天智天皇、天武天皇以降の日本では、女性天皇が多く即位しており、橘三千代(たちばなの・みちよ)や光明皇太后(こうみょう・こうたいごう)など、権力を持った女性もいました。もっとも、女性天皇が多かった理由は、当時の皇統が抱えていた「皇太子問題」に起因していました。その発端は、天武天皇と鸕野讚良太后(うのの・さららの・おおきさき)との間に生まれた皇太子である草壁皇子(くさかべのおうじ)が若くして薨去(こうきょ)してしまったことにありました。
天武天皇には、高市皇子(たけち の おうじ)、忍壁皇子(おさかべ の おうじ)、舎人親王(とねり・しんのう)など、あまたの皇子がいました。とはいえ、鸕野讚良太后(うのの・さららの・おおきさき)との間に産まれた皇子は草壁皇子(くさかべの・おうじ)のみでした。鸕野讚良太后(うのの・さららの・おおきさき)が自分の直系に皇位を引き継がせるためには、草壁皇子の皇子にあたる軽皇子(かるの・みこ)に皇統を継いでもらうしかありませんでした。
その軽皇子が文武天皇として即位したにも関わらず、またしても若くして崩御してしまいました。その第一皇子で、まだ少年だった首皇子(おびとの・おうじ)を皇太子にするため、草壁皇子の太后(おおきさき)であった元明(げんめい)天皇と草壁皇子の皇女(ひめみこ)である元正(げんしょう)天皇が中継ぎとして即位しました。さらに首皇子(おびとの・みこ)が聖武(しょうむ)天皇として即位すると、産まれたばかりの基皇子(もといの・みこ)の立太子を強硬したにもかかわらず、すぐに薨去(こうきょ)してしまいました。それで、聖武天皇は、阿倍内親王(あべ・ないしんのう)を、女性として唯一の皇太子としてしまいました。
そして、聖武天皇が譲位して、阿倍内親王が孝謙(こうけん)天皇として即位した時点で、聖武天皇の直系が天皇になることが絶対にないということが決定的となりました。女性天皇である孝謙天皇は結婚できないので、自分の子供を皇太子にすることが不可能だからです。
そもそも、持統天皇が自分の息子である草壁皇子の血統に皇位を継承させようとしたために、毎回毎回、皇太子問題が紛糾し、最終的には孝謙天皇が即位し、行き止まりにたどり着いてしまったわけでした。もっとも、聖武上皇は、毎回大揉めに揉める皇太子問題に終止符を打とうとして、新田部皇子 (にいたべ・の・みこ)の皇子で、天武天皇の孫である道祖王(ふなどおう)を皇太子に指名しました。もっとも、藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)により、皇太子は道祖王から舎人親王(とねりしんのう)の皇子である大炊王(おおいおう)にすげ替えられてしまいました。そして大炊王が淳仁(じゅんにん)天皇として即位しました。順調に行けば、舎人親王の血統により皇統が続くはずでした。
天平宝字(てんぴょうほうじ)5(西暦761)年、保良宮(ほらのみや)で病気になった孝謙(こうけん)上皇を、弓削氏(ゆげし)出身の道鏡(どうきょう)という僧侶が看病し見事に全快させました。その後、孝謙上皇は道鏡を寵愛するようになり、これが淳仁(じゅんにん)天皇との対立を引き起こし、恵美押勝の乱につながっていきました。
二人が出会った時、孝謙上皇は43歳、道鏡は61歳だったので、いわゆる男女の関係という訳ではなかったような気もしますが、よくわかりません。
天平宝字8(西暦764)年、恵美押勝の乱に勝利した孝謙上皇ですが、いきなり淳仁天皇を廃位させ、自ら天皇として重祚(ちょうそ)することになりました。
というわけで、淳仁天皇という漢風諡号(かんふう・しごう)は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいてい、あわじはいたい)と呼ばれております。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に、淳仁天皇廃位の際の孝謙上皇の詔が記されております。
