孝徳(こうとく)天皇が病気でお隠れになられ、またもや、中大兄皇子の母親である皇祖母尊(すめみ・おやの・みこと)が斉明(さいめい)天皇として即位なさられました。一度譲位した天皇が再び即位することを重祚(ちょうそ)と呼びますが、日本では、皇極天皇・斉明天皇が初めて譲位も重祚もなさられたわけです。
天豐財重日足姬天皇(あめ・とよ・たから・いかし・ひたらしひめ・の・すめらみこと)は
最初は舒明(じょめい)天皇に嫁ぎ皇后になり、舒明天皇が亡くなると皇極(こうぎょく)天皇として即位なさられ、乙巳の変(いっしの・へん)を受け、弟の孝徳(こうとく)天皇に日本初の譲位を行い、孝徳天皇が崩御すると、またもや日本初の重祚をなさられました。日嗣の皇子(ひつぎの・みこ)は、またしても、息子である中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)でした。
それにしても、なぜ中大兄皇子は、そこまで、天皇に即位することを避けられたのでしょうか。権力と権威を分離した聖徳太子に習った方が好ましいと判断なされたのでしょうか。その事については、『日本書紀』に全く記述がないので想像するしかありませんが、恐らく、権力と権威を分離した方が良いと判断なさられたのでしょう。
その頃、朝鮮半島は激動の時代を迎えていました。大化元(645)年に乙巳の変(いっしの・へん)が起こりますが、その15年後である斉明(さいめい)天皇6(660)年に、朝鮮半島の百済が滅亡し、更に、天智(てんち)天皇7(668)年には、高句麗が滅亡します。任那滅亡が欽明(きんめい)天皇23(562)年なので、100年ちょっとの間で、唐突に朝鮮半島統一へと向かいました。
元々、朝鮮半島は、高句麗・新羅・百済という三国のみならず、任那及び日本、更には、支那という5ヶ国の力が渦巻く地域でした。朝鮮半島の3ヶ国が戦っていると、どこかの国が相手国の向こう側にある日本や支那に救援を求めて、挟み撃ちにしようとする、あるいは2ヶ国が同盟を組んで、残った国を叩く、というわけです。
当初は、朝鮮半島の3ヶ国とも、支那にも日本にも、朝貢を行なっていました。
『日本書紀』には、このように記されています。
是歲、高麗・百濟・新羅並遣使進調(百濟大使西部達率余宜受・副使東部恩率調信仁、凡一百餘人)。
斉明(さいめい)天皇1年、高句麗(こうくり)・百済(くだら)・新羅(しらぎ)は一緒に使者を派遣して調(みつき)を献上しました。
が、次第に、地政学、あるいは国の位置が理由で、新羅は唐(とう)帝国と結び、高句麗と新羅は日本と離れだしましたが、百済は日本と同盟関係を継続させていました。朝鮮半島の三ヶ国が戦っていると、どこかの国が相手国の向こう側の唐(とう)帝国や日本に救援を求めて、挟み撃ちにしようとする、あるいは二ヶ国が同盟を組んで、残った国を叩く、というわけです。新羅は唐帝国と結びましたが、高句麗は隋(ずい)の煬帝(ようだい)以降、支那から完全に危険視されており、隋の後を継いだ唐からも、一応、高句麗は冊封を受けていましたが、同じく冊封を受けていた新羅や百済と戦闘を繰り返し、三国が勝手な言い分を唐の朝廷に持ち込んで騒ぎ立てる事がしばしばで、唐帝国は当初は三国の融和を図ったのですが、西暦642年に、高句麗で反唐帝国派の淵蓋蘇文(えん・がいそぶん)が実権を握ると、高句麗を敵として扱うようになり、644年には高句麗に軍隊を送り込みました。
唐軍(とうぐん)と高句麗軍(こうくりぐん)は、激しい戦闘を繰り返しますが、唐側が決定的な勝利を得られないにもかかわらず、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民である鉄勒(てつろく)の軍隊が草原地帯から襲来し、唐帝国になだれ込みました。何しろ唐帝国の高句麗遠征は、初代皇帝とともに、唐帝国を建国した第2代皇帝である太宗(たいそう)、李世民(り・せいみん)が率いていました。皇帝が出陣するほど大がかりであった以上、鉄勒には様々な情報が入っていたはずです。
