、古云日嗣也。畢葬于大內陵。
持統天皇即位2年11月11日。布勢朝臣御主人(ふせの・あそん・みぬし)・大伴宿禰御行(おおともの・すくねの・みゆき)は互いに進んで、生前の功徳を褒めたたえました。直広肆(ぢきくわうしやくち)の当麻真人智徳(たぎまの・まひと・ちとこ)は皇祖たちの天皇の系譜の次第を褒めたたえました。礼に適っています。古くは日嗣(ひつぎ)と言います。その後、大内陵(おおちの・みささぎ)に葬りました。
無事に天武天皇の葬儀が終わったにもかかわらず、草壁皇子(くさかべの・おうじ)が天皇として即位する事はありませんでした。
草壁皇子は、既に天智天皇の皇女(ひめみこ)で自らの叔母に当たる阿閇皇女(あへの・ひめみこ)を妻として娶り、軽皇子(かるのみこ)という息子もいました。年齢は20代後半で、天皇として即位することは当然であり、自然な事でした。ところが、その草壁皇子が皇位に就くことなく、持統天皇3(西暦689)年に突然、薨去(こうきょ)しました。
『日本書紀』には、このように記されています。
乙未、皇太子草壁皇子尊薨。
持統天皇3(西暦689)年、4月13日。皇太子の草壁皇子尊(くさかべの・みこの・みこと)が薨去(こうきょ)しました。
『日本書紀』には、これだけの記述があるだけなので、詳しい事は、全く分かりません。というか、『日本書紀』には草壁皇子の人となりについて、でさえ、天武天皇と持統天皇の間の実子にもかかわらず、全く書かれていません。それにしては、大津皇子の人間性を褒めちぎっているのですが。しかも『日本書紀』は、天武天皇が編纂を命じ、実質的には持統天皇の管轄下でまとめられた史書です。
草壁皇子(くさかべの・おうじ)の一の后(いちのきさき)である阿閇皇女(あへの・ひめみこ)と息子である軽皇子(かるのみこ)、娘である氷高皇女(ひだかのひめみこ)は後に天皇として即位しました。草壁皇子は、母も妻も息子も娘も、天皇として、即位しているにも関わらず、『日本書紀』に、ほとんど記述がない事について、後世にいろいろと物議を醸(かも)す事となりました。
『万葉集』に、草壁皇子の歌が一句だけ残されています。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にある日並皇子(ひなみしのみこ)という名前ですが、「日並」(ひなみし)は賛美(さんび)を込めた呼び方なので、『万葉集』ではこちらが使われています。
大名兒 彼方野邊尓 苅草乃 束之間毛 吾忘目八
大名児(おおなご)が 彼方野辺(おちかたのえ)に 刈る草(かや)の
束(つか)の間(あいだ)も わが忘れめや
歌の訳:大名児が遠くの野辺で刈る草の、
ほんの束の間も私は忘れるなどということがあろうか。
大名児というのは、石川郎女(いしかわの・いらつめ)という女官の名前だと言われています。ところが、石川郎女は大津皇子の恋人でした。
この歌の直前、一〇九番歌の題詞に、このように記されています。
大津皇子竊婚石川女郎時津守連通占露其事皇子御作歌一首 未詳
大津皇子、ひそかに石川郎女に会う時、津守連通(つもりの・むらじ)通る、その事を占えて、あらわすに、皇子の作りましし御歌一首 未だ詳(つばひらか)ならず
題詞の訳:大津が石川女郎にひそかに関係を持っている最中に、津守連通(つもりのむらじとおる)という占い師にみてもらったところ、二人の関係がたちまち暴露された。それを百も承知でわれわれ二人は関係したのだという歌。詠み人知らず。
大船之 津守之占尓 将告登波 益為尓知而 我二人宿之
大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し(おほぶねの つもりがうらに のらむとは まさしにしりて わがふたりねし)
