日本で代表的な「4つの氏(うじ)」四姓(しせい)とは源平藤橘(げん・ぺい・とう・きつ)のことですが、藤原鎌足(ふじわらの・かまたり)を始祖(しそ)とする藤原氏を除くと他の氏(うじ)の始祖は全て天皇となります。源氏(げんじ)は嵯峨(さが)・清和(せいわ)・宇多(うた)・村上(むらかみ)天皇などから源朝臣(みなもと・の・あそん」を賜姓(しせい)されて臣籍(しんせき)に下(くだ)ることによって成立した氏族。平氏(へいし)は桓武(かんむ)・仁明(にんみょう)・文徳(もんとく)・光孝(こうこう)天皇から「平朝臣(たいら・の・あそん」を賜姓(しせい)されて臣籍(しんせき)に下(くだ)ることによって成立した氏族。橘氏(たちばなし)は敏達(びだつ)天皇の孫である美努王(みぬおう)の妻、県犬養 三千代(あがた・の・いぬかい・の・みちよ)が元明(げんめい)天皇から橘宿禰(たちばなの・すくね)の姓を賜ったことから始まりました。
源氏も平氏も武家階級として勃興しましたが、元を辿ると天皇の血筋に連なるわけです。天皇の血を引いてるのは間違いないのですが、必ずしも皇族というわけではありません。
源氏や平氏のような氏(うじ)は、血縁関係のある家族群で構成された同族集団のことで、氏族は、共通の祖先を認め合うことによって連帯感を持つ人々を指します。ちなみに、支那、南北朝鮮、台湾、などで使われている「夫婦別性」は儒教的な考え方で個を尊重することによる連帯感の否定です。夫婦は別の姓を名乗り、子供は父親の姓を名乗ります。母親を家族とは認めません。「夫婦別性」を受け入れなかったことは、家、地域、国、を大切に思ってきた日本人が、儒教を全面的に受け入れてはいない事を証明しています。
氏(うじ)は、姓(かばね)を異にする家族群に分かれており、上級の姓(かばね)を持つ家族群が下級の姓(かばね)の家族群を支配し、最下層には部民(べみん)や奴卑(ぬひ)がいました。族長的地位に立つ家の家長(かちょう)が氏(うじ)の上(かみ)となり、大化の改新前の部民(べみん)の田荘(たどころ)、律令制下の氏の賤(せん)などの氏(うじ)の共有財産を管理し、氏神(うじがみ)を奉祀(ほうし)して、氏人(うじびと)集団を統率しました。律令制(りつりょうせい)の解体とともに氏(うじ)としての名は次第に消えていき、源・平・藤・橘(げん・ぺい・とう・きつ)など少数の氏(うじ)の名だけが残っていったわけです。そのうち、同じ氏族(しぞく)の中で、どの家が氏上(うじのかみ)として主導権を取るのかが問題となり、激しく争うようになっていきました。諸氏族の族長としての氏上の権力はかなり大きかったため、氏人たちの中には氏上の統制から逃れ、自立を願うものが少なくなかったようです。そのための最も簡単な方法が天皇から賜姓(しせい)してもらうことでした。
つまりは天皇から新たな姓(かばね)を賜ると、独立し自らの氏族を起こせるというわけでした。ちなみに氏(うじ)と姓(かばね)は元々は異なったのですが、「律令(りつりょう)国家」成立以降その区分は曖昧になり、最終的には、すべての階層の国家身分を表示するものとなりました。その結果、氏と姓を持たない者は皇族と奴婢(ぬひ)のみになりました。
誰もが氏(うじ)や姓(かばね)を持っていて、そして天皇から新たに氏姓(うじ・かばね)を与えられるとそれまでの氏族(うじぞく)から独立できました。
皇族側から見ても、氏人(うじびと)を独立させ新たに氏(うじ)を与えると、それまで属していた氏族(うじぞく)の勢力を削減することができ、皇族を脅かすような氏族(うじぞく)の繁栄を妨害できたわけでした。つまりは権力が大きい氏族(うじぞく)の一部を剥ぎ取ってしまうという話です。あまりにも氏族(うじぞく)が強大化してしまうと、皇族の政治力が総体的に弱体化してしまうからでした。もっとも賜姓(しせい)によって勢力を弱めようとしても勃興する氏族(うじぞく)は勃興しました。
