平安時代中期に成立した『源氏物語』は全54帖、文献初出は寛弘(かんこう)5(西暦1008)年。平安末期に「源氏物語絵巻」(げんじものがたり・えまき)として絵画化(かいがか)されています。作者の紫式部は平安中期における和歌の名手の1人で、娘の大弐三位(だいに・の・さんみ)とともに「百人一首」や「女房三十六歌仙」(にょうぼう・さんじゅうろっかせん)の歌人として現代に至るまで永く親しまれている歌人のひとりです。
『源氏物語』は「世界最古の長編小説」として知られており、ダンテの『神曲』より300年も前に書かれており、しかも、叙事詩である『神曲』とは異なり、本物の小説です。なので、マルセル・プルーストの長編小説『失われた時を求めて』と比べる人も少なくありません。
作者は紫式部(むらさき しきぶ)です。本名や正確な生没年はわかっていません。宮中(きゅうちゅう)での女房名は藤式部(とう の しきぶ)で、後に「紫式部」と呼ばれたのですが、いずれも通称です。藤原為時(ふじわら の ためとき)の娘で、為時が花山(かざん)天皇即位に際して式部大丞(しきぶ・の・たいじょう)に任ぜられ、少女時代に式部丞(しきぶ・の・じょう)をやっていたことから、藤式部と呼ばれていたのですが、のちに『源氏物語』が知られるようになってから、尊敬の念をこめた呼び方として紫式部が定着しました。
平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名を公にしない場合が多く、紫式部をはじめ清少納言(せい・しょうなごん)や和泉式部(いずみ・しきぶ)など、実名はわかっていないものの、通称で知られている女性は少なくありません。例えば、『更級日記』(さらしな・にっき)の作者は菅原孝標女(すがわらの たかすえの むすめ)と表記されています。
紫式部の生没年に関する近年の研究では、天禄(てんろく)元年(西暦970年)から天元(てんげん)元年(西暦978年)の間に生まれ、少なくとも、寛仁(かんにん)3(西暦1019)年までは存命したとされ、その後の没年は誕生年と同じく、研究者ごとに様々な説がありますが、どれも確証はなく不明となっています。
『源氏物語』は、紫式部が生涯で唯一残した物語作品で、貴族階級全盛期だった平安中期に生き、宮仕えで宮中の内情にも日常的に接していた紫式部が、和歌795首を詠み込みつつ、当時の貴族社会を描いた大傑作です。日本文学史上の最高傑作が、世界で三番目に古い国であるイギリスの建国前に書かれていることは驚きでしかないでしょう。マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』とよく比較されます。
そもそも、「物語」というものには、『竹取物語』、『うつほ物語』、『伊勢物語』など、いろいろありますが、この中で作者が分かっているのは『源氏物語』ぐらいで、ある意味、特別な作品と言えるでしょう。
古写本(こしゃほん)には題名の記されていないものも多く、記されている場合であっても内容はさまざまです。『源氏物語』の場合は冊子の標題として「源氏物語」ないしそれに相当する物語全体の標題が記されている場合よりも、それぞれの帖名が記されているものが少なくありません。なので、一般に『源氏物語』と呼ばれているこの物語が、書かれた当時の題名が何であったのかはよくわかってはいません。
全54帖の概括(がいかつ)をしておきます。第1部と第2部の主人公は通称、光源氏(ひかる・げんじ)。「光り輝くように美しい源氏」を意味する通称です。当チャンネルの別の動画を見てもらえば、なぜ「源氏」なのかが理解できると思います。
1帖 桐壺(きりつぼ)
有名な冒頭分から始まります。
いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
はじめより我はと思ひ上がりたまへる御方がた、めざましきものにおとしめ嫉みたまふ。同じほど、それより 下臈の更衣たちは、ましてやすからず。朝夕の宮仕へにつけても、人の心をのみ動かし、恨みを負ふ積もりにやありけむ、いと篤しくなりゆき、もの心細げに里がちなるを、いよいよ あかずあはれなるものに思ほして、人のそしりをもえ憚らせたまはず、世のためしにもなりぬべき御もてなしなり。
何という帝(みかど)の御代(みよ)のことでしたか、女御(にょうご)や更衣(こうい)が大勢、伺候(しこう)していました中に、たいして重い身分ではなくて、誰よりも時めいている方がありました。最初から自分こそはと思い上がっていたおん方々は、心外なことに思って蔑(さげす)んだり、嫉(ねた)んだりします。その人と同じくらいの身分、またはそれよりも低い地位の更衣たちは、まして気が気ではありません。そんなことから、朝夕(あさ・ゆう)の宮仕えにつけても、朋輩方(ほうぱいがた)の感情を一途(いちず)に害したり、恨みを買ったりしましたのが積りに積ったせいでしょうか、ひどく病身になって行って、何となく心細そうに、ともすると里へ退(さが)って暮らすようになりましたが、帝(みかど)はいよいよたまらなくいとしいものに思(おぼ)し召(め)して、人の非難をもお構いにならず、世の語り草にもなりそうな扱いをなさいます。
桐壺帝(きりつぼてい)と桐壺更衣(きりつぼの・こうい)の契りから光源氏12歳までが描かれています。「何という帝(みかど)の御代(みよ)」という文は、桐壺帝の御代なのにおかしいのでは、と思いますが、そんなことなどどうでも良い、引き込まれていくような素晴らしい文章です。
桐壺帝には多くの后(きさき)が侍(はべ)っていたのですが、それほど高い身分ではない桐壺の更衣(きりつぼのこうい)と呼ばれる人ばかりが深い寵愛を得ていました。天皇の后(きさき)にも、皇后、中宮(ちゅうぐう)、女御 (にょうご) ・更衣(こうい)などのような序列があり、更衣は一番下でした。なぜそうなるかというと、桐壺更衣の父親である大納言(だいなごん)というのは、娘を天皇に入内(じゅだい)させられる最も下の官職だったからです。なので、更衣です。
やがて桐壺の更衣は玉のように美しい皇子(みこ)を産みますが、第一の皇子を産んだ弘徽殿女御(こきでんのにょうご)をはじめ、他の后(きさき)達の嫉妬や嫌がらせが原因で病気がちな更衣は、3歳の皇子を残して病死してしまいました。桐壺更衣は早くに大納言である父親を亡くしていたので、父の遺言を受けた母、北の方(きたのかた)の尽力により、一族再興の期待を背負って入内していたのですが。
桐壺帝の正妻は父親が右大臣である弘徽殿女御です。父親の力で女御になって、最後には大后(おおきさき)になります。大后(おおきさき)になる頃には、桐壺更衣が死んでしまったことを深く嘆く帝を慰めるため亡き更衣に生きうつしの先帝の第4皇女(ひめみこ)である藤壺(ふじつぼ)が中宮(ちゅうぐう)として入内(じゅだい)し、新たに寵愛されることになりました。
一方、桐壺更衣の母である北の方も亡くなってしまい、祖母までをも失った皇子は桐壺帝のもとで育てられ、亡き母・桐壷更衣に似ていると言われる藤壺を殊更に慕い、実の母子のように睦まじく過ごしました。
忘れ形見の皇子は美しく聡明に成長し、光り輝く美貌から「光る君」と呼ばれますが、桐壺帝はこの皇子が優れているだけに政争の種になりかねないのを怖れ、臣籍降下させて源氏の氏(うじ)を与えることにしました。
12歳になった源氏は元服し、朝廷の実力者である左大臣の娘、葵の上(あおいのうえ)と結婚しますが、この年上の妻はとり澄ました人で打ち解けようとしません。源氏は、成人した今、もはや側近くには近づけない藤壺の宮のことを恋しく思っていました。
桐壺更衣がいろいろいじめられて死んでしまったのが原因なのか、源氏は完全なマザーコンプレックスであって、亡き母に対する壮絶な恋心が描かれています。
なので、源氏がその後、正妻格にした紫の上(むらさきの・うえ)も、それから紫の上のおばに当たる藤壺中宮も、母親に似ているのです。また、さまざまな恋愛をします。これはいわゆる寂しいからでしょう。空蝉(うつせみ)とか、六条御息所(ろくじょうの・みやすんどころ)とか、夕顔(ゆうがお)とか、最も人格的に良いと言われる花散里(はなちるさと)とか、あまり美しくない末摘花(すえつむはな)とか、と、さまざまな恋愛をしていろいろな問題をつくり出してしまいます。
これがまず『源氏物語』を捉える時の一環で、母親が亡くなったために、非常に寂しさを感じ、母を恋い焦がれるという、彼の愛の基本形が貫かれています。
次に大きな主題としては、政治があります。
桐壺更衣がなぜこのようなことになってしまったのかというと、桐壺帝の周りにはたくさんの后(きさき)がいたのに、桐壺更衣ばかりを寵愛したので、周りが嫉妬を覚えてしまったからです。
桐壺帝は愚かではなかったので、右大臣の娘である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)を抑えて処理することになりました。それで、弘徽殿女御の子どもである第一皇子(おうじ)、後(のち)の朱雀(すざく)帝を皇太子にしました。
この弘徽殿女御は「朱雀(すざく)に変わって光の君(ひかるのきみ)が天皇になるのではないか」とかなり疑心暗鬼に陥ってしまったため、それをなだめるために桐壺帝は光の君を皇族から追い出してしまいました。これを臣籍降下といいます。「臣(しん)」は大臣の「臣」です。
桐壺帝は妹である三条(さんじょう)の大宮(おおみや)を左大臣と結婚させていたのですが、三条の大宮と左大臣の間に生まれた葵の上(あおいのうえ)を、左大臣の思惑通り、光の君の正妻として結婚させました。
弘徽殿女御は右大臣側勢力です。当面、右大臣勢力がのしてきますが、徐々に左大臣勢力が逆転していきます。
ちなみに光源氏の正妻は葵の上、その死後に朱雀帝から押し付けられた女三宮(おんなさんのみや)の2人だけです。この葵の上の兄弟が頭中将(とうの・ちゅうじょう)で、これが左大臣方勢力として源氏の権力を支えていく勢力になります。
この『源氏物語』というのは、政治構造を見事に描いていることがよくわかります。
左大臣側がおそらく藤原北家九条流(ふじわら・ほっけ・くじょうりゅう)である等の、いろいろな説がありますが、そういうのはどうでも良くて、右大臣派と左大臣派という対立構造です。
なので、桐壺帝としては、光源氏に左大臣を後ろ盾につけてうまくやろうということです。
ところが光源氏は亡き母に対する壮絶な恋心を断ち切ることが出来ませんでした。おまけに、葵の上は「何で皇族から追い出されたヤツと私が結婚しなきゃならないのよ」と、嫌々ながら結婚しました。そこから湧き出るイライラした気持ちがさまざまな女性に向かうという、非常に分かりやすい構図なのです。
2帖 帚木(ははきぎ)
五月雨(さみだれ)の夜、17歳になった光源氏のもとに、頭中将(とうの・ちゅうじょう)が訪ねてきました。さらに左馬頭(さまのかみ)と藤式部丞(とう・しきぶの・じょう)も交えて、4人で女性談義をしはじめました。この場面は『雨夜の品定め』(あまよのしなさだめ)と呼ばれる有名な挿話です。4帖 「夕顔」(ゆうがお)では、
「ありしあま夜のしなさだめの後いぶかしく思ほしなるしなじなあるにいとど隈なくなりぬる 御心なめりかし。」
いつぞや「雨夜の品定め」のことがあってからは、試してごらんになりたい品々がたくさんおできになったところから、ひとしお、好奇心が隈(くま)なくなられたのでしょう。
とあります。
左馬頭(さまのかみ)は、妻として完全な女などない。家を治めるのは国よりもむずかしい。妻選びに苦労するのは好色からだけではないが、真実な心の女が望ましいといい、体験談として嫉妬深い女が左馬頭の指に食いつき、これに腹が立ち、かえりみなかった間に死んでしまった。嫉妬さえなければよい女であったのに惜しいという。つぎに、浮気な女には他に男がいて、それを見つけたので別れたという。結論としてそのときどきに必要な良識や判断があって、でしゃばらない謙遜している女がよいという。
頭中将(とうの・ちゅうじょう)は、女性と付き合うなら「中の品」(中流)の女性が一番よいと前置きし、子までもうけた内縁の妻の話をしました。その女は、弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の妹である頭中将の正妻から嫌がらせにあい、どこかへ行ってしまって、現在も行方がわからず、女児がいたため今も忘れられず、思い出すと悲しいと語りました。
藤式部丞(とう・しきぶの・じょう)は、学問を習っていた博士の女に言い寄り、女が賢女ぶっていろいろ教えてくれたのに、無学者の身では頭があがらず足も遠のき、たまたま女が極熱(ごくねち)の草薬(そうやく)、つまりニンニクを食べてくさかったときに訪ねて逃げ帰ったという。
翌日、紀伊守(きいのかみ)の屋敷に方違え(かたたがえ)のために訪れた源氏は、前日話題となった伊予介(いよのかみ)の後妻である中流階級の女性の空蝉(うつせみ)のことを聞き、かいま見て、興味を持ち、深夜にその部屋に忍び込み、強引に一夜を共にしました。
それ以降、空蝉を忘れられなくなった源氏は、紀伊守に計って彼女の弟・小君(こぎみ)を近侍(きんじ)として自分の元で仕えさせることにしました。源氏から文(ふみ)を託された小君は、空蝉に文を届けるが
「かかる御文見るべき人もなし、と聞こえよ」
とのたまへば、うち笑みて、
「違ふべくものたまはざりしものを。いかが、さは申さむ」
と言ふに、心やましく、残りなくのたまはせ、知らせてけると思ふに、つらきこと限りなし。
「いで、およすけたることは言はぬぞよき。さは、な参りたまひそ」とむつかられて、
「召すには、いかでか」とて、参りぬ。
「こんなおん文(ふみ)を見る人はおりませぬと申しておくれ」と言われますので、笑いながら、「人違いをなさるはずなどはないように伺(うかが)っていますのに、何としてそのようなことが申し上げられましょう」と言いますと、それではこの児(こ)に残らず話しておしまいになったのだと、思うにつけても、いまいましく、辛(つら)さは言うようもありません。「これ、生意気なことは言わぬがいい。それなら参るに及びません。」と叱りつけましたが、「だってお召しになるものですもの」と言いながら出て行きました。。
姉の返事を源氏に伝えると、「何故ここまで、つれなくされるのか?」と自分になびかない空蝉を、『竹取物語』のかぐや姫になぞらえました。源氏はふたたび中河(なかがわ)の家に行きましたが、空蝉は源氏をさけて会いませんでした。
3帖 空蝉(うつせみ)
空蝉を忘れられない源氏は、彼女のつれないあしらいにも却(かえ)って思いが募って、再度、紀伊守邸へ忍んで行きました。そこで伊予介の先妻の娘である軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打ち合う空蝉の姿を覗き見し、決して美女ではないもののたしなみ深い空蝉をやはり魅力的だと改めて心惹かれました。源氏の訪れを察した空蝉は、薄衣一枚を脱ぎ捨てて逃げ去り、心ならずも後に残された軒端荻と契った源氏はその薄衣を代わりに持ち帰りました。源氏は女の抜け殻のような衣にことよせて空蝉へ歌を送り、空蝉も源氏の愛を受けられない己の境遇のつたなさを密かに嘆きました。
空蝉の身をかへてける木のもとになほ人がらのなつかしきかな
うつせみの みをかえてける このもとに なお人がらの なつかしきかな
歌の訳:蝉(せみ)が殻(から)から抜け出して身を変えてしまうように、衣(ころも)を脱ぎ捨てて逃げて行った人のあとに、自分は取り残されながら、なおその人柄のなつかしさを忘れかねている。「ひとがら」は「人殻」に通じ、恋しい人の抜け殻だと思えば、その衣までがなつかしい。
4帖 夕顔(ゆうがお)
従者(じゅうしゃ)藤原惟光(ふじわら の これみつ)の母親でもある乳母の見舞いの折、隣の垣根に咲くユウガオの花に目を留めた源氏が取りにやらせたところ、邸(やしき)の住人が和歌で返答しました。
心あてにそれかとぞ見る白露の光そへたる夕がほの花
こころあてに・それかとぞみる・しらつゆの・ひかりそえたる・ゆうがおのはな
歌の訳:白露(しらつゆ)が一層花を添えた夕顔の花のように美しいお方を、大方、源氏の君(きみ)であろうと推量してお眺め申しました。「心あてに」は「あて推量に」の意。「ゆうがお」のは「夕方の人の顔」が、「ひかりそえたる」には源氏が利かせています。
庶民の女とも思えない教養に興味を持った源氏は、身分を隠して彼女のもとに通うようになりました。 可憐なその女は自分の素性は明かさないものの、逢瀬の度(たび)に頼りきって身を預ける風情が心をそそり、源氏は彼女にのめりこんでいきました。
8月15日の夜、源氏は女の宿で過ごし、なお水入らずで落ち着ける場所をもとめて、逢引の場所として寂(さび)れた某院(なにがしのいん)に夕顔を連れ込んだが、深夜に源氏の夢に女性の霊が現れて恨み言を言いました。ものに襲われる気がして目が覚めると、灯火(ともしび)が消え、夕顔はそのまま昏睡(こんすい)状態に陥り、ようやく紙燭(しそく)で照らすと、夢の女が一瞬現われ、夕顔は明け方に息を引き取ってしまいました。
惟光(これみつ)の処置により夕顔の葬儀を終えたものの、源氏は、衝撃の余り、ひと月ほど床を離れられませんでした。夕顔に仕えていた女房・右近(うこん)から夕顔はかつて、頭中将(とうの・ちゅうじょう)の側室だった事を打ち明けられました。かつて「雨夜の品定め」(あまよの・しなさだめ)で頭中将が語っていた北の方(かた)の嫉妬に遭い、姿を消した、その女が夕顔であることを悟りました。
