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聖徳太子

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聖徳太子は、おばである額田部皇女(ぬかたべの・ひめみこ)が日本史上初の女帝、推古天皇として即位し、その皇太子となった人物です。

実は、現在に至るまでの日本の権力構造を決定したのが聖徳太子なのです。つまり、聖徳太子が登場しなければ、日本はまったく異なる歴史を歩むことになったと思われます。聖徳太子こそが、その後の1500年の日本国の方向性を定めた大政治家なのです。

日本国民は、権力や権利について学校で教わっておらず、国家権力という言葉に圧迫感を覚える人が少なくないようですが、当チャンネルの別の動画でも説明しているように、国家権力なしでは皆さんの権利は成立しません。共産党独裁の中国・北朝鮮とか、中世以前の絶対王政時代のヨーロッパとか、ユーラシアの専制君主国とかは、そのイメージ通りですが、少なくとも、日本を含む現代の先進国では、個人の権利を守るために権力が存在しています。

そもそも、人間には生まれながらにして保有する権利などありません。例えば、日本人の場合は、「日本国憲法」で、「国民に保障する基本的人権は侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」とあります。私たち日本国民は「日本国憲法」によって、基本的人権を生まれながらにして保障されています。少なくとも我々の基本的人権は日本国という共同体の憲法に明文化されているからこそ認められている訳なのです。つまり、権利とは神様が我々に与えてくれた普遍的な資格でも何でもない訳です。権利とは、あくまで人間と人間のつながりである共同体が認めるからこそ、この世に存在している訳です。

何度も語っていますが、英国の作家、ダニエル・デフォー著の『ロビンソン・クルーソー』の主人公である、無人島に漂着したロビンソンクルーソーには、何の権利もありませんでした。無人島なので、ロビンソン以外には誰も住んでいない訳ですから、権利を認めてくれる社会もないという訳です。

もっとも、1つの社会共同体の中において、すべての人々の権利が同等な時代というのは、近代に至るまで訪れませんでした。欧米で国民国家という概念が成立し、現実化する以前は共同体の中において、階級によって、認められた権利に格差が生じていました。認められた権利が異なる階級の事を身分と呼びます。

国民国家において、すべての国民に平等に認められている権利や封建制や皇帝制の国で身分ごとに異なっていた権利も、いずれにせよ、国家なり国王・皇帝などが「お前に認められた権利は、これとこれ。逆にこれとこれの権利は認められていない」といった形でルールを定め、人々に強制しなければなりません。この人々に特定のルールを強制する力のことを権力と呼びます。

「権利」にせよ、「権力」にせよ、江戸時代末期に”right”(ライト)や”power”(パワー)という単語が入ってきた際に造語された訳(わけ)ですが、それ以前の日本に「権利」や「権力」といった概念がなかった訳ではありません。そもそも、人類の文明が始まって以来、「政治」とは各人の「権利」をいかにして「権力」で調整し、安定させるのかという課題を解決させるための制度でした。どこの国でも、土地や水といった自然の恵みを、人々がどのように分かち合い利用するのか、という事での争いが絶えませんでした。有利な土地を確保し、水を自由に使えれば、たくさん農産物を生産して、豊かになれる、逆に、やせた土地で水も使えないとなると、そもそも生き延びることができません。争いが起こっても当然でしょう。

となると、今度は誰が権力を持つのか、という話になります。いかなる政治体制であっても、権力者が権力を振るう際には、何らかの説明が必要となります。皇帝・国王・封建領主など国などの共同体のトップとして、人々の権利を調整する役割を果たす人には、この人が権力を持つならば、納得せざるをえないと思わせる、権力者が権力者であるための説明・理由づけが必要となります。その種の人々が権力者を認める理由の事を権威と呼ぶ訳です。

例えば、支那は易姓革命(えきせい・かくめい)の国で、皇帝を弑逆(しいぎゃく)した者が新たな皇帝になります。とはいえ、皇帝の血筋とは無関係な一般人が新たな皇帝に即位したとしても、その時点では何の権威も持っていません。特に漢(かん)の劉邦(りゅうほう)にせよ、明(みん)の朱元璋(しゅ・げんしょう)にせよ、本当にその辺の単なる一民間人(いち・みんかんじん)でした。それが戦乱を経て、最終的な勝者となり、皇帝の座に上り詰(のぼりつ)めたのですから。

という訳で、『史記』(しき)では、その辺の飲んだくれのおっさんだった劉邦は、実は「赤龍(せきりゅう)の子」だったという権威付け(けんいづけ)が後付け(あとづけ)でなされました。キリストが処刑後三日目に生き返ったり、というようなものでしょう。

もっとも、伝説系の権威は、その人物が死んだ後に作られるのが普通の事です。実は、生誕伝説系の権威付けの物語は、本人ではなく。むしろ、子孫たちに権威を与えるために創作されるのが普通の事です。その時点の皇帝や国王が、自分の先祖の凄さを称(たた)えて、自分の権威を高める必要があるからです。つまり、人々は偉大なる初代皇帝や聖なる初代国王の子孫であるだけで、その人物にも、それなりの権威を感じてしまうという事なのです。

なので、国王の息子、王子が次の国王として、権力者の座に就く事が普通の事なのです。それは血筋によって前任者や偉大な先祖の権威が引き継がれるためという事です。

善悪や本人の能力の問題は一旦脇に置き、いわゆる由緒正しき血筋には、それなりに権威が備わるというのが歴史的な事実なのです。実際、ヨーロッパでは、他の国を軍事力で征服する時に、王家の血筋を引いている事を理由に、自分にも王位を継承する権利があると大義名分を掲げて攻め込む「継承戦争」が数えきれないほど起こっていますから。つまり、王国の血統を引き継いでいるという事実だけで、他国を軍事的に侵略できる程の説得力がある訳です。人間は王家の血筋という概念に対し、それなりに権威を感じてしまうものなのです。なので、結果的に、人類の歴史は血筋によって最高権力者である国王や皇帝が決められる王朝だらけになりました。君主国でありながら、血統がそれほど重視されなかったのは、古代ローマ帝国くらいでしょう。ティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスの長男のティトゥス・フラウィウス・ウェスパシアヌスやマルクス・アウレリウス・アントニヌスの六男のルキウス・アウレリウス・コンモドゥス、等のように、実の親子で皇帝の座が引き継がれた事もありますが、そうではない場合の方が多かったのです。血統による王位継承は、特に長く続いていればいるほど、伝統という別の権威が加わり、より上手くいく場合が多いですし。

となると、人類の歴史上最強の権威と断言できる血統は、日本に存在している事が誰にでもわかると思います。何といっても、神世七代(かみのよ・ななよ)の一柱(ひとはしら)の神である伊邪那岐神(いざなぎ)から産まれたのが、天照大御神(あまてらす・おおみかみ)で、その孫である邇邇藝命(ににぎの・みこと)の曽孫(ひまご)が神武天皇なので。詳しくは、当チャンネルの別の動画を参照ください。

というように、日本の皇統の権威が地球上で最強なのは間違いないのですが、問題はいかなる権威があろうとも、権力者は時に民衆の打倒の対象になってしまいます。そこが、日本以外では、政権が長く持たなかった所です。権力者が押しつけてくる規制や判断に不満を持つ人々は、特に自分たちの生存に関わってきた場合には、間違いなく権力者の交代を望むからです。しかも、権力者は、魅力的な地位に存在しているように見えます。というわけで、権力者は自分の権力を狙う挑戦者と常に権力闘争を繰り広げなければなりません。負ければ、どれだけ王家の血が濃かったとしても、おしまいです。

歴史的に、それほど頻発した訳ではありませんが。いずれにせよ、権力者は、自らが振るう権力によって、影響を受ける民衆から恨みを買う事が普通にある訳です。結果的に、権力者の打倒が謀(はか)られる事になります。権力者は打倒される対象であり、権力闘争で常に勝ち続けなければ、自らの地位を維持することは不可能なのです。

そう考えると、中々大変です。懸命にみんなの幸せのために尽くしても、逆恨みされる場合も少なくなかったでしょう。そもそも、政治とは、利害関係の調整なので、特定の政策によって利益を得る人もいれば、害を被(こうむ)る人もいます。あるいは、獲得できる利益に差が生じる事があるのも当たり前の事。すべての人々を満足させられる政策など、不可能な話です。

それでは、なぜ日本の皇統だけが2000年以上も続いてきたのでしょうか?歴代の天皇陛下は、それなりに日本人を満足させる政治を行い、権力闘争にも勝ち続けてきたという事なのでしょうか?