源平藤橘(げん・ぺい・とう・きつ)の四姓(しせい)は、皇別(こうべつ)と藤原氏が神別(しんべつ)となります。皇別とは神武天皇以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族、神別とは古代の神々、天津神(あまつかみ)や国津神(くにつかみ)の子孫により構成される氏族(うじぞく)です。
藤原氏の始祖、中臣鎌足(なかとみの・かまたり)は天照大御神(あまてらす・おおみかみ)
が「天の岩戸」(あめのいわと)に立てこもった際に布刀玉命(ふとだま)とともに太占(ふとまに)で占いを行い、岩戸の前で祝詞(のりと)を奏上した神、天児屋根命(あめの・こやねのみこと)の子孫とされています。「藤原」という姓は天智(てんじ)天皇により中臣鎌足に賜姓(しせい)されたものです。天智天皇8(西暦669)年10月、天智天皇は病床に伏した鎌足の元に大海人皇子(おおあまの・おうじ)を遣(つか)わして授けました。当時、鎌足は大和の国の藤原、現在の橿原市(かしはらし)高殿町(たかどの・ちょう)に屋敷を構えていました。藤原というのは元々は鎌足が暮らしていた地名でした。当チャンネルの別の動画でも『日本書紀』からの引用文を記しましたが、再度、説明します。
庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。
10月15日。天皇は東宮大皇弟(ひつぎのみこ・の・大海人皇子)を藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)の家に派遣して、大織冠(だいしきの・かうぶり)と大臣(おとど)の位(くらい)を授けました。それで姓(かばね)を与えて、藤原氏(ふじわらの・うじ)としました。
ここで注目すべき点は天智天皇は姓(かばね)を賜うと言いつつ、藤原という氏(うじ)を与えたという点です。賜姓(しせい)には「新たな氏族(うじぞく)を起こすことを認める」という意味があったわけです。元々は鎌足の氏(うじ)中臣(なかとみ)が神別(しんべつ)だったのですが、天智天皇により藤原に変わったわけです。連続性が明らかである以上、藤原も神別といっても構いません。
ちなみに藤原氏以外の神別(しんべつ)の氏(うじ)として有名なものは物部氏(もののべし)が有名です。丁未の乱(ていびのらん)で蘇我馬子(そがの・うまこ)と戦って敗れた物部守屋(もののべの・もりや)の一族です。『四天王寺御手印縁起』(してんのうじ・ごしゅいん・えんぎ)には、天孫降臨(てんそん・こうりん)に先立って天磐船(あまの・いわふね)に乗って天下(あまくだ)った邇芸速日命(にぎはやひ)の子孫と記されています。つまりは神別。また、諏訪氏(すわし)は大国主神(おおくにぬし・の・かみ)の息子で国譲りの際に武甕槌命(たけみかづち)に敗れて諏訪まで逃れた建御名方(たけみなかた)の子孫です。しかも、大国主神は素戔嗚尊(すさのお)の六世の孫なので、諏訪氏の先祖を辿っていくと最終的には素戔嗚尊(すさのお)にまで行き着きます。
皇統は天照大御神(あまてらすおおみかみ)の子孫ですから、皇籍から離脱した氏族を皇別(こうべつ)と呼びます。神々の子孫が神別。神武天皇以降に臣籍降下した氏族が皇別。
以前、当チャンネルの別の動画で、橘諸兄(たちばな の もろえ)について解説しました。藤原四兄弟が疫病で相次いで亡くなった後に、聖武天皇の御代で権力を握った政治家ですが、橘諸兄は敏達(びだつ)天皇の後裔(こうえい)である美努王(みぬおう)と県犬養 三千代(あがた・の・いぬかい の みちよ)、後(のち)の橘三千代(たちばな・の・みちよ)との間に生まれた子供ですが、天平(てんぴょう)8年(西暦736年)に、臣籍降下(しんせきこうか)して橘姓を名乗る前は葛城王(かずらきのみこ)という皇族としての名前を持っていました。なぜ、葛城王が橘氏(たちばなうじ)を名乗ったのかというと、実は母親が橘三千代だったからです。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。
和銅元年十一月廿一日。供奉挙国大嘗。廿五日、御宴。天皇、誉忠誠之至。賜浮杯之橘。勅曰。橘者、果子之長上。人之所好。柯凌霜雪而繁茂。葉経寒暑而不彫。与珠玉共競光。交金銀以逾美。是以、汝姓者、賜橘宿禰也。