さらに、源氏は、後(のち)の玉鬘(たまかずら)である姫君(ひめぎみ)が一人いる事を知り、右近に「姫君を引き取りたい」と切り出すが、惟光に制止されてしまいました。騒ぎになる事を恐れ、事を公(おおやけ)にせず、しばらくしてから源氏は夕顔が暮らしていた家へ向かいましたが、夕顔の家にはすでに誰もいませんでした。
一方、空蝉(うつせみ)は10月に、夫に伴われて伊予国(いよのくに)に下(くだ)っていきました。
5帖 若紫(わかむらさき)
瘧(おこり)つまり、マラリアを病んで、神仏の加護を受けて、災いをはらうことである加持(かじ)のために北山を訪れた源氏は、通りかかった家で密かに恋焦がれる藤壺の面影を持つ少女を垣間見ました。少女の大伯父(おお・おじ)の僧都(そうず)によると彼女は藤壺の兄である兵部卿宮(ひょうぶきょう・の・みや)の娘で、父の正妻による圧力を気に病んだ母が早くに亡くなった後、祖母の北山(きたやま)の尼君(あまぎみ)の元で育てられ十余年経(た)ったということでした。源氏は少女の後見を申し出ますが、結婚相手とするにはあまりに少女が幼いため、尼君は本気にしませんでした。
翌月、病で藤壺中宮(ふじつぼ・ちゅうぐう)が里下(さとさ)がりし、源氏は藤壺の侍女(じじょ)王命婦(おうみょうぶ)の手引きで再会を果たし関係を持ちました。
その後、藤壺は源氏の文(ふみ)を拒み続けました。既に藤壺は源氏の子を妊娠していました。ふたりは罪の重さに怯(おび)えることになりました。
その頃、北山の尼君(あまぎみ)はその少女と共に都に戻っていました。源氏は見舞いに訪れましたけれども、尼君はそれから間もなく亡くなってしまいました。身寄りのなくなった少女を、源氏は父兵部卿宮より先に自らの邸(やしき)である二条院(にじょういん)に連れ帰り、恋しい藤壺の身代わりに理想的な女性に育てようと考えました。若紫(わかむらさき)と呼ばれることになった少女は、ほどなく、源氏に懐(なつ)き、懐(ふところ)に抱(いだ)かれてはしゃぎ、同じ寝室で眠りました。もちろん、男女の関係ではありませんが。光源氏は、大人の恋人達のように恨みごとを言わない、かわいい人との微妙な関係を楽しみました。
6帖 末摘花(すえつむはな)
乳母子の大輔の命婦から亡き常陸宮(ひたちのみや)の姫君(ひめぎみ)の噂を聞いた源氏は、「零落(れいらく)した悲劇の姫君」という幻想に憧れと好奇心を抱いて求愛しました。親友の頭中将と競い合って逢瀬を果たしたものの、彼女の対応の覚束なさに源氏は困惑してしまいました。さらにある雪の朝、姫君の顔を覗き見た光源氏はその醜さに仰天。その後もあまりに世間知らずな言動の数々に辟易しつつも、源氏は彼女の困窮ぶりに同情し、また素直な心根に見捨てられないものを感じて、彼女の暮らし向きへ援助を行うようになりました。二条の自宅で源氏は鼻の赤い女人の絵を描き、さらに自分の鼻にも紅(べに)を塗って、若紫と兄妹のように戯れました。
一見家柄以外に取柄のなさそうな彼女ですが、頑迷さは純真な心の裏返しであり、源氏に忘れられていた間も一途に彼を信じて待ち続けていました。そのことに感動した源氏はその後二条東院に引き取り、妻の一人として晩年を平穏に過すことになりました。
なつかしき色ともなしに何にこのすゑつむ花を袖にふれけむ
なつかしき・いろともなしに・なににこの・すえつむはなを・そでにふれけん
歌の訳:とくに心魅かれる色でもないのに、どうして、この末摘花に袖を触れてしまったのだろう
という源氏の詠んだ歌から、この女性が末摘花と呼ばれるようになりましたが、清少納言(せい・しょうなごん)が『枕草子』(まくらのそうし)の「男はめ親なくなりて」(男は、めおや、なくなりて)に反論する存在である光るの君が、またまた、「すさまじきもの」で書いてある「取るに足りない女を妻にしてしまう男心がわからない」と書いてある女を大切にしました。紫式部が清少納言に強烈なライバル心を抱いていたから、この帖が出来たという事なのでしょうか。
7帖 紅葉賀(もみじのが)
世間は朱雀院(すざくいん)で開かれる紅葉賀(もみじのが)に向けての準備で大忙しでした。桐壺帝は最愛の藤壺が懐妊した喜びに酔いしれ、一の院の五十歳の誕生日の式典という慶事をより盛大なものにすべく、臣下たちも舞楽(ぶがく)の準備で浮き立っていました。
ところが、それほどまでに望まれていた藤壺の子は桐壺帝の皇子ではなく、桐壺帝の最愛の息子である源氏の子でした。このことが右大臣側の勢力、特に東宮(とうぐう)の母であり、藤壺の敵で源氏の母を迫害した張本人である弘徽殿女御(こきでんの・にょうご)に発覚したら二人の破滅は確実でした。にもかかわらず、若い源氏は向こう見ずにも藤壺に手紙を送り、また親しい女官を通して面会を求め続けていました。
一方で、藤壺は立后(りっこう)を控えており、狂喜する帝の姿に罪悪感を覚えながらも、一人秘密を隠し通す決意をし、源氏との一切の交流を持とうとしませんでした。そのため、華やかな式典で舞を披露することになっていた源氏も気分が優れませんでしたが、北山から引き取ってきた藤壺の姪に当たる少女、若紫(わかむらさき)(後(のち)の紫の上(むらさきのうえ))の無邪気に人形遊びをしている姿に慰められていきました。
帝(みかど)は式典に参加できない藤壺のために、特別に手の込んだ試楽(しがく)を宮中で催すことを決め、源氏にも参加させました。源氏は青海波(せいがいは)の舞を舞いながら御簾(みす)の奥の藤壺へ視線を送り、藤壺も一瞬、罪の意識を離れて源氏の美貌を認めました。源氏を憎む弘徽殿女御は、舞を見て
「神(かみ)など、空(そら)にめでつべき容貌かな。うたてゆゆし。」
「神などが空から魅入りそうな様子だこと。何だか気味が悪いような」と皮肉(ひにく)り、同席していたほかの女房などは「なんて意地の悪いのでしょう」と噂しました。紅葉の中、見事に舞を終えた翌日、源氏はそれとは解らぬように藤壺に文を送ったところ、思いがけず返事が届き胸を躍らせました。五十の賀の後、源氏は正三位に、頭中将は正四位下(しょう・よんいの・げ)に叙位(じょい)されました。
翌年二月、藤壺は無事に後(のち)の冷泉帝(れいぜいてい)である皇子(みこ)を出産しました。桐壺帝は最愛の源氏にそっくりな美しい皇子を見て喜んだのですが、それを見る源氏と藤壺は内心、罪の意識に苛(さいな)まれるのでした。
桐壺帝に仕える年配の女官で血筋、人柄の申し分ない源典侍(げん の ないしのすけ)には、希代の色好みという評判がありました。好奇心旺盛な源氏と頭中将は冗談半分で彼女に声をかけていましたが、年をわきまえず、あからさまに男にこびる様子には閉口していました。
源典侍(げん の ないしのすけ)のもとに泊まった夜、源氏は何者かの襲撃を受けて太刀を抜いて応戦しました。掴み掛かってみると、その相手は頭中将(とうの・ちゅうじょう)でした。実は、二人はわざと修羅場を演じて源典侍を仰天させたのですが、調子に乗って掴み合いをするうちにぼろぼろになってしまいました。大笑いしながら帰った翌日、殿上(でんじょう)で顔を合わせた二人は昨日の騒動を思い出して、互いにそ知らぬ顔で笑いをかみ殺すのだった。
その年の秋、藤壺は中宮(ちゅうぐう)に立后(りっこう)されました。一番早くに入内(じゅだい)し、長年仕えていて、東宮(とうぐう)の生母である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)に対し、
「春宮の御世、いと近うなりぬれば、疑ひなき御位なり。思ほしのどめよ」
とぞ聞こえさせたまひける。「げに、春宮の御母にて二十余年になりたまへる女御をおきたてまつりては、引き越したてまつりたまひがたきことなりかし」と、例の、やすからず世人も聞こえけり。
帝(みかど)は、「もうじき東宮(とうぐう)の御代(みよ)になれば、皇太后の地位は疑いようがありません。安心していらっしゃい」と仰せになるのでした。まことに東宮(とうぐう)の御母(みおも)として二十年あまりにもおなりになる、この女御(にょうご)をさしおかれて、他のお方を中宮にはなさりにくいことだと、例によって世の人々も穏(おだ)やかならぬことのように申すのでした。
源氏も参議(さんぎ)になるのですが、藤壺はますます手の届かなくなった存在となり、思慕(しぼ)がやむことがありませんでした。
8帖 花宴(はなのえん)
2月に紫宸殿(ししんでん)で催された桜の宴(えん)で、源氏は頭中将(とうのちゅうじょう)らと共に漢詩を作り舞(まい)を披露しました。宴(うたげ)の後、ほのかに霞(かす)んでいる月の情景に誘われ、ふと入り込んだ弘徽殿(こきでん)で、源氏は廊下から聞こえる歌に耳を澄ましました。
照りもせず 曇りも果てぬ 春の夜の 朧月夜に似るものぞなき
てりもせず・くもりもはてぬ・はるのよの・おぼろづくよに・しくものぞなき
歌の訳:さやかに照るのでもなく、といって全く曇ってしまうのでもない、春の夜のおぼ
ろにかすむ月の美しさに及ぶものはない。
という『新古今和歌集』(しん・こきんわかしゅう)の大江千里(おおえ の ちさと)の歌を詠みながら近づいてきた若い姫君(ひめぎみ)と源氏は出逢い、契りを交わしました。素性も知らぬままに扇を取り交わして別れた姫君こそ、朧月夜(おぼろづきよ)とも呼ばれる、春宮(とうぐう)への入内(じゅだい)が決まっている右大臣の六の君(ろくのきみ)こと朧月夜(おぼろづきよ)でした。
一月後(ひとつきご)、源氏は政敵である右大臣家の藤花の宴(とうかのえん)に招かれた源氏は装いを凝らして訪れました。右大臣にかなり呑まされ、酔いを醒ますためその場を離れ、偶然通りかかったところで、御簾(みす)の内(うち)にいる六の君を発見しました。歌を詠みかけました。
扇を取られて、からきめを見る
「石川の 高麗人(こまうど)に 帯を取られて からき悔(く)いする」
いかなる いかなる帯ぞ 縹(はなだ)の帯の 中は絶いれなるか
かやるか あやるか 中は絶いれたるか」
中が絶えた(切れている)帯とは、どんな帯なのかわかりませんが、大和川支流の石川の朝鮮人に帯を取られて大変つらい、どんな帯か、縹色(はなだいろ)の中が絶えているものか、という歌ですが、裏に恋仲が絶えて辛い、という意味を掛けている歌です。
事情を知らない六の君の姉妹たちは「おかしな朝鮮人がいるものね」と訝しがりました。ついに見つけ出した源氏はさりげなく姫君の手を握りました。
桐壺帝(きりつぼてい)が譲位し、源氏の兄の朱雀帝(すざくてい)が即位しました。藤壺中宮(ふじつぼ・ちゅうぐう)の若宮(わかみや)が東宮(とうぐう)となり、源氏は東宮の後見人となりました。また、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)と前坊(ぜんぼう)との娘(後(のち)の秋好中宮(あきこのむ・ちゅうぐう))が斎宮(いつきのみや)となりました。
賀茂祭(かもまつり)(つまり、葵祭(あおいまつり))で、賀茂斎院(かもの・いつきのみや)が加茂川の河原で禊(みそぎ)する)の日、源氏も供奉(くぶ)のため参列しました。身分を隠して、その様子を見物していた六条御息所の一行は、懐妊していて体調が悪く気晴らしに見物に来ていた源氏の正妻・葵の上の一行と、見物の場所をめぐっての車争いを起こしました。葵の上の一行の権勢にまかせた乱暴によって六条御息所の牛車は破損して、六条御息所は見物人であふれる一条大路(いちじょうどおり)で恥をかかされてしまいました。大臣の娘で元東宮妃(もと・とうぐうひ)である御息所(みやすんどころ)にとって、これは耐え難い屈辱で、葵の上を激しく恨むようになりました。役目を終え、左大臣邸に行った源氏は、事の一部始終を聞かされて驚愕してしまい、六条御息所の屋敷へ謝罪に向かったのですが、門前払いされてしまいました。
勅使の役目を終え、久々に休日を取った源氏は、紫の君(のちの紫の上)を伴って、賀茂祭へ出かけました。相変わらずの混雑振りに、藤原 惟光(ふじわら の これみつ)は牛車(ぎっしゃ)を停める場所を探すのに難儀していました。そこへ別の牛車が手招きして場所を譲ってくれました。源氏は礼を言おうと、顔を覗き込んだところ、車の主は源典侍(げん の ないしのすけ)でした。
その後、葵の上は、病の床についてしまいました。それは六条御息所の生霊(いきりょう)の仕業でした。六条御息所の髪や衣服から悪霊を退けるための香(こう)である芥子(けし)の匂いがするのがわかった源氏は、六条御息所が生霊となって葵の上に仇をなしたのを悟りおののく事になりました。苦しむ葵の上に付き添った源氏は、その時、初めて葵の上を可愛く見ることになりました。これは六条御息所が乗り移っていて、本当の葵ではありません。この残酷さが、この作品の魅力の一つでもあります。
8月の中頃に葵の上は難産のすえ、男子(夕霧(ゆうぎり))を出産しましたが、数日後の秋の司召(つかさめし)の夜に容体が急変し亡くなってしまいました。同じ頃、御息所は、何度髪を洗っても衣を変えても、自身の体に染み付いた魔除けの芥子(けし)の香りが消えないことに驚いており、おまけに、女房から、葵の上の訃報を知り、青ざめることになりました。葵の上の火葬と葬儀は8月20日過ぎに行われました。
要するに、桐壺帝が無理に光源氏を葵の上と結婚させたことがいろいろなところにたたって、いろいろなところにひずみが出ていたということですが、全体としての政治構図はそんなにぶれていません。
葵の上の四十九日(しじゅう・くにち)が済んだ後、源氏は夕霧の養育を左大臣家に託しました。源氏は二条院(にじょういん)に戻り、美しく成長した紫の君(むらさきの・きみ)と密かに結婚しました。突然のことに紫の上(むらさきの・うえ)は衝撃を受けて、すっかりふさぎこみ、口をきこうともしなかったのですが、源氏はこれを機に彼女の素性を父、兵部卿宮(ひょうぶきょう・の・みや)と世間に公表することにしました。
10帖 賢木(さかき)
源氏の愛を完全に失ったと察した六条御息所は、源氏との結婚を諦めた六条御息所は、斎宮(いつきのみや)になった娘に付き添い、伊勢へ下り、野宮(ののみや)に入りました。紫の上と結婚した源氏も、さすがに御息所を哀れに思って秋深まる野宮を訪れ、別れを惜しむのだった。
斎宮(いつきのみや)が伊勢に下(くだ)ってから程なく、桐壺帝が重態に陥り崩御しました。源氏は里下がりした藤壺への恋慕がますます止みがたく忍んで会いに行くものの、藤壺に強く拒絶されてしまいました。事が露見し東宮(とうぐう)の身に危険が及ぶことを恐れた藤壺は、源氏にも身内にも知らせず桐壺帝の一周忌の後突然出家してしまいました。悲嘆に暮れる源氏は、右大臣家の威勢に押されて鬱屈する日々の中、今は尚侍(ないしのかみ)となった朧月夜(おぼろづきよ)と密かに逢瀬を重ねていたところ、ある晩、右大臣に現場を押さえられてしまいました。激怒した右大臣と弘徽殿大后(こきでんの・おおきさき)は、これを機に源氏を政界から追放しようと画策し始めました。
源氏の最大の失敗は、弘徽殿大后(こきでんの・おおきさき)が朱雀帝(すざくてい)に入内(じゅだい)させようとしていた妹の朧月夜(おぼろづきよ)と関係を持ってしまったことでした。そこで、弘徽殿大后が徹底的に追い詰めて失脚させかねない危険を避けるために、源氏は自ら失脚を装って、須磨(すま)に退去して、しばらく時を稼ぐことにしました。
11帖 花散里(はなちるさと)
五月雨(さみだれ)の頃、源氏は故桐壺院(こ・きりつぼ・いん)の妃(きさき)の一人であった麗景殿女御(れいけいでん・の・にょうご)を訪ねました。妹の三の君(花散里)は源氏の恋人で、姉妹は、桐壺院の没後、源氏の庇護を頼りにひっそりと暮らしていた。訪問の途中、かつて会った中川の女の元に歌を詠みかけたものの、既に心変わりしてしまったのかやんわりと拒絶されました。女御(にょうご)の邸は橘の花が香り、昔を忍ばせるホトトギスの声を聞いて、
橘の香をなつかしみほととぎす 花散る里をたづねてぞとふ
たちばなの香(か)を なつかしみほととぎす 花ちる里をたずねてぞ問(と)う
歌の訳:私も昔の人の袖の香がするという花橘(はなたちばな)の匂いに、故院(こ・いん)のゆかりの方をなつかしく存じ上げて、こちらへお伺いしました。
五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする
『伊勢物語』(いせ ものがたり)、『古今和歌集』(こきん・わかしゅう)の
さつきまつ・はなたちばなの・かをかげば・むかしのひとの・そでのかぞする
歌の訳:ホトトギスも橘の香りを懐かしく思って、その花の散るこの里を尋ねてきて啼(な)く。
源氏は、ホトトギスを自分になぞらえています。
源氏は女御としみじみと昔話を語り合い、その後そっと三の君を訪れました。
三の君の呼称は巻名の由来ともなった源氏の和歌から来ています。容貌はそれほど美しくはないが姉の女御(にょうご)同様に温和な慎ましい性格で出自も高く、また裁縫・染物などにも堪能な女であり、源氏の妻の中では紫の上に次ぐ立場です。
12帖 須磨(すま)
朧月夜(おぼろづきよ)との仲が発覚し、追いつめられた源氏は後見する東宮(とうぐう)に累(るい)が及ばないよう、自ら須磨への退去を決意しました。左大臣家を始めとする親しい人々や藤壺に暇乞いをし、東宮(とうぐう)や女君(おんなぎみ)たちには別れの文(ふみ)を送り、一人残してゆく紫の上(むらさきの・うえ)には領地や財産をすべて託しました。 須磨へ発つ直前、桐壺帝の御陵(みささぎ)に参拝したところ、生前の父帝(ちちみかど)の幻がはっきりと目の前に現れ、源氏の悲しみはより深くなりました。
