平安時代の摂関政治というか平安貴族文化の絶頂期が藤原道長の時代となります。この時代については、資料がたくさん残っていることもあって、どういう時代だったのか、よくわかっています。時の大権力者、藤原道長(ふじわら の みちなが)が書いた日記である『御堂関白記』(みどうかんぱくき)も現存しています。摂政(せっしょう)、関白(かんぱく)、太政大臣(だじょうだいじん)として、一条(いちじょう)天皇、三条(さんじょう)天皇、後一条(ごいちじょう)天皇の三代に渡り権力を握り続けた藤原道長の日記で、しかも本人が書いた日記が五摂家筆頭である近衛家(このえけ)の陽明文庫(ようめいぶんこ)に所蔵されています。自筆本が14巻、写本が12巻。
つまりは千年以上も昔の日本の権力者である藤原道長が書いた文字そのものを今でも見れるわけです。時の権力者による世界最古の自筆の日記である『御堂関白記』は当然ながら国宝で、おまけに、ユネスコ記憶遺産にも登録されています。つまり、日本だけでなく、世界の宝というわけです。
残っている資料は『御堂関白記』だけではなく、例えば、道長の同僚だった藤原実資(ふじわら の さねすけ)は『小右記』(しょうゆうき)、藤原行成(ふじわら の ゆきなり)も『権記』(ごんき)という日記を残しています。
かの『源氏物語』の作者である藤式部(とう の しきぶ)こと、紫式部も『紫式部日記』(むらさきしきぶにっき)を残しています。『紫式部日記』は寛弘 (かんこう)5(西暦1008)年の秋から寛弘 (かんこう)7(西暦1010)年正月まで、宮中の様子を中心に書かれた貴重な資料です。
ちなみに紫式部は藤原北家である藤原為時(ふじわら の ためとき)の娘です。為時は藤原冬嗣(ふじわら の ふゆつぐ)の曾孫(ひまご)の孫(まご)にあたります。当然ながら、藤原道長も藤原冬嗣の子孫です。つまり、道長と紫式部は曽祖父(そうそふ)の曽祖父が一緒ということになります。
血が遠いとはいえ、紫式部も藤原北家出身であることには変わりはありません。
藤原道長は遠い親戚の紫式部を見出し、一条(いちじょう)天皇に嫁いだ自らの娘、藤原彰子(ふじわら の しょうし)の側仕え(そばづかえ)として宮中に送り込みました。
ちなみに紫式部が出仕した頃は、夫の藤原宣孝(ふじわら の のぶたか)に先立たれた未亡人で、まだ30歳余りでした。
ちなみに、『紫式部集』には、夫の藤原宣孝の死去に伴い詠んだ和歌
見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦
みしひとの、けぶりとなりし、ゆうべより、なぞむつまじき、しおがまのうら
歌の訳;親しかった方が煙となって消えてしまった夕方以降、「睦(むつ)まじ」という音に通う「陸奥(むつ)」の国の「塩釜の浦」でたなびく、塩焼きの煙までもが慕わしく感じられます。
が収められており、また『新古今和歌集』(しん・こきん・わかしゅう)にも収録されています。
紫式部は、長徳(ちょうとく)4(西暦998)年頃、山城守(やましろのかみ)となっていた宣孝と結婚しています。長保(ちょうほう)元年(西暦999年)には、娘の賢子(けんし)が誕生するが、長保3(西暦1001)年4月25日に、疫病のために夫宣孝は死去しています。
その後、紫式部は長保4年(西暦1002年)頃から『源氏物語』を書き始めたものと思われ、寛弘(かんこう)2(西暦1005)年頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、その娘で、一条(いちじょう)天皇の中宮彰子(ちゅうぐう・しょうし)に仕える間に、藤原道長の支援のもと『源氏物語』を完成させました。
『紫式部日記』は、藤原彰子(ふじわら・の・しょうし)が出産を控えた時期から始まっており、冒頭はこのように記されています。
秋のけはひ入りたつままに、土御門殿のありさま、いはむかたなくをかし。
池のわたりの梢ども、遣水のほとりの草むら、おのがじし色づきわたりつつ、大方の空も艷なるにもてはやされて、不断の御読経の声々、あはれまさりけり。
やうやう凉しき風のけはひに、例の絶えせぬ水の音なひ、夜もすがら聞きまがはさる。
御前にも、近うさぶらふ人びとはかなき物語するをきこしめしつつ、悩ましうおはしますべかめるを、さりげなくもて隠させたまへる御ありさまなどの、いとさらなる事なれど、憂き世の慰めには、かかる御前をこそ、尋ね参るべかりけれと、現し心をばひき違へ、たとしへなくよろづ忘らるるも、かつはあやし。
まだ夜深きほどの月さし曇り、木の下をぐらきに、
「御格子参りなばや」
「女官は、今までさぶらはじ」
「蔵人参れ」
など言ひしろふほどに、後夜の鉦打ち驚かして、五壇の御修法の時始めつ。
われもわれもと、うち上げたる伴僧の声々、遠く近く、聞きわたされたるほど、おどろおどろしく尊し。
観音院の僧正、東の対より、二十人の伴僧を率ゐて、御加持参りたまふ足音、渡殿の橋のとどろとどろと踏み鳴らさるるさへぞ、ことごとのけはひには似ぬ。
法住寺の座主は馬場の御殿、浄土寺の僧都は文殿などに、うち連れたる浄衣姿にて、ゆゑゆゑしき唐橋どもを渡りつつ、木の間をわけて帰り入るほども、遥かに見やらるる心地してあはれなり。
斎祇阿闍梨も、大威徳を敬ひて、腰をかがめたり。
人びと参りつれば、夜も明けぬ。
まだ夜明けまでには遠い、夜の深いうちの月がすこし陰って、木の下が小暗い感じがするころなのに、
「御格子(みこうし)を上げたいものですね」
「女官は、この時分までは起きていますまい」
「女蔵人(にょくろうど)が上げなさい」
などと言い合っているうちに、夜半(やはん)から朝までを知らせる鐘(かね)を打つ音が響きわたって、五壇(ごだん)の御修法(みしほ)の定時の毎日のお勤めが始まった。
われもわれもと、競い声を上げている伴僧(ばんそう)の声々が、遠くからまた近くから、絶え間なく聞こえてくるのは、まことに荘厳で尊い。
観音院の僧正が、東の対(つい)から寝殿(しんでん)へと、二十人の伴僧(ばんそう)を率いて、中宮(ちゅうぐう)の御加持(おかじ)に参上なさる足音が、渡殿(わたどの)の橋をずしんずしんと踏み鳴らされる音までが、他の行事のときとは違った感じである。
法住寺(ほうじゅうじ)の座主(ざす)は馬場の御殿(ごてん)へ、浄土寺(じょうどじ)の僧都(そうず)は文殿(ふどの)などにと、お揃いの浄衣(じょうえ)姿で、立派ないくつもの唐橋(からはし)を渡りながら、木々の間をわけ入って帰っていく様子も、遠くまで眺めやっていたい感じがして、しみじみと感慨深い。
さいさ阿闍梨(あじゃり)も、大威徳明王(だいい・とくみょうおう)を敬(うやま)って、腰をかがめて礼拝(らいはい)している。
やがて女官たちが出仕してくると、夜もすっかり明けた。
渡殿の戸口の局に見出だせば、ほのうち霧りたる朝の露もまだ落ちぬに、殿歩かせたまひて、御隨身召して、遣水払はせたまふ。
橋の南なる女郎花のいみじう盛りなるを、一枝折らせたまひて、几帳の上よりさし覗かせたまへる御さまの、いと恥づかしげなるに、我が朝顏の思ひ知らるれば、
「これ、遅くては悪ろからむ」
とのたまはするにことつけて、硯のもとに寄りぬ。
女郎花 盛りの色を 見るからに
露の分きける 身こそ知らるれ
「あな、疾」 と、ほほ笑みて、硯召し出づ。
白露は 分きても置かじ 女郎花
心からにや 色の染むらむ
私に割り当てられた局(つぼね)は渡り廊下の一角にあった。
そこから外を眺めていると、うっすらと霧のかかった朝方、庭の草の露(つゆ)もまだ落ちない時刻だというのに道長様が歩いて来られる。