和銅 (わどう)元年(西暦708年)11月21日には、国を挙げての大嘗祭(だいじょうさい)にお仕え申し上げ、25日の豊明節会(とよの・あかりの・せちえ)の御宴(ぎょえん)において、天皇より忠誠の深さをお褒めいただき、酒杯に浮かべた橘(たちばな)を賜りました。その時天皇は仰せられました。「橘は果物の中でも最高のもので、人々の好むものである。枝は積雪にもめげず繁茂(はんも)し、葉は寒暑(かんしょ)にあっても萎(しぼ)まない。光沢は珠玉(しゅぎょく)と競うほどである。金や銀に混じりあっても、それに劣らず美しい。このような橘に因んで汝(なんじ)の姓として、橘宿禰(たちばなの・すくね)を与えよう」と。
県犬養橘宿禰三千代(あがた・の・いぬかい・の・たちばな・の・すくね・みちよ)は天武天皇、持統天皇、文武天皇、の三代の天皇に仕え、さらに元明(げんめい)天皇の側近でした。それで、元明天皇は三千代の忠節を評して、氏名に姓名を加えて、橘宿禰(たちばな・の・すくね)を賜姓(しせい)しました。もっとも、橘姓は元々は三千代一代限りのものでした。
つまり、本来なら三千代の息子達が橘姓(たちばな・せい)を名乗るためには、改めて天皇から賜姓(しせい)してもらわなければならなかったわけでした。ところが、母親の忠誠が評価されて、褒美として息子達も橘姓を賜姓されたわけでした。
天平8(西暦736)年、橘三千代の息子である葛城王(かずらきおう)と佐為王(さいおう)の兄弟は、改めて聖武天皇に願い出て外家(がいけ)の橘姓を賜り、皇親の籍を離れ、橘宿禰(たちばな・の・すくね)という新しい氏(うじ)を創設しました。元正太上天皇(げんしょう・だいじょうてんのう)と光明皇后(こうみょうこうごう)は皇后宮(こうごうぐう)で宴(うたげ)を開き、橘氏を寿(ことほ)ぐ歌を作り、葛城王改め橘諸兄(たちばなの・もろえ)に御首(ごしゅ)を賜いました。その際に元正上皇が詠まれた歌が『萬葉集』(まんようしゅう)に記されています。
橘者実左倍花左倍其葉左倍枝尒霜雖降益常葉之樹
橘(たちばな)は、実(み)さえ、花さえ、その葉(は)さえ、枝(え)に霜(しも)降れど、いや常葉(とこは)の木(き)』
歌の訳:橘はその実もその花も衰えることなく、その枝に霜が降っても、とこしえにいや栄えるめでたい木である。
こうして2人の皇子(おうじ)は皇籍を離脱し臣籍(しんせき)に降下(こうか)しました。そして、橘諸兄(たちばなの・もろえ)はその後政界の頂点にまで駆け上がることになりました。
藤原氏は神別で、橘氏は皇別ですが、残る「源平藤橘」(げん・ぺい・とう・きつ)の源氏(げんじ)と平氏(へいし)について、詳しく述べたいと思います。
そもそも、源氏や平氏の誕生は桓武(かんむ)天皇に始まりました。当チャンネルの別の動画でも解説していますが、桓武天皇は平安京への遷都し、さらには蝦夷(えみし)と戦い、財政的には積極財政政策を執りました。現在の日本はデフレ、つまり供給能力が総需要に対して余りまくっているのですが、現在と違って、生産性が大きく劣っていた平安時代だと、桓武天皇の積極財政政策は必然的に財政難をもたらしました。今のように技術力の蓄積があったわけではないので、緊縮財政政策を執らざるをえなくなりました。他に対応のしようがありませんでした。そのため、桓武天皇は異母弟の諸勝(もろかつ)親王を広根諸勝(ひろね の もろかつ)と名乗らせて臣籍降下(しんせきこうか)させました。さらには自らの息子、岡成親王(おかなり・しんのう)も臣籍降下させ長岡(ながおか)と賜姓しました。
