古代日本における最大の内戦である壬申の乱(じんしんのらん)に勝利した大海人皇子(おおあまの・おうじ)は、天武天皇2(西暦673)年、天武天皇として即位しました。天武天皇は日本の歴代の天皇の中で初代の神武天皇を除くと、間違いなく最強の天皇となりました。聖徳太子が日本の治世者(ちせいしゃ)の権威と権力を分けたにも関わらず、権威と権力が一体化してしまいましたので。
何しろ日本は2000年を超える歴史を持つ、世界最古の国なので、大政治家だった聖徳太子が政治権力と権威を分離したとはいっても、時には逆方向に進む時期もあるわけです。天武天皇以降も、日本では時々、天皇自ら政治権力を振るう、いわゆる天皇親政の時代もありました。とはいえ、天武天皇ほどの人物は登場しませんでした。天武天皇は間違いなく最強の天皇なのです。
理由はもちろん、自ら剣を振るい、壬申の乱に勝利したためです。天武天皇は日本の長き歴史において、自らの剣で天皇の座を勝ち取った、ほぼ唯一の天皇なのです。元々が神武天皇、つまり、伊弉諾(いざなぎ)、天照大神(あまてらす・おおみかみ)に連なる血統だったところに、戦争の勝利者という権威が加わったわけです。
日本の歴史上、自らも剣を振るい内乱を勝ち抜いて、天皇として即位したのは天武天皇だけで、神武天皇の場合は、内乱というよりは東征。つまりは、新天地への征服行(せいふくこう)でしたから。
例えば、ナポレオン・ボナパルトが戦争に勝ち続けた結果、皇帝にまで上り詰めた事からもわかるように、戦争で勝利すると政治家としての力が高まるというのは世界的に共通した現象ですから。
近江での壬申の乱の勝利の後、『日本書紀』にはこのように記されています。
九月己丑朔丙申、車駕還宿伊勢桑名。丁酉宿鈴鹿、戊戌宿阿閉、己亥宿名張、庚子詣于倭京而御嶋宮。癸卯、自嶋宮移岡本宮。是歲、營宮室於岡本宮南。卽冬、遷以居焉、是謂飛鳥淨御原宮。冬十一月戊子朔辛亥、饗新羅客金押實等於筑紫。卽日、賜祿各有差。
十二月戊午朔辛酉、選諸有功勳者、増加冠位。仍賜小山位以上、各有差。壬申、船一隻賜新羅客。癸未、金押實等罷歸。是月、大紫韋那公高見、薨。
天武天皇即位元年9月8日。天皇は飛鳥に戻り、伊勢の桑名(くわな)で宿を取りました。
9月9日。鈴鹿(すずか)で宿を取りました。
9月10日。阿閉(あへ、現在の三重県上野市印代(みえけん・うえのし・いじろ))に宿を取りました。
9月11日。名張(なばり)に宿を取りました。
9月12日。倭京(やまとの・みやこ)に到着して、嶋宮(しまの・みや)に居ました。
9月15日。嶋宮(しまの・みや)から岡本宮(おかもとのみや、つまり、舒明天皇・斉明天皇の皇居)に移りました。
この年、宮室(おおみや)を岡本宮(おかもとのみや)の南に作り、その冬に移りました。これを飛鳥浄御原宮(あすかの・きよみはらの・みや)と言います。
冬11月24日。新羅(しらぎ)の客人の金押実(こん・おうじつ)たちを筑紫で宴会して、もてなしました。その日に禄(ろく)を与え、それぞれに品(しな)がありました。
12月4日。諸々(もろもろ)の勲功(くんこう)がある者を選び、官位を増やしたり加えたりしました。なお、小山位(しょうせん・の・くらい)より上を与えた場合には、それぞれに品(しな)がありました。
12月15日。船一隻を新羅(しらぎ)の客人に与えました。
12月26日。金押実(こん・おうじつ)たちは帰りました。
この月に大紫(だいし)の韋那公高見(いなの・きみたかみ)が亡くなりました。