答えは簡単で、日本の皇統は権力を持っていなかったからです。今の日本でも、今上(きんじょう)陛下は、確かに物凄い権威をお持ちになっておられますが、我々日本国民の生活やビジネスを左右できる権力をお持ちではありません。権力者、つまりは、政治の責任者は岸田文雄首相です。

つまり、我々日本国民からしてみれば、「岸田を打倒しろ!」と叫ぶ事には、それなりに意味があったとしても、とはいえ、「天皇を打倒しろ!」というのは、意味が分かりません。なにしろ、陛下は政治的な権限を一切お持ちではありませんので。

なので、民衆の打倒の対象にはなりえないし、権力闘争に巻き込まれる事もありませんでした。だからこそ、2000年という長期にわたり、皇統は存続することが出来たというのが真相です。日本国が世界最古の国であり続けているのは、実は権力と権威が分離しているためなのです。

そうはいうものの、「結構、権力を振るっている天皇がいるじゃないか」と言われる方もいらっしゃる事だと思います。例えば、古墳時代の、崇神(すじん)天皇や仁徳(にんとく)天皇や飛鳥(あすか)時代の欽明(きんめい)天皇や敏達(びだつ)天皇とかは、どうなのか?明らかに権力者としての振る舞いではないでしょうか。

確かに敏達天皇の次の次。つまりは、第32代の崇峻(すしゅん)天皇までは、日本の天皇は権威を持った権力者でした。とはいえ、権力者である以上、天皇は群臣や民衆にとって打倒の対象になりえるし、権力闘争からも逃れられませんでした。

つまり、崇峻(すしゅん)天皇から後に即位した天皇は、権力者ではなくなったという事です。実は、崇峻天皇が亡くなった際に、日本の政治における大改革が行われました。要は、日本の政治構造において、権威と権力を分離した訳です。当時の日本に1人の天才政治家が登場し、権威は天皇に残したまま、権力だけを分離してしまいました。結果的に、その後の天皇は、もちろん時期によって多少濃淡はありますが、基本的には、権威そのものでありながら、権力は行使しないという構造が出来上がった訳です。現在の、今上(きんじょう)天皇陛下と岸田総理・日本国民の関係と同じです。日本国憲法に記(しる)されている「象徴天皇」は、実は崇峻天皇の死後の、ある天才政治家の産物なのです。その天才こそが、実は聖徳太子なのです。

とはいえ、聖徳太子の偉大さを説明するためには、権威と権力について、理解してもらわなければ、わからないと思われるので、当チャンネルでは、何度も説明しています。

聖徳太子とは、後世の尊称・諡(おくりな)であって、『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやの・うまやとの・とよとみみ・の・みこ)」、『日本書紀』では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとの・とよとみみの・みこのみこ)」と記(しる)されています。

当時、崇仏派の蘇我家は、皇室と密な姻戚関係を結んでいました。欽明(きんめい)天皇は、宣化(せんか)天皇の娘である石姫皇女(いしひめ の ひめみこ)。蘇我稲目(そが の いなめ)の娘、つまりは、蘇我馬子(そが の うまこ)の妹に当たる堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねのきみ)との間に子をなします。石姫との間の子が、第30代の敏達(びだつ)天皇。堅塩媛との間の子が、31代の用明(ようめい)天皇。小姉君との子が32代の崇峻(すしゅん)天皇となります。要するに、欽明天皇は複数の女性と結婚し、それぞれの間に子どもがいたという話です。

欽明(きんめい)天皇と堅塩媛(きたしひめ)の間に産まれた皇女(ひめみこ)である額田部皇女(ぬかたべの・ひめみこ)が、母親が違う兄の敏達(びだつ)天皇の皇后となり、敏達天皇、用明(ようめい)天皇、崇峻(すしゅん)天皇、と三代の天皇がお隠れになった後に、第33代の推古(すいこ)天皇として即位しました。蘇我稲目(そがの・いなめ)の孫で天皇に即位したのが用明天皇・崇峻天皇・推古天皇ですが、全員が蘇我馬子(そがの・うまこ)の甥、もしくは姪に当たる訳です。また、欽明(きんめい)天皇と小姉君(おあねの・きみ)の間には、崇峻天皇の他に穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)という皇女がおり、この方が、異母兄(いぼ・けい)の用明(ようめい)天皇と結婚し、間に産まれたのが聖徳太子。厩戸皇子(うまやどの・おうじ)なのです。

『日本書紀』によると、

橘豊日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。及壯、一聞十人訴以勿失能辨、兼知未然。且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。父天皇愛之令居宮南上殿、故稱其名謂上宮廐戸豊聰耳太子。

厩戸豊聡耳皇子(ウマヤトノ・トヨトミミノ・ミコ、つまり、聖徳太子)は、橘豊日天皇(タチバナノ・トヨヒノ・スメラミコト、こと、用明天皇)の第二皇子(だいに・おうじ)です。母は皇后の穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)で、天国排開広庭天皇(あめくに・おしはら・きひろにわ・の・すめらみこと)こと、欽明天皇の皇女(ひめみこ)で、橘豊日天皇(たちばなの・とよひの・すめらみこと)こと用明天皇の皇后です。皇后が懐妊し産まれそうな日の事。宮中を散歩して、様々な役人を監察していました。馬の役人のところに到着して、厩(ウマヤ)の戸に当たって、苦しんで、すぐに出産しました。厩戸豊聡耳皇子は生まれた時からしゃべる事が出来ました。聖人の知恵がありました。壮年になって、1度に10人の訴えを聞いて、間違えないで、理解できました。また、未来のこともよく知っていました。また、仏教を高麗の僧の慧慈(エジ)に習い、五経(ごきょう)を博士の覚哿(カクカ)に学びました。他にも全てを学び、すっかり理解しました。父の用明天皇は、皇子を愛し、宮の南の上殿(カミツミヤ)に住まわせました。その名を称えて、上宮廐戸豊聡耳太子(カミツミヤノ・ウマヤトノ・トヨトミミノ・ヒツギノミコ)といいます。

キリストと同じく馬小屋で産まれた、と思う方もいると思いますが、キリストが馬小屋で産まれたという記述は『聖書』にはありません。古代に中国で布教したネストリウス派キリスト教が元ネタだと思われます。ネストリウス派キリスト教には、イエスが生まれた後に、飼い葉桶に寝かされたという伝承があり、それが日本にまで伝わる際にイエスという聖人が馬小屋で生まれたになり、聖徳太子の母親穴穂部間人皇女が馬小屋で産気づいたという伝説になったのではないかと思われます。

聖徳太子が歴史の表舞台に本格的に登場するのは、父親に当たる用明天皇が崩御し、崇仏(すうぶつ)派の蘇我馬子(そがの・うまこ)と廃仏(はいぶつ)派の物部守屋(もののべの・もりや)との政治闘争が激化した時期からになります。実は崇仏派と廃仏派の闘争は用明天皇の後継者争いという側面もありました。用明天皇がお隠れになり、物部守屋は次の天皇として、欽明(きんめい)天皇と小姉君(おあねのきみ)の子ども、つまりは、聖徳太子の母親、穴穂部間人皇女(あなほべの・はしひとの・ひめみこ)の兄弟である穴穂部皇子(あなほべの・おうじ)を推していました。それに対し、蘇我馬子らは穴穂部皇子の弟、泊瀬部皇子(はつせべの・おうじ)を推し立て、厩戸皇子(うまやどの・おうじ)らと共に軍を進めました。物部側が天皇にしようとした穴穂部皇子と蘇我側が推し立てた泊瀬部皇子は、両人共に、父親が欽明天皇で。母親が小姉君で実の兄弟です。

骨肉の争いですが、蘇我(そが)と物部(もののべ)が最終的に衝突した丁未の乱(ていびのらん)では、河内(かわち)の本拠、稲城(いなぎ)に立てこもった物部軍に有利な状況が続きました。つまりは、攻め寄せた蘇我軍が物部軍を突き崩す事が出来ずにいた訳です。元々、物部氏(もののべし)は饒速日命(にぎはやひ)の子孫で、軍事面を担当する氏族(しぞく)でしたから、強かった。そこで厩戸皇子が登場し、

是時、廐戸皇子、束髮於額(古俗、年少兒年十五六間束髮於額。十七八間分爲角子、今亦爲之而)隨軍後、自忖度曰「將無見敗、非願難成。」乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髮而發誓言(白膠木、此云農利泥)「今若使我勝敵、必當奉爲護世四王起立寺塔。」蘇我馬子大臣、又發誓言「凡諸天王・大神王等、助衞於我使獲利益、願當奉爲諸天與大神王、起立寺塔流通三寶。」誓已嚴種種兵、而進討伐。

この時、厩戸皇子は瓢型(ひさごがた)の結髪(けっぱつ)をして、軍の後ろに従っていました。「もしかすると、この戦いは負けるかもしれない。願をかけないとかなわないだろう」と、なんとなく感じて、言われました。そこで白膠木(ぬるで)を切り取って、急いで四天王の像を作り、束髪(そくはつ)の上に乗せ、誓いを立てて言われるのに、「今もし自分を敵に勝たせてくださったら、必ず護世四王(ごせ・しおう)のため寺塔(てら)を建てましょう」とおっしゃられました。

つまりは、厩戸皇子は自ら四天王の木像をこしらえ、勝利のあかつきには、四天王のためにお寺や仏塔を建てるから、なんとか勝たせて欲しいと願(がん)をかけた訳です。

その後、蘇我軍はなんとか物部軍を打ち破り、物部守屋は射殺されてしまいました。崇仏派(すうぶつは)の勝利を受け、厩戸皇子は約束通り四天王を祀(まつ)るお寺を建てました。

