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仏教伝来の本当の理由

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元々、仏教は、紀元前500年頃、今から2500年も昔に、インドで生まれた宗教です。
仏教の開祖は、ゴータマ・シッダールタというインド北部のシャーキャ族の王子で、お釈迦様と呼ばれています。これは、シャーキャ族、別名シャカ族、という部族の名前から来ています。

ちなみに、お釈迦様ことシッダールタ王子は、お母さんの右脇から産まれ、いきなり7歩歩いて、「天上天下唯我独尊」(てんじょうてんが、ゆいがどくそん)との言葉を発したことで有名です。

この言葉は、
「人間は何らかの条件によって尊いのではなく、人間の、いのちの尊さは、能力、学歴、財産、地位、健康などの有無を超えて、何一つ付加することなきままで尊い「私」を見出すことの大切さ」を意味しています。

シッダールタが最終解脱(さいしゅうげだつ)して、ブッダとなりますが、そのブッダの教え、すなわち仏教は、インド北部から東南アジアに伝わった南伝仏教、別名、上座仏教と、中央アジアから、西暦1世紀から3世紀にかけて、支那・朝鮮に伝わった北伝仏教、別名、大乗仏教という、2つの宗派で東に伝播していきました。日本に伝わったのは、主に大乗仏教の方です。

ちなみに、伝わってはいますが、支那は仏教国なのかというと、ちょっと違います。
支那では紀元前6世紀に儒教が発生し、「政治的な理論」として儒教を採用したので、政治家や官僚などの支配者層はこぞって儒教を学びました。が、庶民は道教の影響が大でした。道教は多神教で、現在の中国にもその影響は少なくないと言われております。とはいえ、現在最も道教が強い国は台湾だと言われています。台湾でも、仏教を強く信仰したのは「金持ち」でした。

仏教の根本は「輪廻」なので、金持ちは、ずっと、この楽しい世界が繰り返される事を望み、好んで仏教を信仰したわけです。日本に伝来したのは「そういう金持ち道楽」としての仏教でした。

日本に仏教が伝わったことを、かつては「仏教伝来」と言っていたのですが、最近では「仏教公伝」(ぶっきょうこうでん)と呼ばれております。仏教は、宣化(せんか)天皇3(西暦538)年、もしくは、欽明(きんめい)天皇13(西暦552)年に、百済の聖明王が欽明天皇に伝えたのですが、実はそれ以前から、民間の信仰として、日本に入ってきていたことが確実であるためです。

朝鮮半島に仏教が伝わっていたならば、当時は半島と日本列島の間で、大勢の人が行き交っていたので、普通に仏教信者が日本にやってきたものと思われます。それで、「仏教伝来」ではなく、公に国家間で仏教が伝えられたから、「仏教公伝」と呼ばれるわけです。

その仏教公伝について、「日本書紀」にはこのように記されております。

是月、百濟造丈六佛像、製願文曰「蓋聞、造丈六佛功德甚大。今敬造、以此功德、願天皇獲勝善之德、天皇所用彌移居国倶蒙福祐。又願、普天之下一切衆生皆蒙解脱。故造之矣。」

この月(欽明6年9月)に百済は丈六(ジョウロク)の仏像を造りました。願文(がんもん)を作って言いました。
「聞いたところによると、丈六の仏を造った功徳(ノリノワザ)はすばらしく大きいとのこと。今、敬い、造りました。この功徳をもって、願わくば、天皇は勝善徳(スグレタイキオイ)を得られて、天皇が治める弥移居国(ミヤケノクニ)はともに幸いを被りましょう。また、願わくば、普天(アメ)の下の一切の衆生(イケルモノ)は皆、解脱(ヤスラカナルコト)を被りましょう。そのために造ったのです。」

5世紀になると、朝鮮半島の百済では、仏教信仰が盛んになりました。これは百済が高句麗や新羅(しらぎ)から軍事的な圧力を受け続けていた事と無関係ではないと思われます。