そのため、唐帝国の第1次高句麗遠征は失敗に終わりました。太宗李世民の死後、唐は高句麗に対し長期消耗戦を仕掛け、高句麗軍は次第に疲弊していきました。また唐は高句麗と完全な敵対関係にあったこともあって、新羅との関係を深めていきました。高句麗の向こう側の新羅と結び、挟み撃ちを謀ったわけでした。
新羅側は新羅側で、西暦650年には元号を唐帝国のものに改めるなどを行ない、唐との連携を深めていきました。
そして斉明(さいめい)天皇6(660)年、唐帝国は強国である高句麗よりも先に、新羅を圧迫している百済を攻撃することを決定し、唐の水軍が海路から百済に押し寄せて来ました。当然ながら、新羅も陸路で出兵しました。新羅軍はもちろん、大帝国である唐の軍隊までをも相手にせざるをえなかった百済は、将軍たちの奮戦むなしく、王都を包囲され、百済王の義慈王(ぎじおう)が降伏して百済は滅亡しました。
唐帝国の敵は高句麗。高句麗の向こう側の新羅と同盟関係にあるものの、新羅は百済と戦争しているので、高句麗を挟撃する余力がない。ならば、というわけで、先に新羅の主敵である百済を滅亡させたわけです。もっとも、百済は、国王が降伏し一旦は滅亡したものの、百済の王太子(おうたいし)の扶余 豊璋(ふよ・ほうしょう)が日本に滞在していたこともあり、すぐに百済復興運動が起きました。当時の日本と百済は、同盟関係にあったため、人質だったわけです。秦の始皇帝である政王(せいおう)が趙(ちょう)の邯鄲(かんたん)で人質として住んでいたのと同じです。政王は邯鄲で相当に冷遇されていたようですが、豊璋王(ほうしょう・おう)は日本の元号が大化(たいか)から白雉(はくち)に改元された際の儀式に出席していましたので、他国の王族として、それなりに優遇されていたようです。
『日本書紀』に、このように記されています。
白雉元年春正月辛丑朔、車駕幸味經宮、觀賀正禮(味經、此云阿膩賦)。是日、車駕還宮。二月庚午朔戊寅、穴戸国司草壁連醜經、獻白雉曰、国造首之同族贄、正月九日、於麻山獲焉。於是、問諸百濟君、百濟君曰、後漢明帝永平十一年白雉在所見焉、云々。
白雉(はくち)元年春1月1日。天皇が乗る車は味経宮(あじふのみや、つまり、難波長柄豊碕宮(なにわの・ながらの・とよさきのみや)に近い海辺)に行き、賀正の礼を観覧しました。味経は阿膩賦(あじふ)と読みます。
この日に車駕(しゃが)は宮に帰りました。
2月9日。穴戸国司(あなとの・くにの。みこともち)の草壁連醜経(くさかべの・むらじ・しこぶ)は白い雉(きじ)を献上して言いました。
「国造(くにの・みやつこ)の首(くびちょう)の同族が贄(にえ)として1月9日に麻山(おのやま)で捕らえました」
それで諸々を百済君(くだらの・きみ、つまり、百済王子で人質として日本に来ている豊璋(ほうしょう)の事)に問いました。百済君は言いました。
「後漢(ごかん)の明帝(めいてい)の頃、永平(えいへい)11年に白い雉子(きじ)が所々に見られました」とかなんとか言いました。
その豊璋王を百済復興派が担ぎ上げたわけです。
『日本書紀』には、このように記されています。
高麗沙門道顯日本世記曰、七月云々。「春秋智、借大將軍蘇定方之手、使擊百濟亡之。或曰、百濟自亡。由君大夫人妖女之無道擅奪国柄誅殺賢良、故召斯禍矣、可不愼歟、可不愼歟。」其注云「新羅春秋智、不得願於內臣蓋金。故、亦使於唐捨俗衣冠請媚於天子、投禍於隣国而搆斯意行者也。」伊吉連博德書云「庚申年八月百濟已平之後、九月十二日放客本国。十九日發自西京、十月十六日還到東京、始得相見阿利麻等五人。十一月一日、爲將軍蘇定方等、所捉百濟王以下・太子隆等・諸王子十三人・大佐平沙宅千福・国辨成以下卅七人幷五十許人、奉進朝堂、急引趍向天子。天子、恩勅見前放着。十九日賜勞、廿四日發自東京。」