須磨という場所が大変重要で、当時の貴族の感覚では須磨・明石から西側や箱根の東は野蛮人の住む土地でした。つまり、都に住む貴族から見れば、須磨・明石はギリギリ日本だったということでしょう。
左大臣の長男で葵の上(あおいのうえ)の兄でもある親友の頭中将(とうの・ちゅうじょう)は世間の目もはばからず須磨を訪れ、源氏はなつかしく語り合いました。その後すさまじい嵐が須磨を襲い、幾日も暴風雨が続きました。
13帖 明石
連日のように暴風雨が続き、源氏一行は眠れぬ日々を過ごしていました。ある晩、二条院(にじょういん)から紫の上(むらさきの・うえ)の使いが訪れ、紫の上からの文(ふみ)を読んだ源氏は都でもこの暴風雨が発生している事を知りました。この悪天候のため、厄除け(やくよけ)の仁王会(にんのう・え)が開催される事になり、都での政事(まつりごと)が中止されている事が使いから知り、源氏らは都に残してきた家族を案じました。
嵐が鎮まるよう、源氏と従者らが住吉三神(すみよしさんじん)に祈ったところ、落雷があって、邸が火事に見舞われてしまいました。嵐が収まった明け方、源氏の夢に故桐壺帝(こ・きりつぼてい)が現れ、住吉三神の導きに従って須磨を離れるように告げました。その予言どおり、翌朝、明石入道(あかしの・にゅうどう)が迎えの舟に乗って現れ、源氏一行は明石へと移りました。
明石入道(あかしのにゅうどう)は源氏の母方の祖父の甥で、つまりは母の桐壺更衣(きりつぼ・の・こうい)とは従妹(いとこ)にあたります。父は大臣で、後(のち)の明石尼君(あかしのあまきみ)である妻は中務宮(なかつかさ・の・みや)の孫。明石入道自身も三位中将(さんみ‐の‐ちゅうじょう)という高官でしたが、出世競争に見切りを付けて播磨守(はりまの・かみ)となり、そのまま出家して明石の浦(あかしの・うら)に住んでいました。
入道は源氏を邸(やしき)に迎えて手厚くもてなし、かねてから、都の貴人(あてびと)と娶わせようと考えていた一人娘、明石の御方(あかしのおんかた)を、この機会に源氏に差し出そうとしました。当の娘は「身分が違いすぎる」と気が進まなかったのですが、源氏は娘と文(ふみ)のやり取りを交わすうちにその教養の深さや人柄に惹かれ、ついに自ら娘のもとを訪れて契りを交わしました。この事を源氏は都で留守を預かる紫の上に文(ふみ)で伝え、紫の上は源氏の浮気をなじる内容の文(ふみ)を送りました。紫の上の怒りが堪(こた)えた源氏はその後、明石の御方への通いが間遠(まどお)になり明石入道一家は、やきもきしました。
一方、都では先年、太政大臣(元右大臣)が薨去(こうきょ)し、弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)も病に臥せっていました。自らも夢で先帝(せんてい)の桐壺帝(きりつぼてい)に叱責され重い眼病を患い、東宮(とうぐう)こと冷泉帝(れいぜいてい)への譲位を考えた朱雀帝(すざくてい)は、源氏を冷遇した事がこれらの凶事の原因と考え、母后(ははきさき)の反対を押し切り、源氏の召還を決意しました。晴れて許された源氏は都へ戻ることになったのですが、その頃、既に明石の御方は源氏の子を身ごもっており、別れを嘆く明石の御方に源氏はいつか必ず都へ迎えることを約束しました。
帰京した源氏は右大将(うだいしょう)から、権大納言(ごん・だいなごん)に昇進し、供人(ともびと)らも元の官位に復帰しました。源氏は朱雀帝や藤壺中宮の元に参内(さんだい)し、親しく語り合いました。
源氏は朧月夜(おぼろづきよ)との仲が発覚したことで、一敗地にまみれるのですが、そこで、ここでもまた彼は無駄な行動をしませんでした。
明石の御方(あかしのおんかた)と結ばれて、娘が産まれ、後(のち)に入内(じゅだい)して匂宮(におうみや)を産むことになります。
源氏は朱雀帝の娘をもらって、自分の娘を朱雀帝の次の次の天皇に結びつけて、婿を婚姻政策でがんじがらめに縛り付けています。誰が転んでも大丈夫なようにしている点では、藤原道長(ふじわらの・みちなが)をお手本にしているのでしょう。
14帖 澪標(みおつくし)
源氏は、兄、朱雀帝(すざくてい)と3年ぶりに再会して、兄弟水入らずの時を過ごし、その後東宮(とうぐう)と再会しました。長男の夕霧は殿上童(てんじょうわらわ)として東宮に仕えていました。
東宮が元服(げんぷく)を迎えたのを期に、朱雀帝は皇位を退き、冷泉帝(れいぜいてい)へ譲位しました。源氏は内大臣(ないだいじん)に昇進し、政界を引退していた左大臣が太政大臣に任じられ摂政に就任しました。一方、明石の御方(あかしのおんかた)は無事、姫君(ひめぎみ)を出産しました。源氏は、将来、后(きさき)になるであろう姫君のために乳母(めのと)と祝いの品を明石へ送りましたが、そんな源氏の姿に子のない紫の上は密かに嫉妬しました。
秋になり、源氏は住吉へ盛大に参詣しました。偶然、同じ日に来合わせた明石の御方(あかしのおんかた)は、そのきらびやかな様子に気おされ、改めて源氏との身分の差を思い知らされました。藤原惟光(ふじわら・の・これみつ)の知らせで御方(おんかた)が来ていた事を知った源氏は、声もかけられずに去った御方(おんかた)を哀れに思い、使いを送って歌を交わしました。
その頃、六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)も娘の斎宮(いつきのみや)ともども都へ戻っていましたが、御息所(みやすんどころ)は病に倒れたのを知り、しばらく会わずにいた源氏も見舞いに赴きました。死期を悟った御息所は源氏に娘の将来を託し、決して愛人にはしないよう釘を刺して世を去りました。源氏は斎宮(いつきのみや)への未練を感じつつも、御息所との約束を守り斎宮を自らの養女に迎えました。朱雀院から斎宮を妃(きさき)に、との要望が来ていたものの、源氏は藤壺の助言に従って、斎宮を冷泉帝(れいぜいてい)へ入内(じゅだい)させることにしました。
明石の御方(あかしのおんかた)は家柄は悪くないのですが、常に田舎から出てきた、ぱっとしない女という形で描かれていきます。
15帖 蓬生(よもぎう)
源氏が都を追われていた頃、後見を失った末摘花の生活は困窮を極めていました。邸(やしき)は荒れ果てて召使たちも去り、受領(ずりょう)の北の方(きたのかた)となっている叔母が末摘花を娘の女房(にょうぼう)に迎えようとしましたが、末摘花は応じませんでした。やがて源氏が帰京したものの、末摘花は相変わらず忘れられたきりで嘆きに暮れていました。そのうち叔母の夫が大宰大弐(だざい・の・だいに)となり、叔母は末摘花が頼りにしていた乳母子(めのとご)の侍従(じじゅう)を連れて行ってしまいました。
年も改まって春になり、ある夜、花散里(はなちるさと)を訪ねようと出かけた源氏は、途中通りかかった荒れた邸(やしき)が常陸宮邸(ひたちのみや・てい)であると気付きました。藤原惟光(ふじわら の これみつ)が使いに立ち、今も末摘花が変わらず待ち続けていた事を知って、心打たれた源氏は末摘花の元を訪れました。源氏は末永い庇護を約束して再びその世話をし、2年後に末摘花を二条東院(にじょう・とういん)に引き取りました。
16帖 関屋(せきや)
源氏が帰京した翌年、元伊予介(もと・いよのすけ)こと、常陸介(ひたちのすけ)が任期を終えて、妻の空蝉(うつせみ)と共に戻ってきました。石山寺(いしやまでら)へ参詣途中の源氏は逢坂関(おうさかのせき)で、空蝉の一行に巡り会いました。源氏は懐かしさに空蝉の弟の元・小君(こぎみ)こと右衛門佐(えもんのすけ)を呼び寄せ、空蝉へ文(ふみ)を送りました。その後も二人は文(ふみ)を交わしましたが、やがて常陸介が亡くなり、一人残された空蝉は継子(ままこ)の元紀伊守(もと・きいのかみ)の河内守(かわち・の・かみ)の懸想(けそう)を避けて出家しました。 その頃、源氏は、今住んでいる二条東院(にじょう・とういん)の改装・増築を執り行っていました。源氏は、妻の一人・花散里を西の対(たい)に住まわせる事にし、更に、末摘花(すえつむはな)と空蝉(うつせみ)を北の対(たい)へ移す事にしました。
17帖 絵合(えあわせ)
内大臣である源氏の後見のもと、斎宮(いつきのみや)は入内(じゅだい)して梅壺(うめつぼ)に入り女御(にょうご)となりました。若い冷泉帝(れいぜいてい)は初めのうちは年上の斎宮女御になじめませんでしたが、絵画(かいが)という共通の趣味をきっかけに寵愛を増しました。先に娘を弘徽殿女御(こきでんのにょうご)として入内させていた元・頭中将(とうの・ちゅうじょう)こと、権中納言(ごん・ちゅうなごん)はこれを知り、負けじと豪華な絵を集めて帝(みかど)の気を引こうと躍起になりました。
ちなみに、この弘徽殿女御は右大臣の娘、桐壺帝の妃(きさき)、朱雀帝の母の人物ではなく、源氏の年長の従兄で、親友であり、義兄であり、恋の競争相手であり、また政敵でもある権中納言、後(のち)の内大臣の娘で、母は桐壺帝の右大臣の四の君(きみ)。わかりにくいですが、同一人物ではありません。
宮中でも人々が絵を批評しあうのが流行し、藤壺中宮の御前(おんまえ)で物語絵合せが行われたのをきっかけに、帝の御前(おんまえ)でも梅壺対弘徽殿の絵合せが華々しく催されました。古今(ここん)の素晴らしい絵が数多く出された中で、最後の勝負に源氏が出した須磨の絵日記はその絵の見事さと感動的な内容で人々の心を打ち、梅壺方が勝利を収めました。絵合せの後、源氏は藤壺に絵日記を献上し、一方でいつか出家する日のことを思って嵯峨野(さがの)に御堂(みどう)の建立(こんりゅう)を始めました。
18帖 松風(まつかぜ)
二条東院(にじょう・とういん)が完成し、源氏は西の対(にしのたい)に花散里(はなちるさと)を移らせました。東の対(ひがしのたい)には明石の御方(あかしのおんかた)を迎えるつもりでしたが、
明石には御消息絶えず、今はなほ上りたまひぬべきことをばのたまへど、女は、なほ、わが身のほどを思ひ知るに、こよなくやむごとなき際の人びとだに、なかなかさてかけ離れぬ御ありさまのつれなきを見つつ、もの思ひまさりぬべく聞くを、まして、何ばかりのおぼえなりとてか、さし出でまじらはむ。この若君の御 面伏せに、数ならぬ身のほどこそ現はれめ。たまさかにはひ渡りたまふついでを待つことにて、人笑へに、はしたなきこと、いかにあらむ。と思ひ乱れても、また、さりとて、かかる所に生ひ出で、数まへられたまはざらむも、いとあはれなれば、ひたすらにもえ恨み背かず。
明石へは絶えずおたよりをなさいます。もうこの上は都へお上(のぼ)りになるようにとおっしゃるのですが、女はやはり自分の身のほどを考えますと、この上もなくやんごとないあたりの方々でさえ、あまり顧(かえり)みても下されず、といって捨ててもおしまいにならないお仕打ちの辛さに、かえって気苦労が多いということを聞いていますので、まして自分などがどれほどの御寵愛を頼みにして、そういう中へ出て行かれよう、たかだか卑しい身分を知られて、この姫君(ひめぎみ)のお顔汚しになるくらいが落ちであろうし、たまに、何かのおついでに、ちょっと立ち寄って下さる折をあてにするのでは、どんなにか人の物笑いになり、きまりが悪いことであろうと、いろいろに迷いながら、そうかといってまた、姫君がこんなに田舎にお育ちなされて、日陰者におなりになるのも、おいとおしいので、一途にお断わり申し上げるわけにも行きません。
と、身分の差を感じる明石の君は源氏からの誘いを素直に受け入れられずにいました。
明石の入道は、娘の行く末を案じ、母方の祖父である中務宮(なかつかさ・の・みや)の別荘である大堰川(おおいがわ)近くの山荘を修理して娘をそこへ住まわせることに決めました。ちょうど源氏が建てた嵯峨野の御堂(みどう)も近くにあり、明石の御方は父入道を一人明石に残して姫君や母尼君と共に上京しました。しかし源氏はなかなか大堰を訪れず、明石の御方は琴を爪弾き無聊(ぶりょう)を紛らわせていました。
源氏は紫の上に気を遣いながらも、御堂の様子を見に行くとの口実でようやく大堰を来訪しました。明石の御方と3年ぶりの再会を喜び合い、また初めて見る娘の愛らしさに感嘆しました。姫君を将来の后(きさき)にと考える源氏は、その出自の低さを補うためにも、一日も早く姫君を都へ迎えたいと考えました。源氏から姫君を養女として育ててほしいと相談された紫の上は、元々子供好きなこともあり快く承諾しましたが、源氏は姫君と引き離される明石の御方の心を思いやって悩むのでした。
19帖 薄雲
明石の御方(あかしのおんかた)は悩みぬいた末、母、尼君(あまぎみ)の説得もあって姫君(ひめぎみ)を源氏に委ねることを決断しました。雪の日に源氏が姫君を迎えに訪れ、明石の御方は涙ながらにそれを見送りました。二条院では早速盛大な袴着(はかま‐ぎ)が行われ、紫の上も今は姫君の可愛らしさに魅了されて、明石の御方のことも少しは許す気になっていました。
翌年、源氏の年長の従兄で、親友であり、義兄であり、恋の競争相手であり、また政敵でもある権中納言(ごん・ちゅうなごん)と葵の上(あおいのうえ)の父である太政大臣が亡くなり、その後も天変が相次ぎました。不安定な政情の中、病に臥していた藤壺が37歳で崩御しました。源氏は悲嘆のあまり、念誦堂(ねんじゅ・どう)に篭って泣き暮らしました。法要が一段落した頃、藤壺の時代から仕えていた夜居(よい)の僧が、冷泉帝(れいぜいてい)に出生の秘密を密かに告げました。衝撃を受けた帝(みかど)は、実の父を臣下にしておくのは忍びないと考え、源氏に位(くらい)を譲ろうとしましたが、源氏は強くそれを退けました。
20帖 槿(あさがお)
藤壺の崩御と同じ頃、桐壺帝の弟である桃園式部卿宮(ものぞの・しきぶきょう・の・みや)が薨去(こうきょ)したので、その娘、槿(あさがお)は賀茂斎院(かものさいいん)を退いて邸にこもっていました。若い頃から槿(あさがお)に執着していた源氏は、槿(あさがお)と同居する叔母の女五の宮(おんなごのみや)の見舞いにかこつけ、頻繁に桃園邸(ものぞのてい)を訪ね、紫の上を不安にさせました。槿(あさがお)も源氏に好意を抱いていたのですが、源氏と深い仲になれば、六条御息所(ろくじょうの・みやすんどころ)と同じく不幸になるのでは、と恐れて源氏を拒びました。槿(あさがお)への思いを諦めた源氏は、雪の夜、紫の上をなぐさめつつ、これまでの女性のことを話して過去を振り返りました。その夜、源氏の夢に藤壺があらわれ、
「漏らさじとのたまひしかど、憂き名の隠れなかりければ、恥づかしう、苦しき目を見るにつけても、つらくなむ」とのたまふ。
「漏らしはしないとおっしゃいましたのに、浮名の隠しようもなく、世間に知れてしまいましたので、現在恥ずかしい思いをし、死後の苦言患(くげん)に責められていますにつけても、辛(つら)く感じられて」と仰せになります。
翌日、源氏は藤壺のために密かに供養を行い、来世では共に、と願いました。
21帖 少女(おとめ)
源氏の息子である夕霧(ゆうぎり)が、12歳で元服を迎えました。ところが、源氏は夕霧を敢えて優遇せずに、六位(ろくい)にとどめておいて大学に入れました。同じ年、源氏の養女である斎宮女御(さいぐうのにょうご)が冷泉帝(れいぜいてい)の中宮に立后(りっこう)しました。源氏は太政大臣に、元・頭中将(とうの・ちゅうじょう)こと、権中納言(ごん・ちゅうなごん)は内大臣(ないだいじん)になりました。
立后争いで源氏に敗れた内大臣は、大宮(おおみや)に預けている次女雲居の雁(くもいのかり)を東宮妃(とうぐうひ)に、と期待をかけるが、彼女は共に育った幼馴染の従兄弟・夕霧と密かに恋仲になっていた。これを知った内大臣は激怒し、雲居の雁を自らの邸に引き取ると宣言し、大宮を嘆かせました。邸(やしき)への引越し当日、諦め切れない夕霧は密かに、雲居の雁へ逢いに行きました。涙ながらに別れを惜しむ二人のところへ女房が割り込み、
「いでや、憂かりける世かな。殿の思しのたまふことは、さらにも聞こえず、大納言殿にもいかに聞かせたまはむ。めでたくとも、もののはじめの六位宿世よ」
「全くこれだから嫌になります。殿のお叱りは申すまでもないとして、大納言殿もどのように思し召しますやら。どんなに結構なお方だからとて、初めて御縁組を遊ばすのに、六位の婿君では」
と嫌味を言い、その場から雲居の雁を連れ出し、二人の仲を裂いてしました。
月日は流れ、秋が深まり宮中では新嘗祭(にいなめさい)を迎えていました。傷心の夕霧は御所へ行き、豊明節会(とよあかりのせちえ)を見物しました。夕霧は、藤原惟光(ふじわら の これみつ)の娘で後(のち)の藤典侍(とうのないしのすけ)である五節の舞姫(ごせつのまいひめ)を垣間見ました。
その美しさに惹かれて文(ふみ)を送ったのですが、彼女は宮仕えする事が決まっていて、夕霧は落胆してしまいました。
惟光の娘と兄は夕霧からの文(ふみ)を読んでいたところを、父に見つかり文(ふみ)を取り上げられてしまいました。ところが、文(ふみ)の手蹟(しゅせき)が夕霧のものだとわかると、惟光(これみつ)は態度を一変させました。
あわよくば「明石入道(あかしのにゅうどう)のように、なれるやもしれない」と多大な望みを抱き、家族から顰蹙を買ってしまいました。