天武天皇に敗れ、自ら命を絶った大友皇子(おおともの・おうじ)ですが、一応、日本の歴史において、天皇の1人として数えられています。第39代、弘文(こうぶん)天皇です。壬申の乱が始まる前に大友皇子は天皇として即位していた、という説もあるのですが、よくわかっていません。平安時代以降の資料には、大友皇子が即位した事が記されているのですが、ところが、『日本書紀』では、天智天皇の次の巻は天武天皇の巻です。なので、明治時代になり、ようやく大友皇子に弘文天皇という諡号(しごう)が送られる事になりました。
大友皇子が第39代弘文天皇ということは、大海人皇子こと天武(てんむ)天皇は第40代として即位したという事なのですが、1300年も昔の天皇が、その時点で第40代というのも凄い話です。おまけに男系で、王朝の断絶は一度もなかったわけですから。確かに他国から見れば想像を絶する話です。島国で比較的安全だった事に加えて、聖徳太子の権威と権力を分けた政治改革が功を奏したという事でしょう。
ところが、天武天皇の時代には、天皇の権威が権力と完全に一体化しました。もちろん天武天皇1人で一国(いっこく)の行政を担うことは不可能であるため、両翼を皇后となった鵜野讃良皇女(うのの・さらら・の・ひめみこ)、更には天皇の長子である高市皇子(たけちの・みこ)が固める体制になりました。
この三人の体制で、律令国家(りつりょうこっか)としての日本が形作られていきました。
律令制度(りつりょう・せいど)の律(りつ)は今でいう刑法。令(りょう)が行政法や民法などになります。要するに日本を統治する上での法律を明確化させ、法治国家としての日本が始まったというわけです。
天武天皇は、動物を殺すような罠や肉食を禁止しました。『日本書紀』にはこのように記されています。
庚寅、詔諸国曰「自今以後、制諸漁獵者、莫造檻穽及施機槍等之類。亦、四月朔以後九月卅日以前、莫置比彌沙伎理・梁。且、莫食牛馬犬猨鶏之宍。以外不在禁例。若有犯者罪之。」辛卯、三位麻續王有罪、流于因播。一子流伊豆嶋、一子流血鹿嶋。丙申、簡諸才藝者、給祿各有差。是月、新羅王子忠元到難波。
天武天皇 即位4年4月17日。諸国に詔(みことのり)しました。
「今から以後、諸々の漁猟者(ぎょりょうしゃ)たちは、檻(おり)と獣(けもの)の落とし穴を作り、槍が飛び出る武器を設置することが無いようにしなさい。
また、4月1日以後、9月30日以前に川に設けて魚をとる仕掛けである比彌沙伎理(ひみさきり)・水流を堰き止め、誘導されてきた魚類の流路をふさいで捕獲する仕掛けである梁(やな)を置いてはいけない。また、牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食べてはいけない。それ以外は禁止しない。もし犯すことがあれば、罪を問う」
4月18日。三位(さんみ)の麻続王(おみの・おおきみ)に罪がありました。因幡(いなば)へ流罪(るざい)としました。一人の子を伊豆嶋(いずのしま)に流罪としました。一人の子を血鹿嶋(ちかのしま、つまり、長崎県五島列島)に流罪としました。
4月23日。諸々(もろもろ)の才芸のある者を選んで、禄(ろく)を与えました。それぞれに品(しな)がありました。
この月に新羅(しらぎ)の王子の忠元(ちゅうがん)は難波(なにわ)に到着しました。
牛や馬や犬や猿と鶏が禁止で、雉子(キジ)や雀(スズメ)や猪(イノシシ)や鹿や兎(ウサギ)は食べて良かったのです。鹿や猪は、農業にとっては害獣なので、そういうものまで「禁止」しませんでした。