雄略(ゆうりゃく)天皇19(西暦475)年に、高句麗に、王都である漢城を攻め滅ぼされて、一旦百済は滅亡しました。その後、生き残りの王族が南方に都を移して、百済を再興したのですが、敵国による度重なる侵略を受けて、百済の人々にとっては、つまり、「仏教が唱える最悪の時代である末法の世に生きていて、今は末世である」、との意識を高めたのではないかと思われます。百済の国力の衰退によって、仏教の信仰が強まっていったわけです。

では、なぜ、4世紀末には、百済に仏教が伝わっていたにも関わらず、なぜ6世紀、宣化天皇3(西暦538)年まで、日本に公式に仏教が伝わらなかったのでしょうか?百済は日本との関係が深く、しかも海を挟んだ隣国なのに、100年以上も、公式には玄界灘を越えて、仏教が伝わることがなかったのですから。

後から振り返ってみると、遅くとも5世紀の時点で、仏教が公式に日本に伝わっていてもおかしくなかったのに、実際には、宣化天皇3(西暦538)年なわけですから。

実は、百済側には、仏教を日本に伝えたくない理由があったものと思われます。

何しろ我が国は、八百万(やおよろず)の神の国です。その国を治める天皇陛下は、神武天皇の直系の子孫であり、その神武天皇は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の曽孫(ひまご)なわけで、伊邪那岐神(いざなぎ)、天照大御神(あまてらす・おおみかみ)という神話の世界からの血筋を受け継いでいるお方。
その国に、仏様を信仰の対象として崇める宗教を薦めるのはいかがものか?

特定の宗教を信じている人達に、「仏様を拝みませんか?」と自分が信じる神を信じるように勧めたところで、普通は反発されるだけですから。下手をすると、戦争になってしまいます。

そもそも、宗教戦争は歴史を大きく動かしてきました。キリスト教でも、ボヘミアのフス戦争とか、ルター登場後のプロテスタントとカトリックの戦いとか。ネーデルラント連邦共和国のスペインからの独立戦争も、「三十年戦争」も宗教が切っ掛けです。
欧州では、宗教上の差異が理由で、何十万人も死んでいます。
イスラム教でも、スンニ派とシーア派、で、殺し合いが絶えません。
もちろん、十字軍のように、キリスト教徒とイスラム教徒でも大きな戦争を繰り返してきました。

神社に初詣に行き、聖ウァレンティヌスことヴァレンタインの殉教日に、なぜか彼氏にチョコレートを贈り、元々はケルト人の祭りのはずだったハロウィンに仮装して、渋谷で暴れ狂い、クリスマスに彼女と食事などをして、結婚式は教会でやって、死んだらお寺でお葬式を挙げる、ような多くの日本人には、理解しにくい事ですが、宗教を薦めるのは怖い事だったでしょう。何でもかんでも、何となく受け入れて、自分たちの文化にしてしまうのが、日本人らしいところなのですが。

しかも、当時は、天皇の周囲にいる大臣など、群臣の多くが神道派でしたから。新羅や高句麗との戦争で、日本の支援がどうしても必要な百済が、特に政治判断に影響する群臣達の神経を逆なでするような真似はできないのではないでしょうか。

それでも、百済の聖明王は、日本の天皇に仏教の信仰を伝えることにしました。それで仏教公伝となりました。

聖明王謂之曰「任那之国與吾百濟、自古以來約爲子弟。
聖明王は語って言いました。「任那国と我が百済は古(イニシエ)以来、子であり弟であると約束した関係だ。

と『日本書紀』に記されているように、当時、百済は、任那の本国である日本に、ひっきりなしの軍勢派遣要請をしており、日本側も、のらりくらりとした対応をしていました。
百済としては、何としても日本に兵を出して欲しかったわけなので、宣化天皇3(西暦538)年(欽明天皇13(西暦552)年という説もありますが。)、聖明王が支那の遼から手に入れた貴重極まりない、きらびやかな仏像と仏教の経典を、貢物として欽明天皇に送りました。これが仏教公伝です。