その後、夕霧は進士(しんし)の試験に合格して、五位の侍従(じじゅう)となりました。また源氏は六条に、六条院(ろくじょういん)という四町(よんちょう)を占める広大な邸(やしき)を完成させ、秋の町を秋好中宮(あきこのむ・ちゅうぐう)の里邸(りてい)とした他、春の町に、紫の上(むらさきの・うえ)、明石の姫君(あかしのひめぎみ)、夏の町に花散里(はなちるさと)、夕霧(ゆうぎり)、冬の町に明石の御方(あかしのおんかた)をそれぞれ迎えました。
22帖 玉鬘(たまかずら)
頭中将(とうの・ちゅうじょう)と夕顔(ゆうがお)の娘である玉鬘を中心とした一連の物語が描かれている、一連の「玉鬘物語」の中核をなす巻々であることからひとまとめにして「玉鬘十帖」と呼ばれているものです。
夕顔(ゆうがお)の遺児玉鬘は、母の死後、4歳で乳母(めのと)一家に伴われて筑紫(つくし)へ下(くだ)り、乳母の夫、太宰少弐(だざいの・しょうに)が死去した後上京できないまま、既に20歳になっていました。美貌ゆえに求婚者が多かったのですが、乳母は玉鬘を「自分の孫」ということにして、病気で結婚できないと断り続けてきたのですが、中でも有力者である肥後の豪族大夫監(たゆうのげん)の強引な求婚に困り果て、ついには次男・三男までもが大夫監に味方し、乳母一家は二つに分裂してしまい、長男の豊後介(ぶんごのすけ)に謀(はか)って船で京に逃げ帰りました。しかし京に来たものの、母、夕顔を探す当てもないので、神仏に願掛けし、長谷寺(はせでら)の御利益(ごりやく)を頼み参詣の旅に出たところ、椿市(つばいち)の宿で偶然、元は夕顔の侍女で今は源氏に仕える右近(うこん)と再会しました。右近から、源氏の大臣(おとど)が自分の事のように、心配して探している、のを知らされ、夕顔が亡くなった時のいきさつを聞いた乳母一家は驚きました。
右近から報告を受けた源氏は玉鬘を自分の娘というふれこみで六条院に迎え、花散里を後見として、夏の町の西の対(つい)に住まわせました。年の暮れ、源氏は女らに贈る正月の晴れ着を選び、紫の上は複雑な気持ちを抱(いだ)くのでした。
23帖 初音(はつね)
新春を迎えた六条院は、この世の極楽浄土の如く麗(うら)らかで素晴らしいものでした。源氏は春の町で紫の上と歌を詠み交わし、新年を寿(ことほ)ぎました。紫の上の下(もと)で養育されている明石の姫君(あかしのひめぎみ)に、生母である明石の御方(あかしのおんかた)から贈り物と和歌が届き、源氏は娘との対面も叶わぬ御方(おんかた)を哀れに思いました。夕暮れ時、源氏は贈った晴れ着を纏(まと)う女君(おんなぎみ)たちの様子を見に、花散里(はなちるさと)と玉鬘(たまかずら)、さらに明石の御方を尋ねました。その夜はそのまま明石の御方の元に泊まり、紫の上から不興(ふきょう)を買ってしまいました。
二日は臨時客の儀(りんじきゃく・の・ぎ)に大勢の公達(きんだち)が訪れ、特に若者たちは噂の玉鬘に皆気も漫(そぞ)ろでした。その後源氏は二条東院(にじょう・とういん)の末摘花(すえつむはな)や空蝉(うつせみ)を訪れ、女君(おんなぎみ)たちの身の回りに気を配りました。また今年は男踏歌(おとことうか)があり、六条院に回り来る際に、玉鬘(たまかずら)は紫の上(むらさきのうえ)や明石の姫君と対面して、一緒に見物しました。
24帖 胡蝶
3月20日頃、源氏は春の町で船楽(ふながく)を催し、秋の町からも秋好中宮(あき・このむ・ちゅうぐう)方(かた)の女房たちを招きました。
夜も引き続いて管弦(かんげん)や舞が行われ、集まった公卿(くぎょう)や親王らも加わりました。中でも源氏の異母弟である兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)も玉鬘に求婚する一人で、源氏に姫君との結婚を熱心に請(こ)いました。
翌日、秋の町で中宮による季の御読経(き・の・みどきょう)が催(もよお)され、船楽(ふねがく)に訪れた公卿たちも引き続いて参列しました。紫の上は中宮に美々しく装った童(わらべ)たちに供養の花を持たせ、和歌を贈答しました。
夏になり、玉鬘(たまかずら)の下(もと)へ兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)、髭黒右大将(ひげくろ・の・うだいしょう)、従兄に当たり、親友であり、義兄であり、恋の競争相手であり、また政敵でもある元頭中将(とうの・ちゅうじょう)こと内大臣の長男である柏木(かしわぎ)らから次々と求婚の文(ふみ)が寄せられました。それらの品定めをしつつ、いつしか、玉鬘への思慕を押さえがたくなっていた源氏は、ある夕暮れにとうとう想いを打ち明け、側(そば)に添い臥してしました。源氏の自制もあって、それ以上の行為はなかったものの、世慣れぬ玉鬘は養父からの思わぬ懸想(けそう)に困惑してしまいました。
25帖 蛍(ほたる)
五月雨(さみだれ)の頃、兵部卿宮から玉鬘に文(ふみ)が届き、源氏はそれに返事を書かせました。喜び勇んで六条院にやってきた兵部卿宮の前で、源氏は几帳の内に蛍を放ち、その光で玉鬘の姿を浮かび上がらせて見せた。予想以上の美しさに心を奪われた兵部卿宮は想いを和歌で訴えるが、玉鬘はつれなくあしらうだけでした。(この逸話から、兵部卿宮は蛍宮(ほたるのみや)、蛍兵部卿宮(ほたる・ひょうぶきょうのみや)等と呼ばれます)
5月5日の節句、玉鬘の下には数多くの薬玉(くすだま)が贈られて来ました。源氏は夏の町で騎射(きしゃ)と宴(うたげ)を催(もよお)し、その晩は花散里のところに泊まりました。やがて長雨(ながあめ)の季節に入り、物語に熱中する玉鬘に源氏は物語評論を聞かせ、相も変わらず言い寄って、玉鬘を困らせていました。その頃、玉鬘の実父である内大臣も、夢占いで、かつて夕顔との間にもうけた娘が他人の養女になっているだろうと告げられており、まさか源氏の下にいるとは知らずにその行方を捜していました。
26帖 常夏(とこなつ)
盛夏(せいか)の六条院で、釣殿(つりどの)で涼(すず)んでいた源氏は夕霧を訪ねてきた内大臣家の子息(しそく)たちに、最近新しく迎えられた落胤(らくいん)の姫君(ひめぎみ)である近江の君(おうみのきみ)のことを尋ねました。玉鬘を探していた内大臣でしたが、代わりに見つかったという近江の君の芳(かんば)しからぬ噂を源氏も知っていて、夕霧と雲居の雁(くもいの・かり)との仲を許さないこともあったため、痛烈に皮肉りました。二人の不仲を聞いて、いつになったら実父に会えるのか思い悩む玉鬘に、源氏は和琴(わごん)を教えながら、ますます惹かれていきました。
一方、源氏の皮肉を聞いた内大臣は激怒して、雲居の雁のところへ出向いたのですが、夏の暑い盛りに羅(うすもの)の単衣(ひとえ)を羽織って、うたた寝していた姿に
うたた寝はいさめきこゆるものを。などか、いとものはかなきさまにては大殿籠もりける。人びとも近くさぶらはで、あやしや。
女は、身を常に心づかひして守りたらむなむよかるべき。心やすくうち捨てざまにもてなしたる、品なきことなり。
うたた寝はいけませんと申してあるのに、なぜ、しどけない恰好(かっこう)をして御寝(およ)っておいでなのですか。おつきの衆もお側(そば)近くに侍(さぶろ)うていないのはどうしたことです。女はいつも身の周りに心を配って、己(おの)れを護っているのがいいのです。気を許してやりっぱなしな振舞いをするのは下品なことです。
と説教しました。また、あまりに姫君らしくない近江の君の処遇に思い悩みました。そこで長女である弘徽殿女御(こきでんのにょうご)の元に行儀見習いへ出すことにしたのですが、女御へ贈られた文(ふみ)も和歌も支離滅裂な出来で、女房たちの失笑を買ってしまいました。
27帖 篝火(かがりび)
その頃、内大臣の姫君である近江の君の悪評が世間の噂になっていました。それを耳にした玉鬘は、源氏に引き取られた自身の幸福をしみじみと感じ、源氏に心を開いてゆきました。
七月初旬の夕月夜(ゆうづきよ)、玉鬘(たまかずら)のもとを訪れた源氏は、琴を枕にして彼女と寄り添いました。そして、己の恋情を庭前(にわさき)に焚かせた篝火の煙にたとえ、歌を詠みました。玉鬘は返歌するものの、困惑してしまいました。
ちょうどそのとき東の対(たい)では、源氏の招きによって、柏木たちが夕霧と合奏(がっそう)していました。玉鬘に密かな恋心をいだく柏木はその手を緊張させるのでした。玉鬘は、名乗り合わない兄弟の姿に感慨もひとしおでした。
28帖 野分(のわき)
8月のある日、激しい野分(のわき)こと台風が都を吹き荒れました。六条院の庭の草花も倒れ、そこへ訪れた夕霧は混乱の中で偶然にも紫の上の姿を垣間見て、その美貌に衝撃を受けました。その後、祖母の大宮(おおみや)の元へ見舞いに参上してからも、爛漫(らんまん)の桜のような紫の上の艶姿(あですがた)は夕霧の脳裏に焼きついて消えませんでした。
野分の去った翌日、源氏は夕霧をお供に連れて、宿下がり(やどさがり)中の秋好中宮(あきこのむ・ちゅうぐう)を始めとする女君(おんなぎみ)たちの見舞いに回りました。玉鬘の元を訪れた時、こっそりと覗き見た夕霧は玉鬘の美しさに見とれると共に、親子とは思えないむつみ合う振舞いを見せる源氏に驚き不審に思ってしまいました。夕霧はとりどりに花のように美しい女性たちを思って心乱れつつ、明石の姫君を訪ね、雲居の雁へ文(ふみ)を送りました。夕方、三条宮(さんじょうの・みや)に帰ると、内大臣が来ており、近々(ちかぢか)、大宮のもとに雲井雁(くもい・の・かり)を伺(うかが)わせると語っていました。
29帖 行幸(みゆき)
12月、冷泉帝(れいぜいてい)の大原野(おおはらの)への行幸(みゆき)が行われ、玉鬘(たまかずら)も見物に参加しました。初めて実父(内大臣)を見た玉鬘でしたが、それ以上に、源氏にそっくりな冷泉帝の端麗さに見とれてしまいました。そんな心中を見透かしたように、源氏は玉鬘に尚侍(ないしのかみ)としての出仕を勧めました。
源氏は玉鬘の裳着(もぎ)の儀(ぎ)を急ぐかたわら、実父である内大臣に腰結い(こしゆい)の役を頼みましたが、玉鬘が実の娘とは知らない内大臣は母の大宮の病を口実に遠慮しました。そこで源氏は自ら大宮の見舞いに参上し、大宮と後から来た内大臣に玉鬘の素性を明かしました。内大臣も今度は喜んで腰結いを引き受け、裳着の当日、ようやく親子は対面を果たしました。やがて事の次第が世間にも漏れ、近江の君は玉鬘ばかりが誰からも大切にされるのを羨(うらや)ましく思い、ますます周囲からからかわれることになりました。
30帖 藤袴(ふじばかま)
尚侍(ないしのかみ)に任命されたものの、玉鬘(たまかずら)は祖母の大宮(おおみや)の喪に服しながら、出仕を思い悩んでいました。そこへ夕霧が父の源氏の使いで訪れ、従兄弟の縁に事寄せ(ことよせ)、藤袴(ふじばかま)の花を差し出しつつ、秘めていた想いを訴えたのですが、玉鬘(たまかずら)は取り合いませんでした。源氏のところに戻った夕霧は、
「うちうちにも、やむごとなきこれかれ、年ごろを経てものしたまへば、えその筋の人数にはものしたまはで、捨てがてらにかく譲りつけ、おほぞうの宮仕への筋に、領ぜむと思しおきつる、いとかしこくかどあることなりとなむ、よろこび申されけると、たしかに人の語り申しはべりしなり」
と、いとうるはしきさまに語り申したまへば、「げに、さは思ひたまふらむかし」と思すに、いとほしくて、
「いとまがまがしき筋にも思ひ寄りたまひけるかな。いたり深き御心ならひならむかし。今おのづから、いづ方につけても、あらはなることありなむ。思ひ隈なしや」
と笑ひたまふ。御けしきはけざやかなれど、なほ、疑ひは置かる。大臣も、
「さりや。かく人の推し量る、案に落つることもあらましかば、いと口惜しくねぢけたらまし。かの大臣に、いかで、かく心清きさまを知らせたてまつらむ」
と思すにぞ、「げに、宮仕への筋にて、けざやかなるまじく紛れたるおぼえを、かしこくも思ひ寄りたまひけるかな」と、むくつけく思さる。
「でもあちらでは、こちらには前々から、かれこれ、やんごとない方々がお揃いでいらっしゃるので、その中へはお入れになりにくく、処置にお困り遊ばして押しつけようとなさるのだ、そして表面は一通りの宮仕えという体(てい)にして、手もともに取り籠(こ)めておこうと考えていらっしゃるのは、なかなかお利口(りこう)なやりかただとおっしゃってお喜びになっておいでだとやら、確かに人から聞いております」と、大層、真顔でお話しになりますので、なるほど、あの大臣はそんな風に取っておいでかも知れないと、この毒になりなされて、「えらい邪推をなさったものですね。気がお廻りになるお方の癖かもしれない。今にどういう風に落ち着くか、自然にわかる時があります。全く人は思いも寄らないことまでも想像しますね」とお笑いになります。そのお顔の色は朗らかですが、なお中将の疑いは晴れないのでした。
大臣も、やはりそうだったのか、人がそんなに気を廻しているのに、その推量通りになっては、いよいよ無念でもあるし、道にも外れる、何とかして自分の潔白な心を、内大臣に見せてあげなければと、お思いになりますにつけても、いかさま
表向きは宮仕えという風にして、実は曖昧な、はっきりしない状態に置いてあることを、いしくも、見破りたもうたことかなと、気味悪くお感じになります。
内侍(ないし)は常時出仕する必要のない役です。これがわかっていないと、原文の意味が伝わりにくいかもしれません。夕霧の追及をかわした源氏も、内大臣の勘の鋭さに、内心冷や冷やしたものと思われます。
喪が明けて、玉鬘の出仕は10月に決定しました。求婚者たちからは諦めきれない文(ふみ)が届きましたが、文をより分ける女房たちは「悲しいお文ばかり」と話しました。とりわけ、髭黒(ひげくろ)や蛍兵部卿宮(ほたる・ひょうぶきょうのみや)は熱心でしたが、玉鬘(たまかずら)はその中で、蛍兵部卿宮だけに返事を送りました。
31帖 真木柱(まきばしら)
玉鬘(たまかずら)十帖の第10帖となります。巻の名は、髭黒の娘が詠んだ和歌
今はとて宿離れぬとも馴れ来つる真木の柱はわれを忘るな
いまはとて やどかれぬとも なれきつる まきのはしらは われをわするな
歌の訳:今はこれまでと、この家を離れていくにしても、幼い時から慣れ親しんできた真木の柱は私を忘れてくれるな。
に因んでいます。真木はスギやヒノキなどを指します。
尚侍(ないしのかみ)として出仕を控えていた玉鬘でしたが、その出仕の直前に、髭黒が女房の手引きを用いて、強引に契りを交わしてしまいました。若く美しい玉鬘を得て有頂天の髭黒を、源氏は内心の衝撃を押し隠して、丁重に婿としてもてなしましたが、無骨で雅(みやび)さに欠ける髭黒と心ならずも結婚することになった当の玉鬘はすっかりしおれきり、恥ずかしさに源氏とも顔を合わせられませんでした。一方で実父の内大臣は、姉妹の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)と冷泉帝(れいぜいてい)の寵(ちょう)を争うよりは良いと、この縁談を歓迎して、源氏の計らいに感謝しました。
髭黒(ひげくろ)はその後、玉鬘(たまかずら)を迎えるために邸の改築に取り掛かりましたが、その様子に、今ではすっかり見捨てられた北の方(きたのかた)は絶望し、父親の式部卿宮(しきぶきょうのみや)も実家に戻らせようと考えました。髭黒もさすがにそれは世間体も悪いと引き止めたものの、いざ玉鬘のところへ出発しようとした矢先、突然狂乱した北の方に香炉の灰を浴びせられました。この事件で完全に北の方に愛想を尽かした髭黒は玉鬘の下(もと)に入り浸(びた)り、とうとう業(ごう)を煮やした式部卿宮は、髭黒の留守の間に北の方と子供たちを迎えにやりました。一人、髭黒の可愛がっていた娘の真木柱(まきばしら)だけは父の帰りを待つと言い張ったが、別れの歌を邸の柱に残して泣く泣く連れられていきました。後(あと)でそれを知った髭黒も涙し、式部卿宮(しきぶきょうのみや)を訪れて対面を願いましたが、返されたのは息子たちだけでした。
明けて新年、相変わらず塞ぎこんでいる玉鬘に、髭黒もようやく出仕を許す気になり、玉鬘は華々しく参内しました。早速訪れた冷泉帝は噂以上の玉鬘の美しさに魅了されて熱心に想いを訴え、それに慌てた髭黒は退出をせきたててそのまま玉鬘を自邸へ連れ帰ってしまいました。まんまと玉鬘を奪われた源氏は悔しさを噛みしめ、なおも未練がましく幾度か文(ふみ)を送りましたが、それも髭黒に隔てられて思うに任せませんでした。やがて玉鬘は男子を出産し、その後は出仕することもなく髭黒の正室として家庭に落ち着きました。
32帖 梅枝(うめがえ)
東宮(とうぐう)の元服(げんぷく)に合わせ、源氏も明石の姫君(あかしの・ひめぎみ)の裳着(もぎ)の支度を急いでいました。源氏は女君(おんなぎみ)たちに薫物(たきもの)の調合を依頼し、自分も寝殿(しんでん)の奥に引きこもって秘伝の香(こう)を調合しました。雨の少し降った2月10日、蛍兵部卿宮(ほたる・ひょうぶきょうのみや)を迎えて薫物合わせの判者(はんじゃ)をさせました。どの薫物も皆それぞれに素晴らしく、さすがの蛍宮(ほたるのみや)も優劣を定めかねるほどでした。晩になって管弦(かんげん)が催され、美声の少弁(しょうべん)が「梅枝」(うめがえ)を歌いました。
翌日、明石の姫君の裳着が盛大に行われ、秋好中宮(あき・このむ・ちゅうぐう)が腰結い(こし・ゆい)をつとめました。
子の時に御裳たてまつる。大殿油ほのかなれど、御けはひいとめでたしと、宮は見たてまつれたまふ。大臣、
「思し捨つまじきを頼みにて、なめげなる姿を、進み御覧ぜられはべるなり。後の世のためしにやと、心狭く忍び思ひたまふる」