おそらく「日本人」は、この詔(みことのり)以前から、肉を食べてなかったのでしょう。
当チャンネルの別の動画でも解説していますが、肉食だった縄文人と米が主食となった弥生人の骨格が物語っています。
この当時の日本には、蝦夷(えみし)という狩猟文化を持った人々もたくさんいたので、完全な「肉食禁止」は無理でした。それに蝦夷(えみし)が鹿や猪の肉を食べるのは、日本の文化から見て「野蛮」ではあるものの、害獣駆除には欠かせないものでした。
蝦夷(えみし)は野蛮ではあるが、野蛮だからこそ、害獣駆除に非常に重宝した。そこに大和王朝が蝦夷(えみし)の狩猟文化を必要とした背景があったのでしょう。
そこで肉食を、ある程度、許可しつつも、蝦夷(えみし)が度を超えた肉食をするのを禁止させなければならない。空腹だからといって、牛や馬を食べてはいけない。その折衷案が、この詔だったわけです。牛と馬と犬と猿と鶏は食べてはいけないが、鹿と猪といったものは食べて良い。そういう法を作ったわけです。
つまり、大和王朝は、蝦夷(えみし)を同じ日本人として扱っていた、という事です。
蝦夷(えみし)以外の人達が肉食をすれば、地域の中で白い目で見られます。だから詔(みことのり)をするまでもありませんでした。こうして詔をして、「食べて良いもの」「食べてはいけないもの」を分けて発表したのは、蝦夷(えみし)を同じ日本の住民として、上下をつけずに「同じ国民」として認めていたからだと思われます。蝦夷(えみし)を仲間ではなく、あくまで異文化異民族として見るならば、詔に「蝦夷は」と書けば済むことですから。
この天武天皇の時期に始まった日本の律令国家化は、持統(じとう)上皇、文武(もんむ)天皇の時代に、大宝律令(たいほう・りつりょう)として完成を見ることになります。
律令制定のみならず、天武天皇は即位後にすぐに官制改革にも手をつけました。天武天皇は自らに権力を集中させ、大臣を置かず、宮廷に仕える者を実力本位で登用(とうよう)できる制度を定めました。そのため、たとえ、血筋が良い豪族・貴族であっても、宮廷で出世できるとは限らなくなったのでした。
また、豪族の人民や土地に対する私的な支配を否定し、官僚組織に組み込んでいきました。つまりは、日本国で暮らす人々、更には土地も、すべては国家のものとして中央集権化を進めていったわけでした。先祖から代々受け継いできた権益を否定されて、不満を持った豪族たちが反乱を起こさなかったのも、壬申の乱の勝利者という権威は絶大だったという事の証明です。
おまけに、鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)と高市皇子(たけちのみこ)という実力のある皇族が天皇の両脇を固め、かつての蘇我馬子のような大権力者が生まれない構造になっていたわけでした。壬申の乱の勝利がなければ、さすがの天武天皇でも、これ程、一気に改革を進めることは出来なかったでしょう。
前にも説明した通り、日本の律令国家化がある程度めどがついたのは、大宝(たいほう)元(西暦701)年の大宝律令の制定なので、天武天皇が崩御した後の話となります。また、律令(りつりょう)の整備に加え、新都建設も天武天皇が存命の間には完成しませんでした。
古代の日本、大和王朝は頻繁に都を変えていましたが、都を再び飛鳥に戻された天武天皇が新都を建設し始めました。とはいえ、なぜ天武時代の新都建設はそんなに長い期間が必要だったのでしょうか?