というわけで、その翌月、百済の聖明王は日本に仏像などを献上しています。

『日本書紀』には、このように記されています。

冬十月、百濟聖明王更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一軀・幡蓋若干・經論若干卷。別表、讚流通禮拜功德云「是法、於諸法中最爲殊勝、難解難入、周公・孔子尚不能知。此法、能生無量無邊福德果報、乃至成辨無上菩提。譬如人懷隨意寶・逐所須用・盡依情、此妙法寶亦復然、祈願依情無所乏。且夫遠自天竺爰洎三韓、依教奉持無不尊敬。由是、百濟王・臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉傳帝国流通畿內。果佛所記我法東流。」

(欽明天皇、即位13年)冬10月。百済の聖明王(せいめいおう)は西部姫氏達率怒唎斯致契(せいほう・きしだち・そちぬり・しちけい)たちを派遣して釈迦仏(しゃか・ほとけ)の金銅像一軀(かねの、みかた・ひとはしら)・幡蓋若干(はたきぬがさ・そこら)・経論若干卷(きょうろん・そこらの・まき)を献上しました。別に表(ふみ)で、流通(ひとに・あまねは)して、礼拝(みずから・おがむ)し、功徳を褒めて言いました。
「この法(みのり)は諸々(もろもろ)の法(みのり)の中で最も優れています。理解しづらく、入りづらいものです。周公・孔子も理解することはできませんでした。この法(みのり)はよく出来ていて、量もなく、限りも無く、福徳果報(いきおい・むくい)を成し、優れた菩提(ばだい)を成します。例えば、ある人が随意宝(こころのまま・なる・たから)を手に入れて、必要な場所で、全て心のままになるようなもので、この妙法の宝も同じなのです。祈り願えば、心のままになり、足りないものなどありません。それは遠く天竺(てんじく)からこの三韓にたどり着くまでに、教(みのり)に従い奉り、尊ばれ敬われなかったことなどありません。それで百済の王の臣の明(めい)は謹んで陪臣(はべる・まへつ・の・きみ)の怒唎斯致契(ぬり・しち・けい)を派遣して、帝国(みかど)に伝え奉ろうと、畿内(うちつくに)に流通(あまね・はさむ)したのです。仏が『我が法(みのり)は東に伝わるだろう』と記したことを果たしたのです」

難しい言い回しですが。要するに、すごくて素晴らしくて、遠くインドから朝鮮半島まで、みんなが尊敬しているのが仏法で、仏様も自分の考えが東に伝わると言ったので、私、聖明王も、その意思を汲んで、日本に仏教を伝えます、ということです。

儒教は中国で生まれました。その思想は「どうやって統治するか」「どうやって社会を安定させるか」というもので、いわば「政治倫理(りんり)」、つまり官僚の倫理観でした。

では仏教はどうかというと、仏教は「金持ちの道楽」でした。仏教の根幹は輪廻です。生まれ変わりを繰り返すという思想です。金持ちからすると、「こんな楽しい人生が、まだまだ何回も続くなんて」となったのです。だから初期の仏教は非常に煌びやかなのです。

日本は儒教の影響がみられるのですが、非常に限定的でした。ほんの少しだけなのです。日本は儒教が入ってきても昔からの価値観である「和」が中心でした。「みんな仲良く」「みんな平等」という事です。「和を乱すやつは徹底排除」しますが。この「和」と「儒教」の上下関係は相容れないものです。

儒教は上下をはっきりさせることで社会を安定させようとします。上の言う事には下は絶対服従しなければなりません。そうすることで社会秩序が保たれるのです。ちなみに、下が上に逆らったら、ボコボコにされます。

日本には「平等」という性質がありますから、同等に関わろうとするのですが、儒教国は「どっちが上か?」が大事ですから、そこにこだわります。また「和」は基本的に「みんな仲良く」が大事ですが、儒教国の場合は、いきなり「どっちが上か?」で戦争を吹っかけてくるので、「平等」に拘っていては、どうしても後手(ごて)に回ることになります。新羅・高麗という儒教国と日本の間には文化摩擦が起きても当然です。現代にも言える事ですが。

百済はその「儒教」と「和」の文化摩擦に巻き込まれてしまいました。任那は新羅に圧迫され、このままでは百済は孤立してしまう。儒教ではない新しい価値観を百済は必要としました。日本にとってもそうだったのでしょう。