聖徳太子は、約束通り、四天王(してんのう)を祀(まつ)るお寺を建てました。西暦593年に建てられた大阪の四天王寺です。非常に残念な事ですが、この四天王寺は1945(昭和20)年の大阪大空襲により、六時堂(ろくじどう)や五智光院(ごちこういん)、本坊方丈(ほんぼう・ほうじょう)など伽藍(がらん)の北の一部の建物を残し、境内(けいだい)のほぼ全域が灰燼(かいじん)に帰(き)してしまいました。

1963(昭和38)年に伽藍(がらん)、1979(昭和54)年には聖霊院奥殿(しょうりょういん・おくでん)・絵堂(えどう)・経堂(きょうどう)が再建され、その他の建物も次々に再構されて、現在では、ほぼ創建当時である飛鳥(あすか)時代の様式を忠実に再現しています。

さて、蘇我馬子(そがの・うまこ)が物部守屋(もののべの・もりや)を打ち破った事を受け、皇位は泊瀬部皇子(はつせべの・おうじ)のものになりました。すなわち、第32代崇峻(すしゅん)天皇が即位したわけですが。崇峻天皇の御代は、ある意味で日本国の運命を大きく変えたある大事件で幕を閉じる事になります。日本国において、権力と権威の構造を定めた人物こそが聖徳太子なのですが、実は権力と権威を分離さざるをえなくなった決定的な契機となったであろう大事件が起こった訳です。

崇峻天皇は、126代にわたる日本の皇統において、唯一、臣下から暗殺される形で最期を遂げたのですから。弑逆(しいぎゃく)された訳なので、まるで支那のようなのですが、蘇我馬子(そがの・うまこ)によって暗殺されました。つまりは、群臣が権力を持ち、天皇と権力闘争を繰り広げ、最後には天皇が弑逆されるという大事件が、西暦592年に起きた訳です。

十一月癸卯朔乙巳、馬子宿禰、詐於群臣曰「今日、進東国之調。」乃使東漢直駒弑于天皇。(或本云、東漢直駒、東漢直磐井子也。)是日、葬天皇于倉梯岡陵。(或本云、大伴嬪小手子、恨寵之衰、使人於蘇我馬子宿禰曰「頃者有獻山猪、天皇指猪而詔曰、如斷猪頸何時斷朕思人。且於內裏大作兵仗。」於是、馬子宿禰聽而驚之。)

即位5年)11月3日。馬子宿禰(ウマコノ・スクネ)は臣下たちを騙して言いました。

「今日、東国(とうごく)の税を献上する」

すぐに東漢直駒(ヤマトノ・アヤノ・アタイ・コマ)に天皇を殺させました。

ある本によると、東漢直駒(ヤマトノ・アヤノ・アタイ・コマ)は東漢直磐井(ヤマトノ・アヤノ・アタイ・イワイ)の子だと言います。

この日に天皇を倉梯岡陵(クラハシノ・オカノ・ミササギ)に葬りました。

ある本によると、大伴嬪(オオトモノ・ミメ)の小手子(コテコ)が寵愛が衰えたことを恨んで、蘇我馬子宿禰(そがの・うまこの・すくね)の元へと使者を送って言いました。

「この頃、山猪(イノシシ)を献上したことがありました。天皇はその猪を指差して詔(ミコトノリ)して言ったのです。

『猪の頸(くび)を斬るように、いつか朕(われ)が思う人を斬ろう』と。

また内裏(だいり)で、たくさんの兵器を作っています」

馬子宿禰はそれを聞いて驚いたといいます。

臣下である蘇我馬子が崇峻天皇を暗殺してしまうなどという前代未聞の事件が発生しました。ところが、どうして殺されたのか? 『日本書紀』を何度読んでも、殺される理由がわかりませんでした。というのも、崇峻天皇の巻はほとんど蘇我馬子(そがの・うまこ)の活動だけで、その中で崇峻天皇が自主的に活動したのは、任那(みまな)再建のために軍を筑紫(つくし)へと移動させたことだけでした。任那再建は先帝である欽明(きんめい)天皇の遺言であって、だから崇峻天皇が積極的になるのは仕方がないのですが、臣下たちは乗り気ではなかったのではないでしょうか?だから蘇我馬子に殺された。崇峻天皇の暗殺後、国内は大した混乱にはなっていなかったので、崇峻天皇暗殺は臣下の暗黙の了解があったのでしょうか?

第二回

聖徳太子こと、厩戸豊聡耳皇子命(うまやとの・とよとみみの・みこのみこ)は、日本史上初めて、権力闘争の末に、天皇が臣下によって暗殺された光景を、その目で見ていた訳でした。

というわけで、厩戸豊聡耳皇子命は、権威と権力が同一の人物の手中にあると、権力闘争の末に君主が殺される可能性が生じてしまい、さらには、権力者でもある天皇は、どれだけ権威が強固だったとしても、群臣や民衆の打倒の対象になってしまうという事実に気づいたわけでした。日本以外では普通の構造なのですが。それで、権威を持つ天皇から権力を分離してしまえば、少なくとも天皇が権力闘争に巻き込まれたり、打倒の対象になる事はないと気づいた訳です。

それを明文化したものが十七条憲法です。推古(すいこ)天皇即位十二年夏4月3日に、皇太子こと聖徳太子は憲法十七条をお作りになられました。

一曰。以和爲貴、無忤爲宗。人皆有黨亦少達者、是以、或不順君父乍違于隣里。然、上和下睦諧於論事則事理自通、何事不成。

第一条。和(やわ)らぎを大切にし、いさかいをせぬようにしなさい。人はみな、それぞれ仲間があるが、全く良く悟った者も少ない。それゆえ、君主や父に従わず。また隣人と仲たがいしたりする。けれども、上下のものが睦まじく論じ合えば、自(おの)ずから道理が通じ合い、どんなことでも成就するだろう。

「日本国憲法」のような憲法とは違って、人生訓のように感じます。要するに、「人間はみんなダメなんだから、喧嘩せずに話し合うようにしなさい」と言ってる訳です。特に昨今(さっこん)の日本人は他人に対して、妙な完璧性を求める傾向があります。政治家とか芸能人とかが、何かスキャンダルを起こしたら、まるで極悪人のようにさらし者にして、徹底的に叩きます。しかしながら、そんな聖人君主の完璧人間なんて、この世にはいません。誰でも長い人生において、色々と失敗はするし、欠点もあるものだ、と述べています。

聖徳太子は十七条憲法の第一条で人間の不完全性を認め。それでも話し合ってなんとかするしかありません、という実に日本人的な価値観を明文化した訳です。当チャンネルのいろいろな動画を見るとわかりますが、神様や歴代の天皇も、色々な欠点を持っていたり、結構失敗をしたりしています。雄略天皇のような極端な例もありますが、見てはいけないものを覗き見る伊邪那岐神(いざなぎ)や火遠理命(ほおりの・みこと)を始め、妻の不貞を疑う瓊瓊杵尊(ににぎの・みこと)、神武天皇の後継者争いで兄を討つ綏靖(すいぜい)天皇、同母妹と情を通じ、廃太子されて、伊予国(いよのくに)に流された木梨軽皇子(きなしの・かるの・みこ)など、 すごく個性的で人間味に溢れた神様や天皇陛下たちがおられました。

今の感覚では、「それってどうなの?」と言う人も少なくないように思われますが、「人間なんて、そんなものですよ。」という、日本人古来の価値観が反映されている訳なのです。

推古天皇は蘇我馬子(そがの・うまこ)に暗殺された崇峻天皇の後を継いだ天皇(みかど)です。しかも、崇峻天皇は蘇我馬子の妹で、欽明(きんめい)天皇に嫁いだ小姉君(おあねの・きみ)の子ども。推古天皇は、蘇我馬子の姉、堅塩媛(きたしひめ)と欽明天皇の子どもであり、血縁関係がややこしいのですが、蘇我馬子は叔父(おじ)の立場にありながら、権力闘争のために、甥(おい)に当たる崇峻天皇を弑逆(しいぎゃく)するという暴挙に出ました。前述の「崇峻天皇が貢物の猪を指差し、いつの日かこの猪の首を切るように、自分が憎いと思うところの人を切りたいものだとお述べになられた」という、『日本書紀』の引用部分にあるように、崇峻天皇の言葉を聞いた蘇我馬子が、自分を嫌っていると警戒し、一族を集めて天皇弑逆を謀ったと言われております。皇族ではないにもかかわらず、事実上の最高権力者として振る舞う叔父の蘇我馬子に対し、崇峻天皇が疎ましさを感じたということなのでしょう。真実は今となっては分かりませんし、今後も判明することはないでしょう。