実は天武時代までの日本の飛鳥京(あすかのみやこ)や難波京(なにわのみやこ)、近江大津京(おうみのおおつのみや)などは、都と呼ばれていましたが、それほど大規模なものではなく。しかも行政府(ぎょうせいふ)として、綿密な計画に基づき建設されたわけでもありませんでした。だから天皇が代替わりをする度に遷都を繰り返すことができたわけです。
ただ、小規模だから頻繁に変えることができた、とは言っても、天皇が住んでいる都(みやこ)は、日本の政治の中心になるため、その中心地が無計画に、しかも頻繁に動いてしまうのでは、行政が混乱してしまいます。王朝に仕える豪族や官僚も大変でしたが、行政側に依頼や訴えをする人民側も大変だったようでした。今の日本で言えば、霞が関の諸官庁の役割が不明確で、その上、しょっちゅう移転してしまうようなものですから。
という訳で、天武天皇は行政の中心として、大規模で恒久的な都を建設しようと考えました。
それが、奈良県橿原市(かしはらし)から明日香村(あすかむら)にまたがった場所にあった藤原京(ふじわらきょう)です。建設が始まったのが、天武天皇が即位した5年後の天武天皇5(西暦676)年。何しろ、日本初の本格的な都城(とじょう)であったため、完成までに28年の歳月を必要とし、天武天皇は自ら構想した藤原京の完成を見ることなく、崩御しました。
また、『古事記』と『日本書紀』という国史編纂(こくし・へんさん)も、完成を見ることなく崩御しました。日本の国史は、聖徳太子が蘇我馬子に編纂を命じた『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)・『国記』(くにつ・ふみ)がありましたが、乙巳の変(いっしのへん)の際に、蘇我蝦夷(そがの・えみし)が焼いてしまいました。
白村江(はくすきのえ)の戦い以降の日本は、海の向こうの超大国である唐(とう)と、いかに付き合うかが、外交における最大の課題でした。というわけで、天武天皇は唐帝国(とう・ていこく)と対抗可能である「日本」という国家を築きあげる必要に迫られ、大陸から律令制度を取り入れる形で中央集権化を目指し、長安(ちょうあん)式の都城(とじょう)を建設しようとしました。更に、一貫性ある国家としての体裁(ていさい)を整えるために、国史編纂に乗り出しました。支那の帝国は、周辺諸国を蛮夷として見下す傾向が強かったため、自分たち日本も唐と同じく立派な国家であると法律・都・歴史の面で示威(しい)しようとしたわけでした。
というわけで、『古事記』と『日本書紀』は両方とも天武天皇の時代から編纂が始まりました。
『古事記』の序文に、
當今之時 不改其失 未經幾年 其旨欲滅。
斯乃邦家之經緯 王化之鴻基焉。
故惟撰錄帝紀 討覈舊辭 削僞定實 欲流後葉。
今の時に当(あた)りて、その失(しつ)を改めずは、いまだ幾年(いくとせ)を経(へ)ずして、その旨(むね)滅びなんと欲(ほっ)す。
斯(これ)は乃(すなわ)ち邦家(ほうか)の経緯、王化(おうか)の鴻基(こうき)なり。
故惟(ゆえに思う)帝紀(ていき)を撰録(せんろく)し、旧辞(きゅうじ)を討覈(とうかく)して、偽りを削(けず)り実(じつ)を定めて、後葉(こうよう)に流(つた)えんと欲(ほっ)す。
訳:今この時に、この『帝紀』(ていき)と『旧辞』(きゅうじ)にある多くの間違い・誤りを正さなければ、何年も経たないうちにその本質や真実は失われてしまうだろう。
(『帝紀』と『旧辞』の誤りを正して整理して)正しい歴史認識(国の成り立ち)を後世に伝えることは、国家の秩序に必要なことであり、世を安定させるのは天皇としての務めである。
そこで、天皇の系譜を記録する『帝紀』と、古い時代が記された『旧辞』を調べてなおして誤りを正し、真実を明らかにしてこの国の正しい歴史を後世に伝えようと思う。
と天武天皇の詔(みことのり)が記されています。
『古事記』は『帝紀』(ていき)的部分と『旧辞』(きゅうじ)的部分とから成っており、
