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大古墳文明

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「大・古墳文明」(だい・こふんぶんめい)と呼んだのは、日本の四世紀以降の古墳文明は古墳の数、大きさ、使われた土木技術が、古代エジプトのものと比べても、勝(まさ)るとも劣らない程、大規模なものだったからです。誤解している方も少なくありませんが、古代エジプト文明が栄えた地域は、あくまでナイル河沿岸のみだったので、面積的には日本列島と大差がありません。

メルカトル図法の地図で錯覚している人がほとんどだと思われますが、北海道の稚内をエジプトの北岸に置き、日本列島を南北に延ばすと、沖縄がスーダンの南部にまで至ります。なので、ナイル川流域の古代エジプト文明と長さでは、遥かに上回る日本の古墳文明が繁栄や華麗さを競い合ったとしても、何ら不思議なことではありません。

古代エジプト文明では、クフ王やカフラー王のピラミッドが有名ですが、これら、この二つのピラミッドは高さが130メートルを超えます。このような巨大建築物を建設する際に、絶対に必要なものは何でしょうか?

働く人、建設資材、建設技術、はモチロンですが、それに加えて、絶対に必要なものがそれ以外にもあります。

それは、高い農業生産性です。生産性とは労働者一人あたりの生産量の事です。古代エジプトでピラミッド建設のための場合の絶対条件なら、一人あたりの小麦の生産量が多い事が必要でした。大勢の労働者をかりだして長期の建設作業に従事してもらうためには、その間、農作業できなくなるので、事前に食料を貯蔵しておく必要があります。そのためには生産性が高く農作物が作れなければならない、という訳です。

古代エジプトの場合、ナイル川が氾濫して農閑期となる4ヶ月の間にピラミッド建設に従事していたようですが、いずれにせよ、ピラミッド建設に従事する労働者を充分に食べさせる事が出来るくらいの農業生産性がなければ、みんな建設現場から逃げ出して食料確保に走るのは間違いないですから。

古代エジプトでは、川が氾濫して農業が出来なくなって暇を持て余していた農民の人たちをかりあつめて、食料や金貨と引き換えにピラミッドを建設させました。痩せ衰えた奴隷が大きな石をロープで運び、兵士が奴隷を鞭(ムチ)で打つ、というイメージは古代ギリシャの歴史家ヘロドトスの想像から生まれただけのものです。著書の『歴史』に記載されているものですが、その証拠が全くなく、今では「捏造」(ねつぞう)と言われています。ヘロドトスはピラミッド建設より2000年後に生まれた人で、

Oνομάζεται και Χέοπας. Ο φαραώ Χέμμις, πρώτος της Δ’ αιγυπτιακής δυναστείας, που έζησε το 2800 π.Χ. και κατανάλωσε όλη τη δραστηριότητά του στα 23 χρόνια της βασιλείας του για την οικοδόμηση της μεγαλύτερης από τις 3 πυραμίδες της Γκίζας.

『「クフ王は国民を世にも悲惨な状態に陥れた」と祭祀たちは語っていた。この王は、まずすべての神殿を閉鎖し、国民が生贄(いけにえ)を捧げることを禁じ、続いてはエジプト全国民を強制的に自分のために働かせたという。』と書いています。

現地の司祭も2000年以上前の事を知っているはずがありません。

ところが、クフ王のピラミッドの近くから、建設の労働者用の古代都市ヘイト・エル=グラブが見つかっており、都市遺跡には労働者の住居用の建物が建ち並び、パンの焼き場、穀物貯蔵庫、家畜を飼っていたと思われる囲い壁、子供たちの学習ノートなども見つかっています。さらに、ヘイト・エル=グラブのゴミ捨て場の調査から、労働者が牛肉を食べていたことが判明しています。

神の化身であるファラオが権威を高めるために、自らの巨大な陵墓を建設させる。農閑期に報酬を与えて、農民を労働に従事させ、犯罪や暴動などの、余計な事をさせない。非常に合理的ですね。古代エジプトの極端に高い農業生産性がなかったら、無理な話だったと思われます。中世ヨーロッパの小麦の収量倍率は数倍程度でした。それに対して、エジプトでは、収量倍率が落ちた中世ですら30倍もありました。古代エジプトでは70倍あったと言われております。それだけ、ナイル川の影響が大きいという事です。「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」