お供の者を召し連れて庭の遣水(やりみず)のゴミを払わせていらっしゃるのだ。
殿は私にお気づきになると、折(おり)しも渡殿(わたどの)の南側で花盛りとなっていた女郎花(おみなえし)を一枝折り取り、私が身を隠している几帳(きちょう)の上から差し出してお見せになった。
そのお姿のなんとご立派なこと、それに比べて私はまだお化粧もしていない眠たげな素顔だ。
恥ずかしさが込み上げて、殿が「この花どうだ、返事が遅くてはよくないぞ」と仰るのに託(かこつ)けて奥の硯(すずり)の傍(かたわら)に引っ込んだ。
女郎花盛りの色を見るからに露のわきける身こそ知らるれ
おみなえし さかりの色を見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ
歌の訳:秋の露が女郎花(おみなえし)の花をこんなに綺麗にしたんですね。
これを見るにつけても、露の恵みを受けられず、美しくはなれなかった我が姿が恥ずかしく思われます。
和歌を受け取った道長は「いや、素早い返事だ」と感心し微笑み、硯を所望して和歌を返しました。
白露はわきてもおかじ女郎花心からにや色の染むらむ
しらつゆは わきてもおかじ おみなえし こころからにや いろのそむらん
歌の訳:白露はどこにでも降りる。その恵みに分け隔てなどありはしない。女郎花(おみなえし)は自分の美しくあろうとする心によって染まるのだ。
あなたも美しくあろうとすれば美しくなれるという意味ですが、あたかも恋人同士のやり取りのようにも思えます。道長と紫式部は愛人関係にあったので、という説もありますが、実際のところは、もはや誰にもわかりません。
色恋の話はわかりませんが、藤原道長の日記である『御堂関白記』(みどうかんぱくき)を読むと、時の権力者、藤原道長も政権を維持するために心を砕いていたことが良くわかります。
長保元年(西暦999年)10月19日の日記にはこのように記されています。
武蔵守寧親朝臣献馬六疋此間太皇大后宮大夫来仍一疋志
武蔵守(むさしのかみ)藤原寧親(ふじわらの・やすちか)から馬六頭の献上がある。寧親のもとから馬が届いたとき、太皇太后宮大夫(たいこう・たいごう・くう・たいふ)をかねる中納言(ちゅうなごん)の藤原実資が訪れる。そこで、献上されたばかりの六頭のうちの一頭を実資に贈る。
当時、最も明確に藤原道長の横暴の数々を批判していた人物であり、長きに渡って道長や道長の取り巻きたちから反藤原道長勢力の頭目(とうもく)のように見なされていた藤原実資(ふじわらの・さねすけ)が唐突に道長のもとを訪問した理由はわかりませんが、今まさに受領(ずりょう)の元から献上品の馬が届いた時に実資の来訪を受けた道長は、その期を逃すことなく、馬を贈ることで実資の機嫌をとろうとしました。ときには折り合いの悪い公卿(くぎょう)の機嫌をとることもしなければ、その政権を維持することができなかったということです。
この日記に、道長は、嬉しいことはもちろん、嫌なことも怒り狂ったことも、素直に日記に残しています。
長保2(西暦1000)年正月10日の日記は、このように記されています。
雪大降一尺二三寸許。●春明 雑事等 初 献晴明申云無 仍廿。●人夜参院。修正月結願。後参太内侯宿・
雪がたくさん降る。一尺二、三寸ほど積もる。●安倍春明(あべの・はるあき) 雑事などを 最初は を差し上げるものの、春明が申して言うには、 ない。それで、20日なのである。●夜になってから東三条院(はがし・さんじょういん)藤原詮子(ふじわら の せんし)さまのもとに参る。詮子さま主催の修正月会(しゅう・しょうがつ・え)が結願(けちがん)を迎える。その後、内裏(だいり)に参上して自分の宿所で待機する。
およそ40字分ほどの記述が墨(すみ)によって塗りつぶされています。目を凝らしてみると、その塗りつぶされた約40字の中に「晴明(はるあき)」「雑事等(ぞうじなど)」「初(最初は)」「献晴明申云無(はるあきが申して言うには)」「仍廿(それで、二十日)」といった文字を読むことが出来ます。とはいうものの、これらの断片をつなげても解釈するのは容易ではありません。
ただ、ここに「晴明(はるあき)」という人名が二度も見えることからすると、また、「雑事等(ぞうじなど)」という文字列と「廿(にじゅう)」という漢数字が確認されることからすると、問題の墨塗り部分に記録されていたのは、何かの儀式や行事を行うに先立って、陰陽師(おんみょうじ)の安倍春明に吉日や吉時(きちどき)を選ばせたことは、普通、「〇〇に雑事(ぞうじ)を勘へ(かんがえ)申(もう)さしむ」といった感じに表現されるものだったのである。そして、この推測が正しいとすれば、「廿(にじゅう)」という文字は、晴明によって吉日として選ばれた某月二十日を意味するものかもしれません。
それにしても、明らかに誤字の抹消というわけでもない黒塗りが見られる日記というのもおかしなものです。
ちなみに道長は日記の巻頭の注記に、日記の廃棄を指示しています。
件記等非披露早可破却者也
件(くだん)の記等(きなど)は披露すべきには非(あら)ず。早(と)く破(や)り却(す)つべき者(もの)也(なり)。
訳:この日記などは、人々の目にさらしていいものではない。早々に破り捨てるのがよいようなものなのである。
平安時代の貴族たちは、普通、それがやがては自身の息子たちや孫たちにも閲覧されるであろうことを意識しながら日記を付けていました。朝廷に仕える官人(かんじん)として生きた貴族たちの日記は、本来、さまざまな政務儀礼の煩瑣(はんさ)な次第(しだい)や作法(さほう)のあり方を子々孫々に伝授する手段の一つだったからでした。
したがって、道長のように、日記の巻頭に「早(と)く破(や)り却(す)つべき者(もの)也(なり)。」などと書きつけるというのは、かなり異常なことでした。道長の子孫は、さぞ当惑したものと思われます。
ところが、道長の息子たち、孫たちは道長の言うことに耳を傾けませんでした。道長の子孫たちが道長の遺志を尊重しなかったおかげで、平安時代を研究する上での貴重な資料を、現代に住む我々が目にすることができるわけです。
そもそも、藤原道長は花山(かざん)天皇を出家させ、摂政となった藤原兼家(ふじわら・の・かねいえ)の五男として生まれました。藤原兼家が花山天皇を出家させ、わずか6歳の一条(いちじょう)天皇を即位させた時点では後継者は長男の藤原道隆(ふじわら・の・みちたか)でした。永祚(えいそ)2(西暦990)年に藤原兼家が亡くなると当然ながら道隆は関白、次いで摂政となりました。
永祚(えいそ)2(西暦990)年正月に藤原道隆は藤原兼家(ふじわら・の・かねいえ)の孫にあたる一条(いちじょう)天皇に長女の定子(ていし)を女御(にょうご)として入内させました。同年5月に病のため兼家が関白を辞すると、代わって関白、次いで摂政となりました。7月、父・兼家が薨去(こうきょ)しました。10月に定子(ていし)を中宮(ちゅうぐう)としました。翌年、正歴(しょうりゃく)2(西暦991)年2月、円融(えんゆう)上皇が崩御すると、道隆は一条天皇の母親で自分の妹である詮子(せんし)を女院(にょいん)にするという前代未聞の措置をとりました。「院」とは太上天皇のことで、「女院」とはそれに準ずる待遇を受けた女性のことを指します。上皇に倣って院庁(いんのちょう)を置き、別当・判官代(ほうがんだい)・主典代(しゅてんだい)・その他、諸司(しょし)を任じ、殿上(てんじょう)を定め、蔵人(くろうど)に代わって業務を行なうことが出来ました。