『帝紀』は初代天皇から第33代天皇までの名、天皇の后妃(きさき)・皇子(おうじ)・皇女(ひめみこ)の名、及びその子孫の氏族など、このほか皇居の名、治世年数、崩年干支・寿命、陵墓所在地、及びその治世の主な出来事などを記しています。これらは朝廷の語部などが暗誦して天皇の大葬の殯(たいそうの・もがり)の祭儀などで誦(よ)み上げる慣習であったのですが、6世紀半ばになると文字によって書き表されるようになり、それを記録したものです。
『旧辞』は、宮廷内の物語、皇室や国家の起源に関する話をまとめたもので、同じ頃に書かれたものです。
『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)と『国記』(くにつ・ふみ)が元になっているという説もありますが、いずれも現存していないので、正しい事はわかりません。
いずれにしても、太 安万侶(おお の やすまろ)が稗田阿礼(ひえだ の あれ)の誦習(しょうしゅう)する『帝紀』と『旧辞』を筆録して史書を編纂するよう命じられ、完成させた事だけは間違いありません。
『古事記』が、序文で編纂の経緯について説明しているのに対し、『日本書紀』には序文・上表文が無く編纂の経緯に関する記述は存在しないため、いつ成立したのか『日本書紀』それ自体からはわかりません。
ちなみに『帝紀』などが記された事についての記述は『日本書紀』に記されています。
三月庚午朔癸酉、葬阿倍夫人。丙戌、天皇御于大極殿、以詔川嶋皇子・忍壁皇子・廣瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稻敷・難波連大形・大山上中臣連大嶋・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。大嶋・子首、親執筆以錄焉。庚寅、地震。甲午、天皇居新宮井上而試發鼓吹之聲、仍令調習。
天武天皇 即位10年3月4日。阿倍夫人(あへの・おおとじ、こと天智天皇の妃の阿倍橘娘(あべの・たちばなの・いらつめ))を葬りました。
3月17日。天皇は大極殿(おおあんどの)に居て、川嶋皇子(かわしまの・みこ)・忍壁皇子(おさかべの・みこ)・広瀬王(ひろせの・おおきみ)・竹田王(たけだの・おおきみ)・桑田王(くわたの・おおきみ)・三野王(みのの・おおきみ)・大錦下(たいきんげ)の上毛野君三千(かみつけの・の・みちぢ)・小錦中(しょうきんちゅう)の忌部連首(いむべの・むらじ・おびと)・小錦下(しょうきんげ)の安曇連稲敷(あずみの・むらじ・いなしき)・難波連大形(なにわの・むらじ・おおかた)・大山上の中臣連大嶋(なかとみの・むらじ・おおしま)・大山下(だいせんげ)の平群臣子首(へぐりの・おみ・こびと)に詔(みことのり)して、『帝紀』と諸々のことを記し定めさせました。大嶋(おおしま)・子首(こびと)は自ら、筆をとって、記録しました。
3月21日。地震がありました。
3月25日。天皇は新宮(にいみや)の井戸の上にいて、試しに鼓吹(つづみふえ)の音を発し、それを整えて習わせました。
『日本書紀』の成立について伝えているのは、延暦(えんりゃく)16(西暦797)年に完成した勅撰史書(ちょくせん・ししょ)である『続日本紀』(しょく・にほんぎ)であり、次のように記されています。
養老四年(七二〇)五月癸酉【廿一】》○癸酉。太政官奏。諸司下国小事之類。以白紙行下。於理不穏。更請内印。恐煩聖聴。望請。自今以後。文武百官下諸国符。自非大事。差逃走衛士・仕丁替。及催年料廻残物。并兵衛・采女養物等類事。便以太政官印印之。奏可之。」頒尺様于諸国。」先是。一品舍人親王奉勅。修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻、系図一巻。