など聞こえたまふ。中宮は、
「いかなるべきこととも思うたまへ分きはべらざりつるを、かうことことしうとりなさせたまふになむ、なかなか心おかれぬべく」
と、のたまひ消つほどの御けはひ、いと若く愛敬づきたるに、大臣も、思すさまにをかしき御けはひどもの、さし集ひたまへるを、あはひめでたく思さる。母君の、かかる折だにえ見たてまつらぬを、いみじと思へりしも心苦しうて、参う上らせやせましと思せど、人のもの言ひをつつみて、過ぐしたまひつ。
子(ね)の時に、おん裳(も)をお着けになります。御燈火(みあかし)の灯(ほ)かげは仄(ほの)かながら、立派なご様子であると、宮はご覧になります。大臣は、「お見捨て遊ばすようなことはあるまいというのを頼みにしまして、失礼な姿を進んでお目にかけるのでございます。こういうことが今後の例になりましょうかと、恐縮に存じているのでございます」などと申し上げられます。宮、「何のこととも弁(わきま)えておりませなんだが、そう大層におっしゃっていただきましては、かえって気がおけるような」と打ち消したもう御気配(おんけはい)が、この上もなく若々しく、愛嬌がありますので、大臣もいずれもいずれも申し分のない、結構な御方々(おんかたがた)が集まっていらっしゃいますにつけても、御一門(ごいちもん)の睦まじさをめでたくお思いになります。この姫君の母なる人が、せめてこういう席にでも、連なることができないのをひどく悲しんでいましたが、人々の非難を憚(はばか)って、そのままになさいました。
東宮(とうぐう)も入内(じゅだい)を待ちかねていましたが、源氏は自分に遠慮して、入内を控える貴族が多い事を憂慮し、明石の姫君の入内を延期して、他の貴族にも姫君の入内を働きかけました。このことから、早速、左大臣は後(のち)の藤壺女御(ふじつぼ・の・にょうご)となる姫を入内(じゅだい)させました。殿舎(でんしゃ)は麗景殿(れいけいでん)となりました。源氏は明石の姫君の殿舎を淑景舎(しげいしゃ)こと、桐壺(きりつぼ)と決め、華麗な調度類に加えて優れた名筆の手本を方々に依頼しました。
そんな華やかな噂を聞きながら、内大臣は雲居の雁(くもいの・かり)の処遇に相変わらず悩んでいました。源氏も、夕霧がなかなか身を固めないことを案じており、親として自らの経験を踏まえつつ訓戒し、それとなく他の縁談を勧めました。その噂を父の内大臣から聞かされた雲居の雁は衝撃を受け、あっさり忘れられてしまう自分なのだと悲しみました。久しぶりに人の目を忍んで届いた夕霧からの文(ふみ)に、夕霧の冷淡さを恨む返歌をし、心変わりした覚えのない夕霧はどうして雲居の雁がこんなに怒っているのかと考え込みました。。
この源氏が用意した嫁入り道具が、藤原道長(ふじわらの・みちなが)が用意した四尺屏風(よんしゃくびょうぶ)がお手本なのでしょう。
33帖 藤裏葉(ふじのうらば)
内大臣が、夕霧(ゆうぎり)と雲居の雁(くもいのかり)の恋を無理矢理裂いてから数年、二人の恋愛は世間に知られているし、今更、違う相手と娘を結婚させるのは風聞(ふうぶん)が悪く、夕霧の方からあせって結婚を申し込む気配もなく、内大臣は自分が折れるべきだと考えるようになりました。二人の祖母であり、内大臣の母である大宮の法事の席で袖をひいて話しかけてきた内大臣に夕霧は戸惑い、もしや許してもらえるのかと煩悶(はんもん)する一夜を過ごしました。
四月、自邸(じてい)で藤花の宴(とうかのえん)を開くという内大臣の口上(こうじょう)を持った息子の柏木(かしわぎ)が、夕霧を迎えにやって来ました。緊張している夕霧に源氏は出かけるよう促し、着替え用にと自らの上等な衣服を選び与えました。
藤花の宴で内大臣はかねての仲であった娘の雲居の雁と夕霧の結婚を認めました。仲睦まじい夫婦の誕生に、源氏は親として嬉しく思い、夕霧の辛抱強さを褒めたたえました。内大臣も結婚させてみると後宮(こうきゅう)での競争の多い入内(じゅだい)より、立派な婿を迎えた今の結婚の方が幸せだと分かり、心から喜んで夕霧を大切に扱うのでした。
一方、源氏の娘・明石の姫君(あかしの・ひめぎみ)の入内(じゅだい)の日取りが決まり、養母である紫の上は、姫に付き添えない事から生き別れた実母明石の君(あかしの・きみ)に配慮して、後見役を譲りました。明石の君は大いに喜び、姫が入内し、入れ違いになった二人の母は初めて対面することになりました。互いに相手の美点を見いだして認め合った二人はこれまでのわだかまりも氷解し心を通わせました。
秋になり、四十の賀(が)を控えた源氏は准太上天皇(じゅんだいじょうてんのう)の待遇を受け、内大臣が太政大臣に昇任しました。夕霧も中納言に昇進し、これを機に大宮がかつて住んでいた三条の邸(やしき)を改装し、雲居の雁とともに移り住みました。 十一月、紅葉の六条院へ冷泉帝(れいぜいてい)と朱雀院(すざくいん)が揃って行幸(ぎょうこう)し、華やかな宴(うたげ)が催されました。源氏は栄華の絶頂に立ったのでした。
明石の姫君(あかしのひめぎみ)が東宮(とうぐう)の女御(にょうご)に、今上(きんじょう)帝として即位後は中宮(ちゅうぐう)となり、源氏は頂点を極め、准太上天皇(じゅん・だじょうてんのう)となりました。太上天皇に準(なずら)う御位(みくらい)です。太上天皇というのは天皇を辞めた天皇のことです。平安時代には、崩御によって位を譲ったのは堀河(ほりかわ)天皇以外いなかったので、次の天皇に位を譲って上皇になることは当たり前のことでした。ところが、光の君(ひかるのきみ)はもう臣籍降下して、源氏という氏(うじ)を名乗っていますから、皇族ではありませんでした。なので、准太上天皇(だじょうてんのうになずらう)という形で、公(おおやけ)の御後見として登り詰めました。
ちなみに太上天皇(だじょうてんのう)に推薦されながら、ならなかった人がいます。室町幕府三代将軍の足利義満(あしかが・よしみつ)です。清和源氏(せいわげんじ)であり源氏長者(げんじのちょうじゃ)ですから。清和天皇から、ずっと男系で続いてきているので、皇籍復帰すれば、資格がないわけでもありません。義満も「自分は光源氏だ」と思っていたという説もあるので、なる気満々だったのでしょうが、突然、50歳で亡くなってしまい、おまけに、息子である四代将軍の義持(よしもち)と管領の斯波義将(しば・よしゆき)が反対して、義満は太上天皇になれませんでした。
普通の物語は大体ここで終わります。ところが『源氏物語』の凄さというのは、ここからも物語が続いていき、その次に没落過程まで描いているところです。
このような作品は、今のところ、世界中に存在していません。
世界中でよく見られるのは、「王子様と王女様は幸せに暮らしました」という型のものです。我が国の作品でも、例えば、『落窪物語』(おちくぼ・ものがたり)では、継子(まあこ)いじめの復讐戦の後、幸せになって終わりですし、『竹取物語』では、恋愛が最初から成就していないので、月に帰っても誰も不幸にはなっていません。
ここから第2部に移ります。
34帖 若菜・上
源氏の兄、朱雀院(すざくいん)は先日出席した六条院の行幸(ぎょうこう)直後から病気を患ったため出家しようとしたものの、藤壺(ふじつぼ)の異母妹である源氏女御(げんじのにょうご)という生母を既に亡くしており、後見人の居ない愛娘である女三宮(おんな・さんのみや)の将来が心配で、出家をためらっていました。弟宮(おとみや)の蛍兵部卿宮(ほたる・ひょうぶきょうのみや)や藤大納言(とうのだいなごん)・柏木(かしわぎ)など、多くの貴公子が婿候補にあがりましたが、婿選びに思い悩んだ末、朱雀院は源氏に宮を託すことを決心し、源氏もそれを承諾してしまいました。それまで正妻格として認められてきた紫の上は動揺するが、それを隠して女三宮を源氏の正室として迎える準備をし始めました。
年が明け、二月に女三宮が六条院に降嫁(こうか)しましたが、女三宮のあまりの幼さに源氏は失望してしまいました。また、紫の上は思わぬ展開を悲しみ、次第に出家を望むようになっていきました。
朱雀院の出家で、寵愛していた后妃(こうひ)たちもそれぞれ自邸に下がりました。源氏はかつて恋に落ちた朧月夜(おぼろづきよ)が実家である、かつての右大臣邸へ帰った事を知り、政敵の娘との許されぬ恋により、須磨・明石に蟄居(ちっきょ)を余儀なくされた日々を思い出していました。源氏から文(ふみ)と使いをよこされた朧月夜は頑なに拒否しましたが、それにもめげず源氏は元右大臣邸へ出かけ、結局、よりが戻ってしまいました。 翌朝六条院に帰った源氏は、これまでと違う紫の上の態度に戸惑う事になりました。
一方、内裏(だいり)にいる明石の女御(あかしの・にょうご)は体調が優れず、「実家の六条院へ帰りたい」と訴えていたが、東宮(とうぐう)が許してくれず、鬱々とした日々を過ごしていました。女御の病状を確かめると身ごもっている事が明らかになりました。東宮もようやく宿下がりを許しました。六条院に帰った明石の女御と対面するついでに、紫の上は女三宮への挨拶を申し出ました。
十月、源氏の四十賀(しじゅうのが)が盛大に執り行われました。紫の上、秋好中宮(あきこのむ・ちゅうぐう)を始め、上達部(かんだちめ)や殿上人(てんじょうびと)など世間中が饗応の準備に明け暮れました。
年が明け、明石の女御は産み月が間近に迫り体調が悪いために、冬の御殿へ移り住む事になりました。そこで明石の御方(あかしのおんかた)の母の明石尼君(あかしのあまきみ)との対面を果たしました。明石の女御は自分の誕生時の経緯を聞いて感涙してしまいました。 三月、明石の女御は東宮(とうぐう)の皇子を無事に出産しました。人生最大の栄華に喜ぶ明石の御方たちだが、明石入道(あかしのにゅうどう)が大願成就を信じ、家を寺として弟子を残し、深山(みやま)に跡(あと)を暗(くら)ました、という消息文を読み涙を流しました。
一方、かねてから、女三宮(おんな・さんのみや)の降嫁(こうか)を切望していた柏木(かしわぎ)は、その後も未練を残していました。三月末、六条院の蹴鞠(けまり)の催しに訪れた柏木は、飛び出してきた唐猫(からねこ)の仕業で上がった御簾の奥にいる女三宮の姿を垣間見てしまいました。それ以降、柏木はますます女三宮への思いを募らせていきました。
朱雀帝は、皇女である女三宮の処理に困っていました。
これはなぜかと言えば、内親王(ないしんのう)、つまり、天皇の娘は相手が、なかなか見つからないからです。
通常、女性の場合、結婚相手は、相手が自分より身分が上、もしくは対等、の人が選ばれます。あまりに住む世界が違うと、生活していくのに、お互いが苦しむからです。現代でも、男性がお金持ちで女性がそれ程でもないというのなら上手くいく場合が少なくありませんが、その逆だと上手くいく場合は稀な例となります。なので、皇女の多くは生涯独身が多いのです。女性天皇は全員が独身です。武士でも、室町時代以降は、将軍の娘はほぼ全てが独身で大半が出家しています。
朱雀帝は、皇女に釣り合う身分の男がいないので困っていたので、源氏に何とか正妻として迎えてもらったわけです。これは葵の上の場合とも似ています。
女三宮(おんな・さんのみや)も、「何で臣籍降下した人と結婚しなくちゃいけないの?准太上天皇だか何だか知らないけど、一般の貴族と結婚しなくちゃいけないの?」と思ったことでしょう。
紫の上は、『源氏物語』の中で正妻格として、源氏がつくり上げた六条院という世界で源氏と一緒に暮らしているわけなのです。
ところが、急にここに別格の正妻が出てくると、紫の上としてはもう青天の霹靂(へきれき)以外の何物でもありませんでした。自分の立場が完全に危うくなったわけですから。
おそらく朱雀帝はそんなことまで考えていなかったのでしょうが、源氏は、まず紫の上との関係が危うくなり、次第に冷たい関係になっていきました。
35帖 若菜・下
それから四年後、冷泉帝が東宮(とうぐう)に譲位しました。これと同時に、太政大臣(だじょうだいじん)が隠居を申し出ました。これより、致仕の大臣(ちじのおとど)と呼ばれるようになります。東宮には明石の女御が産んだ第一皇子が立ちました。源氏は、藤壺の宮との密かな愛によって産まれた我が子が、皇子の無いまま帝位を去ってしまい、命を懸けた恋が身を結ばなかった事を密かに嘆きました。
ある日源氏は、紫の上から、出家したいという思いを切り出されましたが、紫の上が去った後の孤独を恐れる源氏は必死に懇願し、考え直すよう説得しました。 後日、源氏一行は明石入道(あかしの・にゅうどう)の御願ほどき(おがん・ほどき)のため、明石一族を伴い住吉大社へ参詣しました。源氏はかつて須磨に蟄居した頃、先の太政大臣がはるばる訪ねてきてくれた事を思い出していました。明石尼君(あかしのあまきみ)にこっそり歌を送りました。
誰れかまた心を知りて住吉の神代を経たる松にこと問ふ
たれかまた、心を知りて 住吉の 神代(かみよ)をえたる松にこととう
歌の訳:誰か私たちの他に昔の事情を知っていて、住吉の社頭(しゃとう)の年をとる松に、あの頃のことを尋ねる者があるでしょうか?つまり、かつてここの明神(みょうじん)に祈願をかけたことなどを知っている者は、あなたと私だけです、という意味。
尼君は源氏の心遣いに感涙しました。 参拝を終え、その夜、東遊び(あずまあそび)が執り行われました。翌朝、明石尼君(あかしの・あまきみ)のいる牛車(ぎっしゃ)を見た貴族は幸運をつかんだ一族を褒め称え、「明石尼君にあやかりたい」と噂しました。
翌年の朱雀院(すざくいん)の五十の賀(ごじゅう・の・が)に向けて、源氏は女三宮に琴を教えました。年が明け、正月に六条院で華やかな女楽(じょがく)が催され、女三宮、紫の上、明石の女御、明石の御方が揃って見事な演奏を披露しましたが、その晩に37歳の厄年だった紫の上が突然倒れてしまいました。病状は好転せず、源氏は紫の上と共に二条院に移って看病に付き添いました。
一方、柏木は女三宮の異母姉(いぼし)である女二宮(おんなにのみや)こと落葉の宮(おちばのみや)と結婚したものの満足できず、源氏が紫の上につきっきりで手薄になっていた隙をついて、女三宮の乳母子(めのとご)の小侍従(こじじゅう)の手引きで女三宮と密通しました。その直後、紫の上が一度は絶命したものの、かろうじてよみがえりました。その際に六条御息所(ろくじょうの・みやすんどころ)の死霊(しりょう)が現れて源氏を戦慄させました。後日、源氏は御息所の死霊を供養するため、紫の上に正式ではないものの在家(ざいけ)で戒(かい)を受けさせました。
後日、女三宮が懐妊しました。紫の上の病状も小康状態になった夏の末頃、見舞いにやって来た源氏は、偶然、柏木からの恋文を見つけ、事の真相に気付きました。小侍従(こじじゅう)は女三宮を責め、女三宮は源氏を前にして生きた心地がしませんでした。源氏もそんな女三宮に皮肉を言い、父院の朱雀院(すざくいん)に心配をかけないよう、それとなく説教しました。柏木もそのことを知らされ罪におののき、さらに六条院で行われた試楽(しがく)の際に、源氏から痛烈な皮肉を言われて、病に臥してしまいました。柏木の容態が、枕も上がらないほどの重態である事を使いの者から知らされた、致仕の大臣(ちじのおとど)と北の方(かたのかた)は驚愕し、すぐさま実家に引き取る事を決めました。実家で療養する事になった柏木は、女二宮と一条御息所(いちじょうの・みやすんどころ)に涙ながらに謝罪し、一条の屋敷を後にしました。
朱雀院の五十の賀(ごじゅう・の・が)は、暮れも押し迫った十二月の二十五日に行われました。
かつての頭中将(とうの・ちゅうじょう)の息子である柏木の蹴鞠(けまり)を御簾(みす)越しに女三宮が見ていたのですが、そこに女三宮が飼っていた猫が御簾の中を通っていた時に風が吹いて御簾が舞い、一瞬、柏木は顔を見て、それで柏木は女三宮が好きになりました。
それで何度も何度も手紙を出して、結果的に女三宮は迫られると弱いようで、柏木は思いを遂げました。
その結果、女三宮は男子を出産しました。これが薫(かおる)です。この薫は、まさに源氏が母恋(ははこい)で紫の上の叔母に当たる藤壺中宮(ふじつぼ・の・ちゅうぐう)と関係してしまい、冷泉帝が産まれたのと同じです。因果は巡るという事です。
『源氏物語』には日本文化においての美意識、価値観に大きな影響を与えた思想である「もののあはれ」(もののあわれ)の情調(じょうちょう)が至るところにあふれています。自然の描き方といい、人物の描き方といい、文章や和歌の表現といい、どこを取り上げても感動しないというところはありません。
36帖 柏木(かしわぎ)
病床に伏した柏木はこれまでと覚悟し、女三宮に文(ふみ)を送りました。小侍従(こじじゅう)にせかされて、女三宮もしかたなく返事を書き、それを読んだ柏木は涙にむせびました。その後、女三宮は無事男子を出産したもののすっかり弱り切り、心配して密かに訪れた朱雀院(すざくいん)に出家を願いました。傍(かたわ)らで見守っていた源氏こと六条院(ろくじょういん)も今さらながら慌てて引き留めようとしましたが、女三宮の決意は固く、当の女三宮から六条院(ろくじょういん)の仕打ちを恨んでいた事を態度で示され、その宵のうちに朱雀院の手で髪を下ろしてしまいました。朱雀院は、いずれ山奥の寺へと移す事になるけれども、そうなっても宮の事は見捨てないように、と六条院に釘を刺し、自身が住む寺へと帰って行きました。