崇峻天皇が崩御なされ、新たな天皇は、当然、即位なさられるものと思われていた厩戸皇子(うまやどの・おうじ)ではなく、女性であった額田部皇女(ぬかたべの・ひめみこ)が推古天皇として即位なさられました。『日本書紀』では、群臣からの要請という事になっています。厩戸皇子は推古天皇の皇太子というお立場として最高権力者になられました。神功皇后を除けば、初の女性天皇という、まさに異例づくめでした。権威と権力を分離し、権威である天皇が権力闘争に巻き込まれることを防いだ訳でした。当時、聖徳太子が最高権力者だったのは、十七条憲法を自ら書き発表している以上、疑いようがありません。十七条憲法は、天皇ではなく皇太子により作られ、公布されたという点が極めて特徴的です。

そもそも聖徳太子は、なぜ十七条憲法を書いたのでしょうか。第一条は、「和(わ)を以て貴しとなす」という有名な一文ですが、実は正式には、最初の「和(わ)」は「和(やわ)らぎ」と読みます。「和らぐ」とは、もちろん穏やかになる事、安らぐ事ですが、対立していたものが打ち解けて和(なご)やかになるという意味もあります。洋酒のチェイサーと同じく、合いの手として、水をさして、ひと呼吸置くことによって、度を越して深酔いするのを防ぐために、日本酒と一緒に飲む水のことを「和(やわ)らぎ水」と言いますし。つまり、和らぎとは、異なるものが交じり合い、安らかになるということを意味する言葉でもあるわけです。

実際、聖徳太子の時代には、飛鳥朝廷(あすか・ちょうてい)では、2つの派閥が激しく権力闘争を繰り広げていました。当チャンネルの別の動画にもありますが、崇仏派(すうぶつは)と廃仏派(はいぶつは)です。仏教を受け入れるか拒否するかで、群臣が真っ二つに割れて、戦争にまでなりました。

そもそも、崇峻天皇の即位は崇仏派筆頭の蘇我馬子が廃仏派の物部守屋を討ち滅ぼすことで実現したわけでした。というわけで、聖徳太子は欽明天皇の時代から延々と続く崇仏派と廃仏派の争いに終止符を打ちたかったものと思われます。

聖徳太子は十七条憲法を「和(やわ)らぎ」という言葉から始めました。その上で、第二条で仏教について書かれています。

二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也、則四生之終歸萬国之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡、能教從之。其不歸三寶、何以直枉。

第二条。篤(あつ)く三宝(さんぽう)を敬(うやま)うように。三宝とは、仏・法・僧である。仏教は、あらゆる生き物の最後のよりどころです。すべての国の究極のよりどころです。いずれの世、いずれの人でも、この宝(ほう)を崇(あが)めない事があろうか。人は、甚だしく悪い者は少ない。よく教えれば、必ず従わせられる。三宝によらなかったら、何によって、よこしまな心を正そうか。

聖徳太子は、まずは和らぎを語り。次に仏教というよりは、佛・法・僧をもって、よこしまな心を正しなさいと語っているわけです。

第一条で日本は和らぎ、つまりは、融和な国なのだから、いさかいをやめるように諭(さと)し、第二条で、よこしまを正すために三寶(さんぽう)を敬(うやま)いなさい。みんな、悪人ばかりではないのだからと語ったわけですね。単純な善悪論をパシンと断じる訳ではない所が、いかにも日本的です。

今の日本から失われてしまった、いにしえの美徳のようにも思えます。元々、日本は天照大神(あまてらす・おおみかみ)を始めとする八百万(やおよろず)の神々の国であり、ユーラシアの一神教の国々とは異なり、神様が大勢いらっしゃるわけなので、新たに仏教の神様が入って来ても、「和らぎ」というわけで、融和できるわけです。だから崇仏派(すうぶつは)と廃仏派(はいぶつは)で争うのはいいかげんに止めましょうという聖徳太子の意思が伝わってきます。別の動画でも解説しているように、その後の日本において、次第に神道と仏教は融合していきました。奈良時代以降は、神仏が本来同じものであるとする神仏習合といった思想まで現れ、「仏教の日本化」が行われていきました。

というわけで、聖徳太子はその後の日本における権威と権力を分離させ、更には、神道と仏教が共存していく道を切り開いて、今の日本の国家の形を定めた人物なのです。

聖徳太子は十七条憲法で、崇仏派と廃仏派の争いを鎮め、役人の位(くらい)を明確化しました。支那の律令制(りつりょうせい)が元(もと)にはなっていますが、日本独特のものとして、官僚の位(くらい)を徳・仁・礼・信・義・智と6段階に分け。さらに大小を設定して、冠の色で身分を表す「冠位十二階」(かんい・じゅうにかい)を定めました。1番偉いのが大きな徳、大徳(だいとく)、次が小徳(しょうとく)。更に大仁(だいじん)、小仁(しょうじん)と続きます。冠位十二階により、聖徳太子は政(まつりごと)において、最も重要なのは徳であり、家柄ではありません、ということを宣言した訳です。

ちなみに「徳」とは、辞書的には、その人の身に付いた品性や社会的に価値のある性質という事になりますが、抽象的すぎてよく分かりません。それを考えることこそが、まさに「徳の道」という話なのだという説もあります。様々な問題に真摯に向き合い、自分のためではなく、みんなのためにどうすれば良いのかを真剣に考え、実行に移し、いつしか人々に頼られ、それでも奢(おご)らず、誠意を尽くし、徳の道を追求する事こそが徳という訳です。徳を身に付けた人の事を人徳者と言いますが、一般的には、誰に対しても公平に接し、誠意を尽くし、謙虚に振る舞い、責任感を持って事に当たり、感謝の心を忘れない人の事です。そのような人はいないと思いますが、それでも、政治に携わる官僚、国家の権力を持ちうる立場にある人は、人徳者を目指すべきであると聖徳太子は説いたのです。きれいごとと言えば、確かにそうなのですが、自己中心的な「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治家や政商が幅を利かせている現代の日本の政治には必要な考え方ですね。

三曰。承詔必謹。君則天之、臣則地之。天覆地載、四時順行萬氣得通、地欲覆天則致壤耳。是以、君言臣承、上行下靡。故承詔必愼、不謹自敗。

第三条 天皇の詔(みことのり)を受けたのなら、謹んでそれに従いなさい。君主は天であり、家臣は地に当たる。天が地を覆い、地は天によって守られている。このようにして四季が巡り、万物(ばんぶつ)の気が通(かよ)う。もしもそれが逆になれば、世の中の秩序は破壊されてしまう。君主が言うことに家臣は従い、君主が行うことに、家臣は受け賜(たまわ)るものである。君主の命令を受けたら、人民はそれに従う。そうしなければ、社会の和は自滅してゆくことだろう。

四曰。群卿百寮、以禮爲本。其治民之本要在乎禮。上不禮、而下非齊、下無禮、以必有罪。是以、群臣有禮、位次不亂、百姓有禮、国家自治。

第四条 家臣は礼を重んじる精神を根本に持たなければならない。人民をおさめる基本は、礼にあり、上が礼を重んじなければ、下の秩序は乱れ、下の者が礼にかなわなければ、必ず罪を犯す者が出てくる。家臣たちに礼が保たれているときは、社会の秩序も乱れず、人民たちに礼があれば、国全体は安寧を保つことができる。

五曰。絶餮棄欲、明辨訴訟。其百姓之訟一日千事、一日尚爾、況乎累歲。頃治訟者、得利爲常、見賄聽讞。便有財之訟、如石投水、乏者之訴、似水投石。是以、貧民則不知所由、臣道亦於焉闕。

第五条 役人は饗応や財物への欲望を捨てて、訴訟を厳正に審査しなければならない。民の訴(うった)えは一日に千件を超す。一年になると莫大な件数に達する。昨今の役人は賄賂を取ることが常識となり、賄賂の額によって申し立てを聞いているように思われる。これは役人の道に背くものである。

六曰。懲惡勸善、古之良典。是以、无匿人善、見惡必匡。其諂詐者則爲覆国家之利器、爲絶人民之鋒劒。亦、侫媚者、對上則好說下過、逢下則誹謗上失。其如此人、皆无忠於君、无仁於民、是大亂之本也。

第六条 勧善懲悪は、古くからの良いしきたりである。人の善行(ぜんこう)を見たらそれを称(たた)え、悪行(あくぎょう)を見たらそれを正しなさい。人にへつらい、欺く者は、国家を覆(くつがえ)す武器となり、民を滅ぼす剣(つるぎ)となる。媚び諂う(こびへつらう)家臣や役人は、上の者には下の者の過失を告げ、下の者には上の者の過失を誹謗するものだ。このような者は君主に忠義心がなく、民に対する徳も持たず、国家の大きな乱れの原因となる。

七曰。人各有任、掌宜不濫。其賢哲任官、頌音則起、姧者有官、禍亂則繁。世少生知、剋念作聖。事無大少、得人必治、時無急緩、遇賢自寛。因此、国家永久社稷勿危。故古聖王、爲官以求人、爲人不求官。