養老4(西暦720)年5月21日 太政官(だいじょうかん)が次のように奏上しました。知することは、道理において好ましくはありません。しかし更に天皇の印(いん)を申請することは、天皇の判断を煩わすことになるでしょう。よって今後は、文武百官が諸国に下す命令文書が大事以外の場合は、逃亡した衛士(えじ)・仕丁(しちょう)の代替者の指名、年料(ねんりょう、つまり、一年間に諸官司が必要とする物資)の督促、残り物の転用、あわせて兵衛(ひょうえ)・采女(うねめ)などを資養(しよう)するための物資、などといった類(たぐい)のことなどについては、太政官(だいじょうかん)の公印を押させることを要望します。
この奏上を許可しました。
基準とする尺度の見本を諸国に頒布(はんぷ)しました。
これより先に一品(いっぽん)の舎人親王(とねり・しんのう)は、勅(ちょく)を受けて「日本紀」(にほんぎ)の編纂に従っていましたが、この度それが完成し、「紀」(つまり、編年体の記録)三十巻と系図一巻を奏上しました。
同じく、天武天皇10(西暦681)年。天武天皇が川島皇子(かわしまの・おうじ)・忍壁皇子(おさかべ の おうじ)らに『日本書紀』の『帝紀』の編纂を命じました。
天武天皇の時代は、天武天皇を筆頭に左右を鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)と高市皇子(たけちのみこ)が固め、さらに天武系・天智系の皇族たちが各々の政策を取り纏める要職に就く体制でした。これを皇親政治(こうしんせいじ)と呼びます。
最初に日本の国史編纂を命じられた川島皇子は、天智天皇の息子です。忍壁皇子や最終的に完成させた舎人親王(とねり・しんのう)は、天武天皇の息子です。
天武天皇8(西暦679)年、天武天皇が鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)を伴い吉野に行幸したのですが、その際に天武系・天智系の皇子たちが皇族としての結束を誓う吉野の盟約が交わされました。具体的には、年齢順に高市皇子(たけちのおうじ)・川島皇子(かわしまのおうじ)・草壁皇子(くさかべのおうじ)・大津皇子(おおつのおうじ)・忍壁皇子(おさかべ の おうじ)・志貴皇子(しきのおうじ)の6柱(ろくはしら)が交わしました。うち、川島皇子と志貴皇子が天智天皇の皇子で、残り4柱(よんはしら)が天武天皇の皇子になります。舎人親王(とねりしんのう)は、まだ3歳だったので参加していませんでした。
この「吉野の盟約」の光景は『日本書紀』にはこのように記されています。
五月庚辰朔甲申、幸于吉野宮。乙酉、天皇、詔皇后及草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子曰「朕、今日與汝等倶盟于庭而千歲之後欲無事、奈之何。」皇子等共對曰、理實灼然。則草壁皇子尊、先進盟曰「天神地祗及天皇、證也。吾兄弟長幼幷十餘王、各出于異腹、然不別同異、倶隨天皇勅而相扶無忤。若自今以後、不如此盟者、身命亡之子孫絶之。非忘非失矣。」五皇子、以次相盟如先。然後、天皇曰「朕男等各異腹而生、然今如一母同産慈之。」則披襟抱其六皇子。因以盟曰「若違茲盟、忽亡朕身。」皇后之盟、且如天皇。丙戌、車駕還宮。己丑、六皇子共拜天皇於大殿前。
即位8年5月5日。天武天皇は吉野宮(よしの・の・みや)に行幸しました。
5月6日。天皇は皇后と、草壁皇子尊(くさかべの・おうじの・みこと)・大津皇子(おおつの・おうじ)・高市皇子(たけちの・おうじ)・河嶋皇子(かわしまの・おうじ)・忍壁皇子(おさかべの・おうじ)・芝基皇子(しきの・おうじ)に詔(みことのり)しました。
「朕(われ)は今日、お前たちとともに朝廷で盟約し、1000年の後まで継承の争いを起こすことのないように諮りたいと思うが、どうか。」
皇子たちはみんなが答えて言いました。
「ごもっともでございます」
草壁皇子尊(くさかべの・おうじの・みこと)はまず、進んで誓って言いました。