同年5月、内大臣(ないだいじん)の官を辞して、藤原兼家(ふじわら の かねいえ)の三男の道兼(みちかね)に譲りました。正暦4(西暦993)年に再び関白となりました。正暦6(西暦995)年正月、次女・原子(げんし)を花山(かざん)天皇の弟である皇太子の居貞(おきさだ)親王の妃(きさき)とし、後宮(こうきゅう)政策の強化を図りました。
道隆の権力は盤石となったと思われたのですが、それから程無く、道隆は病に伏し、長徳(ちょうとく)元年(西暦995年)3月9日、一条天皇に請(こ)うて嫡子(ちゃくし)の内大臣、伊周(これちか)を内覧(ないらん)として政務を委任し後継者にしようとしたものの、病中の内覧のみが許されただけで、伊周に関白の位(くらい)を譲る事は許されませんでした。なので、道隆は関白を辞し、伊周の関白就任を再度奏上したものも叶いませんでした。同6日出家し、10日に薨去しました。長徳(ちょうとく)元年(西暦995年)は天平9(西暦737)年以来の疫病が大流行した年でした。ちなみに前回の天平9(西暦737)年の天然痘で命を落とした藤原一族といえば、武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)の藤原四兄弟でした。
ところが、道隆の場合は、当時流行して多数の貴族の命を奪った疫病が死因ではなく、酒の飲みすぎなどからきた飲水(いんすい)病、つまり、現在の糖尿病の悪化だと言われています。
道隆の病死後、藤原兼家の三男である藤原道兼(ふじわら の みちかね)が4月27日に関白に就任しましたが、就任の数日後である5月8日に疱瘡(ほうそう)のために薨去してしまいました。
その後、藤原道隆の嫡男、つまりは道長の甥にあたる藤原伊周(ふじわらの これちか)は自分こそが父親の地位を引き継ぐべきだと主張し始め、藤原兼家の五男である藤原道長と激しい権力闘争に突入しました。
長徳(ちょうとく)2(西暦996)年正月16日、事件は起きました。
小野宮(おののみや)右大臣こと、藤原実資(ふじわら の さねすけ)の日記である『小右記』(しょうゆうき)にはこのように記されています。
右府消息云、花山法王、内大臣・中納言隆家相遇故一条太政大臣家、有闘乱事、御童子二人殺害、取首持去云々、
右大臣(うだいじん)藤原道長の書状にあったことには、「花山法皇(かざん・ほうおう)は、内大臣(ないだいじん)藤原伊周(ふじわら・の・これちか)・中納言(ちゅうなごん)藤原隆家(ふじわら・の・たかいえ)と、故一条太政大臣(こ・いちじょう・だいじょうだいじん)藤原為光(ふじわら・の・ためみつ)の家で遭遇した。闘乱が行われた。
隆家の従者(じゅうしゃ)は御童子(おんどうじ)二人を殺害し、首を取って持ち去った」と云うことだ。
いわゆる「長徳(ちょうとく)の変」の発端については、『栄花(えいが)物語』には、花山院(かざんいん)と藤原伊周が藤原為光の女(むすめ)をめぐって誤解を来たしたという風に記されています。
当時の花山院は藤原為光の四女の元に繁々と通っていましたが、藤原伊周は自分の思い人である三女が目当てであると誤解してしまい、乱闘となってしまいました。その際に伊周の従者が放った矢が花山院の袖を貫いてしまいました。
と記されているのですが、史実として確認できるのは、『小右記』の逸文(いつぶん)にあるように、花山院と藤原伊周(ふじわら・の・これちか)・藤原隆家(ふじわら・の・たかいえ)が藤原為光(ふじわら・の・ためみつ)の家で遭遇した闘乱に及んだという、従者同士の闘乱です。
なお、『小記目録』(しょうき・もくろく)には「華山法皇(かざんほうおう)、隆家卿(たかいえ・きょう)と闘乱の事」とあることから、花山院(かざんいん)の従者と闘乱を行ったのは隆家の従者だと思われます。検非違使(けびいし)別当(べっとう)の藤原実資(ふじわら・の・さねすけ)が、この情報を道長からの書状で得ているのですが、どうやって道長がこの情報を掴んだのでしょうか。今となってはわかりません。
内大臣中納言隆家罪名可勘之由頭中将出陣仰右大臣満座傾嗟
内大臣(ないだいじん)藤原伊周(ふじわら・の・これちか)と中納言(ちゅうなごん)藤原隆家(ふじわら・の・たかいえ)の罪名を調べるよう、頭中将(とうの・ちゅうじょう)藤原斉信(ふじわら・の・たたのぶ)が議場(ぎじょう)に出て、右大臣(うだいじん)藤原道長に命じた。一同は傾(かたむ)き嘆(なげ)いた。
正月25日に行われた除目(じもく)では、すでに伊周の円座(えんざ)が取り払われており、『愚管抄』(ぐかんしょう)でも「もっとも当然のことである」と書かれています。
その後、2月5日に一条(いちじょう)天皇は藤原実資(ふじわら の さねすけ)に細々(こまごま)と指示を与え、精兵(せいへい)を多く隠しているという噂のある伊周(これちか)家司(けいし)の宅(やしき)を検非違使(けびいし)に捜検(そうけん)させました。
11日に、一条天皇は明法博士(みょうほうはかせ)に伊周と隆家の罪名を勘申(かんじん)させよとの命を下しました。道長をはじめとする公卿(くぎょう)は、その決定を聞くまで何らこの件に関与しておらず、一条天皇が主導していたことがわかります。『日本紀略』(にほん・きりゃく)にも、明法博士(みょうほうはかせ)に命じて、内大臣伊周と中納言隆家の家人(けにん)が花山院(かざん・いん)の人と闘乱した事を勘申(かんじん)させた、と記されていることから見ても、これが真相なのでしょう。
早朝参女院謁右大臣院御悩昨日極重被停院号年爵年官等事之由昨夜被奏聞了又云或人呪詛云々人々厭物自寝殿板敷下掘出云々
早朝、女院、藤原詮子(ふじわら・の・せんし)の許(もと)に参った。右大臣、藤原道長にお目にかかった。「院のご病悩(びょうのう)は昨日、たいへん重かった。院号(いんごう)と年爵(ねんしゃく)、年官(ねんかん)といった収入を停(とど)められたいということを、昨夜、一条天皇に申し上げられた」と。また、言ったことには、「ある人の呪詛である」ということだ。「人々は厭物(えんもつ)を寝殿(しんでん)の板敷(いたじき)の下から掘り出した」という事だ。
3月28日には詮子(せんし)の病悩(びょうのう)に対して呪詛(じゅそ)の噂が立ち、その証拠まで出てきました。『日本紀略』(にほん・きりゃく)によると、更に4月1日には、法琳寺(ほうりんじ)にて藤原伊周(ふじわらの これちか)が臣下が行なってはいけない太元師法(だいげんすいほう)を修めて道長を呪詛していたことが奏されました。
ということで、『小右記』には、このように記されています。
此間諸卿依仰入陣中、徐目清書右大将奏聞、召式部丞賜下名、召大内記斉名朝臣、仰配流宣命事、射花山法皇事、呪詛女院事、私行太元法事等也、并固関勅符事、先是令警固諸陣、召左衛門権佐允亮朝臣、仰可追下権帥家、中宮御在所也、謂二条北宮、使等入自東門、無陣門也、経寝殿北就西対、帥住居也、仰勅語、而申重病由、忽難赴向配所之由、差忠宗令申、無許容、早載車可赴之由重有仰事