日本はこの時代に朝鮮半島で、たくさんの「兵」を失っていたのではないかと思われます。

日本人は「穢れ」を嫌い、「死」を嫌います。だから兵隊・戦争を嫌います。しかし兵隊は社会に絶対に必要なものです。これを「穢れ」という感覚のない異民族にやらせていました。それが蝦夷(えみし)です。蝦夷(えみし)の子孫である佐伯が地域によっては名士として残っているのは、そういう事情があったからでしょう。ところが蝦夷(えみし)も長く大和朝廷と関わっているうちに「穢れ」の感覚が身についてしまい、兵隊・戦争に関わりたくなくなってきた。そうなると、この時代に兵隊が枯渇しても不思議ではありません。

それで仏教が必要になった。仏教には「穢れ」の感覚がありませんから。穢れの感覚が無いなら、兵隊・戦争に対する嫌悪感はありません。日本も仏教を必要としたのには、そういう事情があったのかもしれません。

おまけに、「何でも思い通りになるようなものだから、信じてみなさい」という事です。個人の欲求を刺激することで普及させるというのは、どの宗教でも、いつの時代であろうとも行われてきましたから、不思議な事でもありません。

『日本書紀』はこのように記されています。

是日、天皇聞已、歡喜踊躍、詔使者云「朕從昔來、未曾得聞如是微妙之法。然朕不自決。」乃歷問群臣曰「西蕃獻佛、相貌端嚴。全未曾有、可禮以不。」

欽明天皇、即位13年、冬10月。この日、天皇は聞き終わると、歓喜して踊り飛び上がり、使者に詔(みことのり)して言いました。

「朕(われ)は昔からこの方、いまだ、かつて、このように、細かく詳しい法を聞いたことが無い。しかし、朕(われ)は自らでは決められない。」

それで群臣(マヘツキミタチ)の皆に問いました。

「西蕃(にし・の・となり・の・くに)が献上した仏の顔は端厳(きらぎら)しいものだった。いまだかってこのようなものは無かった。礼を持って接するべきか否か。」

蘇我大臣稻目宿禰奏曰「西蕃諸国一皆禮之、豊秋日本豈獨背也。」

蘇我大臣稲目宿禰(そがの・おおおみ・いなめ・の・すくね)は言いました。
「西蕃(にしの・となりの・くに)の諸国(もろくに)は皆、もっぱら仏を敬っています。豊秋日本(とよあきづ・やまと)だけが、どうして独りで背くことができましょうか」

蘇我稲目(そがの・いなめ)というと、建内宿禰(たけのうちの・すくね)の子孫である蘇我氏の長(おさ)です。蘇我稲目の父親は、蘇我高麗(そがの・こま)。高句麗の高麗(こま)、高麗(こうらい)と書いて高麗(こま)です。さらに祖父の名は、蘇我韓子(そがの・からこ)。つまり韓(から)の人いう意味だったので、蘇我氏は、元々朝鮮半島の任那や韓との関係が深かったのかもしれません。つまりは、朝鮮半島の倭人コミュニティや百済などとの交易をしていた商人だったのではないかと思われます。蘇我氏は、伝統的に、朝廷の財政を管理していましたので、そう考えた方が、色々としっくり来ると思われます。

それで、朝鮮半島と関係が深かった可能性が高い蘇我稲目は、もちろん仏教についても、元々知っていたと思われますし、半島の商売相手との関係が良好になることを期待して、仏教の受け入れを天皇に勧めたのでしょう。とはいえ、もちろん当時の朝廷には、外来の宗教を受け入れることに反対する人々も多かった、というか、そちらの方が圧倒的な多数派でした。

天照大御神(あまてらす・おおみかみ)を筆頭とする日本の古来の神々を信じる勢力、いわゆる保守派です。

つまり、別に善悪ではありませんが、当時の日本は、古来の神々を大切にする保守派と西方から渡来した仏教を信じようとするグローバル派の両派が争っていました。保守派の代表が大連(おおむらじ)の物部尾輿(もののべ・の・おこし)や中臣鎌子(なかとみ の かまこ)でした。神道との関係が深かった物部氏や中臣氏らにとって、外来の神を受け入れるなど言語道断でした。