高麗(こま)の法師(ほうし)の道顯(どうけん)の『日本世記』(にほんせいき)によると、7月に云々(うんぬん)。
春秋智(しゅんしゅうち、こと、新羅の武烈王(ぶれつおう)。本名は金春秋(きん・しゅんじゅう)は唐の大将軍の蘇定方(そていほう)の手を借りて、百済を挟み撃ちにして滅ぼしました。あるいは、百済は自ら自然と滅びてしまいました。君主の大夫人(はしかし)の妖女(たわめのこ)が暴悪非道なふるまいをして、欲しいままに権力をふるって、賢く正しい人と誅殺してしまったために、この災いを招いたとも言います。慎ましくありませんでした。
その注釈によると新羅の春秋智は、高句麗の内臣(ないしん)の淵 蓋蘇文(えん・がいそぶん)に百済征伐を依頼しましたが、援軍を得られませんでした。それで唐(とう)に使者を送って、自国の風習の衣服や冠を捨てて、天子に媚びて請願して、百済に侵略する計画を構えたと言います。
伊吉連博徳(いきの・むらじ・はかとこ)の書によると、庚申年(かのえ・さる・の・とし)(西暦660年)8月。百済はすでに平定され、9月12日に客人(まれびと)を本国に帰しました。9月19日に首都の長安(ちょうあん)を出発しました。10月16日に帰って洛陽(らくよう)に到着して、初めて、東漢直阿利麻(やまとのあや の なが の ありま)たちと再会できました。11月1日に将軍の蘇定方(そていほう)たちのために捕らえられた百済の義慈王(ぎじおう)とその太子の隆(りゅう)など、もろもろの王子13人と、大佐平(「だいさへい」という官職)の沙宅千福(さたくせんふく)・国弁成(こくべんじょう)より以下の37人、合わせて50ほどの人が、朝堂(みかど)に献上されました。急いで天子の元へと引き出されました。天子は、慈愛をかけ、許しました。11月19日に(遣唐使たちを)ねぎらいました。11月24日に洛陽から出発しました。
高句麗の僧の「道顯」(どうけん)の書いた『日本世記』という本からの引用ですが、高句麗の僧が「日本」という国号を使っている事からも、別の動画で解説しているように「大化の改新」から「日本」という国号が使われ出したという説は間違いないのでしょう。道顯は、中臣鎌足(なかとみの・かまたり)と仲が良かったらしく、藤原家の書物にも登場しています。残念ながら、『日本世記』も現存しておらず、『日本書紀』に引用が記載されているのみです。とはいうものの、『古事記』以前に、日本について書かれた「本」は、我が国だけでなく、諸外国にも多数存在していたわけです。
百済滅亡と復興派が反乱を起こしたという知らせを受け、扶余 豊璋(ふよ・ほうしょう)は日本の朝廷に帰国を願い出ました。
百済の反乱軍のリーダー鬼室福信(きしつ・ふくしん)は、日本に使者を送り援軍の派遣と扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)の帰還を願い出ました。
『日本書紀』にはこのように記されています。
冬十月、百濟佐平鬼室福信、遣佐平貴智等、來獻唐俘一百餘人、今美濃国不破・片縣二郡唐人等也。又乞師請救、幷乞王子余豊璋曰(或本云、佐平貴智・達率正珍也)「唐人率我蝥賊、來蕩搖我疆埸、覆我社稷、俘我君臣。百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・国辨成・孫登等凡五十餘、秋於七月十三日、爲蘇將軍所捉而送去於唐国。蓋是、無故持兵之徵乎。而百濟国遙頼天皇護念、更鳩集以成邦。方今謹願、迎百濟国遣侍天朝王子豊璋、將爲国主。」云々。詔曰「乞師請救聞之古昔、扶危繼絶著自恆典。百濟国窮來歸我、以本邦喪亂靡依靡告。枕戈嘗膽、必存拯救。遠來表啓、志有難奪。可分命將軍百道倶前、雲會雷動倶集沙㖨、翦其鯨鯢紓彼倒懸。宜有司具爲與之、以禮發遣。」云々。送王子豊璋及妻子與其叔父忠勝等、其正發遣之時見于七年。或本云、天皇、立豊璋爲王・立塞上爲輔、而以禮發遣焉。