歌の訳:津守(つもり)の占いによって、(謀反の疑いが)あらわれるとは、まさに承知しながら、私は彼女と共寝したよ。
他にも『万葉集』には大津皇子の歌がいくつも残されています。その中で、大津皇子が石川郎女に送った歌としては、このような歌があります。
足日木乃 山之四付二 妹待跡 吾立所沾 山之四附二
あしひきの 山のしづくに、妹(いも)待つと 我れ立ち濡れぬ 山のしづくに
歌の訳:山であなたを待っていると、山のしづくで、立ち濡れてしまいましたよ。
この大津皇子から送られた歌に対して、石川郎女が詠んだ返歌がこちら。
吾乎待跡 君之沾計武 足日木能 山之四附二 成益物乎
我(あ)を待つと 君が濡れけむ あしひきの 山のしづくに、ならましものを
歌の訳:わたくしを待っていてあなたが濡れたという、山のしづくになれたらいいのに。
ちなみに、草壁皇子の歌への石川郎女の返歌はありません。つまり、草壁皇子は大津皇子の恋人に横恋慕していたという事なのでしょうか?今となってはわかりませんが。
皇太子であった草壁皇子が亡くなってしまったため、鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)が持統天皇4(西暦690)年、女性天皇として即位しました。第41代の持統(じとう)天皇です。
四年春正月戊寅朔、物部麻呂朝臣、樹大盾。神祗伯中臣大嶋朝臣、讀天神壽詞。畢、忌部宿禰色夫知、奉上神璽劒鏡於皇后。皇后、卽天皇位。公卿百寮、羅列匝拜而拍手焉。己卯、公卿百寮、拜朝如元會儀。丹比嶋眞人與布勢御主人朝臣、奏賀騰極。庚辰、宴公卿於內裏。壬辰、百寮進薪。甲午、大赦天下、唯常赦所不免、不在赦例。賜有位人爵一級。鰥寡・孤獨・篤癃・貧不能自存者、賜稻、蠲服調役。丁酉、以解部一百人、拜刑部省。庚子、班幣於畿內天神地祗、及増神戸田地。
即位4年春1月1日。物部麻呂朝臣(もののべの・まろの・あそん)は大盾(おおたて)を樹(た)てました。神祗伯(かむづかさの・かみ)の中臣大嶋朝臣(なかとみの・おおしまの・あそん)は天神寿詞(あまつかみの・よごと)を読みました。読み終わると、忌部宿禰色夫知(いみべの・すくね・しこぶち)は神璽(かみのしるし)の剣と鏡を皇后に奉りました。皇后は天皇に即位しました。臣下と役人は羅列して、皆、拝み、拍手しました。
1月2日。臣下と役人は拝み、元旦の日の儀式の身なりのようでした。丹比嶋真人(たじひの・しまの・まひと)と布勢御主人朝臣(ふせの・みぬしの・あそん)と即位の祝辞を申し上げました。
1月3日。臣下と内裏(だいり)で宴をしました。衣裳を与えました。
1月15日。役人たちは儀式用の薪を献上しました。
1月17日。天下に大赦しました。ただし、恩赦でも罪の減免のない連中だけは、大赦の例に入れませんでした。位(くらい)のあるものには爵位を1級与えました。配偶者を失った男女・身寄りのない者・病気や障害のある人や貧しくて、自力では生きていけない者に稲を与えて、税を免除しました。
1月20日。訴訟を聞く役所に、100人増員しました。
1月23日。神社に奉納する物を畿内の天津神、国津神(あまつかみ、くにつかみ)に、新嘗祭(にいなめさい)などで、神祇官(じんぎかん)が奉納する班幣(はんぺい)、神社の封戸(ふこ)と田地(みとしろ)を増しました。
定説では、天武天皇と持統天皇の子である草壁皇子が薨去したため、その草壁皇子の子、つまり持統天皇の孫である軽皇子、こと、後の文武天皇に引き継ぐための一時的な代役が持統天皇誕生の理由とされています。とはいうものの、持統天皇は即位前から公務に関わっており、天武天皇が病気になると実権を握っていました。となると、一時避難的な措置としての「持統天皇」というよりは、「経験のある人物」の持統天皇の即位と考えた方が自然で、もし持統天皇の即位が「特殊な事情」の結果だとしたら、もっと揉めているのではないでしょうか?天武天皇には皇子が他にもいるので、他の皇子から次の天皇を選ぶと、また国を二分する壬申の乱が再来するかもしれない。だから、揉め事が避けられる「持統天皇」が選ばれたとも考えられます。
