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薬子の変

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かつては藤原薬子(ふじわら・の・くすこ)らが中心となって乱を起こしたものと考えられていたため、「薬子の変」(くすこのへん)という名称が一般的でしたが、律令制下(りつりょう・せいか)の太上天皇(だじょう・てんのう)制度が王権を分掌(ぶんしょう)していることが原因で事件が発生した、という評価がなされるようになり、西暦2003(平成15)年頃から、一部の高等学校用教科書では「平城太上天皇(へいぜい・だじょうてんのう)の変」という表記に変更されました。また、「薬子の変」と呼ばれるのは、嵯峨(さが)天皇が平城(へいぜい)上皇に配慮したためだという説もあり、また、様々な解釈ができるこの事件を新元号の弘仁(こうにん)に由来する「弘仁元年の政変」もしくは「弘仁の変」と呼ぶ説もあります。

このチャンネルの別の動画でも、何度も説明していますが、太上天皇(だじょうてんのう)が正式であり、略して、上皇と呼ばれます。太上天皇とは大宝律令(たいほう・りつりょう)に規定されたことから始まっていて、天皇を親権者として支え、天皇と同格の権威と権限を有するものと定められました。初めて太上天皇になった天皇は文武(もんむ)天皇に譲位した持統(じとう)天皇。更には元正(げんしょう)天皇に譲位した元明(げんめい)天皇、聖武(しょうむ)天皇に譲位した元正天皇、孝謙(こうけん)天皇に譲位した聖武天皇、淳仁(じゅんにん)天皇に譲位した孝謙天皇、桓武(かんむ)天皇に譲位した光仁(こうにん)天皇もです。持統天皇以降の歴代の天皇はそのほとんどが次世代に譲位し上皇になっています。この時代は天皇が譲位し上皇になることが普通のことでした。もちろん、昭仁(あきひと)上皇陛下の立場や役割は大宝律令の頃とは大きく異なっています。

ちなみに『源氏物語』の「光源氏」は准(じゅん)太上天皇ですが、准太上天皇とは太上天皇になずらふ(う)御位(みくらい)で、光源氏の院号(いんごう)は六条院(ろくじょういん)です。

小説ではなく、歴史上、准太上天皇の実例は、寛仁(かんにん)元年(西暦1017年)に、三条(さんじょう)天皇の第一皇子である敦明親王(あつあきら・しんのう)が皇太子の地位を辞退する見返りとして、小一条院(こいちじょういん)の院号(いんごう)と年官年爵を与えられ、上皇同様に院庁を設置されたのが唯一です。

その大宝律令制定にも加わっていた藤原不比等には、武智麻呂(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂(まろ)という4人の息子がいました。4人とも長屋王(ながや・の・おおきみ)の悲劇の後、天然痘で亡くなってしまいましたが。その四兄弟の子孫たちはそれぞれが家を形成することになりました。武智麻呂(むちまろ)の子孫が藤原南家(なんけ)、房前(ふささき)の子孫が藤原北家(ほっけ)、宇合(うまかい)の子孫が藤原式家(しきけ)、そして麻呂(まろ)の子孫が藤原京家(きょうけ)です。桓武(かんむ)天皇の時代に至ると藤原四家は他の氏族とはもちろんのこと、四つの家同士で激しく政治闘争を繰り返す状況になっていました。

藤原仲麻呂(ふじわら の なかまろ)は南家(なんけ)、藤原広嗣(ふじわら の ひろつぐ)と藤原百川(ふじわら の ももかわ)、藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)、藤原種継(ふじわら の たねつぐ)、が式家(しきけ)、藤原永手(ふじわら の ながて)、征夷戦で戦った藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)等が北家、です。

長岡京造営工事中に暗殺された藤原種継(ふじわら・の・たねつぐ)には仲成(なかなり)という息子と薬子(くすこ)という娘がいました。

薬子はやはり式家の藤原縄主(ふじわら の ただぬし)に嫁ぎ、3人の息子と2人の娘を産みました。そのうち、一男一女が流行り病(はやりやまい)で亡くなり、息子である貞本(さだもと)、貞吉(さだよし)が官僚となって巣立っていき、薬子の下には娘珠子(たまこ)