然今帝〈止之天〉侍人〈乎〉此年己呂見〈仁〉其位〈仁毛〉不堪。是〈乃味仁〉不在。今聞〈仁〉、仲麻呂〈止〉同心〈之天〉窃朕〈乎〉掃〈止〉謀〈家利〉。又窃六千〈乃〉兵〈乎〉発〈之〉等等乃〈比〉、又七人〈乃味之天〉関〈仁〉入〈牟止毛〉謀〈家利〉。精兵〈乎之
天〉押〈之非天〉壊乱〈天〉、罰滅〈止〉云〈家利〉。故是以、帝位〈乎方〉退賜〈天〉、親王〈乃〉位賜〈天〉淡路国〈乃〉公〈止〉退賜〈止〉勅御命〈乎〉聞食〈止〉宣。
「それなのに、今、帝となっている淳仁天皇をこの数年見ていると、天皇の位(くらい)にいる能力はない。それだけではなく、今聞いたところによると、仲麻呂と心を合わせて、密かに朕(ちん)を除こうと謀ったのである。また密かに六千の兵を徴発(ちょうはつ)して調(とと)のえ、また七人だけで関(せき)に入ろうと謀ったのである。さらに精兵で高野天皇(たかぬ・の・すめらみこと)こと、孝謙上皇方(こうけんじょうこうがた)を押し破り、混乱させて朕(ちん)を討ち滅ぼそうと言ったという。
それ故このような理由で、淳仁帝(じゅんにんてい)を帝(みかど)の位(くらい)から退かせ、親王の位(くらい)を与えて、淡路国(あわじこく)の公(こう)として退かせる、と仰せられる天皇のお言葉を承れと申し告げる。」
この詔(みことのり)から見ると、当時の孝謙上皇は、天皇をはるかに上回る権力を持っていた事がわかります。恵美押勝の乱に勝利した事に加えて、仏教界からの支持も厚く、その権力が絶頂に達していた頃でした。聖武天皇以来、仏の力で国家を鎮(しず)め守ってもらうという、いわゆる鎮護国家の思想が普及していましたから。
なので、出家していた孝謙上皇によって、淳仁(じゅんにん)天皇は廃され、淡路に流されてしまいました。翌年、廃帝(はいたい)こと大炊王(おおいおう)は逃亡を企てたのですが、すぐに捕らえられ、その後、薨去(こうきょ)されました。孝謙上皇の指示による暗殺ではないのか、という説もあり、その可能性は否定できません。
その後、淳仁天皇を廃した孝謙上皇は重祚し、称徳(しょうとく)天皇として即位しました。となると、当然、皇太子問題が再燃した訳です。
その際に、称徳天皇は興味深いことを詔しました。
天下政〈方〉、君〈乃〉勅〈仁〉在〈乎〉、己〈可〉心〈乃〉比岐比岐、太子〈乎〉立〈止〉念〈天〉功〈乎〉欲〈須流〉物〈仁方〉不在。然此位〈方〉、天地〈乃〉置賜〈比〉授賜〈布〉位〈仁〉在。故是以、朕〈毛〉天地〈乃〉明〈伎〉奇〈伎〉徴〈乃〉授賜人〈方〉出P4115〈奈牟止〉念〈天〉在。
『天下の政治は天皇の詔(みことのり)によって行われるものであるのに、人々が自分の欲するままに皇太子を選びたてようと思うのはおかしなことである。そもそもこの皇太子の位(くらい)は天が定め置かれ、お授けになるものである。それゆえに朕(ちん)も、天地が明らかに霊妙の兆候をもって、皇太子の位をお授けになる人が出現するものと思っている』
要するに皇太子を定めないという事です。また、恐れ多いことではありますが、皇太子の位を授かる人物について「天つ日嗣」(あまつひつぎ)という表現が用いられていない事に納得がいきません。「天つ日嗣」とは天照大御神(あまてらす・おおみかみ)の血統を受け継ぐ者という意味ですから。
称徳天皇が詔(みことのり)で述べられたように、皇太子は天が定めるといった抽象的な表現では天つ日嗣の皇子でなくても構わないという風に受け取られかねません。しかも、称徳天皇は重祚後、いきなり道鏡(どうきょう)を太政大臣禅師(だじょうだいじん・ぜんじ)に任じました。