第七条。 人にはそれぞれの任務がある。任務遂行に当たって、職務内容を忠実に履行し、権限を乱用してはならない。賢明な人が任務を遂行すれば称賛の声が起こり、邪念を持つ人が任につけば、災いや戦乱が起こる。生まれながら、すべてを知り尽くしている人は少なく、努力を重ねて一人前になる。事柄の大小にかかわらず、最適な人が得られれば、物事は収まる。時代の動きには関係なく、賢者が出れば豊かな世の中になる。これによって国家は長く繁栄と安泰を保つ。

八曰。群卿百寮、早朝晏退。公事靡盬、終日難盡。是以、遲朝不逮于急、早退必事不盡。

第八条。 役人は、朝早くから出勤し、夜遅くまで仕事をしなさい。公務は多岐にわたるので、終日働いても終えることは難しい。遅刻すれば緊急の用に間に合わないし、早退すれば仕事を残すことになる。

九曰。信是義本、毎事有信。其善惡成敗、要在于信。群臣共信、何事不成。群臣无信、萬事悉敗。

第九条。 真心(まごころ)こそが物事の本質である。真心が全てのことに勝(まさ)る。物事の善悪や成否は全て真心の有無にかかっている。家臣や役人たちに真心があれば、何事も達成できる。真心がなければ全て失敗に帰(き)すであろう。

十曰。絶忿、棄瞋、不怒人違。人皆有心、心各有執、彼是則我非、我是則彼非。我必非聖、彼必非愚、共是凡夫耳。是非之理、詎能可定。相共賢愚、如鐶无端。是以、彼人雖瞋、還恐我失。我獨雖得、從衆同舉。

第十条。心の怒りを絶ち、顔色に怒りを出さぬようにし、人が自分と違うからといって怒らないようにせよ。人はみな、それぞれ心がある。お互いに譲れない所もある。彼が良いと思うことを自分は良くないと思ったり、自分が良いことだと思っても、彼の方は良くないと思ったりする。自分が聖人で、彼が必ず愚人ということもない。共に凡人なのだ。是非の理(ことわり)を誰が定めることができよう。お互いに賢人でもあり愚人でもあることは、端(はし)のない輪(わ)のようなものだ。それゆえ、相手が怒ったら自分が過ちを犯しているのではないかと反省せよ。自分1人が正しいと思っても、衆人の意見も尊重し、その行う所に従うがよい。

というわけで、聖徳太子の十七条憲法は、国家の統治の基本原理である欧米的な憲法と違っていて、「人間とはこんなもんだよ」という日本人の人間観・人生観を語っている事が一層よくわかると思います。一応、「衆人の意見を尊重し」などのように、国家の統治法も入っているのですが、でも、それ以上に日本人観の色が濃いものです。

十一曰。明察功過、賞罰必當。日者賞不在功、罰不在罪。執事群卿、宜明賞罰。

第十一条。役人たちは功績と過ちをよく調べて、それにみあう賞罰を行うこと。近頃の賞罰は必ずしも適切とは言い難い。指導的な立場にあり役人は、賞罰を適正かつ明確に行うべきである。

十二曰。国司・国造、勿斂百姓。国非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

第十二条。役人は勝手に民から税をとってはならない。国に二人の君主はなく、民にとって二人の主人などいない。国内のすべての民にとって、君主だけが主人である。役人は任命されて政務に当たっているのであって、みな君主の臣下であるから、民から私的な徴税をしてはならない。

要は「必要なときはしょうがないけど、税をあまりむさぼり取るな」という話です。

十三曰。諸任官者、同知職掌。或病或使、有闕於事。然、得知之日、和如曾識。其以非與聞、勿防公務。

第十三条。全ての役人は、前任者と同じように、仕事内容を熟知していなければならない。病気や出張などで職務の内容を詳しく知らない場合でも、それは言い訳にはならない。引継ぎがないから知らないと言って、公務を停滞させてはならない。

十四曰。群臣百寮、無有嫉妬。我既嫉人、人亦嫉我。嫉妬之患、不知其極。所以、智勝於己則不悅、才優於己則嫉妬。是以、五百之乃今遇賢、千載以難待一聖。其不得賢聖、何以治国。

第十四条。臣下も役人も、人を羨(うらや)み妬(ねた)む事があってはならない。自分が人を羨めば、人もまた自分を羨む。そのような嫉妬の憂(うれ)いは際限がない。それゆえ、人の知識が自分より勝(まさ)っていることを喜ばず、才能が自分より優(すぐ)れている事を妬(ねた)む。そんな事では五百年たってひとりの賢人に出会うことも、千年たってひとりの聖人が現れる事も難しいだろう。賢人や聖人を得なくては、何によって国を治めたら良いのであろうか。

十五曰。背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨、有憾必非同、非同則以私妨公、憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

第十五条。私利私欲を捨てて、公共のために尽くすことが主君に仕える者としての務(つと)めである。人に私心があれば他人に恨みの気持ちを起こさせる。恨みの気持ちがあれば人々は、公(おおやけ)を妨げる事になる。恨みが起きれば、制度に違反して、法を破る事になる。第一条で上下の人々が相和し協調するように、と言ったのも、この気持ちからである。

現在の岸田政権とか、日本の政治家に伝えたいですね。

十六曰。使民以時、古之良典。故、冬月有間以可使民、從春至秋農桑之節、不可使民。其不農何食、不桑何服。

第十六条。民を使役するのに時節を考えよ、とは、古(いにしえ)からの、よるべき教えである。冬の間に余裕があれば民を使役しても良い。しかし、春から夏にかけては、農耕や養蚕(ようさん)の時節であるから、民を使役してはならない。農耕をしなかったら何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら何を着ればよいのか。

ごもっともな話です。

十七曰。夫事不可獨斷、必與衆宜論。少事是輕、不可必衆。唯逮論大事、若疑有失。故與衆相辨、辭則得理。

第十七条。物事は独断で行ってはならない。必ず、皆と論じ合うようにせよ。些細なことは必ずしも皆に相談しなくてもよいが、大事を議する場合には誤った判断をするかも知れないので、人々と検討しあえば、話し合いによって道理にかなった、やり方を見出すことができる。

凄いですね。何度読んでも「いや、その通りだ」というか、現代に住む我々から見ても「そうあるべきだ」と思うようなことがずらっと書かれているのです。
だから、「聖徳太子は日本の礎を築いた」という事なのです。

ところで、聖徳太子は、当時の支那の大国、隋(ずい)に使節を派遣した事でも有名です。

支那では、三国時代を統一した晋(しん)が短期で衰退し、五胡十六国(ごこ・じゅうろっこく)という戦乱の時代に突入しました。各地に王朝が乱立し、軍事力のみが幅を利かせる殺伐とした時代が続きました。西暦581年に、北周(ほくしゅう)の武将だった楊堅(よう けん)が支那大陸を統一し、隋帝国(ずい・ていこく)の時代が始まりました。二代皇帝の煬帝(ようだい)と聖徳太子が同じ時代の人物になります。煬帝は、即位後に兄弟を皆殺しにし、首都大興城(だいこうじょう)や河北と江南を結ぶ大運河建設など大規模土木工事を繰り返し、過酷な労役で人民を苦しめたことで有名です。さらには、高句麗に三度も大軍を送り込み、大勢の兵士を戦死させたりもしています。

当時の日本と比べると、とてつもない大国だったのは間違いないところです。聖徳太子は、西暦607年に、小野妹子(おのの・いもこ)に国書を持たせ、使節として派遣しました。実は、隋(ずい)側の記録では、第1回の遣隋使は600年となっており、煬帝の父親の楊堅、つまり、初代皇帝の文帝(ぶんてい)の時代であったという説が有力となっていますが、『日本書紀』には、小野妹子の派遣から、となっております。

『隋書』の「東夷傳俀國傳」(といでん・わこくでん)には、
日出處天子致書日沒處天子無恙云云
日、いずる所の天子、書を、日、没する所の天子に書をいたす。つつがなきや、うんぬん。

太陽が昇る所の天子が、書を太陽が沈む所の天子に送る。お元気ですか?という意味ですが、書を見た隋の煬帝は、激怒したと『隋書』に記されています。

「太陽が沈む所の天子なんて、縁起が悪いから怒った」などと言っている人もいますが、煬帝が怒ったのはそこではなく、日本側が「天子」と名乗ったのが問題でした。「天子」とは、要するに皇帝という事なのですが。中華思想では、「天子」こと「皇帝」はただ1人であるのに、それにもかかわらず、隋から見ると東の辺境の天皇が「天子」と名乗ったことが許せなかった訳です。
そもそも、「日出處」「日沒處」(日、いずる所、日、没する所)は『摩訶般若波羅蜜多心経』(まか・はんにゃ・はらみった・しんきょう)の注釈書『大智度論』(だいちどろん)に「日出処是東方 日没処是西方」(ひ、いずるところは、これ、ひがしかた。ひ、ぼっするところは、これ、にしかた)とあるなど、単に東西の方角を表す仏教用語に過ぎません。冒頭に、「海の西の菩薩天子(ぼさつ・てんし)」が仏教を興隆させているので学ばせてほしい」と国書を提出していて、仏教を崇拝し菩薩戒(ぼさつかい)を受けた文帝への仏教重視での対等の扱いを目指した表現で、譲位された煬帝(ようだい)相手のものではなかったわけです。