女三宮の出家を知った柏木は絶望してしまい、両親や兄弟たちに後のことを託しました。柏木の病状を哀れんだ今上帝(きんじょうてい)は柏木を元気付けるために権大納言(ごん・だいなごん)の位(くらい)を贈りました。彼の昇進を祝い、致仕の大臣(ちじのおとど)の邸(やしき)には多数の人が詰め掛けました。夕霧が心配して見舞いにやってくると、柏木はそれとなく、六条院(ろくじょういん)の不興(ふきょう)を買ったことを告げて、夕霧からとりなしてほしいと頼みました。兄弟たちも皆悲しむ中で柏木はとうとう薨去してしまいました。とりわけ両親の嘆きは激しく、このことを伝え聞いた女三宮も憐れに思って泣きました。
三月に薫(かおる)の五十日の祝いが催され、薫を抱き上げた六条院はその容姿の美しさに柏木の面影を見て、さすがに怒りも失せ涙しました。一方、夕霧は事の真相を気にしながら、柏木の遺言を守って未亡人となった落葉の宮(おちばのみや)の元へ訪問を重ね、そのゆかしい暮らしぶりに次第に心惹かれていきました。
女三宮は出家しましたが、女性にとって、出家とはどういう意味でしょうか。平安時代では出家すると尼削ぎ(あまそぎ)といって、肩のあたりで髪を切りそろえる髪型にします。現在ではセミロングです。
袈裟を着けていまるのを見かけますが、特に着けなくてもかまいません。
つまり、出家とは何かといったら、男性を寄せないという意味なのです。
源氏が藤壺と関係を持ち、桐壺帝が崩御した後、藤壺はわが子である冷泉帝を守るために出家しました。それでも源氏は近づきましたが、断固拒否していました。
つまり出家をした女性はそういうものからは縁がなくなるという事なのです。
なので、柏木はもう関係が持てない事に絶望したわけなのです。
本来なら、父の後を継いで太政大臣(だじょうだいじん)を目指すべきなのでしょうが、夕霧が太政大臣に就任する前に『源氏物語』が終わっていますが、おそらく、夕霧は、将来、太政大臣となるものと思われ、もし、柏木が薨去(こうきょ)していなかったならば、手強い政敵となっていたのではないだろうかと思われます。
37帖 横笛(よこぶえ)
柏木の一周忌がとなり、六条院は薫の代わりに丁重な布施を贈りました。裏の事情を知らない柏木の父である致仕の大臣(ちじのおとど)はそれに感謝し、悲しみを新たにしました。
女三宮が出家し、落葉の宮(おちばのみや)の夫が薨去してしまい、相次ぐ姫宮(ひめみや)たちの不幸を嘆く朱雀院(すざくいん)から、女三宮のところに筍(たけのこ)が贈られてきました。それを生えかけた歯でかじる薫を抱きながら、源氏は今までの人生を思い、また薫の幼いながらも高貴な面差(おもざし)に注目しました。
秋の夕暮れ、夕霧は柏木の未亡人である落葉の宮を見舞いました。その帰りに、落葉の宮の母である一条御息所(いちじょうの・みやすんどころ)は、柏木の形見の横笛を夕霧に贈りました。その夜、夢枕に柏木が立ち、笛を伝えたい人は他にいると夕霧に語りました。
後日、源氏のもとを訪れた夕霧は、明石の女御の皇子たちと無心に遊ぶ薫に柏木の面影を見ました。そして源氏に柏木の遺言と夢の話を伝えましたが、源氏は話をそらし横笛を預かるとだけ言いました。
38帖 鈴虫(すずむし)
その年の夏、蓮(はす)の花の盛りに、女三宮の持仏(じぶつ)の開眼供養(かいげんくよう)が営まれました。飾りつけもすっかり整った御堂(みどう)で、源氏は尼姿の女三宮(おんな・さんのみや)に後(あと)に残された悲しみを訴えましたが、女三宮はつれなく言葉を返すだけでした。朱雀院(すざくいん)は女三宮に譲った三条宮(さんじょうの・みや)に彼女を移らせることを勧めましたが、源氏はまだ若い妻を手放すのが惜しく首を縦に振りませんでした。
秋には女三宮の部屋の前庭(まえにわ)を野の風情に造りかえて鈴虫などの秋の虫を放しました。虫の音(ね)の鑑賞を口実に、部屋に来ては未練がましく愛を語る源氏に対して女三宮は迷惑に感じましたが、はっきりと口に出せずにいました。
八月の十五夜(じゅうごや)の頃、源氏が女三宮のところで琴を爪弾いていると、蛍兵部卿宮や夕霧がやって来て、そのまま管弦の宴となりました。そこへ冷泉院から誘いがあり、馳せ参じた源氏ら一同は明け方まで詩歌管弦(しいかかんげん)に興を尽くしました。
翌朝、秋好中宮(あき・このむ・ちゅうぐう)を訪れると、亡き母、六条御息所(ろくじょうの・みやすんどころ)が今も物の怪(もののけ)となり彷徨(さまよ)っていることを嘆き、出家したいと源氏に漏らしました。源氏はこれを諌め、追善供養(ついぜんくよう)をするようにと勧めました。
39帖 夕霧(ゆうぎり)
柏木の未亡人である落葉の宮(おちばのみや)は、母の一条御息所(いちじょうの・みやすんどころ)の病気加持(びょうき・かじ)のために小野(おの)の山荘(さんそう)に移っていました。宮に恋心を募らせていた夕霧は、八月の中ごろに一条御息所の見舞いを口実に小野を訪れました。折からの霧にかこつけて、落葉の宮に宿を求めた夕霧は、拒み続ける落葉の宮の傍らで積年の思いを訴え続けるが、思いはかなわぬままに夜(よ)が明けてしまいました。
祈祷の律師(りっし)から夕霧が落葉の宮の元で一夜を明かし朝帰りしたと聞き驚いた一条御息所は、実情を確かめようと、病をおして夕霧に文(ふみ)を認(したた)めました。
女郎花しをるる野辺をいずことて 一夜ばかりの宿をかりけむ
おもなえし しおるる野辺(のべ)を いずことて ひとよばかりの やどをかりけん
歌の訳:あなたはまあ、この女郎花(おもなえし)のしおれている野辺、つまり宮が泣きしおれているこの山荘を、どことお心得になって、たった一夜お帰りになられたきりお越しにならないのでしょうか。つまり、何という失礼なお仕打ちでしょう、の意味です。
文を書き終えた直後、一条御息所は危篤状態に陥ってしまいました。その文(ふみ)が夕霧の元へ届いたものの、それを北の方(きたのかた)である雲居の雁(くもい・の・かり)が取り上げて隠してしまいました。
翌朝、夕霧はようやく文を見つけましたが、文(ふみ)に認(したた)められた歌を見て「宮を弄んだ」と誤解されている事を悟りました。夕霧の返事は遅れに遅れ、一条御息所は心労のあまり急死してしまいました。突然の訃報を受け夕霧は葬儀全般の世話をしましたが、落葉の宮は母の死は夕霧のせいと恨み、心を開こうとはしませんでした。
落葉の宮(おちばのみや)はこのまま山荘に残り出家しようと思ったのですが、父の朱雀院(すざくいん)から、女三宮も出家したばかりなのに姫宮(ひめ・みや)たちが競うように出家するのをと窘められる内容の文(ふみ)が届き、落ち込むことになりました。
母、一条御息所の死後、夕霧の手によって半ば強引に隠棲(いんせい)していた小野(おの)の山荘(さんそう)から落葉の宮の本邸である一条宮(いちじょうの・みや)に移されて求婚され、初めは拒んでいたものの、結局は結婚を余儀なくされてしまいました。
夕霧は養母(ようぼ)である花散里(はなちるさと)から事情を聞かれましたが、帰宅後嫉妬に狂った雲居の雁(くもいのかり)と喧嘩してしまいました。何とか雲居の雁をなだめて落葉の宮の邸へ通っても、落葉の宮は塗籠(ぬりごめ)こと、土壁に囲まれた寝所(しんじょ)に閉じこもって出てこようとしないので、結局、強引に既成事実を作ってしまいました。
翌朝、夕霧が邸(やしき)に帰ると、雲居の雁は、娘と幼い子数人を連れて実家の致仕大臣(ちじのおとど)の邸(やしき)に帰ってしまっていて、連れ戻しに行っても取り合おうとしませんでした。
一方、落葉の宮は亡き夫の父の致仕大臣に文(ふみ)で責められ、夕霧の妾(めかけ)の藤典侍(とうのないしのすけ)も雲居の雁の味方で、一人途方にくれてしまいました。
40帖 御法(みのり)
紫の上(むらさきのうえ)はあの大病以来、体調が優れることがありませんでした。それで、しきりに出家を望むのですが、源氏は許そうとしませんでした。
三月十日、紫の上発願(ほつがん)の法華経千部(ほけきょう・せんぶ)の供養(くよう)が二条院で盛大に行われました。明石の御方(あかしのおんかた)や花散里(はなちるさと)も訪れ、紫の上はこれが最後と思い、別れを惜しみました。
夏になると紫の上の容態はいっそう悪くなり、明石の中宮(あかしの・ちゅうぐう)も養母(ようぼ)の見舞いのため里帰りして来ました。紫の上は可愛がっていた孫の三の宮(さんのみや)こと匂宮(におうのみや)に、庭の桜を自分の代わりに愛(め)でて、時折、仏にも供えて欲しい、とそれとなく遺言しました。
風の強い秋の夕暮れ、明石の中宮が紫の上の病床を訪れて、源氏も加わって歌を詠み交わしました。その直後、紫の上は容態を崩し、明石の中宮に手を取られながら、露のように儚(はかな)く明け方に息を引き取りました。
悲しみのあまり、源氏は紫の上から一切離れようとせず、代わりに葬儀全般を取り仕切ることになった夕霧が覗きに来ると、その死顔は、生前よりもこの上なく美しく見えました。
亡くなったのは八月十四日で、亡骸はその日のうちに荼毘(だび)に付されました。翌朝八月十五日に葬送(そうそう)が取り行われ、帝(みかど)や致仕の大臣(ちじのおとど)、秋好中宮(あき・このむ・ちゅうぐう)など多くの人から弔問がありました。源氏は世間体を気にして出家の気持ちをこらえ、その日その日を過ごしました。
41帖 幻(まぼろし)
紫の上が世を去り、また新しい年がやって来ました。新春の光を見ても悲しさは改まらず、源氏は年賀の客にも会わずに引きこもっていました。そして紫の上に仕えていた女房たちを話し相手に、後悔と懺悔の日々を過ごしていました。明石の中宮は紫の上が可愛がっていた三の宮こと匂宮を源氏の慰めに残し宮中に帰りました。
春が深まるにつれ、春を愛した故人への思いは募っていきました。しかし女三宮や明石の御方(あかしのおんかた)のもとを訪れても、紫の上を失った悲しみが深まるだけでした。
四月、花散里(はなちるさと)から衣替えの衣装と歌が届けられました。
夏衣たちかへてけるけふばかり ふるき思ひもすすみやはせぬ
なつごろも たちかえてける 今日ばかり 古き思いも すすみやはせん
歌の訳:夏のおん装束(しょうぞく)を仕立てて差し上げはしますものの、そのために今日はあなたの古いおん物思いが一層募りはしないでしょうか。
五月雨(さみだれ)の頃、夕霧に紫の上の一周忌の手配を頼みました。八月の命日には、生前に紫の上が発願(ほつがん)していた極楽曼荼羅(ごくらく・まんだら)の供養を営みました。
源氏は年が明けたら出家を果たそうと思い、身辺を整理しはじめました。その途中、須磨にいた頃に届いた紫の上の手紙の束(たば)が出てきました。墨の色も今書いたかのように美しく、寂寥(せきりょう)の念はひとしおでしたが、すべて破って燃やしてしまいました。
十二月、六条院(ろくじょういん)で行われた御仏名(おぶつみょう)の席で、源氏は久しぶりに公(おおやけ)に姿を現しました。その姿は「光る君」と愛(め)でられた頃よりも一層美しく光り輝いており、昔を知る僧並びに出席した貴族たちは涙を流しました。
晦日(みそか)、追儺(ついな)に、はしゃぎまわる三の宮を見るのもこれが最後と思い、源氏は最後の新年を迎えるための準備をしました。
もの思ふと過ぐる月日も知らぬ間に年もわが世も今日や尽きぬる
もの思うと 過(す)ぐる月日も知らぬ間(ま)に 年も我が世も 今日や尽きぬる
歌の訳:物思いのために月日の過ぎるのも知らずにいるうちに、年も今日で終わりになり、自分の寿命もまた尽きるのではないであろうか。
雲隠(くもがくれ)
この巻は、帖(じょう)の名だけあって本文はありません。この前の「幻」とこの後の「匂宮」(におうのみや)との間には8年が経過していて、源氏がその間に崩御しています。
紫の上が死んで、源氏は彼女の追憶に浸りながら、毎日を過ごしていきます。特にこの「幻」の帖というのは、月日が経っていくにつれて、死んだ紫の上の記憶ばかり蘇ってくる、これを繰り返しています。
『源氏物語』が完成してから約100年後、堀河(ほりかわ)天皇に仕えていた藤原長子(ふじわらの・ちょうし)こと、讃岐典侍(さぬきのすけ)という女房がいましたが、彼女の書いた『讃岐典侍日記』(さぬきのすけにっき)は、彼女が堀河天皇の看病をしている第1部、上巻、それから堀河天皇が亡くなった後の追憶の第2部、下巻があるのですが、冒頭からして、恐らく「幻」の帖の影響が物凄く大きいものと思われます。この『讃岐典侍日記』の下巻は月日が経っていっても、その月日が経っていくたびに、生前の堀河天皇が思い出されています。時間が経っていくにもかかわらず、追憶の日々ばかりで、全然時間が経っていきません。
また、堀河天皇の側近、右大臣であった中御門宗忠(なかのみかどのむねただ)が書いた『中右記』(ちゅうゆうき)という日記を読むと、しょっちゅう堀河天皇の夢を見ています。ところが、讃岐典侍は一切見ていません。不思議な事です。
「藤裏葉」(ふじのうらば)の帖で頂点までいった源氏の権力が、女三宮(おんな・さんのみや)から一気に崩れてしまいました。源氏にしてみると、若いころ、朱雀(すざく)を立てるために自分は臣籍降下したわけです。
ところが、娘をもらってやることで、今度は朱雀に貸しを作りました。これにより、より強固な権力を手にするはずでした。朱雀は、今後、源氏には逆らえないのですから。
それから、まだ生きていたかどうか、よくわかりませんが、娘のことを面倒を見てくれたので、弘徽殿大后(こきでんの・おおきさき)もあまり口出しできないはずです。
そうなってくると、女三宮(おんなさんのみや)を正室に迎えたことで、源氏はより一層出世したはずだったのですが、挫折の原因になってしまいました。ここが凄いと思われます。源氏の、かつての親友であり、義理の兄弟でもあり、政敵の息子である柏木が出てきます。猫のしわざで女三宮(おんなさんのみや)の顔が見えて、ここから急展開します。まさに、蟻の一穴(ありの・いっけつ)で、そこから崩壊が始まりだします。
藤壺の関係が、因果は巡って、柏木と女三宮の関係によって、源氏に跳ね返ってきます。源氏と藤壺によって冷泉帝が産まれました。冷泉帝は自分が源氏の子だと分かっています。
このことが「密通である」と言って、「皇室に対する、帝(みかど)の尊い血に対する犯(おか)しである」ということを最初に言ったのは、実は江戸時代の安藤為章(あんどう・ためあきら)ですが、江戸時代より前の時代の人達は全く気にしていませんでした。
そもそも、源氏は桐壺帝の皇子なので。
ところが、源氏も少しは気にしています。藤壺は、ばれないかということを気にしています。
しかし、これは安藤為章(あんどう・ためあきら)も言っているように、冷泉帝には子どもができず、いわゆる不義の血が継承されていません。
江戸時代の国学者の本居宣長(もとおり・のりなが)に言わせると「禁じられた恋ほど燃えるのである」という「もののあはれ論」を展開しており、これが近代の『源氏物語』研究、文学的な研究の素(もと)になっています。
ともかく、源氏と藤壺が関係をもって冷泉帝が産まれ、それをひっくり返した形で、柏木と女三宮(おんな・さんのみや)が関係を持って、薫(かおる)が産まれる、こういう因果はめぐる形の物語が世界中でもあまりありません。非常におぞましいというふうに感じる人が多いからでしょう。
そうして『源氏物語』は栄光から挫折へ、最初は奇妙な始まりから入っていって、途中困難、ですから
民俗学者で国文学者の折口信夫(おりぐち・しのぶ)とかは貴種流離譚(きしゅ・りゅうりたん)と名付けていますが、単なる華やかな物語ではないのが『源氏物語』の大きな魅力の一つです。
よくよく考えると非常に政治的ですし、そこに妙な色恋沙汰や母恋などが入っていて、それが巧みに組み合わされて、いろいろ政治展開なり、悩んだり、人が死んだりとか、いろいろなことが生まれています。「罪深い物語である」と思われます。
42帖 匂宮(におうのみや)
第三部の匂宮三帖の第1帖となります。
源氏こと六条院(ろくじょういん)崩御後、その面影を継ぐ人はいませんでした。長男・夕霧は面影こそ源氏に似てはいるものの、若い頃から変わらず真面目で律儀な性格である事から、やはり 源氏とは違うと女房も語っていました。先の帝・冷泉院こそ「亡き殿に瓜二つ」との声もあるが、先の帝であることから口にすることも恐れ多いと憚られていました。ただわずかに今上帝が明石の中宮との間にもうけた第三皇子である匂宮(におうのみや)と女三宮(おんなさんのみや)が産んだ薫(かおる)が当代きっての貴公子との評判でした。
源氏が他界してからというものの、六条院は火が消えたような寂しさとなっていました。夕霧は父が愛したこの屋敷が荒れて行くのを憂えたことから、落葉の宮を一条の屋敷から移り住まわせる事にしました。
その甲斐あってか、明石の中宮の娘・女一宮(おんな・いちのみや)が亡き紫の上を偲び、春の町で暮らすようになり、時々ではあるものの、女二宮(おんな・いちのみや)が寝殿(しんでん)を使うようになったことから、六条院(ろくじょういん)は再び賑わいを見せるようになりました。
匂宮(におうのみや)は元服(げんぷく)して兵部卿宮(ひょうぶきょうのみや)となり、源氏が前半生を過ごした二条院(にじょういん)を里邸(りてい)としていました。夕霧は匂宮を婿に、と望みましたが、自由な恋愛を好む当人にはその気がありませんでした。その夕霧は落葉の宮(おちばのみや)を六条院の冬の町に迎え、三条殿(さんじょうどの)に住んでいる雲居の雁(くもいのかり)のもとと、一日交代に月に十五日ずつ律儀に通っていました。夕霧は娘の中で一番美人と誉れ高い藤典侍(とうのないしのすけ)が産んだ六の君(ろくのきみ)を、落葉の宮に預けて教養の豊かな女に育てようとしていました。