皇太子を定めず、僧侶の道鏡を太政大臣(だじょうだいじん)に据えた事は、天武天皇や天智天皇の子孫である皇子たちが「もしかして称徳天皇は道鏡を皇太子の座に据えるつもりなのでは?」と疑問を抱かせました。
例えば、舎人皇子(とねりの・みこ)の孫にあたる和気王(わけおう)は、恵美押勝の乱や淳仁天皇廃位に貢献し、自分こそが称徳天皇の跡継ぎとして立太子されるべきであると確信していましたが、称徳天皇が皇太子を定めず、道鏡を取り立てている事を受け、謀反を計画することとなりました。
謀反は失敗して捕らえられてしまいますが、謀反を起こす前に、和気王は先祖の霊に祈願して、文書を残しており、そこには、
怨男女二人在。此〈乎〉殺賜〈幣止〉云〈天〉在。
『自分の仇敵に男女二人がいます。この二人を殺してください』
と書かれていました。謀反に失敗した和気王は処刑されてしまい、舎人皇子(とねりの・みこ)の系統は断絶ということになってしまいました。
このような皇族の反発があったにも関わらず、称徳天皇は道鏡を太政大臣禅師(だじょうだいじん・ぜんじ)として出世させ、さらに天平神護(てんぴょうじんご)2(西暦766)年には、ついに法王(ほうおうの座につけました。
世俗の政治は天皇が担い、仏門は法王が支配するということです。聖徳太子は後世において法王と呼ばれていますが、聖徳太子を大変尊敬していた称徳天皇が道鏡に聖徳太子と同じ地位を授けました。しかも、称徳天皇が出家していたこともあり、当時は、我が国の歴史上、最も、仏教が政治に対して大きな影響力を持っていた時代でした。
仏教の国家に対する加護を願う鎮護国家(ちんごこっか)という思想は、聖武天皇の時代に本格化しました。もっとも聖武天皇が鑑真(がんじん)から授戒(じゅかい)したのは、孝徳天皇に譲位した後(のち)、つまりは上皇に即位した後のことで、出家した身分のまま天皇に即位したのは称徳天皇が初めてでした。
詔にもあるように、「出家した朕(ちん)が天皇なのだから、僧侶である道鏡が太政大臣でも構わない」という理屈なのでしょう。しかも、鎮護国家を掲げた聖武天皇の御代以降、
一部の神社までもが仏教におもねる傾向がありました。例えば、宇佐神宮、別名宇佐八幡宮(うさ・はちまんぐう)などは神仏融合を進め、敷地内に神宮寺を建設しているくらいでした。そして、この宇佐八幡宮こそが、日本の決定的な分岐点をもたらすことになりました。
神護景雲(じんごけいうん)3(西暦769)年、宇佐八幡宮の神官(しんかん)を務めていた中臣習宜 阿曾麻呂(なかとみの・すげ の・あそまろ)が神託(しんたく)、つまりは神のお告げと称して、とんでもない上奏をしました。
『続日本紀』には、神護景雲(じんごけいうん)3(西暦769)年9月25日の称徳(しょうとく)天皇の詔(みことのり)で、この上奏について、記されています。
始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負。
初め、大宰府の主神(かんづかさ)、つまり、正七位下(しょう・しちい・げ)相当で、もろもろの祭祀をつかさどる人である習宜 阿曾麻呂(すげ の・あそまろ)は、道教に気に入られようと媚び仕えた。そこで、宇佐八幡宮の神のお告げであると偽って、「道教を皇位につければ、天下は太平になるであろう」と言った。道教はこれを聞いて深く喜ぶとともに、自信を持った。
道鏡は皇族の血を受け継いでいたわけでもありません。河内国の豪族である弓削(ゆげ)氏出身の僧侶ですから。
皇族でも何でもない道鏡を天皇として即位させよとの神託を誰が受けたのでしょうか?恐らく宇佐八幡宮の巫女さんなのでしょう。もっとも、我が国の皇統は神武天皇以来の男系が継ぐことが絶対原則です。伊弉諾神(いざなぎ)から綿々(めんめん)と続いている偉大な血統です。