が残されましたが、その娘が皇太子である安殿親王(あて・しんのう)の下に嫁ぐことになりました。父である縄主(ただぬし)は娘が皇太子妃になることを喜び、吉日を選んで娘を東宮御所(とうぐうごしょ)へ送り出しますが、娘はまだ幼く、世間知らずで宮中のしきたりにも慣れていないので、一人では心細かろうと、輿(こし)入れには縄主の奨めもあり、母の薬子が同行することになりました。それで女官長である東宮宣旨(とうぐうせんじ)に出世しました。すると、なんと安殿皇太子(あて・こうたいし)は娘の方ではなく母親の薬子と恋に落ちてしまいました。その時、藤原薬子は、生年が明らかではないのですが、恐らくは三十代だったと思われます。安殿皇太子は30歳ぐらいでした。

安殿皇太子と藤原薬子の関係が知れ渡ると、当然ながら、桓武天皇は激怒し、薬子を宮中から追放しました。

ちなみに安殿親王は史書によると結構真面目な人物だったようです。

『日本後紀』(にほんこうき)にはこのように記されています。

及長精神聰敏。玄鑒宏達。博綜經書。工於文藻。

成長すると、賢く、聡く、考え深くてさまざまな面で優れ、広く儒教の教典を学び、文章が巧であった。

全然やってることと違うと思われます。賢くて、聡くて、考え深い人物なのに、お嫁さんの母親に夢中になるということは、それだけ、藤原薬子(ふじわら・の・くすこ)が魅力的だったということだったのでしょう。

桓武天皇は安殿親王(あて・しんのう)と薬子とを強引に別れさせたわけですが、自体はそれで収まったわけではありませんでした。桓武天皇は重い病気になってしまい、自分の死期を悟ったかのように、早良親王(さわらしんのう)の怨霊の慰撫などの様々な後始末を始めました。

桓武天皇は早良親王のために淡路の国にお寺を建て、心霊の怨恨を慰めました。続いて藤原種継暗殺事件で連座した人々を赦免し、都に呼び戻しました。更には、冤罪ではなく実際に乱を起こしたにも関わらず、氷上川継(ひがみ の かわつぐ)の位階を回復させました。

桓武天皇としては、死後に子孫に祟りをなしそうな怨霊には許しを得ておきたかったということでしょう。その怨霊慰撫をなし終えた桓武天皇は、延暦(えんりゃく)25(西暦806)年崩御され、安殿親王が平城(へいぜい)天皇として即位しました。平城天皇はすぐ下の弟である神野親王(かみの・しんのう)を皇太子に立てました。

即位した平城(へいぜい)天皇はすぐさま官庁の統廃合や年中行事の停止など、言わば緊縮的な改革を始めました。桓武天皇の時代に平安京遷都や蝦夷征伐といった大事業をやりすぎて政府が大きくなり財政も厳しくなっていったためです。平安時代の初期は、現在とは違って、経済の生産性が高くなかったばかりか、新都建設や対蝦夷(えみし)戦争のような大規模財政支出が続き、当然ながら、人々は財やサービスの不足、つまりはインフレに苦しめられていましたから。経済規模が大きくなりすぎて、民の需要を満たす事が出来なくなったということです。

平城(へいぜい)天皇の改革は参議を廃止し観察使(かんさつし)に置き換えるという太政官組織(だいじょうかん・そしき)の権限削減、所管庁の廃止・改編をも含んでいました。不要な組織は必要ないという当たり前の発想ではあったものの、藤原氏をはじめとする貴族層からの反発は大きいものがありました。当然ながら、官僚の数を減らすことになるため、公卿百官(くぎょう・ひゃっかん)たちは平城天皇に不満を持つこととなりました。

しかも、平城天皇は即位した途端に、宮中(きゅうちゅう)から追放された薬子を呼び戻し、天皇の近くで、天皇への取り次ぎや天皇の意思を伝達するお役目である奏請(そうせい)と伝奏(てんそう)、宮中の礼式等を担当する尚侍(ないしのかみ)に任命しました。

また、平城(へいぜい)天皇は薬子の夫である藤原縄主(ふじわら の ただぬし)を大宰帥(だざいのそち)に任命し、九州に転属させてしまいました。

夫を地方に追い出して、その妻を自分の秘書としたわけです。これは、官庁の統廃合で不満を持っている官僚たちにとって、天皇と薬子との関係は実に有力な武器になりました。

天皇の寵愛を受けた藤原薬子とその兄の藤原仲成(ふじわら の なかなり)が相当に専横的に振る舞っていたのは確かのようで、ある意味で藤原式家の絶頂期と言っても過言ではないと思われます。例え、平城(へいぜい)天皇が緊縮的な政策を取らなかったとしても、薬子、仲成兄妹が天皇の虎の威を借りて強権を振るっていた訳なので、反発を招くのも当たり前でしょう。

天皇と式家の藤原兄妹が他の貴族・官僚達と対立構造になったところで大事件が起きました。大同(だいどう)2(西暦807)年、桓武天皇の第三皇子で平城天皇の異母弟、父親から深く愛されていた伊予親王(いよしんのう)に唐突に謀反の疑いがかけられました。

なぜか、中大兄皇子以降の日本の朝廷では、この手の話が頻発しています。伊予親王を陥れ、失脚させたい政敵が仕掛けた冤罪なのでしょうか?