οἱ δὲ Αἰγύπτιοι, πρὶν μὲν ἢ Ψαμμήτιχον σφέων βασιλεῦσαι,

と言ったのは、ヘロドトスですが、ナイル川は毎年氾濫し、上流から運んで来た良質の土壌を農地に拡散します。結果的に、中世欧州では足元にも及ばない程の生産性を達成出来ました。農業生産性が高ければ、人口も増えます。さらには、農民の生産力を食料生産以外に振り分ける余裕が生まれるわけです。結果的に、中世欧州では足元にも及ばない生産性を達成できました。農業生産性が高ければ人口も増えます。更には農民の生産力を食糧生産以外に向ける余裕が生まれます。

ところで、エジプトにはピラミッドの遺跡はいくつあるのでしょうか?
現時点で確認できる数は140基(き)です。もちろん、砂漠に埋もれてしまっているものも少なくないかもしれませんが、多くても数百基でしょう。

対して、我が国では、三世紀後半から八世紀初頭にかけて造られた古墳の数は、20万基以上あります。日本の古墳の数は、ピラミッドと比べると100倍以上の数が建造されているのです。確かに日本の古墳の多くはピラミッドほどの規模ではないかもしれませんが、中にはピラミッド以上の面積のものもあります。日本最大の前方後円墳でもある仁徳天皇陵は、全長486メートル、高さ35.8メートルで、巨大墳墓として名高い、クフ王のピラミッドや秦(しん)の始皇帝(しこうてい)の陵墓を面積で上回る世界最大の墓標です。

「エジプトのピラミッドは石だけれども、日本の古墳は土で出来ているから大したことはない。」などと言う人もいますが、土のお墓を舐めてはいけません。仁徳天皇陵の墳丘(ふんきゅう)の総容量は、京都大学の高橋逸夫教授の試算では、14万5860立方メートル、現在の10トン・ダンプトラックに換算すると25万台分に相当します。仁徳天皇陵を造っていた時代にはダンプトラックはありませんでした。古代日本では、家畜を使う習慣もなかったので、全て人力作業で行われました。

また土を運べは良いというものではなく、あの巨大な墳墓を造成し、周囲に堀を掘っていった訳ですから。ちなみに、日本の大林組が仁徳天皇陵を古代工法により建設する際の人工(にんく)、作業量、費用、などを試算しましたが、それによると、工期15年8ヶ月、作業員数は延べ68万7千人、総工費が796億円とのこと。ということは、それだけの労働者たちが仁徳天皇陵の建設現場で働いても、充分に生きていけるだけの食糧の余剰が必要でした。という事は、古墳時代の農業生産性も、古代エジプトに匹敵する程に高かったという訳です。

日本の場合は、小麦ではなく、米が農業の中心でした。特に水田稲作の生産性は古代から相当に高かった訳です。なにしろ、稲自体が小麦よりも収量倍率が高く、水田方式は毎月水を入れ替えるため、土壌の品質が悪化しません。

仁徳天皇の時代になると、ピラミッドに匹敵するような巨大建築物を造れる程に、米がたくさん生産出来て、人口も増えて、土木技術も上がっていた訳です。以前の動画でも説明した通り、仁徳天皇の御代は「大土木国家日本」の幕開けでもありました。

仁徳天皇は税の免除をする事で、国民を豊かにしましたが、今度は治水事業をする事で、大規模災害を減らそうと考えました。『日本書紀』には、

十一年夏四月戊寅朔甲午、詔群臣曰「今朕視是国者、郊澤曠遠而田圃少乏、且河水横逝、以流末不駃。聊逢霖雨、海潮逆上、而巷里乘船、道路亦泥。故、群臣共視之、決横源而通海、塞逆流以全田宅。」

即位11年夏4月17日。
臣下たちに詔して言いました。
「いま、朕(ワレ)がこの国を見ると、野に沢が広く遠くまで続いていて、田畑は少なくて乏しい。川の水は横の堀にまで流れて、流れが速い。長雨に遭(あ)えば、海水が遡って、港や里の船に被って、道路を泥まみれにしてしまう。だから、群臣よ。ともにその様子を視察して、横の堀を深く掘って、海に通して、逆流するのを防いで、民の住居に禍(わざわい)が及ばないようにせよ」
と言いました。