という訳で、『隋書』の「東夷傳俀國傳」によると、隋の煬帝が言うには。
蠻夷書有無禮者勿復以聞
蕃夷(ばんい)の書(しょ)に無礼あらば、また以て(もって)聞(ぶん)するなかれ。

つまりは、「今後、無礼な蛮族の書は自分に見せるな」と命じたわけです。

とはいえ、一応煬帝は小野妹子が記帳する際に、答礼使(とうれいし)として裴世清(はい・せいせい)を同行させました。裴世清が日本を訪れ、天皇に捧げた親書において

皇帝問倭皇。使人長吏大禮蘇因高等至具懷。朕、欽承寶命、臨仰區宇、思弘德化、覃被含靈、愛育之情、無隔遐邇。知皇介居海表、撫寧民庶、境內安樂、風俗融和、深氣至誠、達脩朝貢。丹款之美、朕有嘉焉。稍暄、比如常也。故、遣鴻臚寺掌客裴世淸等、稍宣往意、幷送物如別。

皇帝から倭王にご挨拶を送る。使者(ししゃ)の長吏(ちょうり)大礼(だいらい)の蘇因高(そ・いんこう)らが訪れて、よく意を伝えてくれた。
自分は天命を受けて天下に臨んでいる。徳化を広めて、万物に及ぼそうと思っている。人を恵み育もうとする気持ちには、土地の遠近には変わりはない。天皇は海の彼方にあって、国民を愛しみ、国内平和で人々も融和し、深い至誠の心があって、遠く朝貢されることを知った。ねんごろな精神を自分は喜びとする。時節はようやく暖かで、朕はめでたく思う。外国の使者を接待する隋の役人である裴世清(はい・せいせい)を遣(つか)わして、訪問の意を述べ、併せて別にあるような贈り物をお届けする。

と煬帝が述べました。

この文書の中にある蘇因高(そ・いんこう)とは、小野妹子(おのの・いもこ)の事で、蘇因高の因が妹子の妹。高が妹子の子の事だと言われております。

当時の隋は、大げさでも何でもなく、世界屈指の大帝国だったので、彼らから見ると辺境の島国である日本国の天皇が東の天子よりご挨拶を申し上げると使者を送ってきたのに対し、「まあ、せいぜい民を愛しんで努力しなさい」と言いたくなったのでしょう。もっとも、史実では、隋の煬帝は民を愛しむどころか、散々に酷使し、大々的な土木プロジェクトや高句麗遠征で多くの人々を死に追いやった悪名高き皇帝なのですが。

ちなみに、煬帝を「ようてい」ではなくて「ようだい」と読むのは、唐(とう)の時代に長安付近で使われていた漢音の読み方が残ってしまったと言われています。隋の後継国である唐によるおくり名なので。「ようてい」でも間違いではありません。

唐が編纂した正史(せいし)である「隋書」では、煬帝はそもそも父親の文帝を殺して帝位に就き、支那の歴史において、1、2を争う暴君だった事になっていますが、なにしろ唐(とう)の時代に書かれた史書なので、真偽のほどはわかりません。隋が滅んで建国された唐にとって、易姓革命の思想から言えば、前の皇帝が悪逆非道でなければならないという話です。前の皇帝が残酷であればあるほど、前の王朝は徳を失ったから、王朝が変わったのだと、唐の建国を正当化できますから。

日本の飛鳥朝廷(あすかちょうてい)に送った国書を読む限り、それ程の暴君とは思えません。もっと日本側を叱責し、こっぴどく批判する国書を送ってもおかしくないと思われるのですが、当時の隋は、日本側の呼び名だと、「こま」ですが、高句麗と戦争を繰り返していたため、高句麗の向こう側の日本と同盟関係までとは行かなくても、「好み(よしみ)くらいは結んでおこう。」と思ったのではないでしょうか。隋と日本で高句麗を挟撃するという可能性を捨てなかったという話なのでしょう。

ところで、隋からの使者である裴世清(はい・せいせい)は、もちろん飛鳥朝廷で日本の君主に謁見したわけですが、『隋書』の記述によると、

開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 

開皇(かいこう)二十年、倭王、姓は”アマ”、字(あざな)は”タリシホコ”。号は”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。

つまり、日本の天皇は阿毎多利思北弧阿輩鶏弥(アマ・タリシホコ・アハケミ)という名前だったという事です。実際に飛鳥朝廷を訪れた裴世清も、日本の天皇は男であったと報告しています。当時の天皇は、推古天皇だったにも関わらず。という事は、実際に飛鳥の朝廷で裴世清を謁見したのは、聖徳太子だったものと思われます。

わざわざ海の彼方の日本にまでやってきて、朝廷で聖徳太子に謁見したならば、現地の情報に詳しくない人は天皇が男性だと誤解すると思われます。

というわけで、聖徳太子は権威として天皇におばの額田部皇女(ぬかたべの・ひめみこ)こと、推古天皇を据え、自らは皇太子として納まり、十七条憲法を書き、冠位十二階を定め、隋に使者を送り、隋からの返礼の使者を自ら謁見しました。

裴世清が先ほどの隋の煬帝の国書を差し出した様子は『日本書紀』ではこのように記載されています。

時、阿倍臣、出進以受其書而進行。大伴囓連、迎出承書、置於大門前机上而奏之。

阿倍臣(あべ・おみ)は進み出て、隋(ずい)の煬帝(ようだい)の国書を受けてまた進みました。大伴囓連(オオトモノ・クイノ・ムラジ)は迎えに出て、書を受けて大門(ミカド)の前の机の上に置いて申し上げました。

つまりは、推古天皇が謁見したとは書かれていません。もちろん、「聖徳太子が謁見した」とも書かれていないのですが、隋へ戻った裴世清が「男性の天皇に謁見した」と報告しているので、普通に聖徳太子に会ったと考えるべきでしょう。

日本側としてみれば、聖徳太子が謁見したとして、わざわざ、「この方は皇太子で、天皇は別ですよ」と説明する必要もありませんし。ちなみに、倭の五王の時代、日本は支那に朝貢して、冊封(さくほう)を受けていました。倭の五王は、支那の皇帝から地位を認めてもらった訳ですが、遣隋使の時代には冊封を受けていません。つまりは、現実の力関係はともかく、表向きは対等の国として隋と交渉を持っていました。それ以降、ずっと、支那から冊封を受けない方針は維持されました。外交面でも、聖徳太子の時代の遣隋使以降は、日本は支那と対等の国家であると宣言した訳です。

ところが、次の親書からは、天子から天皇となっております。裴世清(はい・せいせい)から注意されたのでしょうか?『日本書紀』によると、

東天皇敬白西皇帝。使人鴻臚寺掌客裴世淸等至、久憶方解。

東の天皇は、謹んで西の皇帝に言います。使者の外国を接待する役人である裴世清(はい・せいせい)たちが来て、いろいろな蟠(わだかま)りが解けました。

現在の日本国の始まりは、聖徳太子という大政治家に行き着くわけですが。現在の日本の自虐史観の中には、聖徳太子はいなかったという荒唐無稽ぶりを平気で口にする人が少なくありません。

とはいうものの、法隆寺のような有名な建物を建てさせたりしているのですが。聖徳太子が建てさせた最初のお寺は、四天王寺です。

当チャンネルの別の動画に、蘇我馬子(そがの・うまこ)と物部守屋(もののべの・もりや)が戦った丁未の乱(ていびのらん)について解説しているものがあります。聖徳太子こと、厩戸皇子(うまやどの・おうじ)も蘇我側で参戦したのですが、その戦いが終わった後に、厩戸皇子が四天王を祀るために建てたお寺です。

聖徳太子は生涯に7つの寺を建てたと言われています。最初に建てられたのが、物部守屋との戦いの後の四天王寺です。四天王寺では、今に至るまで天王寺舞楽が引き継がれています。その天王寺舞楽が舞われるようになった経緯(いきさつ)が『日本書紀』に記されております。

又百濟人味摩之、歸化、曰「學于吳、得伎樂儛。」則安置櫻井而集少年令習伎樂儛。於是、眞野首弟子・新漢濟文二人習之傅其儛。

また百済の人、味摩之(みまし)が帰化した。呉(ご)の国に学び、呉楽(くれがく)の舞ができますと言った。桜井に住まわせて、少年を集め、呉楽の舞を習わせた。真野首弟子(マノノ・オビト・デシ)・新漢済文(イマキノ・アヤヒト・サイモン)の2人が習って、その舞を伝えた。