物部大連尾輿・中臣連鎌子同奏曰「我国家之王天下者、恆以天地社稷百八十神、春夏秋冬祭拜爲事。方今改拜蕃神、恐致国神之怒。」

物部大連尾輿(もののべの・おおむらじ・おこし)と中臣連鎌子(なかとみの・むらじ・かまこ)は同じく言いました。
「我が国が、天下(あめのした)に王(おみ)と仰いでいるのは、常に天地社稷(あまつ・やしろ・くにつ・やしろ)の百八十神(ももあまり・やそかみ)であり、春・夏・秋・冬に祭り拝むことを大切にしています。今、これを改めて、蕃神(あたし・くにのかみ)を拝めば、恐ろしいことに、国神(くにつかみ)のたたりがあるでしょう」

天皇曰「宜付情願人稻目宿禰試令禮拜。」

天皇は「願う人である、蘇我稲目宿禰(そがの・いなめの・すくね)に仏を授けて、試しに敬い拝むことにしよう」と言いました。

要するに、外国の神を拝むと、日本の神々に祟(たた)られるという話です。欽明天皇が、蘇我稲目に、試しに仏を礼拝してみよ、と命じたので、稲目は喜び、仏像を家に祭り、さらにはお寺を建設しました。ところが、その後の日本では、疫病が幾度となく発生することになってしまいました。

このことは、保守派である廃仏派の群臣達にとって、仏教を拒絶させる絶好の機会だったわけで、ついで、廃仏派の物部氏らにとって、権力を争う蘇我氏を没落させる好機でもありました。というわけで、物部尾輿らは、欽明天皇に言いました。

「昔日不須臣計、致斯病死。今不遠而復、必當有慶。宜早投棄、懃求後福。」

「昔のあの日、わたしめの提案を用いなかったから、このような病気による死が蔓延しているのです。まだ、遅くありません。元通りにすれば、必ず良いことがあるでしょう。早く仏像や経典などは投げ捨てて、後の幸福を求めましょう」

天皇曰「依奏。」

天皇は「申すままにせよ。」と言いました。

有司乃以佛像、流棄難波堀江。復縱火於伽藍、燒燼更無餘。於是、天無風雲、忽炎大殿。

有司(つかさ)はすぐに仏像を難波の堀江に流して捨てました。また、伽藍(てら)に火をつけました。焼きつくして何も残りませんでした。天に風雲が無いのに、宮(欽明天皇の宮の金刺宮のこと)に火災がありました。

にわかに欽明天皇の宮の大殿に火災が発生したので、当然ながら、「仏を粗末に扱ったため」という宣伝が展開されることになったのでしょう。互いに、不幸を相手のせいにして、権力闘争を勝ち抜こうとしているだけだったと思われますが。

当時は、日本でも疫病が繰り返し発生していましたが、これは仏教や神道とは、何の関係もありませんでした。単に任那が滅亡に追い込まれ、百済も聖明王が戦死するほどの危機に突入し、大勢の難民が、朝鮮半島から海を越えて日本列島に流れ込んだためなのでしょう。神様や仏様が病を運ぶことはありません。歴史を見ればわかりますが、疫病を運ぶのは、常に人なのですから。つまりは、国境の向こう側からは、良きものもやってきますが、悪しきものも訪れるという事です。

古代日本の場合は、さすがに軍隊までは、やってこなかったので、任那や百済の人達よりは、マシだったのですが。

高句麗や新羅の軍が頻繁に侵略してくるため、亡国の響きが刻一刻と近づいてくる状況で、百済や任那で仏教が一気に広がったのは実に分かりやすく、また日本の場合も、疫病という災厄が続き、既存の信仰にすがるのみならず、新たな神を求めてしまう人々が増えたのも、自然な成り行きだったのではないでしょうか。