斉明(さいめい)天皇即位6年冬10月。百済の佐平(さへい)という官位の鬼室福信(きしつ・ふくしん)は佐平の貴智(きち)たちを派遣して、日本に来て、唐の虜囚100人余りを献上しました。今、美濃国(みののくに)の不破(ふわ)・方県(かたあがた)の2つの郡の唐人(もろこしびと)たちです。また、師団を乞い願い、救いを請いました。合わせて、日本に人質になっていた百済の王子の余豊璋(よ・ほうしょう)を乞うて、言いました。
ある本によると佐平の貴智と達率(だちそち)という官位の正珍(しょうちん)です。
「唐人は悪い敵を率いて来て、われらの国境をゆり動かして、我が国を転覆させ、われらの君主・臣下を虜囚にしました。
百済の王の儀慈(ぎじ)、その妻の恩古(おんこ)、その子の隆(りゅう)、佐平の千福(せんふく)・国弁成(こくべんじょう)・孫登(そんとう)など、全部で50人余り。秋7月13日に蘇 定方(そ・ていほう)に捕らえられて、唐国に送られました。もしかして、これは理由もなく兵器を持つ兆候か。
百済国は、遥かな天皇の護念(みめぐみ)に頼って、求め集めて国をなしました。今、慎み、願うのは、百済国の、天朝(みかど)に派遣して仕えている王子の豊璋(ほうしょう)を迎えて、国の主としようということです」うんぬん。
斉明天皇は詔(ミコトノリ)して、おっしゃられなさいました。
「師団を乞い、救援を請願することは、古昔(いにしえ)からある事です。危機を助け、絶えた国を継承するのは、恒久的な自然の摂理に表れています。百済国は窮乏して、それで日本に来て、我に頼っているのです。本国が滅び、乱れて、頼るところ無く、言いようも無い。戈(ホコ)を枕にして、胆(きも)を嘗(な)めています。必ず救って欲しい、と遠くから来て、言っています。志を奪うことは難しいものです。将軍に分けて銘じて、いろんな方向から共に進みなさい。雲のように会い、雷(いかづち)のように動いて、共に朝鮮の沙㖨(サタク)周辺に集まれば、その敵を斬り、その差し迫った困難を緩めてあげなさい。役人を細かく分けて、礼を持って出発しなさい」と、うんぬん。
王子の豊璋とその妻子と、その叔父の忠勝(ちゅうしょう)たちを送りました。その出発し派遣されたのは即位7年です。
ある本によると、天皇は豊璋を王として、豊璋の弟の塞上(さいじょう)を補佐として、礼を持って出発し派遣しました。
百済の反乱軍から救援要請を受け、斉明(さいめい)天皇、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は出兵を決断しました。余豊璋(よ・ほうしょう)を帰国させ、中大兄皇子は斉明天皇とともに軍を率い、九州に向かいました。かつての神功皇后のように、女帝の斉明天皇が自ら軍隊を率いて朝鮮半島にまで渡ろうとなされてたのでしょうが、斉明天皇は西征の途上でお隠れなさってしまいました。斉明天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらの・たちばなの・ひろにわのみや)にお移りになさられたのですが、お宮を建設する際に、朝倉の社(やしろ)の木を切り払ってしまったため、雷神や鬼神など神々の怒りをかったことが『日本書紀』では示唆されています。
五月乙未朔癸卯、天皇遷居于朝倉橘廣庭宮。是時、斮除朝倉社木而作此宮之故、神忿壤殿、亦見宮中鬼火。由是、大舍人及諸近侍病死者衆。丁巳、耽羅始遣王子阿波伎等貢獻。(伊吉連博德書云「辛酉年正月廿五日還到越州、四月一日從越州上路東歸、七日行到檉岸山明。以八日鶏鳴之時順西南風、放船大海。海中迷途、漂蕩辛苦。九日八夜僅到耽羅之嶋、便卽招慰嶋人王子阿波伎等九人同載客船、擬獻帝朝。五月廿三日奉進朝倉之朝、耽羅入朝始於此時。又、爲智興傔人東漢草直足嶋所讒、使人等不蒙寵命。使人等怨徹于上天之神、震死足嶋。時人稱曰、大倭天報之近。」