呉楽(くれがく)とは、面を被った人々が、音楽に合わせて踊る無言の舞踊劇です。『三国志』で有名な呉(ご)の国で舞を学んだ百済人、味摩之(みまし)が日本に帰化したので、ならば舞を教えてもらおうという事になり、2人の少年が弟子入りし、今に伝わっているものです。ちなみに、なんで呉楽(くれがく)と呼ぶのかといえば、味摩之が呉の国で学んだ舞踊だからです。聖徳太子は法要を行う時は、必ず演じるようにせよと言ったと伝えられています。

四天王寺では、毎年4月に開催される聖霊会(しょうりょうえ)、つまり聖徳太子の命日に御霊(みたま)を御慰め(おなぐさめ)するために催される舞楽大法要(ぶがく・だいほうよう)ですが、現在に至っても、1400年前の呉楽(くれがく)が演じられています。

四天王寺は、厳粛な法隆寺とは異なり、日本の寺院としては珍しく、四六時中、通り抜け自由となっており、乞食や疫病に苦しむ人々など、あらゆる人々を受け入れてきたと伝えられています。疫病の人も見捨てないという点では、ローマ帝国においてキリスト教が勃興した状況と似ています。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)の聖武(しょうむ)天皇の巻に、光明(こうみょう)皇后が重症の「らい病患者」を手当てする挿話がありますが、それに関しては、別の動画で詳しく解説したいと思います。

聖徳太子に話を戻しますが、

且習內教於高麗僧慧慈、學外典於博士覺哿、並悉達矣。

太子は朝鮮半島の高句麗からやって来た僧である恵慈(えじ)から仏法を習い、儒教の経典についても覚哿博士(かくか・はかせ)に教えを受け、双方を究めた秀才でした。

が、学ぶのみならず、自ら『三経義疏(さんぎょうぎしょ)』という3つの仏典の注釈書も執筆しています。そして、なんと『三経義疏』のうち、聖徳太子直筆の『法華義疏』(ほっけぎしょ)が現存しています。

今に残されている1400年以上も昔に書かれた太子直筆の注釈書が書かれた際の状況を、『日本書紀』ではこのように書かれています。

秋七月、天皇、請皇太子令講勝鬘經、三日說竟之。是歲、皇太子亦講法華經於岡本宮、天皇大喜之、播磨国水田百町施于皇太子、因以納于斑鳩寺。

(即位14年)秋7月。天皇は皇太子に請願して、勝鬘經(ショウマンギョウ)を読経(どきょう)させました。三日かけて読経し終えました。この年、皇太子は法華経を岡本宮(おかもとのみや。法隆寺の近くの宮・飛鳥岡本宮とは別)で読経しました。天皇はとても喜んで、播磨国(はりまのくに)の水田百町(すいでん・ひゃくちょう)を皇太子に贈りました。それで斑鳩寺(いかるがでら)に納めました。

『法華義疏』(ほっけぎしょ)を書いた聖徳太子は、岡本宮(おかもとのみや)で法華経(ほけきょう)について講義なされました。推古天皇は、それを喜び、播磨国。今の兵庫県ですが。水田100町。3,000坪ほどの水田を褒美として太子にお与えになられました。その後、太子は拝領した水田を斑鳩寺の所領としました。『法華義疏』(ほっけぎしょ)は、太子が推古天皇に法華経を指南する際の教科書だったのではないでしょうか?

ちなみに、『法華義疏』は、元々は法隆寺に保管されていたのですが、明治時代から皇室が所有なされております。間違いなく、日本最古の肉筆の書物です。1400年前の聖徳太子の肉筆の注釈書が残っていると言われても、さすがににわかに信じがたいと思われますが、『法華義疏』の実物を見ると、第一巻の冒頭に小さな紙が貼られており、

此是大委国上宮王私集非海彼本
これは日本の上宮王(じょうぐうおう、こと、聖徳太子)が創(つく)ったもので、海外から渡来したものではない

と書かれています。この部分は、もちろん後世の誰かが、「これは太子直筆の書物だよ」と強調するために書き加えたというか、注(ちゅう)を貼り付けたのでしょう。さらに、『法華義疏』は書を実験して研究した歴史学者の東野治之(とうの はるゆき)奈良大学名誉教授らにより、聖徳太子の自筆である事が証明されています。

法隆寺といえば、法隆寺金堂薬師如来像の光背面に太子に関する記述が残っています。

池邊大宮治天下天皇。大御身。勞賜時。歳次丙午年。召於大王天皇與太子而誓願賜我大
御病太平欲坐故。将造寺薬師像作仕奉詔。然當時。崩賜造不堪。小治田大宮治天下大王天
皇及東宮聖王。大命受賜而歳次丁卯年仕奉

用明天皇元年に発病された用明天皇は、病気平癒のために寺と薬師如来像を作りたいと祈念されたが、果たせずに崩御された。そこで意思を継いだ推古天皇と東宮聖王(とうぐう・せいおう)が推古天皇15年に薬師像を作り奉った。

東宮聖王というのが聖徳太子です。病に苦しむ父が薬師如来像を作って欲しいと願ったにもかかわらず、完成前に死去してしまった。そのため、推古天皇の時代に、息子である聖徳太子が薬師像を作り、法隆寺に納めたという話です。

法隆寺は聖徳太子が移り住んだ斑鳩の宮(いかるが・の・みや)の西に建てられたに斑鳩伽藍群(いかるが・がらんぐん)の寺院の1つです。『日本書紀』によると、聖徳太子は推古天皇9年、西暦601年に斑鳩の宮を造営。4年後の西暦605年に移り住んでいます。聖徳太子は、その後、斑鳩の宮の西方に法隆寺・中宮寺・法輪寺・法起寺などを次々に建設していきました。中でも、法隆寺は世界最古の木造建築物です。

法隆寺。別名、斑鳩寺(いかるが・でら)ですが、創建は西暦607年と伝えられています。もっとも、法隆寺は西暦670年の落雷による火災で全焼し、焼け跡も見つかっています。奈良文化財研究所の科学的調査によると、使用されている木材の伐採時期は、西暦650年代から690年代のものが多いそうです。鎌倉時代前半期の法隆寺の僧侶、顕真(けんしん)の『聖徳太子伝私記』(しょうとくたいし・でんしき)によると、法隆寺建設時の聖徳太子は、御年(おんとし)22歳。つまりは、推古天皇2年。西暦で言えば、594年になります。推古天皇の詔(みことのり)を受け、太子は自分の住まい。つまりは、斑鳩の宮のお隣に法隆寺をお建てになられて、遅くても西暦606年には完成しました。

法隆寺は、美しい五重塔で有名です。2001年に奈良文化財研究所が、法隆寺五重塔の檜(ひのき)の心柱材(しんちゅうざい)を年輪年代法(ねんりん・ねんだいほう)で測定したところ、伐採年代が推古2年。西暦594年であることが判明しました。

つまり、推古天皇の詔を受けた聖徳太子が、法隆寺の建設を始めたその年に伐採された檜(ひのき)だったわけです。一度焼け落ちた後に再建された際に、元々の心柱材(しんちゅうざい)を使用した可能性は否定できませんが、いずれにせよ、法隆寺が聖徳太子の命により建設された世界最古の木造建築である事に変わりはありません。

しかも、日本列島は、震災列島と呼んでも過言ではない程、大地震が頻発する地域です。内閣府によると、世界全体におけるマグニチュード6以上の地震のうち、日本列島周辺で発生するのは、実に20.8パーセント。世界の大地震の2割が日本で起きています。にもかかわらず、これだけ大震災が起きる日本において、法隆寺はもちろんのこと、明治維新より前に屋外に建てられた五重塔で、現存しているものが日本国内に22塔あります。大地震でも倒壊しないからこそ、日本には多くの五重塔が残されている訳です。
ユーラシアでは、エジプトのピラミッドやローマのパンテオンなど、1000年単位で残っている石造建築は結構あります。とはいえ、エジプトやローマで石造りの建物や陵墓が建てられたのは、ほとんど地震がないためです。石を積み上げた建築物の場合、大地震が来たら、たちまち崩壊してしまいます。

日本列島で大地震が多発するのは、もちろん今に始まった話ではありません。という訳で、初代五重塔である法隆寺以降、日本列島では大地震が来ても崩れない技術が用いられ、五重塔が次々に建設されていきました。

ただ、なぜ日本で建てられた五重塔が、これほどまでに耐震性が高いのか、その技術がどのようなものなのか、が、よくわかっていません。中央部の独立した柱が揺れを抑えているという説。各層が蛇のようにクネクネと動きバランスを取り、揺れを吸収してしまうなど諸説はあるのですが、完全には解明されていません。人類の歴史において、一度失われてしまった技術が二度と取り戻せない場合は、意外に少なくありません。代表的なのが、ピラミッドです。あれほどの巨大な建築物が、数千年前にどのように作られたのか、もはや誰にも分かりません。ミャンマー中部にあるバガンの仏教遺跡やインカ帝国の遺跡マチュ・ピチュなどもどのように造られたのか、もはや誰にも分からないそうです。

おまけに、法隆寺は水害に襲われる危険もありました。法隆寺の南大門(なんだいもん)前には、鯛石(たいいし)と呼ばれる踏み石が埋まっているのですが、地元では、この鯛石までは水が来ても大丈夫と言い伝えられています。今の地形からすると、「水が来るって一体どこから来るんだよ」という感じなのですが。