当チャンネルの別の動画にもありますが、繰り返し疫病が襲いかかってきて、人々が救いを求める状況が続いたために、古代ローマでキリスト教が一気に普及したのですから。特にキリスト教の場合は、疫病に苦しむ人々を看病し、自分も感染して命を失うはめになっても、善行を積んだので、死んだら天国に行けるという教えですから。実際、古代ローマで疫病が流行した際には、キリスト教徒だけが逃げずに踏みとどまり、最後まで患者を見捨てなかったという記録があります。

ローマ帝国では、ギリシア神話のゼウスと同一視されるユーピテルを主神とする神々が信じられていたのですが。次第にキリスト教という一神教に駆逐されていくことになりました。欽明天皇、さらには、次代の敏達天皇の御代と実によく似ています。国中で災厄が繰り返される中、新たな宗教である仏教と既存の神々、つまりは、八百万の神が勢力争いを繰り広げたわけです。大和王朝における保守派、つまりは廃仏派とグローバル派である崇仏派との争いは、物部尾輿・蘇我稲目の息子の代にまで持ち越されることになりました。

欽明天皇32(西暦571)年に、欽明天皇が崩御され、第二皇子である沼名倉太珠敷命(ぬなくらの・ふとたましき・の・みこと)が敏達天皇として即位しました。その敏達天皇は、明確な廃仏派でした。それで、敏達天皇の時代には、廃仏派の物部守屋の派閥が勢いづき、敏達天皇に仏教禁止を提言しました。

『日本書紀』には、このように記されています。

「何故不肯用臣言。自考天皇及於陛下、疫疾流行、国民可絶。豈非專由蘇我臣之興行佛法歟。」

「どうしてですか。私めどもの言葉を用いて肯定しないのですか。孝天皇(カゾノミカド)から、陛下(キミ)まで、疾病が流行して、国の民が絶命しました。どうして、蘇我臣(そが・の・おみ)が仏法を興行したためではないというのでしょうか。」

宗教対立と権力闘争の、両方の側面があったのでしょう。当時、朝廷は物部派と蘇我派に分かれ、激しく権力を争っていましたので。というわけで、物部守屋らの提言を受けた敏達天皇は、

「灼然、宜斷佛法。」
「明らかならば、仏法は止めよ」と言いました。

勢いに乗った物部守屋らは、蘇我氏をはじめ、崇仏派への弾圧を始める事になりました。『日本書紀』にはこのように記されています。

丙戌、物部弓削守屋大連自詣於寺、踞坐胡床、斫倒其塔、縱火燔之、幷燒佛像與佛殿。既而取所燒餘佛像、令棄難波堀江。是日、無雲風雨。

3月30日に物部弓削守屋大連(もののべ・ゆげの・もりや・おおむらじ)は自ら寺に詣でて、床几(しょうぎ)に胡座をかき、その塔を切り倒して、火をつけて焼きました。一緒に仏像と仏殿を焼きました。焼いたところの焼け残った仏像を取り、難波の堀江(ホリエ)に捨てました。この日に雲は無く、風が吹いて、雨が降りました。

ところが、敏達天皇は、仏教禁止令を出した、まさにその年に、病で亡くなってしまいました。

發瘡死者充盈於国、其患瘡者言「身、如被燒被打被摧」啼泣而死。老少竊相謂曰「是、燒佛像之罪矣。」

瘡(カサ)を発症して、死ぬ者が国に満ちました。瘡(カサ)を病む橘豊日皇子(タチバナノ・トヨヒノ・ミコ)が、「身体が焼かれ、打たれ、砕かれるかのようだ。」と、言って、
泣き喚いて死にました。老人も幼いものも、静かに語り合って言いました。
「これは仏像を焼いた罪ではないのだろうか。」

日本人が古来から信仰している神は「怖いから、奉る」ものです。祟るから、敬う。何をするか分からないから、機嫌を取る。その機嫌の取り方が、神楽・料理・舞・歌・物語・相撲・演奏なわけです。

ここまでは仏はおとなしいものでした。焼き捨てられても何も無かった。しかし、ここに来て、祟りが降りかかりました。日本人がもっとも恐れる、しかも、日本人にとって未知の病気である疫病でした。