この頃、公卿(くぎょう)たちは仰せによって内裏(だいり)に入った。官職任命(かんしょくにんめい)の儀式の清書(せいしょ)を右大将(うだいしょう)藤原顕光(ふじわらの・あきみつ)が一条天皇に申し上げた。式部丞を召して、官職任命の名簿を賜(たまわ)った。大内記斉名朝臣(だいないき・ただな・あそん)を召(め)して、花山法皇(かざん・ほうおう)を射(い)た事、藤原詮子)ふじわらの・せんし)こと女院(にょいん)を呪詛した事、私に太元師法(だいげんすいほう)を行った事により配流宣命(はいる・せんみょう)、および固関(こげん)の命令について命じた。これより先に、諸門(しょもん)を警固(けいご)させた。左衛門権佐(さえもんのごんのすけ)允亮朝臣(ただすけ・あそん)を召(め)し、権帥(ごんのそち)こと、藤原伊周(ふじわらの これちか)を追(お)い下(くだ)すよう伝えた。允亮朝臣(ただすけ・あそん)が権帥(ごんのそち)の家、つまり、中宮(ちゅうぐう)藤原定子(ふじわらの・ていし)の居所(きょしょ)の二条北宮、に向かった。使(し)は東門(ひがしもん)から入った。陣門(じんもん)はなかったのである。寝殿(しんでん)を経て、権帥(ごんのそち)の住居である西対(にしの・たい)に赴き、勅語を伝えた。ところが、重い病(やまい)であることを申した。すぐに配所(はいしょ)に向かうのは難しいということを、茜忠宗(あかねの・ただむね)を遣(つか)わして申させた。天皇の許容はなかった。早く車に乗せて赴くよう、重ねて仰せがあった。
一条天皇の御前で除目(じもく)があり、藤原伊周(ふじわらの これちか)を太宰権帥(だざいの・ごんの・そち)、藤原隆家(ふじわら・の・たかいえ)を出雲権守(いずもの・ごんの・かみ)に降(くだ)すという決定が下されました。花山院(かざんいん)と女院(にゅいん)に対する不敬行為は、奈良時代ならば、確実に死罪でした。ところが検非違使(けびいし)の催促にも従わず、定子(ていし)のところから離れようとはしませんでした。それで、一条天皇から宣旨(せんじ)が下り、検非違使が捕らえて隆家を出雲に送りました。伊周はどこかに逃げてしまい、ところどころを探したものの、見つかりませんでした。それで、中宮定子(ちゅうぐう・ていし)は出家しました。
これが「長徳(ちょうとく)の変」ですが、さらには藤原家以外の大納言たちも相次いで薨去(こうきょ)してしまい、道長はいきなり政権の中枢に踊り出ることとなりました。
その後数十年に渡り権力を握ることになったわけです。
もっとも伊周が左遷されたとしても、この時点では道長の権力はまだまだ万全ではありませんでした。官僚としての地位は確かに万全でしたが、当時の藤原北家(ふじわらほっけ)の男にとって、権力基盤を固めて次世代に受け継がせるためには、娘を天皇の後宮(こうきゅう)に入れ皇子(おうじ)を産ませなければなりませんでした。それで、自分の孫を次の天皇として即位させ、自分の息子を早めに出世させ、孫が即位したならば、すかさず摂政、関白に就けるという構図を作らなければなりませんでした。
道長は晩婚だったため政権を獲得した時点で長女の彰子(しょうし)はわずか7歳、嫡男の田鶴(たず)こと、後(のち)も頼通(よりみち)も3歳に過ぎませんでした。もっとも長保(ちょうほう)元年(西暦999年)、彰子(しょうし)はわずか11歳で一条天皇の元に嫁ぐことになりました。
当時の一条天皇の後宮には、藤原家出身の女性たちが大勢いたのですが、出家したり薨去(こうきょ)されたりで、落ち着かなかったものと思われす。
その最中(さなか)、当時、蔵人頭(くろうどのとう)であった藤原行成(ふじわら の ゆきなり)が彰子(しょうし)の後宮での存在感を高めたいという道長の意図を汲み取り、一条天皇に彰子立号の意見具申(ぐしん)を行ったわけです。
藤原行成(ふじわら の ゆきなり)の日記である『権記』(ごんき)には、このように記されています。
仰云、中宮誕男子、天気快然、七夜可遣物事、依例可令奉仕者、仰云、以従三位藤原彰子為女御、即詣御曹司東北対、申大臣、随被聞御消息於氏諸卿御許、女御年十二、左大臣長女、母故前左大臣従一位源朝臣雅信第一女、従三位倫子也
一条天皇がおっしゃって言ったことには、「中宮(ちゅうぐう)藤原定子(ふじわらの・ていし)が皇子(おうじ)を産んだ。朕(ちん)の気持ちは心地よい。七夜(しちや)の産養(うぶやしない)に必要な物(もの)を遣(つか)わすことについては、通例によって奉仕させるように」ということだ。天皇がおっしゃっていったことには、「従三位(じゅ・さんみ)藤原彰子(ふじわらの・しょうし)を女御(にょうご)とせよ」と。すぐに宿所(しゅくしょ)、東北対(とうほくの・たい)に参(まい)って、左大臣こと藤原道長に伝えた。そこで書状を氏(うじ)の公卿(くぎょう)たちのもとに届けられた。女御は年(とし)十二歳。左大臣の長女である。母は故前左大臣従一位(こ・さきの・さだいじん・じゅ・いちい)源朝臣雅信(みなもとの・あそん・まさのぶ)の第一女(だいいちじょ)、従三位(じゅ・さんみ)倫子(りんし)である。
亦依有被示之旨参院有御書亦給院御書、持参大内、於昼御座奏覧之、次奏大臣令申旨,仰云、此事如何、申云、諸司三分以下被任之時、諸卿僉議、公事無止、自以如此、況是大事、愚意難及、但丞相所申懇切、其旨可然、加以、先日有所被仰之事、然則今日指無被仰其期、只可被仰廃朝之間、非無事憚、至干此事可然之事也、参入之日、面可仰事由歟、勅日、可然、即賜御返事、持参院、又以院御書持参左府、于持已及秉燭、令権中将申事由、被示依悩不出簾外、依命入簾中、伝奉御返事、又伝勅報旨、丞相命云、此事雖不丞指期日、丞一定之由、汝恩至也、大都候顧問之後、触事雖見芳意之深、不能示其悦、今在斯時、弥知厚恩、於汝一身事無所思、我有数子之幼稚、汝亦有数子、若有天命、有如此之時、必可報此恩、亦如兄弟可相恩之由、可迎合者、欣悦給旨甚多、相逢権中将示雑事、及深更退出、
また、一条天皇にお伝えになることがあるというので、女院(にょいん)こと藤原詮子(ふじわらの・せんし)の許(もと)に参(まい)った。左大臣、藤原道長の書状があった。また、院の書状を賜(たまわ)って内裏(だいり)に持参し、座(ざ)において天皇にお見せした。次に左大臣が申した趣旨を天皇に申し上げた。天皇がおっしゃって言ったことには、「この事は、どうすべきであろうか」と。私、藤原行成が申して言ったことには、「諸官司(しょかんし)の判官(はんがん)以下の官を任じられる時でさえ、公卿たちが審議するほど、政事(まつりごと)は大事なものです。自(おの)ずからこのようなものです。ましてやこれは大事であって、私の考えなど及ぶものではありません。ただし、左大臣が申したことは熱心であって、その趣旨は当然のことです。それのみならず、先日、天皇もおっしゃっておられたことがありました。そうですからこれは、今日は特に日時が命じられることはありません。ただ、服喪(ふくも)の期間に命じられるというのは、憚(はばか)りがないわけではありません。立后(りつごう)については、当然のことです。大臣が参った日に、直接その事をおっしゃるべきでしょう。」と。天皇が命じて云われたことには、「そのようにせよ」と。すぐに返事を賜(たまわ)り、院の許(もと)に持参した。また、院の書状を左大臣の許(もと)に持参した。その時、すでに夕方に及んでいた。権中将(ごんの・ちゅうじょう)こと、源成信(みなもとの・なりのぶ)を介して事情を申した。大臣は病気になっていたので、簾(すだれ)の中に入り、院の返事を伝えた。また、天皇の返事の趣旨を伝えた。大臣がおっしゃって言ったことには、「この事は、特に期日を承(うけたまわ)っていないとはいっても、決定したということを承った。汝(なれ)、こと、行成の恩のおかげである。だいたい、蔵人頭(くろうどのとう)に任命されて後(のち)、事(こと)に触れて厚情(こうじょう)の深いことを見てはいたが、よくその悦(よろこ)びを伝えることができなかった。今、この時に至って、いよいよ深い恩を知った。汝(なれ)自身の事については心配することはない。我、道長には数人の幼稚な子がいる。汝(なれ)もまた、数人の子がいる。もし天命があって、このような事があった場合には、必ずこの恩に報いることとしよう。また兄弟のように思いあうようにと、命じておくこととしよう」ということだ。大層、喜ばれていた。権中将に逢って、様々な事を伝えて、深夜に帰った。