自分の弟や息子を皇籍から離脱させてしまったのは、単に皇室財政の節約のためでした。莫大な資産を持っていた明治以降と違って、皇族がたくさんいると費用がかかりました。大東亜戦争後、GHQの占領政策の一環として、皇室財産に90%の税金がかけられ、かなりが没収されてしまいました。室町(むろまち)時代以降、皇室を維持するために残されていた永世皇族制(えいせい・こうぞくせい)を維持することが難しくなり、西暦1947(昭和22)年10月14日、伏見宮系(ふしみのみやけい)の皇族11宮家51人の臣籍降下が行われました。西暦1973(昭和48)年以降からは現在のように変動為替相場制が採用され、国債の発行だけで皇室の費用を賄うことが出来るようになりました。ところが、当時では、税収が必要でした。というわけで、桓武天皇は、本来は忠実な部下への褒美だった賜姓(しせい)を、緊縮財政の一環として、皇族を臣籍降下させることに使ってしまいました。特に光仁(こうにん)天皇の皇子(おうじ)である諸勝親王(もろかつ・しんのう)や桓武天皇の皇子である岡成親王(おかなり・しんのう)の臣籍降下は異例中の異例でした。何しろ当時の律令(りつりょう)制度では天皇から五世までは皇族であると定められていましたから。
さらに桓武天皇は延暦(えんりゃく)24(西暦805)年、何と102人の皇族の皇籍離脱、臣籍降下を行ないました。あまりにも人数が多かったため、一人一人の姓名を考えることができなかったようで、三園眞人(みその・の・まひと)と近江眞人(おうみ・の・まひと)が17名、清海眞人(きよみ・の・まひと)が16人も出るなど同じ姓名になってしまいました。永世皇族制が機能しておらず、側室もいない現在とは違って、皇族の数が多すぎるのが問題でした。
ところが、一気に100人以上が臣籍降下したにも関わらず、皇室の財政問題はさして改善しませんでした。桓武天皇の次の次の天皇である嵯峨(さが)天皇がとんでもなく子だくさんだったため、でした。
「薬子の変」こと「平城(へいぜい)太上天皇の変」を巧みに収束させた嵯峨天皇の御代は、それ以降40年間も平穏無事に過ぎる事になりました。嵯峨天皇は平城(へいぜい)天皇の後を受け、22歳という若さで即位することになりました。実は嵯峨天皇も即位から14年で、同じく弟の大伴(おおとも)親王に譲位することになるのですが、その後も太上天皇として政治に目を光らせ、結果的に嵯峨上皇が崩御するまで平安京は文字通り平安の都となりました。嵯峨天皇が随分と優秀な天皇だったということですが、
『日本後紀』(にほんこうき)には、このように記(しる)されています。
○天皇諱賀美能、桓武天皇第二子、平城天皇之同母弟也。延暦五年、生於長岡宮。幼聡、好讀書。及長、博覽經史、善屬文、妙草隷。神氣岳立、有人君之量。天皇尤鍾愛也。二十二年正月、授三品、歴中務卿彈正尹。平城天皇之即位、立皇太弟。
天皇は諱(いみな)を賀美能(かみの)と言い、桓武(かんむ)天皇の第二子で、平城(へいぜい)天皇の同母弟である。建暦(えんりゃく)5年に長岡京(ながおかきょう)で生まれ、幼児から敏(さと)く、読書を好んだ。成長するに及んで、経典(きょうてん)や史書(ししょ)を広く読み、文書に巧みで、書に秀でていた。霊気が身の回りに立ちこめ、君主たる力量があった。桓武(桓武)天皇がもっとも寵愛した皇子(おうじ)で、建暦(えんりゃく)22年正月に三品(さんぼん)を授けられ、中務卿(なかつかさきょう)、弾正尹(だんじょうの・いん)を経歴して、平城(へいぜい)天皇が即位すると、皇太弟(こうたいてい)となった。
妙草隷「書に秀でていた。」とあるように、嵯峨天皇(さがてんのう)は、字が上手かったので有名ですが、どれくらいうまかったのかと言えば、日本の書道史上、字が上手いことで並称(ならび・しょう)される三筆(さんぴつ)の1人として数えられているほどです。
平安時代中期の三跡(さんせき)や世尊寺(せそんじ)流の三筆、江戸時代の寛永(かんえい)の三筆や幕末の三筆など、時代によって、それぞれの三筆が存在するのですが、単に三筆と言われる場合は、平安時代初期の三筆を指します。三筆の他の二人は、空海(くうかい)と橘逸勢(たちばな の はやなり)です。
天台宗(てんだいしゅう)の開祖(かいそ)、最澄(さいちょう)の弟子が嵯峨天皇から下付(かふ)された光定戒牒(こうじょう・かいちょう)という作品が延暦寺(えんりゃくじ)に残されており、国宝なのですが、一般公開されるときに見ることが出来ます。