持統天皇は、神功皇后(じんぐうこうごう)を除くと、推古(すいこ)天皇、皇極(こうぎょく)天皇、重祚して、斉明(さいめい)天皇に続いての三柱目(みはしらめ)の女性天皇です。持統天皇こと、鸕野讚良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)の父親は天智(てんち)天皇。祖父が舒明(じょめい)天皇で、祖母が皇極もしくは斉明天皇です。男系の女性天皇であり、いわゆる女系天皇、正しくは非男系天皇とは違っております。当チャンネルの別の動画で詳しく解説していますので、良かったらご参照下さい。
それで、天武天皇の片腕だった持統天皇の即位によって、天武路線がこの先も続いて行く事となりました。天武天皇の右腕が持統天皇なら、左腕は高市皇子(たけちのみこ)でした。天武天皇の皇子の中では1番の年上でしたが、母親の身分が低かったため、高市皇子が天皇に即位する路線は初めからありませんでした。草壁皇子や大津皇子の母親は天智(てんじ)天皇の皇女(ひめみこ)ですから。弘文(こうぶん)天皇、こと、大友皇子(おおともの・おうじ)の例からも分かるように、神武天皇の男系の血筋を継承しているとはいっても、母親が誰なのかは皇位継承に大きな影響を与えるという事です。
ちなみに、文字通り、神のごとく崇拝された天武天皇の跡を継ぐという事で、鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)は自らの即位に際し、自分の神性(しんせい)を高める必要に迫られました。『日本書紀』からの引用の部分を見ていただけるとわかりますが、ここにある「神璽(かみのしるし)の剣と鏡」とは、もちろん、素戔男尊(すさのお)が八岐大蛇(やまたの・おろち)を退治した時に、大蛇の体内から見つかった神剣である天叢雲剣(あめの・むらくもの・つるぎ)と『古事記』に、高天原の八百万(やおよろず)の神々が天の安河(あまのやすかわ)に集まって、川上の堅石(かたしは)を金敷(かなしき)にして、金山(かなやま)の鉄を用いて作らせた、と、記されている八咫鏡(やたのかがみ)の事です。鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)は、熱田神宮にご神体として奉斎されている天叢雲剣と伊勢神宮の内宮におられる八咫鏡、を奉(たてまつ)り、元々宮中におられる八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を身につけられ、即位の礼を挙げられました。初めて、即位の場において、三種の神器が揃ったこととなりました。
鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)は自らの即位の際に、三種の神器を大きく目立たせて、自らの神性(しんせい)を高めました。これ以降、三種の神器は皇位継承の証(あかし)として、現代にまで受け継がれていく事になります。
即位した持統天皇は、天武天皇の長男で、自分とともに天武天皇を補佐していた高市皇子(たけちのおうじ)を太政大臣(だじょう・だいじん)に任命しました。朝廷の最高官職である太政大臣という役職の座に就いたのは、大友皇子に次いで高市皇子が二度目となります。持統天皇としては、血筋の問題から高市皇子を即位させるわけにはいかなかったものの、せめて権力を分かち合うという意味を込めて、太政大臣に任命したのでしょうか。