12月1日、太皇太后(たいこうたいごう)の昌子(しょうし)内親王が薨去した。当時、后(きさき)には太皇太后・皇太后・皇后の三人が定められており、昌子(しょうし)がいなくなって后の席が一つ空いたために、道長はここに長女の彰子(しょうし)を滑り込ませて、皇后と中宮(ちゅうぐう)を一人の天皇の別の后ということにして、一帝二后(いっていにこう)を実現しようとしました。道長の兄の道隆が、かつて、藤原定子(ふじわらの・ていし)立后(りつごう)の際に使った手です。
『御堂関白記』(みどう・かんぱくき)にはこのように記されています。
四尺屏風和歌令人々読
四尺屏風(よんしゃくびょうぶ)の和歌を人々に詠ませる。
『栄花物語』(えいが・ものがたり)の「大殿(おとど)の姫君(ひめぎみ)、十二(じゅうに)にならせ給(たま)へ(え)ば、年(とし)の内(うち)に御裳着(おんもぎ)有りて、やがて内に参らせ給はむ(たまわん)と急がせ給ふ(たもう)」という一節は、長保元年(西暦999年)、大殿(おとど)こと藤原道長が数え年の12歳になった長女の彰子(しょうし)を一条天皇のもとに入内(じゅだい)させる準備に忙しかったことを伝えるのだが、『御堂関白記』のこの年の10月21日の日記にある「四尺屏風」は、そんな道長が彰子(しょうし)の嫁入り道具の一つとして用意した特別な屏風(びょうぶ)でした。それは、当時の名だたる公卿たちが道長に命じられて詠んだ和歌によって飾られた屏風であり、当時の上流貴族たちが道長に服従する立場にあったことを天下に示すものでした。
その屏風の絵は、飛鳥部常則(あすかべの・つねのり)という王朝(おうちょう)時代を代表する絵師(えし)が腕をふるった本当に素晴らしいものであったと言われています。しかも、その絵のところどころに数百の和歌を書きつけたのは、三蹟(さんせき)の一人である藤原行成(ふじわらの・ゆきなり)でした。ということは、美術品としても非常に高い価値があったという事です。
しかも、たくさんの上流貴族たちが道長の望むままに献上した和歌によって飾られたその屏風は、一級の美術品というだけでなく、道長が絶大な権力を握っていたという何よりもの証(あかし)でした。それまで、唐突に公卿(くぎょう)としての職務を放棄するというかたちで、ときには道長への反感を示すこともあった上流貴族たちの多くが、「詠ましむ」(よましん)という高飛車な態度で和歌の詠進(えいしん)を求められることによって、自分たちと道長との立場の違いを、改めて思い知らされた結果、卑屈にも、言われるがままに、自分の詠んだ和歌を差し出すという形で、改めて道長に対する恭順の意を示したわけでした。そのため、彰子(しょうし)を妃(きさき)の一人として後宮(こうきゅう)に迎えた一条天皇も、この屏風を眼にしたときには、彰子(しょうし)の扱いに関しては細心の注意が必要になるといことを、肝に銘じさせることになったでしょう。
なお、藤原彰子(ふじわらの・しょうし)が一条天皇の後宮に入ったのは、長保(ちょうほ)元年(西暦999年)11月1日のことだが、道長が「四尺屏風」(よんしゃくびょうぶ)のための和歌を公卿たちに詠ませたのは、『御堂関白記』によれば、彰子(しょうし)の入内(じゅだい)の直前になってからのことでした。となると、道長は自分の権勢を天皇にもみせつけるために「四尺屏風」を用意したのではないのではないでしょうか。
藤原実資(ふじわら の さねすけ)の日記『小右記』(しょうゆうき)では、このように記されています。
源相公為左府使来、授屏風和哥題、其詞云可読倭歌者、左右更難申御返事、只陳可申自是由、上達部多分得件題云々、又給非参議能哥者云々、上達部役可及荷汲歟、
源俊賢(みなもと の としかた)が左大臣藤原道長の使者として来て、屏風の和歌の題を授けた。その詞(ことば)に云ったことには、「和歌を詠むように」ということだ。あれこれ、まったくご返事は申しがたい。ただ自(みずか)ら、これを申すことにすることを述べた。「公卿(くぎょう)たちの多くはこの題を得た」という事だ。「また、非参議で和歌をよく詠む者に給(たま)わった」ということだ。公卿の仕事は、荷物運びと水くみに及ぶというのか。
道長は9月25日に初めて彰子(しょうし)入内(じゅだい)のことを定め、10月23日に入内調度としての屏風和歌を諸卿(しょきょう)に課し、実資(さねすけ)を怒らせています。
結局、花山院(かざんいん)の他、道長に和歌を献じた公卿は、藤原公任(ふじわらの・きんとう)、藤原高遠(ふじわら・の・たかとう)、藤原懐平(ふじわら・の・かねひら)、藤原斉信(ふじわらの・ただのぶ)、などである。
同じ、小野宮流(おののみやりゅう)の公任(きんとう)や高遠(たかとう)、懐平(かねひら)が和歌を献じたことについて、実資(さねすけ)は道長への追従(ついしょう)を嘆いています。
ところが、一条天皇は「そのようにせよ」と勅答(ちょくとう)したにもかかわらず、全面的な承諾をしたわけではありませんでした。定子(ていし)への個人的な愛情や皇統を受け継いでいくための重要性、執政者や国母(こくも)との円満な関係の維持などで悩んでしまっていたのでした。それで行成に「しばらく披露してはならない」との命を下しました。道長に報告してしまっていた行成はさぞ驚いたことと思われます。
道長は、一条天皇から勅許(ちょっきょ)が下ったと思い込んでいて、安倍晴明(あべの・はるあき)を召して、立后(りっこう)の雑事を勘申(かんじん)させ、その日付などを詮子(せんし)、次いで一条天皇に奉献(ほうけん)したところ、『御堂関白記』の彰子立后勘申に関する部分が黒塗りになっていることから見ても、一条天皇が「待った」をかけたものと思われます。
それ以降、行成は彰子(しょうし)立后を正当化する理由をたびたび一条天皇に説いています。東三条院詮子(ひがし・さんじょういん・せんし)、皇后遵子(こうごう・じゅんし)、中宮定子(ちゅうぐう・ていし)という三人の后(きさき)は出家しており、氏(うじ)の祭祀(さいし)、特に大原野祭(おおはらのまつり)を勤められないので、彰子(しょうし)を后(きさき)とし、氏祭(うじのまつり)を掌(つかさど)らせるのが良いということです。
それで、一条天皇は彰子(しょうし)立后を受け入れることになりました。女院(にょいん)である詮子(ふじわらの・せんし)からの働きかけもあり、藤原道長は定子(ていし)を皇后としたまま彰子(しょうし)を中宮とする「一帝二后」(いっていにこう)という制度を実現させました。
ところが、ほどなく、定子(ちゅうぐう・ていし)は難産で崩御してしまいました。
というわけで結局、一帝二后の時代は長くは続かず、一条天皇の皇后は彰子のみとなりました。
しかも彰子(しょうし)皇后は未だ13歳にもかかわらず、崩御された定子(ていし)皇后の長男敦康親王(あつやすしんのう)を養育するように命じられました。
道長としては彰子(しょうし)皇后に子供ができない可能性を考慮し、敦康親王を駒として取っておきたかったものと思われます。実際、道長は敦康親王の後見人も引き受けていますので。権力を維持するためならば、何でもありという事です。今もあまり変わらないのですが。
その後、寛弘 (かんこう)5(西暦1008)年、ようやく彰子(しょうし)が懐妊し、一条天皇の第二王子である敦成敦成(あつひら)親王が生まれました。後の後一条(ごいちじょう)天皇です。当時、高貴な方は、万一の場合に備えて、一時だけ出家の形を取るのですが、『紫式部日記』には、このように記されています。