六条院は、今は明石の中宮の子たちの大半が住んでいました。夏の町に住んでいた花散里(はなちるさと)は二条院の東院(とういん)へ、女三宮は三条宮(さんじょうのみや)へそれぞれ移っていました。
一方、薫(かおる)は、冷泉院(れいぜいいん)と秋好中宮(あき・このむ・ちゅうぐう)に殊更に可愛がられて育てられ、元服(げんぷく)後は官位の昇進もめざましいものがありました。ところが、漠然(ばくぜん)ながら、自分の出生に疑念を感じていた薫は、人生を味気なく思い、悶々と出家の志を抱えて過ごしていました。
不思議なことに、薫の体には生まれつき仏の身にあるといわれる芳香(ほうこう)が備わっていました。匂宮は対抗心から薫物(たきもの)に心を砕き、このため、二人は世間から「匂ふ(におう)兵部卿(ひょうぶきょう)、薫(かお)る中将(ちゅうじょう)」と呼ばれました。世間の評判はこの二人に集中し、娘の婿にと望む権門(けんもん)が多いもものの、匂宮は冷泉院の女一宮に好意を寄せており、厭世観(えんせいかん)を強めていた薫は思いの残る女性関係は持つまいとしていました。
薫が20歳の正月、夕霧は六条院で賭弓(のりゆみ)の還饗(かえりあるじ)を催しました。匂宮はもちろん、薫も出席し、華やかな宴(うたげ)となりました。
43帖 紅梅(こうばい)
故・致仕の大臣(こ・ちじのおとど)の次男である按察大納言(あぜちのだいなごん)は、跡継ぎだった兄・柏木の薨去(こうきょ)後、一族の大黒柱となっていました。
亡くなった先の北の方(きたのかた)との間には、大君(おおきみ)、中の君(なかのきみ)という二人の姫君がいました。今の北の方は、髭黒(ひげくろ)太政大臣(だじょうだいじん)の娘で故・蛍兵部卿宮(こ・ほたるひょうぶきょうのみや)の北の方(きたのかた)だった真木柱(まきばしら)で、この間に大夫の君(たいふのきみ)という男子を一人、もうけていました。また、真木柱には故・蛍兵部卿宮の忘れ形見の、宮の御方(みやのおんかた)という姫君がいて、この姫君も大納言の邸(やしき)で暮らしていました。
裳着(もぎ)を済ませた三人の姫君たちへの求婚者は多かったものの、按察大納言は、大君(おおきみ)を東宮妃(とうぐうひ)とすべく、麗景殿(れいけいでん)に参内(さんだい)させていて、今度は中の君(なかのきみ)に匂宮を縁付けようと目論んでいました。大納言は大夫の君(たいふのきみ)を使って匂宮の心を中の君(なかのきみ)に向けさせようとしましたが、肝心の匂宮の関心は宮の御方(みやのおんかた)にありました。匂宮は大夫の君を通して、しきりに宮の御方に文(ふみ)を送りましたが、宮の御方は消極的で結婚をほとんど諦めていました。
大君(おおきみ)の後見に忙しい真木柱(まきばしら)は、宮の御方(みやのおんかた)には良縁と思われましたが、大納言の気持を思うと躊躇してしまいました。また、匂宮が好色で、最近では宇治八の宮(うじ・はちのみや)の姫君(ひめぎみ)にも執心だとの噂もあり、ますます苦労が絶えませんでした。
44帖 竹河(たけかわ)
髭黒太政大臣(ひげくろ・だじょうだいじん)薨去(こうきょ)後、玉鬘(たまかずら)は遺(のこ)された三男二女を抱え、零落(れいらく)した家を復興させるべく躍起になっていました。大君(おおきみ)と中の君(なかのきみ)の二人の姫君には、今上帝(きんじょうてい)や冷泉院(れいぜいいん)から声がかかりましたが、帝(みかど)には義妹(ぎまい)の明石の中宮(あかしの・ちゅうぐう)、冷泉院には異母妹(いぼまい)の弘徽殿女御(こきでんのにょうご)がいるため、玉鬘は判断に迷っていました。また、薫や夕霧の五男の蔵人少将(くろうどの・しょうしょう)も大君に思いを寄せる求婚者の一人でした。
薫15歳の正月下旬、玉鬘(たまかずら)の邸(やしき)に若者たちが集まって、催馬楽(さいばら)の「竹河」を謡(うた)い興(きょう)じました。その席で玉鬘は薫が弾く和琴(わごん)の音色(ねいろ)が亡き父の致仕の大臣(ちじのおとど)や亡き弟の柏木に似ていることに気付きました。
3月の桜の盛りの夕暮れ時、二人の姫君は御簾(みす)をあげ、桜の木を賭け碁を打っていました。蔵人少将(くろうどの・しょうしょう)はその姿を垣間見て、ますます大君への思いを募らせました。
玉鬘は大君(おおきみ)を冷泉院のもとへ参らせることを決意しましたが、。これを知った蔵人少将は落胆のあまり、母の雲居の雁に訴えました。雲居の雁は文(ふみ)を玉鬘に送りますが、玉鬘はこの文に頭を悩ませられました。結局、4月に参院した大君は冷泉院に深く寵愛されるようになりました。一方、願いが叶わなかった今上帝(きんじょうてい)の機嫌は悪く、息子たちは玉鬘を責めました。
翌年4月、大君は女宮を出産しました。玉鬘は自分の尚侍(ないしのかみ)の役を中の君(なかのきみ)に譲り、今上帝のもとへ入内させました。
その後も冷泉院(れいぜいいん)の寵愛は冷めやらず、数年後には、大君(おおきみ)は男御子(おのこみこ)を出産しました。冷泉院は大喜びしましたが、かえって周囲の者たちから嫉妬を買ってしまい、気苦労から大君は里下り(さとおり)することが多くなりました。一方、中の君(なかのきみ)は今上帝(きんじょうてい)のもとで却って気楽に過ごしていました。
それから数年の月日が流れ、薫(かおる)は中納言(ちゅうなごん)に、蔵人少将(くろうどの・しょうしょう)も宰相中将(さいしょうの・ちゅうじょう)に、それぞれ順調に昇進していました。玉鬘(たまかずら)は大君(おおきみ)の不幸や自分の息子たちの出世の遅さと比べるにつけ、思うに任せぬ世を悔しく思い後悔の念が絶えませんでした。
45帖 橋姫(はしひめ)
第三部の宇治十帖(うじ・じゅうじょう)の第1帖となります。
桐壺院(きりつぼいん)の第八皇子で、六条院(ろくじょういん)の異母弟である宇治八の宮(うじ・はちのみや)は、冷泉院の東宮(とうぐう)時代に、これを廃して、代わりに八の宮を東宮に擁立しようとした弘徽殿大后(こきでんのおおきさき)方(がた)の陰謀に加担させられたため、時勢が移るとともに零落(れいらく)し、世の中から忘れられてしまっていました。今は北の方(きたのかた)に先立たれ、宇治(うじ)の地で出家を望みながらも、大君(おおきみ)と中君(なかのきみ)の二人の姫君(ひめぎみ)を養育しつつ、日一日を過ごしていました。宇治山(うじやま)の阿闍梨(あじゃり)から宇治八の宮の事を知った薫(かおる)は、その俗聖(ぞくひじり)ぶりに強く惹かれ、八の宮(はちのみや)のもとに通うようになり傾倒していきました。
通い始めて3年目の秋、八の宮不在の宇治邸を訪れた薫は、有明の月の下で箏(こと)と琵琶(びわ)とを合奏する姫君たちを垣間見ました。屈託のない、しかも気品高く優雅な姫君たちに、薫は自(おの)ずと心惹かれていきました。
薫は女房を介して大君(おおきみ)に逢いたく思うことを伝えましたが、代わりに老女房(ろうにょうぼう)の弁(べん)が現れました。弁は故柏木(こ・かしわぎ)の乳母(めのと)の娘の乳母子(めのとご)で、今は八の宮(はちのみや)の侍女(じじょ)です。弁は、薫の出生の秘密と柏木の遺言を伝えることを約束しました。また薫は、案内してくれた邸(やしき)の従者(じゅうしゃ)に自らが着ていた直衣(のうし)を贈りました。
京に戻ってから薫は大君(おおきみ)と弁(べん)の言葉が気になって頭から離れませんでした。薫は匂宮に宇治の姫君(ひめぎみ)たちの存在を語り、匂宮はその話題にいたく興味を示し、ついに薫にも恋が訪れたのを驚きました。
十月上旬、八の宮は姫君たちの存在を薫に打ち明け、死後の後見を託したいと願い出ました。
その晩、薫は弁と昔語りをし、弁から手紙の束(たば)を入れた袋を受け取りました。帰京後、開けてみると柏木と女三宮の手紙の束がひどい黴(かび)の臭いと共に出てきました。女三宮(おんな・さんのみや)の出産を喜ぶ柏木の死の間際の筆跡があまりにもなまなましく、薫はとまどいを隠せませんでした。母の女三宮(おんな・さんのみや)を訪ねたものの、無心に経を読む尼姿に接した薫は、秘密を知ったことを話す気になれなくなり、ひとり胸中に抱え込もうとしました。
46帖 椎本(しいがもと)
二月二十日ごろ、匂宮は初瀬詣(はつせもうで)で、長谷寺(はせでら)参詣(さんけい)の帰りに、宇治の姫君たちに関心があったため、夕霧の別荘に立ち寄りました。匂宮は薫や夕霧の子息たちと碁や双六をしたり琴を弾いたりして楽しんでいました。宇治川を挟んだ対岸にある八の宮(はちのみや)の邸(やしき)にも、そのにぎやかな管弦の音が響き、八の宮は昔の宮中での栄華の日々を思い出さずにはいられませんでした。
翌日、八の宮(はちのみや)から薫に贈歌(ぞうか)があり、それを見た匂宮(におうのみや)が代わりに返歌をしました。匂宮は帰京後もしばしば宇治に歌を送るようになり、八の宮はその返歌を常に中君(なかのきみ)に書かせるようになりました。
今年が重い厄年(やくどし)にあたる八の宮(はちのみや)は、薫に姫君たちの後見を托しましたが、その一方で、姫君たちに、軽々しく結婚して宇治を離れ俗世に恥をさらさぬよう、この山里に一生を過ごすのが良いと戒めました。その後、宇治の山寺に参籠(さんろう)しに出かけ、そこで亡くなりました。訃報(ふほう)を聞いた姫君たちは、父の亡骸(なきがら)との対面を望みましたが、阿闍梨(あじゃり)に厳しく断られてしまいました。薫や匂宮が弔問に八の宮(はちのみや・てい)を訪れたものの、悲しみに沈む姫君(ひめぎみ)たちはなかなか心を開きませんでした。
年の暮れの雪の日、宇治を訪れた薫は大君(おおきみ)と対面し、匂宮と中君(なかのきみ)との縁談を持ち上げつつ、自らの恋心も訴え、京に迎えたいと申し出るが、大君は取り合いませんでした。
翌年の春、匂宮は中君(なかのきみ)への思いをますます募らせ、夕霧の六の君(ろくのきみ)との縁談にも気が進みませんでした。また、薫も、自邸(じてい)の三条宮(さんじょうの・みや)が焼失した後始末などで、久しく宇治を訪ねていませんでした。
夏、久しぶりに宇治を訪れた薫は、喪服姿の姫君たちを垣間見て、大君の美しさにますます惹かれて行きました。
47帖 総角(あげまき)
秋八月、八の宮の一周忌法要が営まれ、薫はこまごまと心を配りました。その夜、薫は大君(おおきみ)に近づき意中を訴えたのですが、大君に拒まれてしまい、そのまま、夜通し語り合って別れてしまいました。大君は父宮の遺志を継ぎ、宇治の主(あるじ)として独身を貫く決意をしており、その一方で、妹の中君を薫と結婚させようと考えていました。大君の衣服には薫の強い香(か)が染み付いており、中君は薫との仲を疑いました。
一周忌が済んで間もなく宇治を訪れた薫は、大君(おおきみ)の結婚を望む老女房の弁(べん)たちの手引きで大君の寝所に入りましたが、大君はいち早く気配を察し、中君(なかのきみ)を残して隠れてしまいました。残された中君と薫は、そのまま語り明かしました。
大君の意思(いし)の強さを知った薫は中君(なかのきみ)を匂宮(におうのみや)と結婚させようと考え、九月のある夜、密(ひそ)かに匂宮を宇治に呼び出し、中君と逢わせてしまいました。薫は事実を打ち明け、大君に結婚を迫るが、大君は承知しませんでした。匂宮は、三日間、中君の元に通い続けたにもかかわらず、母后(ははきさき)である明石の中宮(あかしの・ちゅうぐう)に反対され、足止めされてしまい、その後は、身分柄(みぶんがら)、思うように宇治を訪問することができなくなりました。大君(おおきみ)と中君(なかのきみ)は、匂宮の訪れが途絶えたことを嘆き悲しみました。十月、匂宮は宇治川に舟遊びや紅葉狩りを催して中君に会おうと計画したものの、多くの人が集まり、盛大になりすぎ、かえって目的を果たせなくなってしまいました。父帝(ちちみかど)は匂宮の遠出を止(やめ)させるために、夕霧の六の君(ろくのきみ)との結婚を取り決めました。
これを聞いた大君(おおきみ)は心労のあまり病に臥してしまい、薫の懸命の看病もむなしく、十一月、薫に看取られる中で草木の枯れていくように息絶えてしまいました。その日は豊明節会(とよあかりの・せちえ)の日で、宇治は吹雪の夜でした。
大君と結ばれぬまま終わった薫は深い悲嘆に沈み、宇治に籠って喪に服しました。薫の悲しみを人伝(ひとづ)てに聞いた明石の中宮(あかしの・ちゅうぐう)は、
「中納言もかくおろかならず思ひほれてゐたなるは、げに、おしなべて思ひがたうこそは、誰も思さるらめ」と、心苦しがりたまひて、「二条院の西の対に渡いたまて、時々も通ひたまふべく、忍びて聞こえたまひけるは、女一の宮の御方にことよせて思しなるにや」
と思しながら、おぼつかなかるまじきはうれしくて、のたまふなりけり。
「中納言までがそう熱心に思い込んでいるらしいのでは、いかさま宮も並々の女とはお思えになれないのであろうと、不憫にお感じになりまして、「二条院の西に対へ引き取ってお上げなされて、ときどき通われるように」と、内々のお言葉がおありになりましたので、女一宮(おんな・いちのみや)の御方(おんかた)の女房にでも、いうおつもりではないのかしらんと懸念(けねん)なさりながら、とにかくいつもお逢えになりますのが嬉しくて、知らしてお上げになったのでした。
匂宮は、中君を京の二条院に引き取る決意をしました。
48帖 早蕨(さわらび)
宇治の里にまた春がやって来ました。父の八の宮(はちのみや)と姉の大君(おおきみ)を亡くした中君(なかのきみ)の元に、父の法の師(のり・の・し)だった宇治山(うじやま)の阿闍梨(あじゃり)から、例年通り、蕨(わらび)や土筆(つくし)が届けられました。中君は阿闍梨の心づくしに涙を落としました。
匂宮(におうのみや)は宇治通いが困難なため、二月上旬に中君を京の二条院に迎えることにしました。後見人の薫は、中君のために上京の準備に心を配りました。上京の前日、薫は宇治を訪れ、中君と大君(おおきみ)の思い出を夜更けまで語り合いました。匂宮の元へ移る中君がいまさらながら惜しく、薫は後悔の念に駆られていました。老女房(ろうにょうぼう)の弁(べん)は大君の死後、尼になっており、このまま宇治に留まる決心をしていました。
二月七日に二条院に迎えられた中君は匂宮から手厚く扱われました。これを知って、六の君(ろくのきみ)と匂宮の婚儀を目論んでいた夕霧は二十日過ぎに末娘の六の君の裳着(もぎ)を決行しました。
同じゆかりにめづらしげなくとも、この中納言をよそ人に譲らむが口惜しきに、
「さもやなしてまし。年ごろ人知れぬものに思ひけむ人をも亡くなして、もの心細くながめゐたまふなるを」
など思し寄りて、さるべき人してけしきとらせたまひけれど、
「世のはかなさを目に近く見しに、いと心憂く、身もゆゆしうおぼゆれば、いかにもいかにも、さやうのありさまはもの憂くなむ」
と、すさまじげなるよし聞きたまひて、
「いかでか、この君さへ、おほなおほな言出づることを、もの憂くはもてなすべきぞ」
と恨みたまひけれど、親しき御仲らひながらも、人ざまのいと心恥づかしげにものしたまへば、えしひてしも聞こえ動かしたまはざりけり。
大殿は、こうなったからにはこの中納言をこそ、同じ一族の間であるのが気がかわらないようだけれども、他人に譲ってしまうのも惜しいことであるから、婿にしたらどうであろうか、聞けば年頃、人知れず恋していた人にも死なれて、心細い侘(わ)びしい月日を送っておいでのようでもあるし、などとお考えつきになりまして、しかるべき人を立てて当たってごらんになりましたけれども、「世の中のはかなさを眼の前に見ましてからは、いよいよ心憂(う)く、自分の身までが忌まわしく存ぜられますので、何といたしましてもさようなお話は気が進みませんので」と、冷たい御挨拶をなさいますので、こちらがこうも考え考え申し出たことを、この君までもが何で、すげなく、おあしらいになるのかと、恨めしくお思いになるのでしたが、親しいおん間柄(あいだがら)といっても、相手がひどく気の置けるお人柄でいらっしゃいますので、強いておすすめになることもできずにいらっしゃるのでした。
夕霧は、宇治の姉妹に心を奪われ愛娘・六の君に興味を示さない薫と匂宮に不満を抱きました。
桜の盛りのころ、薫は二条院を訪れ、中君(なかのきみ)と語り合いましたが、中君に親しく近付く薫に、匂宮は警戒の念を抱きました。
49帖 宿木(やどりぎ)
今上帝(きんじょうてい)は、裳着(もぎ)の式の直前に母の女御(にょうご)が薨去(こうきょ)してしまい、後見人もいない女二宮(おんな・にのみや)を託したい旨を薫に告げました。亡き大君を忘れかねる薫は気が進まないながらも承諾しました。これを知った夕霧は、娘の六の君を匂宮と縁組みさせることにしました。
八月十六日が婚儀の日と決まり、このことは、匂宮に迎えられ、今は京の二条院に住む中君(なかのきみ)にとっては大変な衝撃でした。五月頃に懐妊して体調の悪い状態が続いていましたが、経験に乏しい匂宮はそれに気づかず、中君は心さびしい日々が続きました。訪れた後見人の薫には、宇治に帰りたいという心内を漏らしましたが、諌められてしまいました。
気のすすまぬままに、夕霧の婿となった匂宮でしたが、六の君(ろくのきみ)の美しさのとりこになってしまい、中君には次第に夜離れ(よがれ)が多くなっていきました。こんなときに、何かと相談相手になり慰めていた薫でしたが、その同情はしだいに中君への慕情に変わっていきました。ついにある夜、薫は思いを打ち明けて近づくが、懐妊の身の中君がいとおしくなり自制してしまいました。中君は薫の気持ちをそらそうとして、亡き大君に似た異母妹の浮舟がいることを薫に教えました。