それで仏教は日本人に「祟りの恐怖」を植え付け、日本の宗教へと駆け上がることになります。

『日本書紀』にはその敏達天皇の葬儀の際の出来事が、このように記されています。

馬子宿禰大臣、佩刀而誄。物部弓削守屋大連、听然而咲曰、如中獵箭之雀鳥焉。

馬子宿禰大臣(うまこ・の・すくね・の・おおおみ)は刀を身につけて、誄(しのびのこと)を奉りました。物部弓削守屋大連(もののべ・ゆげの・もりや・おおむらじ)は嘲笑(あざわら)って言いました。
「猟で使う矢に当たった雀鳥(すすめ)のようだ。」

物部守屋(もののべ・の・もりや)は、廃仏派であると同時に、軍人でした。というよりも、そもそも物部(もののべ)の一族が朝廷の軍務を司る軍事氏族でした。軍人の身からしてみると、財務担当の文官であった蘇我馬子(そがの・うまこ)のお仕着せのような武人の装いが、滑稽に見えたのでしょう。

崩御した天皇の葬儀の場で、大臣が同僚の大臣を嘲笑するなどというと、対立激化必至ですが、両派の対立は、最終的には武力を用いることになってしまいました。その前に蘇我馬子の父親、蘇我稲目は、自分の娘を2人欽明天皇に嫁がせていました。

姉の堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇との間に産まれたのが、第31代となる用明(ようめい)天皇。それに第33代の推古(すいこ)天皇。妹の小姉君(おあねのきみ)との間に産まれたのが第32代の崇峻(すしゅん)天皇や穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)です。そして穴穂部間人皇女と用明天皇が結婚し産まれたのが、厩戸皇子(うまやどの・おうじ)こと聖徳太子です。

つまり、蘇我馬子は欽明天皇に嫁いだ姉妹の兄弟で、用明天皇・崇峻天皇・推古天皇という三代の天皇からしてみると、叔父にあたる立場だったので、だから廃仏派が力を増しても、蘇我家が取り潰されるような事態にはならなかったという事です。

物部守屋の側からしてみると、崇仏派で目ざわりな蘇我馬子を失脚させたいのは、やまやまですが、何しろ皇族と姻戚関係でガッチリと結びついているので、さすがに、直接、手を出すことは、難しかったのではないかと思われます。とはいえ、最終的に、物部と蘇我の両派は、武力で決着をつけることになりました。

敏達天皇の死後、第31代用明天皇が即位しました。その息子が聖徳太子です。ところが天皇は病弱で、病を経て仏法を奉りたい。より具体的には、仏・法・僧の三法に帰依したいと群臣に諮(はか)りました。当然ながら廃仏派の物部勢と崇仏派の蘇我勢が全面衝突しました。

物部守屋大連與中臣勝海連、違詔議曰「何背国神、敬他神也。由來不識若斯事矣。」

物部守屋大連(もののべの・もりや・おおむらじ)と中臣勝海連(なかとみの・かつみの・むらじ)は詔(みことのり)の議(はからい)に反抗して言いました。
「どうして国神(くにつかみ)に背いて、他神(あたしかみ)を敬うのですか。大体このようなことは、今まで聞いたことがありません。」

蘇我馬子宿禰大臣曰「可隨詔而奉助、詎生異計。」

蘇我馬子宿禰大臣(そがの・うまこ・すくねの・おおおみ)は言いました。「詔(みことのり)に従って、助け奉るべきだ。誰が、奇妙な計画をなそうとしているのか?」

馬子は、天皇の詔が下った以上、相談するまでもないと守屋らの反対論を切り捨てたわけですが。ここに両派の対立は決定的となり、物部守屋は朝廷を去り、本拠地の河内(かわち)で軍を集め始めました。その直後、用明天皇が崩御し、両派閥の争いを止めるものはいなくなりました。

物部守屋が軍勢を集結させたことを受け、蘇我馬子は、味方となる豪族達とともに、兵士を率いて河内に向かいます。いわゆる丁未の乱(ていびのらん)ですが。その際に、馬子は自分の姪孫(てっそん)、つまりは甥(おい)の子どもに当たる少年を同行させました。その少年こそが。厩戸皇子(うまやどの・おうじ)、つまり聖徳太子です。

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