しかも、宇佐八幡宮の御祭神 (ごさいじん)は、一之御殿( いちのごてん )で八幡大神(はちまんおおかみ)こと応神天皇、二之御殿(にのごてん)で比売大神(ひめおおかみ)こと天照大神(あまてらす・おおみかみ)と素戔男尊(すさのお)の誓約(うけい)で産まれた多岐津姫命(たぎつひめ)・市杵嶋姫命(いちきしまひめ)・多紀理姫命(たぎりびめ)こと、宗像三女神(むなかた・さんじょしん)、三之御殿(さんのごてん)では神功皇后です。
神代(かみよ)の時代から皇室と大変に関(かかわ)りが深い神社なのですが、その宇佐八幡宮の神様が、皇統とは無関係の道鏡を天皇として即位させるよう神託するとは、とても思えません。
中臣習宜 阿曾麻呂(なかとみの・すげ の・あそまろ)が、もたらした皇統断絶につながる神託は、当時の人々ですら真に受けようとはしませんでした。神託が正しいか否かではなく、中臣習宜阿曾麻呂の後ろに誰がいたのかが重要なところです。「道鏡を皇位に付けよ」という神託なのだから、当然ながら法王道鏡が背後にいたのではないか、と思われますが、例えば、法王道鏡との関係を深めようとしていた宇佐八幡宮の誰かという可能性もあり、もしくは、道鏡を苦々しく思っていた貴族たち、特に藤原氏が背後にいた可能性もありました。奇想天外な神託を告げることで道鏡を失脚させようと図った可能性もあります。
ちなみに、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)では、このように記されています。
始大宰主神習宜阿曾麻呂、希旨。方媚事道鏡。因矯八幡神教言。令道鏡即皇位。天下太平。道鏡聞之。深喜自負
『初め、正七位下(しょう・しちいのげ)相当で、諸々(もろもろ)の祭祀をつかさどる、太宰府の主神(かんづかさ)の習宜阿曾麻呂(すげ の・あそまろ)は道鏡に気に入られようと媚び仕えた。そこで宇佐八幡宮の神のお告げであると偽って、「道鏡を皇位に付ければ天下は太平になるだろう」と言った。道鏡はこれを聞いて深く喜ぶとともに自信を持った』
つまりは、天皇に即位する野心を抱いていた道鏡を、習宜阿曾麻呂がたきつけたという構図になっています。『続日本紀』に書かれている以上、道鏡の邪(よこしま)な野心がきっかけだったのでしょうか。とはいうものの、そのように単純な話ではないと思われます。『続日本紀』が編纂されたのは、道鏡事件のおよそ30年後のことです。その頃には神託がもたらされて以降の展開から「道鏡悪玉論」が世間に定着していました。『続日本紀』の編纂者たちが常識に従うならば、道鏡を悪しざまに書くのは当然のことです。
ということは、『続日本紀』の記述全般を疑わなければならないのでしょうか?
そのようなことはなく、『続日本紀』には編纂者たちの価値観や認識が入り込む余地がない決定的な部分がかなり多く記されています。つまり、ほぼ確実にそのままだったと理解して構わない文章です。
それは、詔(みことのり)です。詔は文書化されているものを、天皇もしくは代理の者が読み上げたものであり、元々が文書化されているものなので、そのまま、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に収められ、編纂者の解釈が入り込む余地がありません。というか、天皇のお言葉を、勝手に解釈して変更して良いはずがありません。ちなみに、聖武天皇のあの鬱々とした詔も現実の歴史そのままだったということです。
道鏡事件についても称徳(しょうとく)天皇の詔が記されており、少なくとも、その部分は、詔の文章のままで記録されたのは確かです。もちろん詔の内容が正確なのかどうかというのは、別の問題となりますが。
ところで、そのような神託を告げられた称徳(しょうとく)天皇は、側近の和気清麻呂(わけの・きよまろ)を玉座近くに招き、このように詔(みことのり)しました。
昨夜夢。八幡神使来云。大神為令奏事。請尼法均。宜汝清麻呂相代而往聴彼神命。