御頂きの御髮下ろしたてまつり、御忌む事受けさせたてまつりたまふほど、くれ惑ひたる心地に、こはいかなることと、あさましう悲しきに、平らかにせさせたまひて、後のことまだしきほど、さばかり広き母屋、南の廂、高欄のほどまで立ちこみたる僧も俗も、いま一よりとよみて額をつく。
東面なる人びとは、殿上人にまじりたるやうにて、小中将の君の、左の頭中将に見合せて、あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ。
化粧などのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顏づくりしたりけるを、泣き腫れ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となむ見えざりし。
宰相の君の、顏変はりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにはべりしか。
まして、いかなりけむ。
されど、その際に見し人のありさまの、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。
今とせさせたまふほど、御もののけのねたみののしる声などのむくつけさよ。
源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人には妙尊といふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局には千算阿闍梨を預けたれば、もののけに引き倒されて、いといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。
阿闍梨の験の薄きにあらず、御もののけのいみじうこはきなりけり。
宰相の君のをき人に叡効を添へたるに、夜一夜ののしり明かして、声も涸れにけり。
御もののけ移れと召し出でたる人びとも、みな移らで騒がれけり。
午の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。
平らかにおはしますうれしさの類もなきに、男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ。
昨日しほれ暮らし、今朝のほど、秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつ休む。
御前には、うちねびたる人びとの、かかる折節つきづきしきさぶらふ。
殿も上も、あなたに渡らせたまひて、月ごろ、御修法、読経にさぶらひ、昨日今日召しにて参り集ひつる僧の布施賜ひ、医師、陰陽師など、道々のしるし現れたる、禄賜はせ、内には御湯殿の儀式など、かねてまうけさせたまふべし。
人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。
例の、渡殿より見やれば、妻戸の前に、宮の大夫、春宮の大夫など、さらぬ上達部もあまたさぶらひたまふ。
殿、出でさせたまひて、日ごろ埋もれつる遣水つくろはせたまふ。
人びとの御けしきども心地よげなり。
心の内に思ふことあらむ人も、ただ今は紛れぬべき世のけはひなるうちにも、宮の大夫、ことさらにも笑みほこりたまはねど、人よりまさるうれしさの、おのづから色に出づるぞことわりなる。
右の宰相中将は権中納言とたはぶれして、対の簀子にゐたまへり。
中宮様の御頭頂のお髪を形ばかりお削ぎ申し上げて、御戒忌をお受けさせ申し上げる間、途方に暮れるほどの気分で、これはどうなることかと、驚きあきれるほど悲しいと思っているうちに、無事に御出産なさって、後産のことがまだの間に、あれほど広い母屋から、南面の廂の間、外の簀子の高欄の際まで立て混んでいた僧侶たちも俗人たちも、いま一段と大きな声を上げて礼拝した。
東面にいる女房たちは、殿上人にまじって控えている格好で、小中将の君が、左の頭中将源頼定とぱったり顔を合わせて、茫然とした様子などを、後になってそれぞれが話し出して笑った。
化粧などが行き届いて、優美な人で、明け方に化粧をしていたのだが、泣き腫らして、涙でところどころ化粧くずれして、驚きあきれるくらいで、小少将の君とも見えなかった。
宰相の君が、涙で顏変わりなさった様子などは、とても珍しいことでございました。
それ以上に、わたしの顔などはどう見えたことであろうか。
けれども、その際に見た女房の様子が、お互いに覚えていないというのも、幸いなことであった。
いよいよ御出産あそばすというときに、御もののけが妬み声や大きな声を出すことなどの何とも気味の悪かったことよ。
憑坐らの源の蔵人には心誉阿闍梨を、兵衛の蔵人には妙尊という僧侶を、右近の蔵人には法住寺の律師を、宮の内侍の局には千算阿闍梨を担当させていたところ、阿闍梨たちがもののけに引き倒されて、ひどく気の毒だったので、念覚阿闍梨を呼び寄せ加えて大声で祈祷した。
阿闍梨たちの効験が薄いのではない、御もののけがひどく手強いのであった。
宰相の君担当の招祷人に叡効阿闍梨を付き添わしたところ、一晩中、叡効阿闍梨は大声を上げ続けて、声も涸れてしまった。
御もののけを移らそうと呼び出した憑坐たちも、すべては移らないので大騒ぎしたことであった。
午の時刻に、空が晴れて朝日がさし出したような気持ちがする。
御安産でいらっしゃるうれしさが類もないうえに、男御子でさえいらっしゃるお慶びは、どうして並一通りのことであろうか。
昨日は心配で泣き濡れて過ごし、今朝のうちは、秋霧にむせび泣いていた女房などが、みなそれぞれ局に引き下がって休む。
中宮様の御前には、年輩の女房たちで、このような折にふさわしい人たちが付き添う。
しかも彰子(しょうし)皇后は未だ13歳にもかかわらず、崩御された定子(ていし)皇后の長男敦康親王(あつやすしんのう)を養育するように命じられました。
道長としては彰子(しょうし)皇后に子供ができない可能性を考慮し、敦康親王を駒として取っておきたかったものと思われます。実際、道長は敦康親王の後見人も引き受けていますので。権力を維持するためならば、何でもありという事です。今もあまり変わらないのですが。
その後、寛弘 (かんこう)5(西暦1008)年、ようやく彰子(しょうし)が懐妊し、一条天皇の第二王子である敦成(あつひら)親王が生まれました。後の後一条(ごいちじょう)天皇です。当時、高貴な方は、万一の場合に備えて、一時だけ出家の形を取るのですが、『紫式部日記』には、このように記されています。
御頂きの御髮下ろしたてまつり、御忌む事受けさせたてまつりたまふほど、くれ惑ひたる心地に、こはいかなることと、あさましう悲しきに、平らかにせさせたまひて、後のことまだしきほど、さばかり広き母屋、南の廂、高欄のほどまで立ちこみたる僧も俗も、いま一よりとよみて額をつく。
東面なる人びとは、殿上人にまじりたるやうにて、小中将の君の、左の頭中将に見合せて、あきれたりしさまを、後にぞ人ごと言ひ出でて笑ふ。
化粧などのたゆみなく、なまめかしき人にて、暁に顏づくりしたりけるを、泣き腫れ、涙にところどころ濡れそこなはれて、あさましう、その人となむ見えざりし。
宰相の君の、顏変はりしたまへるさまなどこそ、いとめづらかにはべりしか。
まして、いかなりけむ。
されど、その際に見し人のありさまの、かたみにおぼえざりしなむ、かしこかりし。
今とせさせたまふほど、御もののけのねたみののしる声などのむくつけさよ。
源の蔵人には心誉阿闍梨、兵衛の蔵人には妙尊といふ人、右近の蔵人には法住寺の律師、宮の内侍の局には千算阿闍梨を預けたれば、もののけに引き倒されて、いといとほしかりければ、念覚阿闍梨を召し加へてぞののしる。