帰邸した匂宮は、中君に薫の移り香がするのを怪しみ、次第に中君のもとにいることが多くなっていきました。
翌年二月、中君は無事男児を出産し、薫は権大納言兼右大将(ごんだいなごん・けん・うだいしょう)に昇進し女二宮(おんな・にのみや)と結婚しました。女二宮は三条宮(さんじょうのみや)で暮らすようになりました。四月下旬、宇治を訪ねた薫は、偶然、長谷寺(はせでら)にて初瀬詣で(はちせもうで)からの帰路にて、宇治の邸(やしき)に立ち寄った浮舟一行(うきふね・いっこう)と出会い、垣間見た浮舟が亡き大君(おおきみ)に似ていることに驚き、弁(べん)の尼に仲立ちを願い出ました。
50帖 東屋(あずまや)
薫は、亡き大君(おおきみ)に似た浮舟(うきふね)に関心を持ちつつも、受領(ずりょう)の継娘(ままむすめ)という身分の低さにためらっていました。その浮舟の母である中将の君(ちゅうじょう・の・きみ)も、身分違いの縁談に消極的でした。
浮舟は、宇治八の宮(うじ・はちのみや)とその女房であった中将の君(ちゅうじょう・の・きみ)との間に生まれた娘だったが、宮には認知されませんでした。中将の君はまもなく浮舟を連れて陸奥守(むつ・の・かみ)と再婚し、東国(あづまのくに)に長く下っていました。陸奥守から常陸介(ひたちのすけ)となり、数多くの子をもうけていましたが、高貴(こうき)の血を引き、一際(ひときわ)美しい、浮舟をことさら大事に育て、良縁をしきりに願っていました。
受領ながらも裕福で家柄も卑しくない常陸介のところには、それを目当てにした求婚者が多かったのですが、20歳を過ぎた浮舟は、そのうちの左近の少将(さこんの・しょうしょう)と婚約したものの、財産目当ての少将は浮舟が常陸介の実子でないと知るや、実の娘である妹に乗りかえて結婚してしまいました。浮舟を不憫(ふびん)に思った中将の君は、彼女を二条院の中君(なかのきみ)のもとに預けに行きました。ところが匂宮が偶然浮舟を見つけ、強引に言い寄ってきました。そこへ御所からの知らせが来て、明石の中宮が倒れた事を知らされ、匂宮は浮舟に未練を残しつつ出かけました。姉の夫に言い寄られるという出来事にいたたまれなくなった浮舟の様子を見て、中君は心を痛めました。髪洗いを終え、女房に髪を梳(と)かせながら、中君は浮舟と絵巻物を読みました。姉が生き返ったようだと改めて実感しました。かろうじて事なきをえたものの、浮舟の乳母(めのと)からこの話を聞いた中将の君(ちゅうじょう・の・きみ)は驚いて彼女を引き取り、三条の小家(こいえ)に隠しました。
秋九月、薫は浮舟が三条の隠れ家(かくれが)にいる事を知り、弁(べん)の尼に仲立ちを頼んでその小家を訪れました。そして、翌朝、浮舟を牛車(ぎっしゃ)で宇治に連れて行きました。浮舟の不安をよそに、彼女に大君(おおきみ)の面影を映し見る薫は、大君を偲びつつも、浮舟の顔は亡き大君に瓜二つではあるものの、教養は彼女とは比べ物にならないぐらい程遠いことから、今後の浮舟の扱いに思い悩みました。
51帖 浮舟(うきふね)
薫は浮舟を宇治の山荘に放置したままで、訪れるのも間遠(まどお)でした。一方、二条院で見かけた女のことが忘れられない匂宮は、正月、中君(なかのきみ)のもとに届いた文(ふみ)を見て女の居所を知り、薫の邸(やしき)の事情に通じている家臣に探らせて、女が薫の囲い人として宇治に住んでいることを突き止めました。匂宮はある夜、ひそかに宇治を訪れ、薫を装って寝所に忍び入り、浮舟と強引に契りを結んでしました。人違いに気づくも時すでに遅く、浮舟は重大な過失におののくものの、淡白な薫と異なって情熱的に愛情を表現する匂宮へと、次第に心が惹かれていきました。
二月、ようやく宇治を訪れた薫は、浮舟の思い悩むさまを女として成長したものと誤解して喜び、京へ迎える約束をしました。宮中の詩宴(しえん)の夜、浮舟を思って古歌(ふるうた)を口ずさむ薫の様子に焦りを覚えた匂宮は、大雪の中でも宇治に赴き、浮舟を宇治川対岸の隠れ家へ連れ出し、そこで二日間を過ごしました。
薫は浮舟を京に迎える準備を進めていたにもかかわらず、匂宮はその前に浮舟を引き取ろうと言い出しました。何も知らずに上京の準備を手伝う母、中将の君(ちゅうじょう・の・きみ)に苦悩を打ち明けることもできず、浮舟は宇治川の流れを耳にしながら物思いに耽(ふけ)りました。ある日、宇治で薫と匂宮両者の使者が鉢合わせしたことからこの秘密は薫に知られ、薫からは心変わりを詰(なじ)る内容の文(ふみ)が届きました。薫に秘密を知られてしまい、心が動揺した浮舟は、やむなく、宛て先が違っているということにして、文(ふみ)を送り返しました。宇治の邸(やしき)は薫によって警戒体制が敷かれ、匂宮は焦りを募らせました。
薫に恨みの歌を送られ、匂宮との板ばさみになって進退窮まった浮舟はついに死を決意しました。死の間際(まぎわ)に、薫や匂宮、母や中君(なかのきみ)を恋しく思いながら、浮舟は匂宮と母にのみ最後の文を書きしたためました。
鐘のおとの絶ゆるる響きに音をそへて わが世つきぬと君に伝へよ
かねのおとの たゆるひびきに ねをそえて わがよ つきぬと きみにつたえよ
歌の訳:あの山寺の鐘の声の、もう消えようとしているあの余韻(よいん)に私の泣く音を添えて、私の寿命もこれきりであると母君に伝えておくれ。
52帖 蜻蛉(かげろう)
浮舟の姿が見えないので、宇治の山荘は大騒ぎとなりました。浮舟の内情を知る女房は、浮舟が宇治川に身を投げたのではと思い惑いました。かけつけた浮舟の母の中将の君(ちゅうじょう・の・きみ)は真相を聞いて驚き悲しみました。世間体を繕うため、遺骸もないままに、その夜のうちに葬儀を営みました。そのころ石山寺に参籠(さんろう)していた薫は、野辺送り(のべおくり)の後に、初めて事の次第を知りました。
匂宮は悲しみのあまり、病と称して籠ってしました。それを耳にした薫は、浮舟のことは匂宮との過ちからだと確信するものの、浮舟を宇治に放置していたことを悔み、悲しみに暮れました。宇治を訪れた薫はここで浮舟の入水(じゅすい)をはじめて知り、悲しみに沈む中将の君を思いやって、浮舟の弟たちを庇護(ひご)する約束をして慰(なぐさ)めました。薫は浮舟の四十九日(しじゅうくにち)の法要を宇治山の寺で盛大に営(いとな)みました。中君(なかのきみ)からも供え物が届けられ、浮舟の義父、常陸介(ひたちのすけ)は、この時はじめて、継娘(まま・むすめ)の素性が自分の他の子たちとは比較にならないものだった事を知りました。この事がきっかけで、常陸介は浮舟の異父弟(いふてい)、小君(こぎみ)を薫の下で仕えさせる事を決め、薫はそれで娘を亡くした親の気持ちが慰められるのなら、と、小君を召し抱えました。
夏、匂宮は気晴らしに新しい恋をしはじめました。一方、薫はたまたま垣間見た明石の中宮(あかしの・ちゅうぐう)の娘である女一宮(おんな・いちのみや)に憧れるようになりました。その頃、六条院(ろくじょういん)や宇治八の宮(うじ・はちのみや)の兄弟である故蛍兵部卿宮(こ・ほたるひょうぶきょうのみや)の姫君が女一宮に出仕し、宮の御方(みやのおんかた)と呼ばれていました。東宮妃(とうぐうひ)となるべく育てられ、かつては薫との縁談もあったこの女房に、薫も同情しつつも関心を持ちはじめました。それにつけても、薫はやはり宇治の姫君たちが忘れられず、夕暮れに儚(はかな)げに飛び交う蜉蝣(かげろう)を眺(なが)めながら、大君(おおきみ)・中君(なかのきみ)・浮舟(うきふね)を追想しました。
53帖 手習(てならい)
匂宮と薫の板ばさみで追い詰められ、自殺を図った浮舟は宇治川沿いの大木(たいぼく)の根元(ねもと)に昏睡状態で倒れていました。
僧都の80余歳になる母尼(ははあま)が、僧都の50余歳になる妹尼(いもうとあま)との長谷寺の初瀬詣で(はつせもうで)の帰途(きと)に宇治で急病を患ったため、その看護のため、横川(よかわ)の僧都(そうず)の一行(いっこう)は山から下りてきていたのですが、そのおかげで、たまたま発見されて救われました。
数年前に娘を亡くした妹尼は、浮舟を初瀬観音(はつせ・かんのん)からの授かりものと喜び、実の娘のように手厚く看護しました。
比叡山の麓(ふもと)の小野の庵(いおり)に移されて、しばらくたった夏の終わり頃、浮舟はようやく意識を回復しました。しかし、死に損なったことを知ると、
尼になしたまひてよ。さてのみなむ生くやうもあるべき
どうか私も尼にしてくださいまし。そうしてでもいただかなかったら、生きて行きようもありません。
と出家を懇願するようになりました。世話を焼く妹尼たちの前では、かたくなに心を閉ざし、身の上も語らず、物思いに沈んでは、心に浮かぶままに古歌などを書き記して日を過ごしていました。
妹尼(いもうとあま)の亡き娘の婿だった近衛中将(このえの・ちゅうじょう)が、妻を偲んで小野の庵を訪れました。妹尼は、この中将と浮舟を娶わせたいと気を揉んでいました。中将は、浮舟の後ろ姿を見て心を動かし、しきりに言い寄るようになりましたが、浮舟は頑なに拒み続けました。九月、浮舟は、妹尼が初瀬詣で(はつせもうで)の留守中、折りよく下山した僧都(そうず)に懇願して出家してしまいました。帰って来た妹尼は驚き悲しみ、女房尼(にょうぼう・あま)から知らされた近衛中将は落胆しました。尼になった浮舟はようやく心が安らぎを得たようでした。
翌春(よくしゅん)、浮舟が生きているという知らせが、明石の中宮から中宮に仕える小宰相の君(こざいしょう・の・きみ)を通じて薫に伝わりました。薫は、匂宮が隠している事を疑うものの、小宰相から、中宮が、匂宮のした事を気に病んでいたのを打ち明けられ、横川(よかわ)行きを後押しされました。 薫は事実を確かめに、浮舟の異父弟(いふてい)である小君(こぎみ)を伴って比叡山の奥・横川(よかわ)の僧都(そうず)を訪ねました。
54帖 夢浮橋(ゆめのうきはし)
薫は、小野で出家した女について僧都に詳しく尋ねました。その女が浮舟に違いないことを確信した薫は夢のような気がして涙を落としました。その様子を見て、僧都(そうず)は浮舟を出家させたことを後悔しました。薫は僧都に浮舟のいる小野への案内を頼みましたが僧都は
「まかり下りむこと、今日明日は障りはべり。月たちてのほどに、御消息を申させはべらむ」と申したまふ。
「下山いたしますことは、今日明日は差支えがございます。月が変わりましてから、都合をお知らせ申させましょう。」とお答え申されます。
薫は浮舟への口添え文を僧都に懇願して書いてもらいました。
その夜、横川(よかわ)から下山する薫一行の松明(たいまつ)の火が、浮舟がいる小野の庵からも見えました。 妹尼(いもうとあま)たちが薫の噂をする中、浮舟は薫との思い出を払うように念仏を唱えました。
翌日、薫の使者として浮舟の異父弟(いふてい)である小君(こぎみ)が小野を訪れました。朝早くに僧都(そうず)から前の日の事情を知らせる文(ふみ)が届いており、妹尼(いもうとあま)たちが浮舟の素性に驚いていたところでした。小君が持参した僧都の文(ふみ)には、薫との復縁と還俗(げんぞく)の勧めをほのめかしてありました。簾(すだれ)越しに異父弟の姿を見た浮舟は動揺しましたが、結局は心を崩さず、妹尼のとりなしにも応じず、小君との対面も拒み、薫の文(ふみ)も受け取ろうとはしませんでした。むなしく帰京した小君から、対面できず、返事ももらえなかった事を聞き、薫は、自分が浮舟を宇治に隠していたように、他の誰かが浮舟を小野に隠しているのではないか、と思うのでした。
この巻は『源氏物語』の最終巻、つまり全体の終わりであるにもかかわらず、いきなり終わっているように見えるので「終わることなく終わりを告げる」などと評されており、作者が構想通りここで完結するように書き進めてきて予定通り完結させたのか、それとももっと先まで書き進める構想をしていたにもかかわらず、何らかの事情でここで中断してしまったのか、議論になることが少なくありません。この後にどのようなことが起こるのかを明確には示さず、読者の想像にゆだねる形の終わり方を作者が明確に意図して描いた、とする見解もあります。
第三部は、源氏の孫と息子の2人の貴公子、薫と匂宮が女性をめぐっての戦いを演じます。
薫は柏木と女三宮の間の子供ですが、一応、源氏の息子となっています。
それで悩んで、「自分は何者なのか」「自分には社会で生きていく能力があるのか」という疑問にぶつかっているようにも見え、それで女は嫌いではないのに、何かこう出家願望みたいなのを匂わせています。
ところが匂宮は今上帝と明石の中宮との間に生まれた男三宮(おとこ・さんのみや)で、小さい時から非常にわがままいっぱいに育っているので、明るい貴公子です。
この二人が女をめぐっての戦いを演じていきます。
薫が少し変わっているのは、最初に宇治八の宮(うじはちのみや)の大君(おおきみ)を心が惹かれた時に、大君(おおきみ)が中君(なかのきみ)を紹介したら中君(なかのきみ)を匂宮に紹介するとか、浮舟もわざわざ匂宮に紹介しているところです。
学習院大学の神田龍身(かんだ・たつみ)名誉教授が語っているように、薫と柏木の二人には実は精神的な恋愛関係があった、というのは少し言い過ぎだと思いますが。
次の注目点は宇治八の宮(うじはちのみや)が、六条院(ろくじょういん)の異母兄弟という点です。
源氏には兄弟が何人かいるのですが、この八の宮も桐壺院(きりつぼいん)の皇子に当たります。一時期、東宮(とうぐう)になるかもしれないと言われていたのですがなれず、しかも家が火事になって燃えてしまって、そして宇治に移ったら、母親、妻が亡くなってしまい、残されたのは、大君(おおきみ)、中君(なかのきみ)という娘ばかりで、『源氏物語』の中ではかなりきつい勢力で、美しくなかったらこんなにかわいくないだろうに、美しいものだからどうしようかと悩むわけです。
八の宮は早く出家したいと思うのですが、出家をするためには、この2人の娘たちを何とかしなければなりません。そして何とかするためには、この2人を誰かと娶(めあ)わせようと思っていました。そこにようやく八の宮の仏教的な思考に興味を持って、近付いてきた薫という男がちょうど良かったわけです。
ここで舞台が京都と宇治になります。これは関東でいえば、東京と鎌倉という感じなのでしょうか。明るい光の京都、影の宇治、という感じで描かれていきます。
この薫は自らの出生の秘密もあってなのか、なかなか明るく生きられません。
そして八の宮に仏教を語り合う仲間である「法の友」(のりのとも)として近付いていきました。
ところが薫は出家したいわけではありませんでした。
出家してしまったら、自身の出世も何も全部お終いなので、近付きながら八の宮(はちのみや)の意図を汲みつつ、大君(おおきみ)を狙いました。ところが、大君は頑(かたく)なな女で、拒絶されてしまいました。それで大君から中君(なかのきみ)を勧められました。ところが、薫が動いて、中君は匂宮と結ばれてしまいました。
ところが匂宮には夕霧の娘である六の君との縁談がありました。当然、こちらが正妻となります。となると、大君はここで「何だ、薫は単なる偽善者ではないか。匂宮も信用できない」という形で、自分と妹の未来に絶望して世の中を去ってしまいました。
三番目の注目点は、八の宮の娘たちです。これは『源氏物語』を新たに作っていく時に突然八の宮という源氏の弟が現れたり、突然八の宮の新しい娘が現れたりします。
知らない人となると縁を作らないといけないので、縁を作らなくていい異母兄弟というのを活用したのでしょう。
今度は八の宮の娘である浮舟が薫が近付いてきます。この浮舟と第2部の準主役である玉鬘は、地方からやって来ます。
薫は近付いて、よせばいいのに、この情報を匂宮に伝えてしまいました。そうすると、この2人から愛されることになります。
こういうのは『萬葉集』(まんようしゅう)にも、『大和物語』(やまと・ものがたり)にもありますが、二人の男から愛された女は必ず身を投げて死ぬという、日本の三角関係の伝統の型に従った展開になりました。
この浮舟は母親が今一つ強くないので、匂宮に騙(だま)されてしまいました。
六条院の孫ということもあってなのか、匂宮は天性の色好みなので、騙されて体を奪われてしまいました。
そして、二人に愛されて悩みきった浮舟は入水を遂げることになるのでした。
しかし、浮舟は助かってしまいます。ここが、『源氏物語』がそれまでの話と違うところなのです。
三角関係の伝統の型ではそのまま死んでしまう、もしくは男もそのまま飛び込んで3人とも死ぬ、なのです。それで、横川(よかわ)の僧都(そうず)の下(もと)で、浮舟は仏像修行に勤(いそ)しみました。
しかし、この浮舟が助かっているという情報は、薫、匂宮の元にはなかなか入ってきませんでした。なので、もう死んだものと思っていました。
ある時、薫が匂宮を訪ねると、匂宮は、心の動揺のあまり、さめざめと泣いていました。薫はその時に「ああ、あの女が死んでくれて助かった。もう嫉妬しなくて済む」と心の中で思い浮かべました。
ところが、その後、助かっていたという情報を薫は知りました。そこで浮舟の弟を使って比叡山の横川(よかわ)に探りを入れさせました。
そして最後の帖(じょう)である「夢の浮橋」の最後に、薫は「入水して助かっている間、私と会わなかった間、何もなかったのか?」と疑って物語は終わるという、大変暗い終わり方をしています。「全く救われない男の物語」と呼ばれる所以(ゆえん)なのでしょう。