『日本後紀』(にほんこうき)にはこのように記されています。

大同二年(八〇七)十月辛巳【廿八】》○辛巳。蔭子藤原宗成、勸中務卿三品伊豫親王、潜謀不軌。大納言藤原雄友聞之、告右大臣藤原内麻呂。於是、親王遽奏宗成勸己反之状。即繋於左近府。

大同二年(八〇七)十月癸未【卅】》○癸未。繋宗成於左衞士府、按驗反事。宗成云。首謀反逆是親王也。遣左近中將安倍兄雄・左兵衞督巨勢朝臣野足等、率兵百五十人、囲親王第。

大同二年(八〇七)十一月乙酉【二】》○乙酉。停大嘗事。乱故也。

大同二年(八〇七)十一月癸丑【六】》○癸丑。徙親王并母夫人藤原吉子於川原寺、幽之一室、不通飮食。

大同二年(八〇七)十一月庚午【十一】》○庚午。詔曰。云々。解却謀反之輩。又以廃親王之状、告于栢原山陵。

大同二年(八〇七)十一月乙未【十二】》○乙未。親王母子、仰藥而死。時人哀之。

大同二年(八〇七)十一月丙申【十三】》○(『類聚國史』七一七日節會七二踏歌)丙申。停正月七日・十六日二節」(『日本紀略』)丙申。配流宗也等。

大同(だいどう)2(西暦807)年10月20日。蔭子(おんし)藤原宗成(ふじわらの・むねなり)が中務卿(なかつかさきょう)三品(さんぽん)伊予親王(いよ・しんのう)に密かに謀反の企てを勧め、大納言(だいなごん)藤原雄友(ふじわらの・おとも)がこの計画を耳にして右大臣(うだいじん)藤原内麻呂(ふじわらの・うちまろ)に告げた。ここにおいて親王は急遽、宗成が自分に謀反を勧めたとの状(ようす)を奏上した。そこでただちに宗成を左近衛府(さ・このえふ)に収監した。

大同(だいどう)2(西暦807)年10月30日。藤原宗成(ふじわら の むねなり)を左衛士府(さえじふ)に留置し、謀反(むほん)について取り調べたところ、宗成は「謀反(むほん)の首謀者は伊予親王(いよ・しんのう)です。」と言った。そこで、左近衛中将(さ・このえ・ちゅうじょう)、安倍兄雄(あべ の あにお)と左兵衛督(さひょうえ・の・かみ)
巨勢野足(こせのたり)を遣わして、兵士140人を率い、親王の邸宅を包囲した。

大同(だいどう)2(西暦807)年11月2日。大嘗祭(おおなめまつり)を取りやめることにした。伊予親王の謀反のためである。伊予親王と母夫人(ははぶにん)藤原吉子(ふじわら・の・きっし)を川原寺(かわらでら)へ移して一室に幽閉し、飲食を絶った。

大同(だいどう)2(西暦807)年11月11日。天皇が詔(みことのり)を宣示(せんし)
し、謀反人らを解任し、また親王を廃号(はいごう)したことを、桓武天皇柏原山稜(かんむてんのう・かしわばらのみささぎ)へ報告した。

大同(だいどう)2(西暦807)年11月12日。伊予親王母子(おやこ)が毒を仰いで死去した。当時の人々は哀れなことと思った。

大同(だいどう)2(西暦807)年11月13日。正月7日、16日の節会(せちえ)を停止(ちょうじ)することにした。藤原宗成(ふじわら の むねなり)らを配流(はいる)とした。

伊予親王が藤原宗成と謀反を企てているというわけではなく、宗成が謀反を勧めたようですが、よく分からない話です。それで、左近衛府で朝廷の官吏が宗成を尋問しました。すると宗成は「謀反の首謀者は伊予親王です」と告げました。それを聞いた平成天皇は激怒して、宗成の証言一つにもかかわらず、親王のもとに軍隊を派遣しました。伊予親王と母親である藤原吉子の親子は捉えられ、川原寺に幽閉されてしまいました。更にひどいことに二人は飲食を絶たれ毒を飲んで自殺してしまいました。