『昨夜の夢に八幡神(やはたのかみ)の使いが来て、大神(おおかみ)は天皇に奏上することがあるので尼の法均(ほうきん)を遣わされることを願っています、と告げた。そなた清麻呂は法均に代わって八幡大神(やはたのおおかみ)の所へ行き、その神託を聞いてくるように。』
日本には約11万の神社が存在していますが、そのうちで、八幡神を祀っているところが最も多く、40600社以上のお社(やしろ)があります。宇佐神宮は4万社を起こす八幡神の総本宮です。
和気清麻呂は称徳天皇の側近である法均の弟でした。当時の清麻呂は官位が低く、本来なら玉座に近づけるような身分ではありませんでした。称徳天皇は、女性である法均ではなく、弟の清麻呂を豊前国(ぶぜん・の・くに)の宇佐八幡宮に派遣しました。称徳天皇は、女の長旅は危険と思ったかもしれません。
というわけで、称徳天皇から直接依頼された清麻呂は宇佐八幡宮の神託を確かめるべく豊前国に向かいました。
清麻呂が宇佐八幡宮に向かうことを知った道鏡は、
臨発。道鏡語清麻呂曰。大神所以請使者。蓋為告我即位之事。因重募以官爵。
清麻呂が出発するに臨(のぞ)んで道鏡は「大神(おおかみ)が使者の派遣を請うのは、恐らく私の即位のことを告げるためであろう」と語り、吉報をもたらせば、清麻呂の官職位階(かんしょく・いかい)を重く上げてやる、持ちかけた。
と『続日本紀』(しょく・にほんぎ)の詔(みことのり)以外の箇所に書かれています。
という事は、詔(みことのり)そのものではないため、道鏡が清麻呂にすり寄ったという記述も『続日本紀』(しゅく・にほんぎ)の編纂者が当時の常識に沿って書いている可能性があるということです。
それで、宇佐八幡宮に到着した清麻呂は大神(おおかみ)から神託を受けますが、『続日本紀』には、このように記されています。
清麻呂行詣神宮。大神詫宣曰。我国家開闢以来。君臣定矣。以臣為君。未之有也。天之日嗣必立皇緒。無道之人。宜早掃除。
清麻呂は出かけていって神宮に着いた。大神は「わが国家は開闢(かいびゃく)より君臣の秩序が定まっている。臣下を君主とすることはいまだかつてなかったことだ。天つ日嗣(皇位)には必ず皇統の人を立てよ。無道の人は早く払いのけよ」と託宣した。
つまり、道鏡の即位が全否定されました。平城京に戻った清麻呂は、神のお告げのままに天皇に奏上しました。道鏡が愕然としたのはもちろんですが、称徳天皇までもが激怒することになりました。天皇に即位する、という野望を封じられた道鏡はともかく、なぜ称徳天皇までもが怒ったのでしょうか?
称徳天皇が中立の立場で清麻呂を宇佐八幡宮に派遣したのであれば、いかなる神託が持ち帰られたとしても受け入れるしかないはずです。そもそも清麻呂を宇佐八幡宮に向かわせたのは称徳天皇なのですから。しかも、側近の弟とは言えども、身分の低い清麻呂をわざわざ近くに呼び寄せ、直接指示をして八幡宮に向かわせたわけです。
『続日本紀』には記されていませんが、称徳天皇が清麻呂を招いた際に、称徳天皇が意向を伝えた可能性が高く、神託がそれに反していたから激怒したのでしょう。
それで称徳天皇は詔を発します。他の解釈の部分はともかく、詔については、正真正銘の称徳天皇の発言です。『続日本紀』には、このように記されています。
清麻呂来帰。奏如神教。於是、道鏡大怒。解清麻呂本官。出為因幡員外介。未之任所。尋有詔。除名配於大隅。其姉法均還俗配於備後。
清麻呂は帰京して、神のお告げのままに天皇に奏上した。道教は大いに怒り、清麻呂の官職を解いて因幡(いなばの)員外介(いんがいのすけ)に左遷した。清麻呂がまだ任地に着かないうちに続いて詔があり、官位をはく奪し籍を削って、大隅国(おおすみのくに)に配流(はいる)した。姉の法均(ほうきん)は還俗(げんぞく)させられ、備後国(びんごのくに)に配流(はいる)された。