斉明天皇即位7年5月9日。天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらの・たちばなの・ひろにわのみや)にお移りになられて居らっしゃいました。この時に朝倉社(あさくらの・やしろ、こと、福岡県朝倉郡朝倉町山田にある麻氐良布神社【あてらめ・じんじゃ】)の木を切り除いて、この宮を作ったために、神が怒って殿(おおとの)を壊しました。また宮の中に鬼火(おのび)が見られました。それで大舎人(とねり)と近くに仕える諸々(もろもろ)の多くの者が病気になって死にました。
5月23日。耽羅(たむら、こと、済州島(さいしゅうとう))が初めて、王子の阿波伎(あはぎ)などを派遣して、貢(みつき)を献上しました。
伊吉連博徳(いきの・むらじ・はかとこ)の書によると、
辛酉年(かのと・とり・の・とし)(西暦661年)1月25日。帰って越州(えっしゅう、こと、江南道(こうなんどう)の一部)に到着しました。
4月1日。越州から道を登って、東に帰りました。
4月7日。檉岸山(ていがんさん)の南に到着しました。
4月8日。鶏(にわとり)の鳴く頃に、西南の風に従い、船を大海へと放ちました。海の中の道に迷い、漂流し苦労しました。9日と8夜経って、やっと耽羅嶋(たむら、こと、済州島(さいしゅうとう))に到着しました。すぐに島に住んでいる王子の阿波伎(あはぎ)たち9人を招き慰労して、同じく客人の船に乗せて、帝朝(みかど)に献上しようとしました。
5月23日に朝倉の朝(みかど)に献上しました。この時から、耽羅(たむら、こと、済州島(さいしゅうとう))が朝廷の傘下に入りました。
また、智興(ちこう)が傔人(ともびと、こと、留学生につく後見人の役人)の東漢草直足嶋(やまとの・あやの・かやの・あたい・たりしま)の嘘の密告によって、使者たちは天皇からの援助が受けられませんでした。使者たちの恨みは、上天(あめ)の神に通り、足嶋(たりしま)を雷に打たれて死なせました。その時代の人は言いました。
「大倭(やまと)の天の報復は早いなぁ」
六月、伊勢王薨。秋七月甲午朔丁巳、天皇崩于朝倉宮。八月甲子朔、皇太子奉徙天皇喪、還至磐瀬宮。是夕於朝倉山上有鬼、着大笠臨視喪儀、衆皆嗟怪。
斉明天皇即位7年6月。伊勢王(いせの・おおきみ)が亡くなりました。
秋7月24日。天皇は朝倉宮(あさくらの・みや)でお隠れになられました。
8月1日。皇太子は天皇の喪を行い、磐瀬宮(いわせの・みや)に帰られなさいました。この夕に朝倉山の上に鬼が有り、大笠(おおかさ)を着ていて、喪の儀式を臨み見ていました。衆人は皆、奇怪に思いました。
皇太子であり斉明天皇の息子である中大兄皇子は、すぐには即位せず皇太子のまま政治を差配したのですが、何しろ朝鮮半島の情勢は大変切迫していました。皇子は福岡県の長津宮(ながつの・みや)に戻り、百済派遣軍の指揮をとる事になりました。
乙巳の変以降、大化の改新、百済滅亡、相次ぐ天皇の崩御、などがあり、当時の日本自体が大混乱期でした。
しかも皇極(こうぎょく)天皇3(西暦644)年以降、朝鮮半島では唐帝国と高句麗・新羅と百済が血みどろの死闘を展開していたわけです。当然ですが、日本は高句麗や百済の救援要請に応じ、何度も半島に出兵し、唐軍や新羅軍と戦闘をしています。
そして運命の天智(てんち)天皇2(西暦663)年。前年に帰国していた余豊璋(よ・ほうしょう)が、百済の王族・将軍である鬼室福信(きしつ・ふくしん)との関係が悪化し衝突し、結局、鬼室福信は余豊璋によって処刑されてしまいました。