当チャンネルの別の動画にもありますが、神武天皇が大和国(やまとのくに)に入ったのは、奈良盆地に奈良湖があり、水が豊富だったのも理由の1つだったのではないか、と解説しております。奈良盆地。つまりは、大和の国の縄文遺跡は、例外なく標高45メートル以上の高地にあり、弥生遺跡になると標高40メートルに下がってきます。しかも、奈良盆地の古代の道は、ほぼ標高60メートルの高さで、盆地を囲む山沿いに通っている。縄文から弥生にかけ、次第に湖が小さくなり、集落とかが中心部に移動してきたという事です。

という訳で、聖徳太子の場合は、奈良や大阪に、神武天皇や神功皇后のものよりも遥かに多くの事績や遺産があり、誰でも見る事ができるわけです。それにも関わらず、聖徳太子否定論が蔓延(はびこ)っている訳です。

ここまで業績が明らかで、様々な遺産が現存しているにもかかわらず、聖徳太子否定論が出てくるのが、日本の歴史業界の病なのです。

まずは、名前にケチをつけ始めました。「聖徳太子」という呼び方が問題だと言い出しました。「厩戸皇子(うまやどの・おうじ)と呼ぶべき」という主張から、「実は聖徳太子と呼ばれた人物は存在しなかった」という話に変わっていきました。「聖徳太子」というのは、諡号(しごう)なので、歴史上の人物を諡号で呼ぶのがダメという話になると、明治天皇や昭和天皇もダメということになります。ついでに仏教の開祖のブッダはゴータマ・シッダールタ。儒教の開祖の孔子は、孔丘(こうきゅう)と呼ばなければなりません。

『日本書紀』では「皇太子」とか「厩戸豊聡耳皇子(うまやどの・とよとみみの・みこ)」と呼ばれていますが、後の人たちが「この方は偉大である」という事で、「聖なる徳がある皇太子」という意味で「聖徳太子」という諡号を贈ったわけなのです。
というわけで、当然日本国民は聖徳太子を「聖徳太子」と呼ばなくてはいけません。
「厩戸皇子」(うまやどの・おうじ)や「厩戸王」(うまやとおう)ではなくて「聖徳太子」なのです。

そもそも聖徳太子を否定する事が目的なので、他の歴史上の人物との整合性など、どうでもいいのだと思います。

2017年に清水書院から発行された教科書、「高等学校 日本史B 改訂版」では、聖徳太子を厩戸皇子と表記し、「聖徳太子は実在したか」というコラムを載せています。

「かつて1万円札などの肖像画としてもなじみが深かった聖徳太子について、近年『日本書紀』や法隆寺系の資料を中心に、さまざまな角度からその実像に迫る研究が進展している。『書記』には厩戸皇子(うまやどの・おうじ)という蘇我氏系の有力な王族が馬屋で生まれ、皇太子となって政治をつかさどり、さまざまな業績を上げたと記載されている。長い間、この人物こそが聖徳太子であるとし、太子に対する仏教的な信仰さえも生まれている。しかし、『書記』の記す憲法十七条や冠位十二階、遣隋使の派遣、これは厩戸皇子とは断定できず、後世の偽作説もある。また、厩戸皇子と聖徳太子は別人という説。太子は書記編さん時に生み出された架空の聖人だとする説もある」

聖徳太子の三大事績の全てを否定しています。遣隋使は『隋書』にも書かれているのだから、少なくとも、聖徳太子の事績である事は否定しようがない。もうめちゃくちゃです。はっきり言って妄想です。妄想を抱くのは個人の勝手だからいいのだけれど、妄想を教科書に載せて良い訳がありません。

『日本書紀』では

五年春三月己卯朔戊子、有司請立皇后、詔立豊御食炊屋姫尊、爲皇后。是生二男五女、其一曰菟道貝鮹皇女更名、菟道磯津貝皇女也、是嫁於東宮聖德、

即位5年春3月10日。役人は皇后を立てるように請願しました。詔(みことのり)して豊御食炊屋姫尊(トヨミケ・カシキヤ・ヒメノミコトこと後の推古天皇)を立てて皇后としました。2人の男(ひこみこ)と5人の女(ひめみこ)を産みました。一人目が菟道貝鮹皇女(うじの・かいだこの・ひめみこ)、別名を菟道磯津貝皇女(うじの・しつ・かいの・ひめみこ)といいます。東宮聖德(ひつぎのみこ・しょうとく)に嫁ぎました。

とあります。実子の竹田皇子(たけだの・みこ)が成長するまでの間の天皇だった推古天皇ですが、竹田皇子が早世したため、娘の夫が皇太子になられた訳です。

また大和法起寺(やまと・ほっきじ)の三重塔露盤銘文(さんじゅうのとう・(ろばんめいぶん)では、厩戸皇子の長男、山背大兄王(やましろの・おおえのおう)へ遺言した人物の名前が上宮太子聖徳(かみつみやの・ひつぎのみこ・しょうとく)でした。厩戸皇子と聖徳太子は、同一人物で間違いありません。法起寺の三重塔が建設された西暦706年には、既に聖徳というおくり名が使われていた事がわかります。

聖徳太子が亡くなったのは、西暦622年。ちなみに、『日本書紀』が完成したのが西暦720年。それ以前に建設された法起寺三重塔で、既に上宮太子聖徳(かみつみやの・ひつぎのみこ・しょうとく)の銘文が使われていたわけで、『日本書紀』編纂時に生み出された架空の人物とか、意味が分かりません。

結局、聖徳太子を否定できれば、何でもいいという事なのでしょう。都合が良い場合は、『日本書紀』から引用して、都合が悪くなれば、『日本書紀』を根拠なく否定する。お決まりのパターンです。

聖徳太子否定説を唱える歴史家は、古くは津田左右吉(つだ・そうきち)。近年では、大山誠一(おおやま・せいいち)、谷沢永一(たにざわ・えいいち)等になります。否定する根拠が頻繁に変わるのが特徴です。「聖徳太子そのものが捏造」、「聖徳太子と厩戸皇子は別人」、「法隆寺を建てたのは聖徳太子ではない」、「『日本書紀』の記述は全部嘘」などなどです。

要するに、難癖(なんくせ)なのですが、彼らの否定論の背景に何があるのかが、結構重要なのです。聖徳太子を否定する歴史家は、いわゆる左翼であって、「国家は暴虐であり、民を虐げ続けた。故(ゆえ)に、民は歴史的に国家と戦わなければならない」という階級闘争史観のマルクス主義者が多いと言われています。彼らにとっては、特に聖徳太子が書いた「十七条憲法」の十二条と十六条が許せません。

十二曰。国司・国造、勿斂百姓。国非二君、民無兩主。率土兆民、以王爲主。所任官司、皆是王臣。何敢與公、賦斂百姓。

第十二条。役人は勝手に民から税をとってはならない。国に二人の君主はなく、民にとって二人の主人などいない。国内のすべての民にとって、君主だけが主人である。役人は任命されて政務に当たっているのであって、みな君主の臣下であるから、民から私的な徴税をしてはならない。

十六曰。使民以時、古之良典。故、冬月有間以可使民、從春至秋農桑之節、不可使民。其不農何食、不桑何服。

第十六条。民を使役するのに時節を考えよ、とは、古(いにしえ)からの、よるべき教えである。冬の間に余裕があれば民を使役しても良い。しかし、春から夏にかけては、農耕や養蚕(ようさん)の時節であるから、民を使役してはならない。農耕をしなかったら何を食べればよいのか。養蚕をしなかったら何を着ればよいのか。

これらは大きな問題です。なにしろ、1400年も昔の日本に「国家は民を愛しまなければならない」と主張し、「行政の民に対する不当な課税」を憲法をもって禁じた政治家がいた事になってしまいます。聖徳太子が国家と人々の融和を目指したとなると、階級闘争史観が成立しなくなってしまいます。階級闘争史観の人たちにとって、日本国家は古代から人民を苦しめ続けた悪しき存在でなければならないのです。ところが、聖徳太子の十七条憲法は、その種の史観を全否定してしまいます。だからこそ、聖徳太子は、いてはいけないというわけですか。奥が深いというか、バカバカしいというか。

いずれにせよ、7世紀の日本に聖徳太子という偉大な政治家がいた事は疑いようがありません。様々な事績・史書・歴史遺産から明らかなのですから。それにもかかわらず、聖徳太子を否定しようとする輩(やから)が次々に現れるのが我が国の歴史学会の病なのです。

まさに病気という感じです。権威と権力を分離して、和(やわ)らぎや徳を中心とした政治を求めた聖徳太子の話を聞くと、とにかく今の政治家にも学んで欲しいというのが1番の感想です。日本の政治家は、聖徳太子について、深く学ぶべきです。十七条憲法を読むだけでも、「日本人とは何か。」「政治とは、どうあるべきなのか。」について、多くの知見を得られますので。

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