と記されております。

神武天皇が東征の際に着いた河内潟は、縄文海進(じょうもんかいしん)以降、河内湖となりますが、仁徳天皇は、このように、難波の治水事業の詔(みことのり)をくだして、河内湖を干拓しようとしたのですが、淀川が溢れると、すぐに洪水になってしまうので、仁徳天皇は淀川に堤防を建設し、水が河内湖に来ないよう、大土木工事を行いました。仁徳天皇は淀川堤防の流路安定のため、全長20キロメートル程の茨田堤(まんだのつつみ)を築かせました。その結果、淀川からの水の流入が止まり、河内湖の水位が下がり、陸地化していき、河内平野となりました。という事は、仁徳天皇がいなかったら、大阪の発展が相当に遅れたのは間違いありません。

これを見ていてわかるように、仁徳天皇の時代、日本は高い生産性の農業と高度な土木技術を既に保有していました。別に支那から教わった訳でもないのに、です。

結果、仁徳天皇陵をはじめ、無数の古墳が作られた訳です。

仁徳天皇陵といえば、面白い話があります。

仁徳天皇は実は生前に自分の陵墓を造る位置を決めています。『日本書紀』によると、

六十七年冬十月庚辰朔甲申、幸河內石津原、以定陵地。丁酉、始築陵。是日有鹿、忽起野中、走之入役民之中而仆死。時異其忽死、以探其痍、卽百舌鳥、自耳出之飛去。因視耳中、悉咋割剥。故號其處、曰百舌鳥耳原者、其是之緣也。

即位67年冬10月5日。河内の石津原(イシツノハラ、つまり、現在の大阪府堺市石津町)に天皇は行き、陵地(ミサザキノトコロ、つまり墓所)を定めました。18日に陵(ミサザキ、つまり、墓)を築き始めました。この日に鹿が、たちまち野の中から現れて、走って、墓作りの仕事をしている民の中に入って倒れて死んでしまいました。その死んでしまった事を不思議に思って、その鹿の傷を調べてみたところ、百舌鳥(モズ)が耳から飛び出して飛んで行きました。耳の中を見ると、ことごとく食い割って肉が剥げていました。それでその場所を名付けて、百舌鳥耳原(モズノミミハラ)といいます。これはその所以です。

という訳で、仁徳天皇陵は、大阪府堺市堺区大仙町の百舌鳥耳原にあります。最寄り駅はJR阪和線「百舌鳥駅」です。

仁徳天皇陵は前方後円墳ですが、最古の前方後円墳は、建造が三世紀末から四世紀初頭と推定される、奈良盆地纒向(まきむく)の箸墓古墳(はしはか・こふん)です。第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女(ひめみこ)の倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひも・もそひめの・みこと)の陵墓です。箸が突き刺さり亡くなった事でこの名前が付きました。箸墓古墳は全長が280メートルもあるのですが、それでも、日本の巨大古墳ランキングで11位です。首位はもちろん、仁徳天皇陵の全長486メートル、2位が応神天皇陵で425メートル、3位が履中天皇陵で365メートルです。

もちろん、日本の古墳には、邪馬台国の卑弥呼の墓として『魏志倭人伝』に記載されている円墳(えんふん)や四角い方墳(ほうふん)もあります。というか、数で言えば、円墳や方墳の方が多く、前方後円墳は少数派ですが。

方墳は出雲に多く、円墳は全国まんべんなく造られたようですが、卑弥呼の墓と目(もく)される、みやま市の権現塚古墳(ごんげんづか・こふん)は直径50メートル弱です。『魏志倭人伝』には径104歩と書いてあるので、1歩を50センチとすると、ピッタリです。

日本独自の前方後円墳は大和王朝の本拠であった、纒向(まきむく)や難波(なにわ)など、近畿地方に集中しています。

邪馬台国があった九州ではどうなのでしょうか?

女王の国、つまり邪馬台国とは何の関係もなかった事が確実な、日向国(ひむかのくに )、宮崎県にある西都原古墳群(さいとばる・こふんぐん)という日本最大級の古墳群では、方墳や円墳が多いのですが、前方後円墳も31基あります。瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が降臨し、神武天皇が東征に旅立った地なので、言わば、大和王朝の故郷の地です。

西都原古墳群で最古の第81号墳が前方53メートルの前方後円墳なのですが、2004年度から2005年度まで、宮崎大学の柳沢教授らによって発掘調査が行われ、建造が四世紀初頭とかなり早い時期に造られたもので、しかも、纒向の箸墓古墳と極めて類似している事が判明しました。纒向の箸墓古墳(はしはかこふん)が造られたのが、三世紀末から四世紀初頭なので、日本最古の前方後円墳が造られたのと、さほど時間もかかっていない時期に日向国(ひむかのくに )でも前方後円墳が造られていた訳です。このような独特のものが、大和と日向でほぼ同時に思いつく事はありえないでしょう。