阿闍梨の験の薄きにあらず、御もののけのいみじうこはきなりけり。
宰相の君のをき人に叡効を添へたるに、夜一夜ののしり明かして、声も涸れにけり。
御もののけ移れと召し出でたる人びとも、みな移らで騒がれけり。
午の時に、空晴れて朝日さし出でたる心地す。
平らかにおはしますうれしさの類もなきに、男にさへおはしましける慶び、いかがはなのめならむ。
昨日しほれ暮らし、今朝のほど、秋霧におぼほれつる女房など、みな立ちあかれつつ休む。
御前には、うちねびたる人びとの、かかる折節つきづきしきさぶらふ。
殿も上も、あなたに渡らせたまひて、月ごろ、御修法、読経にさぶらひ、昨日今日召しにて参り集ひつる僧の布施賜ひ、医師、陰陽師など、道々のしるし現れたる、禄賜はせ、内には御湯殿の儀式など、かねてまうけさせたまふべし。
人の局々には、大きやかなる袋、包ども持てちがひ、唐衣の縫物、裳、ひき結び、螺鈿縫物、けしからぬまでして、ひき隠し、「扇を持て来ぬかな」など、言ひ交しつつ化粧じつくろふ。
例の、渡殿より見やれば、妻戸の前に、宮の大夫、春宮の大夫など、さらぬ上達部もあまたさぶらひたまふ。
殿、出でさせたまひて、日ごろ埋もれつる遣水つくろはせたまふ。
人びとの御けしきども心地よげなり。
心の内に思ふことあらむ人も、ただ今は紛れぬべき世のけはひなるうちにも、宮の大夫、ことさらにも笑みほこりたまはねど、人よりまさるうれしさの、おのづから色に出づるぞことわりなる。
右の宰相中将は権中納言とたはぶれして、対の簀子にゐたまへり。
中宮様の御頭頂(おつむ)のお髪(おぐし)を形ばかりお削ぎ申し上げて、御戒忌(ごかいき)をお受けさせ申し上げる間、途方に暮れるほどの気分で、これはどうなることかと、驚きあきれるほど悲しいと思っているうちに、無事に御出産なさって、後産(あとざん)のことがまだの間に、あれほど広い母屋(おもや)から、南面の廂(ひさし)の間、外の簀子(すのこ)の高欄(こうらん)の際まで立て混んでいた僧侶たちも俗人(ぞくじん)たちも、いま一段と大きな声を上げて礼拝した。
東面(ひんがし・おもて)にいる女房たちは、殿上人(てんじょうびと)にまじって控えている格好で、小中将(しょう・ちゅうじょう)の君(きみ)が、左の頭中将(とうの・ちゅうじょう)源頼定(みなもと の よりさだ)とぱったり顔を合わせて、茫然とした様子などを、後になってそれぞれが話し出して笑った。
化粧などが行き届いて、優美な人で、明け方に化粧をしていたのだが、泣き腫らして、涙でところどころ化粧くずれして、驚きあきれるくらいで、小中将の君とも見えなかった。
宰相の君(さいしょうのきみ)が、涙で顏が変わりなさった様子などは、とても珍しいことでございました。それ以上に、わたしの顔などはどう見えたことでありましょうか。
けれども、その際に見た女房の様子が、お互いに覚えていないというのも、幸いなことでありました。
いよいよ御出産あそばすというときに、もののけが妬(ねた)み声や大きな声を出したりしましたが、何とも気味の悪かったことでした。
憑坐(よりまし)は、源の蔵人(みなもと・の・くろうど)には心誉阿闍梨(しんよ・あじゃり)を、兵衛の蔵人(ひょうえ・の・くろうど)には妙尊(みょうそん)という僧侶を、右近の蔵人(うこん・の・くろうど)には法住寺(ほうじゅうじ)の律師(りっし)を、宮の内侍の局(みやの・ないし・の・つぼね)には千算阿闍梨(せんざん・あじゃり)を担当させていたところ、阿闍梨たちがもののけに引き倒されて、ひどく気の毒だったので、念覚阿闍梨(ねんがく・あじゃり)を呼び寄せ加えて大声で祈祷しました。
阿闍梨たちの効験(こうけん)が薄いのではなく、もののけがひどく手強いのでした。
宰相の君(さいしょうのきみ)担当の招祷人(しょうとうにん)に叡効阿闍梨(えいこう・あじゃり)を付き添わしたところ、一晩中、叡効阿闍梨は大声を上げ続けて、声も涸れてしまいました。
もののけを移らそうと呼び出した憑坐(よりまし)たちも、すべては移らないので大騒ぎしたことでありました。
午(うし)の時刻に、空が晴れて朝日がさし出したような気持ちがしました。
御安産でいらっしゃったうれしさが類(たぐい)もないうえに、皇子(みこ)でいらっしゃるお慶びは、並大抵のものではありません。
昨日は心配で泣き濡れて過ごし、今朝のうちは、秋霧(あきぎり)にむせび泣いていた女房などが、みなそれぞれ局(つぼね)に引き下がって休みました。
中宮様の御前には、年輩の女房たちで、このような折にふさわしい人たちが付き添いました。
殿も北の方(かた)様も、あちらのお部屋にお移りあそばされて、ここ数か月来(すうかげつらい)、御修法(みしほ)や読経(どきょう)に奉仕(ほうし)し、また昨日、今日の呼び寄せに参集(さんしゅう)した僧侶たちに布施を賜い、医師や陰陽師(おんみょうじ)などで、それぞれの方面で効験(こうけん)を現(あらわ)した者たちに、禄を賜わり、また一方、内部では御湯殿(おゆどの)の儀式などを、前もって御準備おさせになるのだと思われます。
女房の部屋・部屋では、見るからに大きな衣装袋や、いくつもの包(つつみ)を運び込む人たちが出入りし、唐衣(からぎぬ)の刺繍や、裳(も)のひき結びの螺鈿(らでん)や刺繍の飾りをあまりにと思われるまでして、またそれをひき隠したりして、「桧扇(ひおうぎ)をまだ持って来ないですね」などと、女房どうしで言い交わしながら、化粧をし身づくろいをします。
いつものように、渡殿(わたどの)の部屋から寝殿(しんでん)の方を見ると、その妻戸(つまど)の前に、中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)藤原斉信(ふじわら の ただのぶ)や春宮大夫(とうぐうの・だいぶ)藤原懐平(ふじわら の かねひら)など、その他の上達部(かんだちめ)たちも大勢、伺候(しこう)していらっしゃいます。
殿がお出ましになって、この数日来、落ち葉などで被(おお)われていた遣水(やりみず)の手入れを命じさせなさいます。
殿上人(てんじょうびと)たちの御様子もご気分良さげに思われます。
悩んでいらっしゃるであろう人も、この時ばかりはそれを忘れてしまわれる雰囲気で、中宮大夫(ちゅうぐうだいぶ)が、格別に得意げな笑みを浮かべていらっしゃるわけではありませんが、何よりも勝(まさ)るうれしさが、自然と顔に現れていらっしゃいます。
右宰相(うさいしょう)中将(ちゅうじょう)藤原兼隆(ふじわら の かねたか)は権中納言(ごんの・ちゅうなごん)藤原隆家(ふじわら の たかいえ)と冗談を言い交わして、東の対(ひがしの・たい)の簀子(すのこ)に座っていらっしゃいました。
彰子(しょうし)皇后に皇子(みこ)が産まれたということで、道長は敦康親王の後見の役目を放棄しました。定子(ていし)皇后が産んだ敦康親王(あつやすしんのう)はお役御免となったということです。
自分の孫が天皇に即位する可能性が出てきたとなれば、道長がまずやるべきことは、敦成(あつひら)親王を皇太子の座に就けることでした。産まれたばかりの赤ちゃんですが。
しかも一条(いちじょう)天皇は花山(かざん)天皇の弟で、従兄(いとこ)にあたる居貞親王(おきさだ・しんのう)を皇太子としていました。
すでに立太子されている居貞親王を廃して、赤ちゃんを立太子(りったいし)するには、さすがの最高権力者である藤原道長にも難しかったので、道長は寛弘 (かんこう)8(西暦1011)年に、一条天皇が病(やまい)に倒れると、すぐさま、居貞親王に譲位を迫りました。