持統天皇は高市皇子を中心とした皇族に加えて、藤原不比等(ふじわらの・ふひと)等の官僚たちの上に君臨して、天武路線を強力に推進していきました。
ちなみに、藤原不比等は、乙巳の変(いっしのへん)で中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)を助け、その後大化の改新を主導した中臣鎌足(なかとみの・かまたり)の次男です。中臣鎌足は死の直前に天智天皇から「藤原」の名字を賜りました。藤原不比等は中々優秀な人物で、大宝律令(たいほうりつりょう)の編纂において中心的な役割を担い、政治の表舞台に登場しました。しかも、彼は異母妹を天武天皇に嫁がせ、天皇が崩御した後に、その異母妹と結婚し、その娘を草壁皇子(くさかべの・おうじ)の息子である軽皇子(かるのみこ)、後(のち)の文武(もんむ)天皇に嫁がせ、その子が聖武(しょうむ)天皇として即位しました。このようにして、皇室との姻戚関係を深めていきました。蘇我氏と同じく、皇室に一族の女性を嫁がせ、将来的に天皇の姻戚となる不比等方式は、その後の藤原家に受け継がれていく事になりました。
持統天皇が推進した天武路線というのは、律令国家化・新都建設・国史編纂・伊勢神宮の式年遷宮などです。第1回の式年遷宮は、持統天皇4(西暦690)年に執り行われました。日本の律令国家化の節目である大宝律令の公布は、持統天皇が孫の文武天皇に譲位した後の大宝元(西暦701)年。『古事記』が完成したのは、持統天皇の死後である和銅5(西暦712)年、『日本書紀』が完成したのは、養老4(西暦720年)になります。持統天皇ほどの強烈な統率力がなかった場合、国史編纂も途中で頓挫した可能性がありました。
新都建設、つまり、藤原京の建設は、持統天皇8(西暦694)年に完了しました。持統天皇をはじめとする朝廷の人々は、飛鳥浄御原宮(あすかの・きよみはらのみや)から藤原京に移る事となりました。藤原京は耳成山(みみなしやま)・畝傍山(うねびやま)・香久山(かぐやま)という大和三山に囲まれ、一辺が5キロ前後の正方形をしていました。東西南北に道路が走り、都の中心を貫く幅20メートル以上の朱雀大路(すざくおおじ)を挟み、住居や寺が建てられ、都の北には数々のお宮。特に朝堂院(ちょうどういん)は、これ以降の日本の都においても類を見ないほどの史上最大の建築群でした。
藤原京については、『日本書紀』には、このようにしか記されていません。
辛酉、天皇幸藤原觀宮地、公卿百寮皆從焉。
持統4(西暦690)年12月19日。天皇は藤原に行き、宮地を観ました。臣下と役人たちが、皆、従いました。
丁亥、遣淨廣肆難波王等、鎭祭藤原宮地。庚寅、遣使者奉幣于四所、伊勢・大倭・住吉・紀伊大神、告以新宮。
持統6(西暦692)年5月23日。浄広肆(じょうこうし)の難波王(なにわの・おおきみ)たちを派遣して、藤原の宮地を鎮め祭らせました。
5月26日。使者を派遣して、神に奉るものを、伊勢・大倭・住吉・紀伊の4箇所の大神に奉らせました。新宮の報告をさせました。
十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮。
持統8(西暦694)年、12月6日。藤原宮に移って居住しました。
しかし、考古学者たちの研究成果で、その全貌のかなり多くがわかってきています。
藤原京の広さは、25.4平方キロメートル。実は後に建てられた平城京や平安京すら凌ぐ、古代日本における最大の都市でした。残念なことに、藤原京はあまりにも広大で、かつ古すぎ、藤原宮跡などに当時の縁(よすが)が残っているだけです。もっとも、藤原宮跡は大和三山の絶好の眺望スポットとなっており、そこから見る朝日や夕日は息を飲むほど美しいと言われております。
持統天皇が、この眺望を詠んだ和歌が『万葉集』に記されています。
春過而 夏来良之 白妙能 衣乾有 天之香来山