「天津神(あまつかみ)・国津神(くにつかみ)と天皇よ、はっきりとお聞きください。私ども兄弟、長幼(ちょうよう)あわせて十あまりの王は、それぞれの母は違っております。しかし、同母であろうとなかろうと、みな天皇のお言葉のままに、互いに助け合い、争いはいたしますまい。もし今後、この誓いに背(そむ)くような事があれば、命はなく、子孫も絶える事でありましょう。忘れますまい。あやまちを犯しますまい」
5柱の皇子も、前と同じように続いて誓い合いました。そうした後に天皇は言いました。
「朕(われ)の子どもたちよ、それぞれ母を異にしているが、みんな同じ母から産まれたのも同様に思われ愛おしい。
天武天皇は衣の襟(ころものえり)を開き、6柱の皇子を順番に抱きしめました。そして誓って言いました。
「もし朕(われ)がこの誓いに背いたならば、たちまち朕(われ)の身を滅ぼすであろう。」
皇后も誓いました。天皇のように誓いました。
5月7日。天皇の乗った籠(かご)は宮に帰って行きました。
5月10日。6人の皇子はともに天皇を大殿(おおとの)の前で拝礼しました。
ところが、実際には、この吉野の盟約は守られませんでした。六柱(はしら)の皇子(おうじ)の中で最初に誓いの言葉を述べたのは、天武天皇と鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)の子どもである草壁皇子(くさかべの・おうじ)だった事からもわかるように、草壁皇子は、当時は17歳で、なぜ年長の高市皇子(たけちの・おうじ)や川島皇子(かわしまの・おうじ)を差し置いて、草壁皇子が最初に誓いの言葉を述べたのでしょうか。つまり、吉野の盟約は、草壁皇子こそが天武天皇の跡を継ぐ立場にある事を、事実上、宣言するための儀式でもあったという事です。
高市皇子の母親は筑紫国の豪族、宗形徳善(むなかた・の・とくぜん)の娘ですが、それに対し、草壁皇子の母親は天智(てんじ)天皇の娘でもある鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)。そもそも天智天皇の死後、大友皇子(おおともの・おうじ)の即位に反発する廷臣や豪族が少なくなかったのは、母親の身分が低かったためでした。
大友皇子の母親は、元々は後宮(こうきゅう)の女官だった伊賀宅子娘(いがの・やかこの・いらつめ)ですが、それに対し、大海人皇子(おおあまの・おうじ)の母親は、二度も天皇として即位した天豊財重日足姫天皇(あめ・とよ・たから・いかし・ひたらし・ひめの・すめらみこと)こと、皇極(こうぎょく)天皇、重祚(ちょうそ)後は、斉明(さいめい)天皇です。両親ともに天皇である大海人皇子と母親が元後宮(もと・こうきゅう)勤めの女官(にょかん)だった大友皇子では、血筋に決定的な差がありました。「男系であれば、天皇に即位できる」とはいっても、さすがに母親の身分にそこまでの差があると、天智天皇がいくら実子である大友皇子の即位を願ったとしても、難しかったということでした。
天皇の後継問題は、壬申の乱以降も繰り返される事になります。吉野の盟約に参加した皇子たちも、否応なしに後継者争いに巻き込まれていきました。
『日本書紀』に話を戻しますが、天武天皇は吉野の盟約の2年後、天武天皇10(西暦681)年、草壁皇子を日嗣の御子(ひつぎのみこ)として擁立し、川島皇子(かわしまの・おうじ)・忍壁皇子(おさかべ の おうじ)らに日本の天皇の記録、『帝紀』の編纂を命じました。これがやがて『日本書紀』となっていきます。完成したのは、養老(ようろう)4(西暦720)年です。
また、『古事記』についてですが、初めから日本の正式な国史として編纂された『日本書紀』とは異なり、『古事記』は乙巳の変(いっし・の・へん)で失われた『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)と『国記』(くにつ・ふみ)に変わる歴史書を書く事を天武天皇が命じたことが発端となりました。まずは天武天皇に舎人(とねり)として仕えていた稗田阿礼(ひえだ・の・あれ)が記憶力の良い事を見込まれ、日本の古い記録、『帝紀』や『旧辞』を学ぶ事を命じられ、後に稗田阿礼(ひえだ・の・あれ)が語る日本の歴史を太安万侶(おお の やすまろ)が編纂したのもが『古事記』になります。ちなみに、『古事記』は和銅(わどう)5(西暦712)年なので、『日本書紀』よりも8年早く完成しています。