それで、居貞親王を即位させ、その皇太子に敦成親王をつけました。
さすがに何の落ち度もない皇太子である居貞親王を廃太子にして、敦成親王を立太子することはさすがの道長であっても難しい話でした。
それで、「ならば天皇の方を入れ替えて、自分の孫を新天皇の皇太子にすればいい。」
と考えたわけです。
寛弘 (かんこう)8(西暦1011)年6月13日、一条天皇は譲位して太上天皇となり、居貞親王が即位しました。三条(さんじょう)天皇です。そして、その皇太子が道長の孫である敦成親王となりました。
もっとも、一条天皇は譲位の後、10日も経たずして崩御してしまいました。
それにしても一条天皇はかなり不遇の天皇だったようで、『小右記』(しょうゆうき)こと、藤原実資(ふじわら の さねすけ)が寛弘 (かんこう)8(西暦1011)年2月15日に書いた日記を読むと、藤原道長にとって、既に利用価値のなくなった天皇に対する非情さが伝わってきます。
この日の『小右記』にはこのように記されています。
左衛門督頼通卿参春日、雲上侍臣、地下四位・五位・六位悉以催役随身参入、若不饗応、深結忿怒云々、……資平云、度々有気色云々、然而不令追従、触事不快云々、……資平申送云、昨・今有所慎、而今日依陪膳不候、有内召、為之如何者、答可参入之由、午後来云、雲上侍臣悉従金吾参春日云々、仍資平令参内、入暗自内来云、両度奉仕陪膳、主上被仰云、殿上男等皆参春日歟云々、奏説孝朝臣・左大弁相尹朝臣佐馬頭、進假文、其外参春日之由、仰云、明日又陪膳不候歟、令見天気、似明日可奉仕陪膳云々、……
左衛門督(さえもんのかみ)藤原頼通卿(ふじわらの・よりみち・きょう)が春日社(かすがしゃ)に参った。殿上人(てんじょうびと)や地下人(じげにん)の四位・五位・六位の者は、すべて催促して使役(しえき)し、連れて参った。もし饗応(きょうおう)しなかったならば、深く怒った」ということだ。……藤原資平(ふじわらの・すけひら)が云ったことには、「度々(たびたび)、催促がありました」ということだ。ところが付き従わせなかった。「大臣こと藤原道長は何かにつけて不快でした」ということだ。……資平(すけひら)が申し出て云ったことには、「昨日と今日は、謹慎するところがありました。ところが今日、一条天皇の給仕(きゅうじ)が控えていませんので、内(うち)こと一条天皇の召(め)しがありました。これを如何(いかが)しましょう」ということだ。参るよう答えた。午(うま)の時刻(午後0時・午後1時)、来て云ったことには、「殿上人(てんじょうびと)は、すべて左衛門督(さえもんのかみ)に付き従って春日大社(かすがたいしゃ)に参りました」ということだ。そこで資平(すけひら)を内裏(だいり)に参らせた。暗くなって、内裏から来て云ったことには、「二度給仕(きゅうじ)を奉仕(ほうし)しました。主上(しゅじょう)、つまり、一条天皇がおっしゃって言われたことには、「殿上人(てんじょうびと)たちは、皆、春日大社に参ったのか」ということでした。藤原説孝朝臣(ふじわらの・ときたか・あそん)と左大弁(さだいべん)藤原相尹朝臣佐馬頭(ふじわらの・すけただ・あそん・さまのかみ)は休暇届を進上(しんじょう)し、その他の者は春日大社に参っているということを申し上げました。天皇がおっしゃって云ったことには「明日もまた給仕(きゅうじ)はいないのか」と。天皇の意向を伺(うかが)わせると、明日も給仕(きゅうじ)を奉仕するようにとのことでした」ということだ。……
当時、摂関春日詣(せっかん・かすが・もうで)という儀式があり、摂政や関白は多くの貴族を引き連れて、藤原氏の氏神(うじがみ)である春日大社に参詣(さんけい)しました。早くから道長の後継者として扱われていた頼通(よりみち)も、従三位(じゅさんみ)にも関わらず、この年その予行演習をしたのでした。
ところが、頼通の春日詣に際し、道長の命で殿上人(てんじょうびと)や地下人(じげにん)のほとんどが扈従(こしょう)してしまい、一条天皇の食事の陪膳(ばいぜん)に奉仕する者がいなくなってしまいました。
明日又陪膳不候歟
「明日もまた給仕(きゅうじ)はいないのか」という一条天皇の言葉には哀れさをも感じてしまいます。
当時、一条天皇は32歳だったのですが、政治の実権は完全に道長に握られており、その挙句、19歳の頼通の方が自分よりもはるかに権力を持っているという現実を見せつけられた。
寛弘(かんこう) 8(西暦1011年)危篤状態の一条天皇は崩御する数日前に譲位し、36歳の居貞(おきさだ)親王は、三条天皇として、ようやく即位することになりました。もちろん、皇太子には中宮彰子(ちゅうぐう・しょうし)の子である敦成(あつひら)親王が立ちました。道長は次女の妍子(けんし)を三条天皇の中宮としました。三条天皇は長年の妻である娍子(せいし)を皇后とし、二后並立状態となりました。長和(ちょうわ)2(西暦1013)年、妍子は禎子(ていし)内親王を出産しました。外孫(そとまご)の早期即位を図る道長と親政を望む三条天皇との関係は上手くいっていませんでしたが、道長の娘の妍子がいながら娍子を立后したことや妍子との間には内親王(ないしんのう)しか儲けられなかったことにより、道長と三条天皇の関係は決定的なものとなりました。
長和3(西暦1014)年、三条天皇は眼病を患ってしまいました。仙丹(せんたん)の服用直後に視力を失ったといわれていますが、道長は天皇の眼病を理由にしきりに譲位を迫りました。
更に長和3(西暦1014)年と翌年、内裏(だいり)が相次いで焼失してしまいました。病状の悪化もあり、長和5年(西暦1016年)三条天皇は皇后娍子(せいし)の子敦明親王(あつあきらしんのう)の立太子を条件に、道長の勧めに従い、彰子(しょうし)の産んだ一条天皇第二皇子の敦成(あつひら)親王に譲位し、太上天皇となりますが、寛仁(かんにん)元年(西暦1017年)4月に出家し、程なく42歳で崩御してしまいました。
敦成(あつひら)親王こと、後一条(ごいちじょう)天皇即位により天皇の外祖父(がいそふ)として摂政となりますが、翌年には摂政を嫡子(ちゃくし)の頼通(よりみち)に譲り後の体制を固めようとしますが、道長が引き続き実権を握り続けました。寛仁(かんにん)2(西暦1018年)、後一条天皇には三女の威子(いし)を入内(じゅだい)させて中宮とし、「一家立三后」(いっか・りつ・さんごう)と驚嘆されました。
立后(りっこう)の日に道長が詠んだ歌
「此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ」
このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば
歌の訳:この世で自分の思うようにならないものはない。満月に欠けるもののないように、すべてが満足にそろっている
は、藤原氏九条流(ふじわらし・くじょう・りゅう)による摂関政治の絶頂を示すものと言われています。
道長は寛仁(かんにん)3(西暦1019)年に出家するが、当時の貴族の常として厚く仏教に帰依しており、晩年は壮大な法成寺(ほうじょうじ)の造営に精力を傾けました。晩年は糖尿病を病み、万寿(まんじゅ)4(西暦1027)年に薨去(こうきょ)しました。死後、彰子が産んだ後朱雀(ごすざく)天皇、六女の嬉子(きし)の産んだ後冷泉(ごれいぜい)天皇が相次いで即位し、道長は三代の天皇の外祖父となっています。ちなみに後冷泉(ごれいぜい)天皇の乳母が紫式部の娘の大弐三位(だいにのさんみ)です。
道長は藤原北家(ほっけ)の全盛期を築き、摂関政治の崩壊後も彼の子孫(御堂流)のみが摂関職を代々世襲していくことになります。