春(はる)過ぎて 夏(なつ)来たるらし 白妙(しろたえ)の 衣(ころも)干したり 天(あま)の香具山(かぐやま)
歌の訳:いつの間にか、春が過ぎて夏がやってきたようですね。夏になると真っ白な衣を干すと言いますから、あの天の香具山に(あのように衣がひるがえっているのですから)。
天(あま)の香具山(かぐやま)は神聖な山であるため、禊(みそぎ)のために衣が干される事がありました。というわけで、天智天皇の皇女で天武天皇の皇后である鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)は自ら女帝として日本国に君臨することになりました。
鸕野讚良皇后が、息子である草壁皇子と皇太子妃であった阿陪皇女(あへの・ひめみこ)との間に生まれた軽皇子(かるの・みこ)を天皇にしたかったために、ここから、色々と複雑な話となっていきます。
軽皇子は鸕野讚良皇后の孫に当たるのですが、阿陪皇女は天智天皇の皇女(ひめみこ)、つまりは鸕野讚良皇后の妹なので、軽皇子は鸕野讚良皇后の息子の息子、孫であり、同時に妹の息子、甥(おい)でもありました。
草壁皇子が薨去(こうきょ)した時点では軽皇子はまだ7歳でしたので、さすがに7歳の少年を即位させるわけにはいかないので、持統天皇として自ら即位したという説もあります。律令国家化、国史編纂、藤原京の造営と遷都、等、天武天皇の政策をそのまま引き継いだのですが、持統天皇10(西暦696)年、太政大臣だった高市皇子が薨去(こうきょ)しました。
『日本書紀』には、このように記されています。
庚戌、後皇子尊薨。
7月10日。後皇子尊(ノチノ・ミコノ・ミコト、こと、高市皇子)が薨去(こうきょ)しました。
持統天皇の息子である草壁皇子が「皇子尊(みこの・みこと)」と呼ばれていたのに対して、後に執務を取った高市皇子は「後皇子尊(のちの・みこの・みこと)」と呼ばれていました。
「後皇子尊」と呼んでいたとなると、高市皇子が次の天皇に即位してもおかしくなかったという事です。ただ薨去(こうきょ)したのが、持統天皇10(西暦696)年。壬申の乱が天武天皇元(西暦672)年で、高市皇子は兵を率いて活躍しているところを見ると、幼年だったとは思えません。
そもそも天武天皇がかなり高齢ですから、高市皇子の死亡時の年齢が50代以下という事は無いと思われます。
となると、またもや後継者問題が浮上しました。何しろ、当時は、皇統を継ぐ資格のある天智天皇や天武天皇の皇子たちが大勢健在でした。ちなみに早逝した高市皇子の長男である長屋王もいました。それで、持統天皇は自分の後継者を誰にするべきか皇族や重臣を集めて会議を開きました。持統天皇としては、自分の孫に皇位を譲りたく思われていたのでは、と考えられるのですが、さすがに天武天皇の子供世代を押しのけて、独断で強硬するわけにはいかなかったという事でしょう。持統天皇には天武天皇ほどの権威はありませんでしたから。
会議の議論が紛糾した際に、壬申の乱で敗れた大友皇子の皇子(おうじ)である葛野王(かどの・の・おう)が進み出て、兄弟間の皇位継承は争いの元であるため、直系の軽皇子(かるの・みこ)が皇太子に就くべきと主張なさいました。
『懐風藻』(かいふうそう)には、このように記されています。
我国家為法、神代以来、子孫相承、以襲天位。若兄弟相及、則乱従此興。
仰論天心、誰能敢測。然以人事推之、聖嗣自然定矣。此外誰敢間然乎。
「我が国の法たるや、神代(かみよ)以来、子孫相承し、以て天位を襲(かさね)げり。
もし兄弟、相(あい)及ぼさば、則ち乱、此(これ)より興る。天心を仰ぎ論ずるも、
誰が敢えて測り能わん。然るに人事を以て此(これ)を推さば、
聖嗣自然と定まらん。此の外誰が敢えて間然(批判)せんや。」