その詔が『続日本紀』に記されています。
復清麻呂等〈波〉奉侍〈留〉奴〈止〉所念〈天己曾〉姓〈毛〉賜〈弖〉治給〈天之可〉。今〈波〉穢奴〈止之弖〉退給〈爾〉依〈奈毛〉、賜〈幣利之〉姓〈方〉取〈弖〉別部〈止〉成給〈弖〉、其〈我〉名〈波〉穢麻呂〈止〉給〈比〉、法均〈我〉名〈毛〉広虫売〈止〉還給〈止〉詔〈布〉御命〈乎〉、衆諸聞食〈止〉宣。復明基〈波〉広虫売〈止〉身〈波〉二〈爾〉在〈止毛〉、心〈波〉
一〈爾〉在〈止〉所知〈弖奈毛〉、其〈我〉名〈毛〉取給〈弖〉同〈久〉退給〈等〉詔〈布〉御命〈乎〉、衆諸聞食〈止〉宣。
また、清麻呂らは、忠実に仕える臣下と思えばこそ姓を授け、相応に取り計らいをしてきたのである。今は穢(きたな)い臣下として退けるのであるから、前に与えた姓を取り下げて、代わりに別部(わけべ)とし、その名も穢麻呂(きたなまろ)と変える。法均の名も、もとの広虫売(ひろむしめ)にかえすことにする、と仰せになるお言葉をみな承れと申し告げる。。
長いので、要点を記すと、
清麻呂の神託を受けた道鏡は大いに怒り、その官職を解き、因幡国の員外介に左遷しました。
その上で清麻呂が任地に到着しないうちに新たな詔が発せられ、官位は剥奪され、
『清麻呂は神託にかこつけて捏造した非道な妄言を吐いた。悪人は進言を待たずとも天地が示すものである。謀に関与した者は許すので改心せよ。法均、清麻呂の姉弟については名前を変えて追放する』という事です。
和気清麻呂(わけの・きよまろ)は別部穢麻呂(わけべの・きたなまろ)と名前を変えられ、姉の法均も還俗を強制されました。そして両名共に平城京から追放されてしまい、大隅国に流されてしまいました。
これを見ると、道鏡よりもむしろ称徳天皇の方が怒っている印象を受けます。この日の詔の中に
従五位下因幡国員外介輔治能真人清麻呂、其〈我〉姉法均〈止〉甚大〈仁〉悪〈久〉姦〈流〉妄語〈乎〉作〈天〉朕〈仁〉対〈天〉法均〈伊〉物奏〈利〉。
従五位下(じゅ・ごいげ)、因幡国員外介(いなばのくに・いんがいのすけ)の輔治能真人(ふじの・まひと)清麻呂(きよまろ)は、その姉、法均(ほうきん)と悪くよこしまな偽りの話を作り、法均は朕(ちん)に向かって、その偽りを奏上した。
称徳天皇が詔で指摘している「邪(よこしま)な偽りの話」とは、どこの部分なのでしょうか?
「無道の人である道鏡を早く払いのけよ」の部分を称徳天皇は許せなかった、つまり、称徳天皇は道鏡事件と無関係で、清麻呂が持ち帰った神託が道鏡を天皇にしてはならないと告げたことについては納得したものの、道鏡を廃せよという部分について清麻呂の捏造ではないかと激怒した、という説が有力です。が、他にも、称徳天皇は本気で道鏡を天皇として即位させようとしていた。だからこそ出発前の清麻呂を称徳天皇は身近に呼び寄せ、自分の意思を話した。それにもかかわらず清麻呂が真逆の神託を持ち帰ったため、「道鏡を天皇にできないのは仕方がないが、その後の道鏡排除の部分は許せん。これは作り話だろう」と言いがかりをつけて憂さを晴らしたという説などもあります。今となっては、いずれが本当なのか、よくわかりませんが。この説の通りだと、称徳天皇が皇太子について、抽象的な言い回しをして、はっきりと決めようとしなかった事につながります。
それはともかく和気清麻呂が宇佐八幡宮から持ち帰った神託は、その後の日本の歴史を決定付けることになりました。何しろ、神武天皇から連なる皇統以外の男子が天皇に即位することが、神様のお告げにより完全否定されてしまったのですから。それによって、その後は道鏡のように皇統とは無関係な男性が天皇になる道が閉ざされてしまったということです。
加えて、称徳天皇、道鏡時代に絶頂を迎えた神仏融合、あるいは鎮護国家化にも、ある程度の歯止めがかかりました。和気清麻呂は日本の男系の皇統断絶の危機を寸前で救ったというわけでした。