というわけで、当時の大和王朝は王朝発祥の地である日向(ひむか)とかなり密接に交流があったものと考えるべきでしょう。纒向の箸墓で前方後円墳を建設し、それを日向からの来訪者が見たか、大和王朝が技術者を日向に送り出したか、という事です。

ところが、古墳文明にも、自虐史観の歴史学者や歴史小説家が難癖をつけています。

例えば、仁徳天皇陵について、「あれは仁徳天皇の陵墓ではない可能性がある。」などと主張する学者や作家が大勢います。

仁徳天皇が指図した場所に存在しているにも関わらず。だから、難癖なんですけど、ね。

彼らが各地の天皇陵、つまりは歴代天皇のお墓に難癖をつけている理由は、宮内庁が古墳内部の調査を認めないためです。

天皇陵ということは、今上(きんじょう)天皇のご先祖様のお墓です。現在にまで続いている家系の方々の先祖の墓を調査する、つまり墓を暴くのは問題だ、という、人として当たり前の考えが宮内庁の姿勢です。

そのため、宮内庁は天皇陵の調査に難色を示すのですが、それを良い事に「宮内庁が天皇陵の調査を許さないのは隠したいことがあるからだぁ」と叫んでいる連中がいます。

例えば、『日本書紀』に、仁徳天皇が自分の陵墓の場所を決めた逸話が書かれていて、同じ場所に仁徳天皇陵があるのですが、それでも納得しないどころか、彼らは『古事記』や『日本書紀』を全否定つつ、自分の妄想に使えそうなところだけをつまみ食いします。

難癖をつけている中で最も悪質なのが、歴史小説家の井沢元彦です。自著の『逆説の日本史』の『古代黎明編(こだい・れいめいへん): 封印された「倭」の謎』に「宮内庁が天皇陵の学術的調査を認めない本当の理由は何か?もちろん、それは公式見解ではないから、新聞・雑誌には一度も載ったことはない。だが事情通の間では、これが真の理由だと噂されるもがある。本来、風聞に過ぎないものは、あえて取り上げるべきではないのかもしれない。しかし、この事は日本の古代史を考える上で、非常に有益な材料であるので、敢えて噂のまま記してみよう。
それは天皇陵を発掘すると、天皇家と朝鮮半島の関係が明らかになるから反対しているのだ、という見方である。もっと具体的に言えば、天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来した事の証拠が出て来る恐れがあるからだ、という事だ。私自身は天皇家の祖先が朝鮮半島から渡来したのかどうか、まだ確固たる見解はない。しかし、可能性があるかと問われたら、「十分にある。」と答えるだろう。」

凄い文章です。「公式見解ではない」「噂」などと言っておきながら、あたかも、天皇の祖先が朝鮮半島から来た、ということが事実のように断定しています。しかも、一応、「確固たる見解はない」と言っているので、自分に責任は一切ないという事を強調しています。

公式見解ならともかく、噂や風聞であれば、書く必要がないものですが。週刊誌ならともかく、ちゃんとした書籍に噂や風聞で文章を書くなんて事が許されるのでしょうか?その事の根拠を解説するのならわかりますが。

ところが、井沢元彦の場合、自らの責任を回避する巧みな表現を多用しつつ、噂や風聞を堂々と書いています。井沢元彦には、公に何かを論ずる資格などないと断言したい程です。井沢元彦は皇室の先祖が朝鮮半島から来たものと考えているようですし。そもそも、「皇統」ではなく、「天皇家」という共産党用語を使っている時点で、偏った思想の持主ではないかな、と思いますが。江上波夫(えがみ・なみお)の騎馬民族征服王朝説が元ネタなのでしょう。

宮内庁が天皇陵の調査を認めないのは、それなりの理由があるのですが、それを良い事に「宮内庁が調査を拒否するのは隠したいことがあるからだ」とやって来る。つまりは、宮内庁に対して、「隠したいことがない事を証明しろ!」と言っているのと同じ事です。ない事の証明は誰にも出来ないにも関わらず、です。いわゆる「悪魔の証明」ですね。この修辞学を使う者には、何か邪(よこしま)な目的を持っていると考えて間違いありません。要するに思想統制です。

仁徳天皇陵を始め、日本国が世界に誇る大規模な遺跡が邪(よこしま)な目的に活用されてしまうとは、何とも嫌な話です。古墳に限った話ではないですが。

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