現代語訳:我が国のきまりでは、神代(かみよ)より今日(こんにち)まで、子孫が相談して皇位をつぐことになっています。もし兄弟の順を追って相続されるなら擾乱(じょうらん)はここから起こるでしょう。仰ぎ見ましても天の心を論じ、誰が測る事ができましょうか。ですから、人間社会の秩序を考えますと、天皇の後継は自然と定まっております。この方以外に後継になる方はなく、それに対して、誰がとやかく申せましょうか。」
兄弟間の皇位継承が争いの元とは、なかなか意味深な話ですが、天智(てんじ)天皇の後継者争いの結果、実の父親を失っているので、天武天皇をやんわりと批判しているようにも感じられます。
ところが、持統天皇にとっては渡りに船で、この葛野王の意見が決定打となり、天武天皇や天智天皇の子供世代を飛び越え、孫世代の軽皇子の立太子が決まりました。持統天皇は葛野王を賞賛し、持統天皇11(西暦697)年、皇位を軽皇子に譲りました。存命の天皇が譲位したのは皇極(こうぎょく)天皇に次いで二柱目(ふたはしら・め)なのですが、皇極天皇の場合とは異なり、持統天皇は権力を手放した訳ではなく、太上天皇(だじょう・てんのう)として、国政を担い続けました。太上天皇つまり上皇の誕生という事です。孝徳(こうとく)天皇に譲位した天豐財重日足姬天皇(あめ・とよ・たから・いかし・ひたらしひめの・すめらみこと)は皇祖母尊(すめみや・おやの・みこと)、つまり、尊き天皇の母という身分だったので、太上天皇となったのは初めての事でした。
という訳で、『日本書紀』が終わります。『日本書紀』には、このように記されています。
六月丙寅朔丁卯、赦罪人。辛未、詔讀經於京畿諸寺。辛巳、遣五位以上、掃灑京寺。甲申、班幣於神祇。辛卯、公卿百寮、始造爲天皇病所願佛像。癸卯、遣大夫謁者詣諸社請雨。秋七月乙未朔辛丑夜半、夜半赦常嬰盜賊一百九人、仍賜布人四常、但外国者稻人廿束。丙午、遣使者祀廣瀬與龍田。癸亥、公卿百寮、設開佛眼會於藥師寺。八月乙丑朔。天皇定策禁中禅天皇位於皇太子。
持統天皇即位11年6月2日。罪人を赦しました。
6月6日。詔(みことのり)して、お経を京畿(みやこの・うちつくに)の諸々(もろもろ)の寺で読ませました。
6月16日。五位より上を派遣して、京の寺を払い清めさせました。
6月19日。幣(みてぐら)を天津神・国津神(あまつかみ・くにつかみ)に奉納しました。
6月26日。臣下・役人は初めて、天皇の病気のために、願掛けの仏像を作りました。
癸卯(みずのと・う)の日に、大夫(まへつきみ)・謁者(もの申す人)を派遣して、諸々(もろもろ)の社(やしろ)に詣で雨乞いをしました。
秋7月7日。夜中に人に悪さをする手枷・足かせ・首枷をされた盗賊109人を赦しました。布を一人4常(じょう)、与えました。ただし外国人には稲を一人20束与えました。
7月12日。使者を派遣して、広瀬と竜田とを祀らせました。
7月29日。公卿(まへつきみ)・百寮(つかさ・つかさ)は仏像の開眼の会を薬師寺で設けました。
8月1日。天皇は策(みはかりこと)を禁中(おおうち)に定めて、皇太子に天皇の位(くらい)を禅譲しました。
『日本書紀』は持統天皇の譲位の場面で終わっています。
これからの当チャンネルの基本史料は『続日本紀』(しょくにほんぎ)という事になります。『日本書紀』のあとをうけて,文武天皇から桓武天皇に至る文武天皇元年(西暦697年)より延暦(えんりゃく)10年(西暦791年)までの95年間の歴史を編年体で記した記録で、『六国史』(りっこくし)の二番目の勅撰史書にあたります。成立過程は複雑で,石川名足(いしかわ の なたり)・淡海三船 (おうみの・みふね) ・藤原種継(ふじわら の たねつぐ)・菅野真道(すがの の まみち)等に引き継がれ、延暦(えんりゃく)16(西暦797)年に完成したものです。