嵯峨天皇は詩宴(しえん)を精力的に開催して、平安京を文化の都へと変えていきました。また、弘仁(こうにん)9年(西暦818年)には平安京の12の門を唐風(からふう)に改め、宮中(きゅうちゅう)の儀式も唐(とう)に倣(なら)って改めて行きました。
嵯峨天皇も藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)と同じく中国かぶれだったのですが、そのことが源氏(げんじ)の誕生につながることになりました。
千年の都である平安京の基盤を整えたのは嵯峨天皇でした。都を移したのは桓武天皇なのですが、平安京の在り方を定めたのは嵯峨天皇でした。なので、嵯峨天皇、嵯峨上皇の時代こそが、平安京が最も安定し、文化が栄えた時代と言っても過言ではないのですが、一つだけ問題がありました。皇后(こうごう)、妃(きさき)、夫人(ふじん)、女御(にょうご)、更衣(こうい)、宮人(くにん)、女孺(めのわらわ)、掌侍(ないしのじょう)、という后妃(こうひ)と子供の数が多すぎたことでした。何しろ確認されているだけで后妃の数が約30人、皇子女(おうじじょ)が50人いましたから。
同時に30人も后妃(こうひ)がいたという事ではないと思いますが、桓武天皇が多くの皇族を臣籍降下(しんせきこうか)させ、財政的な余裕を作ったにも関わらず、嵯峨天皇の御代にまたまた皇族が増えてしまったわけでした。
というわけで、弘仁(こうにん)5年(西暦814年)、嵯峨天皇はとりあえず4人の皇子と4人の皇女を臣籍降下させました。その際に嵯峨天皇が賜姓(しせい)したのが全員同じ姓(かばね)である、源(みなもと)でした。中国かぶれの嵯峨天皇が五胡十六国時代(ごこ・じゅうろっこく・じだい)の北魏(ほくぎ)の正史である『魏書』(ぎしょ)から付けたもので、太武帝(たいぶてい)が南涼王(なんりょう・おう)の子の禿髪破羌(とくはつ・はきょう)に対して「帝室(ていしつ)こと拓跋氏(たくばつし)と源(みなもと)が同じ」という意味で「源氏」を与えて源賀(げんが)と名乗らせたという『源賀伝』(げんがでん)の故事に由来していると言われています。
中国かぶれの嵯峨天皇は当然この故事を知っていたので、8人の皇子女達(おうじじょたち)に賜姓(しせい)する際に「源」(みなもと)という氏名を与えたわけです。この時の嵯峨天皇の詔が平安時代中期の法令集である『類聚三代格』(るいじゅう・さんだいきゃく)に記されています。
詔、朕当揖譲、纂践天位、徳愧睦邇、化謝覃遠、徒歳序屡■、男女稍衆、未識子道、還為人父、辱累封邑、空費府庫、朕傷于懐、思除親王之号賜朝臣之姓、
詔す、朕継ぎて天位を踏むに男女やや多く、未だこの道を知らずかえってホウユウを重ね、虚しくフコを費やす。よって親王の号を除き、源朝臣と賜姓せん
50人も子供がいると、男女やや多く、では済まなかったため、その後、嵯峨天皇の24人の皇子女達(おうじじょたち)も相次いで臣籍降下していきました。最初の8人と合わせて32人でした。
それにしても嵯峨天皇は封邑(ほうゆう)を重ね、むなしく府庫(ふこ)を費やすと言ってるわけですから、財政難が理由ということを正直に告白しているわけでした。せっかく、桓武天皇が臣籍降下を乱発して皇族を減らしてくれたにも関わらず、嵯峨天皇がまたしても増やしてしまい、結局は同じ理由で皇子女達(おうじじょたち)を臣籍降下させなければならなかったという、よくわからない話です。
それにしても皇族が多すぎるために臣籍降下の賜姓(しせい)をせざるを得なかったというのは、今にして思えば羨ましい話なのかもしれません。とはいうものの、日本の皇統は直系(ちょっけい)の男系が断絶し、血統をさかのぼって別の男系が即位する、あるいは逆に男系の皇族が増えすぎて臣籍降下が繰り返されるといったドタバタの繰り返しでした。ドタバタを続けていたからこそ、二千年も皇統が受け継がれてきたのでしょう。
壬申(じんしん)の乱以降、皇統は天武系で続いてきましたが、女性天皇である称徳(しょうとく)天皇が崩御して、井上内親王(いのえ・ないしんのう)、他戸親王(おさべしんのう)の薨去(こうきょ)によって天武系が断絶。光仁(こうにん)天皇が即位して天智系に移ったと思ったら、今度は皇族の数が激増してしまった、というわけでした。