余豊璋を担ぎ上げた鬼室福信が殺されたことを知った新羅は、好機!とばかりに旧百済地域になだれ込んできました。もっとも、日本からの支援を受けていた余豊璋は、百済南部の新羅軍を撃退することには成功しました。ところが、もちろん、それで百済独立という話にはならず、今度は本命の唐軍が海を越えてやって来ました。
日本・百済・連合軍と唐・新羅・連合軍が朝鮮半島西部の白村江(はくすきのえ)で激突しました。
「白村江の戦い」がいかなる顛末になったのか、『日本書紀』にはこのように記されています。
戊戌、賊將至於州柔、繞其王城。大唐軍將率戰船一百七十艘、陣烈於白村江。戊申、日本船師初至者與大唐船師合戰、日本不利而退、大唐堅陣而守。己酉、日本諸將與百濟王不觀氣象而相謂之曰、我等爭先彼應自退。更率日本亂伍中軍之卒、進打大唐堅陣之軍、大唐便自左右夾船繞戰。須臾之際官軍敗績、赴水溺死者衆、艫舳不得。朴市田来津仰天而誓。切齒而嗔、殺数十人。於焉戦死。是時百済王豊璋与数人乗船逃去高麗。
天智(てんち)天皇2年8月17日。新羅の将軍は州柔(つぬ)に到着して、その王城を囲みました。大唐(だいとう)の軍の将軍は戦船(いくさぶね)170艘を率いて、白村江(はくすきのえ)に陣を張って連なりました。
8月27日。日本の船師(ふな・いくさ)の最初に到着したものと大唐の船師(ふな・いくさ)が出会って戦争になりました。日本は不利となり負けて退却しました。大唐は守りを固めました。
8月28日。日本の諸々の将軍と百済王の豊璋(ほうしょう)は状況を観ずに、語り合って言いました。
「我らが先に戦争を仕掛ければ、彼らは自然と退却するでしょう」
日本は統率が乱れた兵卒を率いて進んで、大唐が陣を固めている軍に攻撃を仕掛けました。大唐は左右から船を挟んで囲んで戦いました。あっという間に、日本軍は破れ続けました。水に落ちて溺れて死ぬ者が多く、船の舳先と船尾を回旋させることができませんでした。朴市田来津(えちの・たくつ)は天を仰いで誓い、歯を食いしばって怒り、数十人を討ちましたが、戦死してしまいました。この時、百済王の豊璋は数人と船に乗って高句麗に逃げ去りました。
惨敗です。しかも敵を甘く見てて、戦い慣れていないのを感じます。当時の唐軍は130年以上も続いた五胡十六国(ごこ・じゅうろっこく)時代を終わらせた隋(ずい)に取って代わり、更には、高句麗や北方騎馬民族と死闘を繰り広げていた当時の世界最強の軍隊でした。それに対し、日本側は朝鮮半島以外の国との対外戦争の経験がなく、肝心の百済反乱軍が内紛を起こしているような有様でした。白村江(はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍が勝利し、ここに百済の滅亡と日本の朝鮮半島における権益の消滅が決定したわけです。
白村江(はくすきのえ)に集結した1,000隻の日本の水軍のうち、400隻が炎上。生き残った日本船は、旧百済地域で転戦中の兵士や同盟を望む百済移民を乗せ、なんとか日本まで帰国することができました。
扶余 豊璋(ふよ ほうしょう)は高句麗に逃げ延びたのですが、その高句麗も西暦668年、つまりは白村江の戦いのわずか5年後に滅亡しました。扶余 豊璋は高句麗王(こうくり・おう)とともに捕らえられ、唐の都に送られ、後に嶺南(れいなん)に流刑になり、その地で没しました。
百済が滅亡したので、今度は、安全保障上、日本は自ら唐軍や新羅軍に対して防備を固めなければならなくなりました。中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は、唐軍襲来への備えとして、白村江(はくすきのえ)の戦いの翌年、対馬(つしま)・壱岐(いき)、そして、筑紫国(つくしのくに)、今の福岡県に防人(さきもり)と、のろし台をお置きになられました。