しかも、証拠はなく、藤原宗成の証言だけだったにも関わらず。自ら宗成が謀反をそそのかしていると説明したにもかかわらず、母親ともども自殺に追い込まれてしまいました。それで、宗成は流罪になりました。

死刑ではないのが不思議です。ということは、「伊予親王が謀反の首謀者」という宗成の自白が実はねつ造で、単に親王親子を破滅させることが目的だったとしか思えません。とはいえ、もはや真実は誰にも分かりません。もっとも当時から宗成の裏に藤原仲成・薬子の兄妹がいるのではないかという話は出回っていたようです。何しろ『日本後紀』に書かれているくらいですから。

「仲成(なかなり)と薬子(くすこ)が宗成を抱き込み嘘八百の証言をさせた」という説もありますが、その場合は宗成が要求に応じた理由や動機が全くわからないので、案外、「宗成が伊予親王(いよしんのう)親子に個人的な恨みを抱いていた」などという、ありきたりな理由なのかもしれません。

そして、伊予親王と母親の藤原吉子(ふじわら の きっし)が粛清されて以降、平城天皇(へいぜいてんのう)はますます藤原仲成仲成(ふじわら の なかなり)・薬子兄妹に依存していくようになります。ところが親王親子が自殺した翌年、大同(だいどう)3(西暦808)
年に入ると、平城天皇は皇太子時代と同様に、長い病に苦しめられるようになりました。

皇太子時代に早良(さわら)親王の祟りに苦しめられた経験のある平城天皇としては、伊予親王と母親の祟りであると考えたことは確実です。『日本後紀』にはこのように記されています。

朕躬劣弱〈弖〉洪業〈爾〉不耐〈己止乎〉。本自思畏〈利〉賜〈許止〉暫〈毛〉不息。加以朕躬元來風病〈爾〉苦〈都都〉身體不安〈志弖〉。經日累月〈弖〉萬機缺懈〈奴〉。今所念〈久〉。此位〈波〉避〈天〉。一日片時〈毛〉御體欲養〈止奈毛〉所念〈須〉。故是以皇大弟〈止〉定賜〈流〉某親王〈爾〉天下政〈波〉授賜〈布〉。諸衆此状〈乎〉悟。清眞心〈乎毛知〉。此皇子〈乎〉輔導〈伎〉。天下百姓〈乎〉可令撫育〈止〉勅。天皇御命〈乎〉衆聞食〈止〉宣。

朕は身体が弱く、天皇としての事業に耐えられないといつも思ってきた。それだけでなく風病(ふうびょう)に苦しめられ、身体が安泰ではなく、日月を重ねて、天皇としての政務を怠るようになってしまった。いま、皇位を去り、一日片時も休養に勤めようと思う。そこで皇太子である神野親王(かみのしんのう)へ天下の政を授けることにする。みなの者はこの事情を理解し、濁りのない真心で親王を助け導き、天下の人民を世話し育んでほしい、と仰せになる天皇のお言葉をみなの者、承れ、と述べ聞かせる。

これで、平城(へいぜい)天皇は、即位して4年目で譲位してしまいました。それで、神野(かみの)親王が嵯峨(さが)天皇として即位することになりました。『日本後紀』によると、譲位後の平城(へいぜい)太上天皇は病気回復を願い、上皇の居所である院(いん)を5回も変え、挙句の果てに旧平城京(へいじょうきょう)に平城宮(へいぜいきゅう)を建て直し、遷都してしまいました。大宝律令では、太上天皇は天皇と同格の権威と権限を持つ者と定められていますので、平安京と平城京の二つの都に同格の権威が存在することになってしまいました。しかも平城上皇の側(そば)には例により藤原薬子が侍(はべ)り、影響力を振るっていました。『日本後紀』には、このように記されています。

而事乖釋重。政猶煩出。尚侍從三位藤原朝臣藥子常侍帷房。矯託百端。太上天皇甚愛。不知其姦。遷都平城。非是太上天皇之旨。天皇慮其亂階。擯於宮外。官位悉免焉。太上天皇大怒。遣使發畿内并紀伊國兵。與藥子同輿。自川口道向於東國。士卒逃去者衆。知事不可遂。廻輿旋宮。落髮爲沙門。