ちなみに、源氏の祖先は嵯峨天皇だけではありません。もちろん源氏は皇別ですから全ての氏人(うじびと)に嵯峨天皇の血が混じっているには違いありませんが。とはいえ、源氏は嵯峨天皇以降の多くの天皇を始祖としているため、源頼朝(みなもとの・よりとも)などの源氏の始祖は嵯峨天皇ではありません。ちなみに『源氏物語』の光源氏は桐壺帝(きりつぼ・の・みかど)です。嵯峨天皇以降の天皇も皇子(おうじ)や皇女(ひめみこ)を臣籍降下させて源氏を賜姓し続けました。臣籍降下の際には当たり前ですが新しい姓名を与えなければなりません。ところが嵯峨天皇以降続々と臣籍降下した皇族たちは、ほぼ一様に源の姓を賜姓されることになりました。源以外の姓名を考えるのが面倒くさかったのでしょうか。
というわけで源(みなもと)という姓を持つ人は極めて大勢になりました。系譜を遡(さかのぼ)り、最初に突き当たる天皇を介して○○源氏と呼んでいるわけです。
嵯峨天皇の皇子(おうじ)達は嵯峨源氏というわけです。嵯峨源氏は源氏姓の元祖ではありますが、唯一ではありません。嵯峨源氏以降にも仁明(にんみょう)源氏、文徳(もんとく)源氏、清和(せいわ)源氏、村上(むらかみ)源氏など様々な源氏が生まれていきました。特に有名なのは清和源氏です。
嵯峨天皇以降の源氏の臣籍降下は、基本的には皇室の財政支出の節約が目的でしたが、唯一、清和源氏のみが違いました。清和天皇の第六子である貞純親王(さだずみしんのう)の息子、経基王(つねもと・おう)は平将門(たいらの・まさかど)が管轄する東国に赴任したのですが、将門の武勇を恐れて平安京に逃げ帰り、「将門が謀反を起こした」と報告しました。ところがそれが嘘だと判明し、経基王は牢獄に入れられてしまいました。
ところがその後、本当に平将門(たいらの・まさかど)の乱が起きたため、経基王(つねもと・おう)への評価が一変して、「先見の明あり」という事で将門追討軍の副将軍に任じられました。最も経基王が東国に到着する前に将門は戦死していました。その後、経基王はやはり反乱を起こした藤原純友(ふじわらの・すみとも)の討伐軍の副将軍に任じられました。ところがまたまた経基王が戦場に到着する前に純友が戦死してしまいました。とはいえ、経基王の武勇が鳴り響くことになり、経基王は戦場での功績がゆえに臣籍降下を認められることになりました。賜った姓はもちろん源、経基王は清和天皇の孫であるため清和源氏の誕生となりました。そして、この源経基こそが源頼朝、源義経など、後に日本の歴史に名を轟かせることになる源氏の始祖なのです。
ところで、次に平氏ですが、平氏も同じく皇別なので、天皇の子孫です。源氏は21流もある、つまりは先祖となる天皇が21人もいるんですが、平氏は4流のみ。その中でも、日本の歴史に大きく影響を与えたのは何と言っても桓武(かんむ)平氏、つまり、桓武天皇の子孫が平(たいら)と賜姓されて臣籍降下した氏族(うじぞく)です。
『日本後紀』(にほんこうき)にはこのように記(しる)されています。
天長二年七月丁未。二品行彈正尹兼大宰帥葛原親王上表、割愛子息、庶捨王號。許之。
天長2年(西暦825年)に、二品(にほん)行(くだり)彈正尹(だんじょうのかみ)兼(かねる)大宰帥(だざいのそち)葛原親王(かずらわら・しんのう)が「子供を皇親(こうしん)から離脱させ、願わくは、王号を捨てることを」と上表してきたので、許可した。
源氏の源(みなもと)は『魏書』(ぎしょ)から付けたのですが、平氏(へいし)の平(たいら)はどこから付けたのでしょうか?
平氏の先祖が桓武天皇ですが、桓武天皇は平安京の創建者であることから、平(たいら)とつけた、という説がありますが、よくわかっていません。
日本の賜姓(しせい)、源平藤橘のいわれについて解説したのですが、中世の日本も様々な問題を抱えていて、朝廷が緊縮財政の一環として皇族を臣籍降下させざるを得なかったなどのように、なんとか対処しようとしたことで歴史が動いたわけでした。