中大兄皇子が天智(てんじ)天皇として即位したのは、天智天皇7(西暦668)年。白村江(はくすきのえ)の敗北から5年が過ぎ去っていました。そして天智天皇は、早くも弘文(こうぶん)元(672)年にお隠れになられました。中大兄皇子が天皇として即位していたのは、わずか4年ですが、天智天皇が日本の最高権力者になったのは、乙巳の変が起きた大化元(645)年なので、27年間、権力を維持し続けたことになります。
ちなみに、中臣鎌足(なかとみの・かまたり)は、天智天皇が即位した翌年、天智天皇8(669)年に亡くなっています。
冬十月丙午朔乙卯、天皇、幸藤原內大臣家、親問所患、而憂悴極甚、乃詔曰「天道輔仁、何乃虛說。積善餘慶、猶是无徵。若有所須、便可以聞。」對曰「臣既不敏、當復何言。但其葬事、宜用輕易。生則無務於軍国、死則何敢重難」云々。時賢聞而歎曰「此之一言、竊比於往哲之善言矣。大樹將軍之辭賞、詎可同年而語哉。」
庚申、天皇、遣東宮大皇弟於藤原內大臣家、授大織冠與大臣位、仍賜姓爲藤原氏。自此以後、通曰藤原內大臣。辛酉、藤原內大臣薨。(日本世記曰「內大臣、春秋五十薨于私第、遷殯於山南。天、何不淑不憖遺耆、鳴呼哀哉。」碑曰「春秋五十有六而薨。」)
甲子、天皇、幸藤原內大臣家、命大錦上蘇我赤兄臣奉宣恩詔、仍賜金香鑪。
天智天皇(てんじてんのう)8年冬10月10日。天皇は藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)の家に行き、自ら病状を問いました。しかし、憂いて、憔悴している様子は極めてひどいものでした。天智天皇は詔(みことのり)しておっしゃられなさいました。
「天道(あめのみち)が仁(めぐみ)を助けるものなどというのは、虚説(いつわりごと)だろう。善を積んで、慶(よろこび)があるが、しかし、その兆候が無い。もし、やるべき事があるならば、何でも言ってくれ」
答えて言いました。
「私のような愚か者に何を申し上げることがありましょうか。ただ1つ、私の葬儀は簡素なものにしていただきたい。生きては軍国(おおやけ)のためにお役に立てず、死にあたってどうして御厄介をかけることができましょうか」うんぬん。その時代の賢人はそれを聞いて褒めて言いました。
「この一言は、昔の賢い人の名言に匹敵するものでしょう。大樹将軍(だいじゅ・しょうぐん)が賞を辞したのと、いずれ、同じにして語るべきでしょう」
10月15日。天皇は東宮大皇弟(ひつぎのみこ、こと、大海人皇子(おおあまの・おうじ))を藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)の家にお遣いなされて、大織冠(だいしきの・かんむり)と大臣(おとど)の位を授けました。それで姓(うじ)を与えて、藤原氏(ふじわらの・うじ)としました。これから以後、通称として、藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)と言うようになりました。
10月16日。藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)は亡くなりました。
「日本世記」によると、
「内大臣は50歳で自分の家で亡くなりました。遺体を移して山の南で殯(もがり)をしました。天はどうして、老人である鎌足を残さなかったのでしょうか。あぁ、悲しいなぁ!
石碑によると56歳で亡くなったそうです。
10月19日。天皇は藤原内大臣(ふじわらの・うちのおとど)の家に行きました。大錦上(たいきんじょう)の蘇我赤兄臣(そがの・あかえの・おみ)に銘じて、恩詔(めぐみの・みことのり)を述べさせ、金の香炉を与えました。
実際、中大兄皇子こと天智天皇の時代は、内憂外患、難題が外から中から次々に襲いかかってくる時代でした。鎌足は死に際し、天智天皇から藤原姓をたまわります。中臣鎌足改め、藤原鎌足の子孫が現在に続く藤原家の一族ですね。鎌足や天智天皇がこの世を去り、日本国は荒れ果てた国内を立て直す必要に迫られる事になりました。