しかし、平城太上天皇の行動は譲位の実に背き、政令をしきりに出し、横から口を出したりした。尚侍(ないしのかみ)、従三位(じゅ・さんい)藤原朝臣薬子(ふじわら・の・あそん・くすこ)が常に天皇の帷(とばり)のうちに侍し、何かにつけ偽り、かこつけることを行った。太上天皇は薬子を非常に寵愛し、その悪事に気づかなかった。薬子は平城京への遷都を図ったが、これは太上天皇の本位ではなかった。嵯峨(さが)天皇は薬子が秩序を乱していることを考慮して、宮外に退去させ、官位をすべて剝奪した。これに対し、太上天皇はおおいに怒り、使人(つかいびと)を派遣し、畿内諸国と紀伊国で兵士を募り、薬子と輿(こし)を同じくして、川口道(かわぐちどう)を通って東国へ向かった。しかし、随従の兵士らの多くが逃亡し、事のなりがたいことを知り、輿(こし)の向きを変えて宮へ戻り、落髪して僧となった。

薬子はまさに平城上皇を籠絡し、操る悪女そのものとして描かれています。が、『日本後紀』は平城上皇から譲位された嵯峨天皇が編纂を命じた史書なので、『日本後紀』に記されている薬子に関する悪しざまな記述は眉に唾をつけて読む必要があります。もちろん詔(みことのり)に関しては言葉を違えることはできませんが、薬子の悪事については『日本後紀』の編者による記述です。いくら寵愛されているからといって、上皇の使者の立場に過ぎない薬子が遷都などという重大事を決定できるとは考えにくく、それゆえ、平城京遷都はあくまで平城上皇の意思で、『日本後紀』の編纂時に、嵯峨天皇が実の兄をかばい、突然の遷都発表の責任を薬子に押し付けるよう記述させたのではないかと思われます。そういう意味で「薬子の変」を「平城太上天皇の変」と呼ぶ最近の学説の方が実態に則していると思われます。

ちなみに東国へ向かおうとした平城(へいぜい)上皇一行を塞いだのは、征夷大将軍坂上田村麻呂の軍隊でした。

『日本後紀』には、このように記されています。

于時遣大納言正三位坂上大宿禰田村麻呂等。率輕鋭卒。從美濃道邀之。田村麻呂奏請。綿麻呂。武藝之人。頻經邊戰。募將同行。即授正四位上拜參議。以遣之。歡喜踊躍。即駕兵馬。又置宇治山埼兩橋。與渡市津頓兵。

そこで、大納言(だいなごん)正三位坂上大宿禰田村麻呂(しょうさんみ・さかのうえの・おおすくねの・たむらまろ)らを派遣して、機動的に行動できる軽鋭(けいえい)の兵士を率い、美濃道(みのどう)で迎撃させることにした。田村麻呂が天皇に「綿麻呂(わたまろ)は武術に優れた人物で、何度も辺境で経験を積んでいますので、連れて行き、一緒に作戦したいと思います」と奏請(そうせい)したので、即座に綿麻呂に正四位上(しょう・よんい・じょう)を授けて参議に任じ、遣(つか)わすことにした。綿麻呂は喜んで馬に乗って出撃した。また宇治橋(うじばし)、山埼橋(やまざきばし)及び与渡(よど)の市と津に機動に富んだ頓兵(とんぺい)を配置した。

平城上皇は嵯峨(さが)天皇を討伐するための兵を集めるために東国へ向かおうとしたのですが、征夷大将軍坂上田村麻呂らが行く手を阻んだため、随従(ずいじゅう)の兵士らの多くが逃亡することになり、諦めて平城京に戻り、出家してしまったということでした。

薬子については、『日本後紀』に、このように記されています。

屬倉卒之際。與天皇同輦。知衆惡之歸己。遂仰藥而死。

太上天皇がにわかに事を起こして東国へと向かうと、輿(こし)を同じくした。多くの人の憎しみが自分に由来することを知り、ついに薬を仰いで自殺したのであった

薬子は最期は毒薬を飲むことで自分の人生に決着をつけました。『日本後紀』にここまで悪しざまに書かれている藤原薬子(ふじわら の くすこ)は本当に悪女だったのか逆に疑問が湧いてきます。もしかしたら藤原薬子は皇太子時代の平城上皇から愛され、それに答えようと懸命に生きただけの女性だったのかもしれません。特に平城京遷都などという大それた政策を薬子が決定できたとは到底思えません。嵯峨(さが)天皇と平城(へいぜい)上皇の対立を穏便な形で後代に残すために稀代の悪女として描かれてしまっただけなのかもしれませんが、今となっては知る術(すべ)もありません。

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