それにしても、なぜ天武天皇はわざわざ2種類の国史を編纂するように、命じたのでしょうか。
それは、誰に読んでほしいのかという目的あるいは対象が違ったからです。
『日本書紀』は支那に向けて、「我が国はこれこれこういう歴史を持つ国だ」と示すために編纂されたもので、それに対し、『古事記』の方は日本国民に自分たちが住んでいる国はこういう国だよと教えるために作られたというわけです。なので、物語としては『古事記』の方が面白いものです。自国の歴史を国民に知ってもらう必要があったのは、日本国民としての共同体意識を持ってもらうためです。何しろ当時の日本は、白村江(はくすきのえ)の戦いの記憶もまだ新しく、外国からの侵略を常に頭に入れておかなければならない時代でしたから。いつの時代であれ、防衛などの安全保障を確立するためには、共同体意識を醸成する必要があるからです。
大陸の支那帝国が脅威であって、その侵略に備えるならば、日本国民が連帯するしかありません。そして国民の連帯のためには、自分たちは同じ歴史を共有する仲間であるという共同体意識が絶対に必要という事です。これは現代でも変わらない事です。
せっかく世界で一番長い歴史を持つ国に住んでいる日本人が、自分たちの歴史を知らないのも、何とももったいない話ですし。
当チャンネルの別の動画で解説している伊勢神宮の式年遷宮(しきねん・せんぐう)は、20年に一度、東西の宮所(みやどころ)を改め、社殿や御装束神宝をはじめ、すべてを新しくした上で天照大神の象徴である八咫鏡を移す儀式ですが、これを始めたのも、天武天皇です。天武天皇は元々、瀧原宮(たきはらのみや)にあった伊勢神宮を現在の五十鈴川(いすずがわ)沿いに移し、皇女(ひめみこ)の1人である大伯皇女(おおくの・ひめみこ)を送り、斎皇女(いつき・の・みこ)として仕えさせました。さらに十市皇女(とおち・の・ひめみこ)・阿閇皇女(あへ・の・ひめみこ)を参拝させるなど、伊勢神宮を重視されました。現在まで続く、20年ごとのお宮の建て替えも命じました。第1回の遷宮(せんぐう)は、天武天皇の死後である、持統天皇4(西暦690)年の事です。
現代日本にも大きな影響を与えた天武天皇は、天武天皇15(西暦686)年に病を患い、政務を皇后と皇太子に委ねました。皇后は全国の寺院の僧侶に天皇の回復を祈らせたのですが、改元後の朱鳥(しゅちょう)元(西暦686)年9月11日に崩御しました。
『日本書紀』には、このように記されています。
九月戊戌朔辛丑、親王以下逮于諸臣悉集川原寺、爲天皇病誓願、云々。丙午、天皇、病遂不差、崩于正宮。戊申、始發哭、則起殯宮於南庭。辛酉、殯于南庭、卽發哀。當是時、大津皇子、謀反於皇太子。
天武天皇即位15年9月4日。親王(しんのう)から臣下たちまで、すべて川原寺(かわらでら)に集まって、天皇の病気のために誓願しました。うんぬん。
9月9日。天皇の病はついに治癒せず、正宮(おおみや)で崩御しました。
9月11日。初めて発哭(みねたてまつり、つまり、泣いて悲しみを表現する儀式)しました。殯宮(もがりの・みや)を南庭(みなみの・おおば)に建てました。
9月24日。南庭(みなみの・おおば)で殯(もがり)しました。すぐに発哭(みねたてまつり)しました。この時に、大津皇子は皇太子に謀反(むほん)しようと企(たくら)みました。
つまり、皇太子であった草壁皇子(くさかべの・おうじ)が天皇として即位して、天武天皇の事業を引き継ぐというのは、簡単な事ではなかったということです。
天武天皇は権威と権力を併せ持った天皇だったにも関わらず、律令(りつりょう)国家化も藤原京建設も国史編纂も式年遷宮も、すべて自ら始めたにもかかわらず、結末を見ることなく崩御してしまい、次の天皇の即位もままなりませんでした。
