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戦時内閣の総理大臣・東條英機 〜本当にヒトラーに並ぶ「独裁者」だったのか? 世界史を変えた男の人生

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大東亜戦争開戦時の総理大臣だった東條英機(とうじょう・ひでき)は東京裁判で死刑になった人物です。なので、大東亜戦争では、「最も悪い奴」と見なされていて、ヒトラー、ムッソリーニなどと並べられています。

 

特に戦後直後のアメリカなどでは、「東條」というと、日本の独裁者であり、戦争に駆り立てた軍国主義者と見なされていました。それが戦後の日本人にも植え付けられていて、「東條英機は大悪人なので、靖国神社に祀られる資格がない」と、中国、韓国政府が言っているように思っている日本人も少なくありません。

 

「ああいう戦犯になったような人達は、分祀するなり何なりするなり、靖国神社から取り去って、中国からの非難を避けるべきである」というような意見もよく目にします。

 

ところで、東條英機とは、どういう人だったのでしょうか?

 

東條英機の父親も、非常に秀才の陸軍軍人で、日本に兵学教官として赴任したドイツ帝国の軍人、クレメンス・ヴィルヘルム・ヤーコプ・メッケルも、非常に期待していた優秀な軍人でした。ただ、東條英機の父親は、中将までで出世が止まってしまいました。その理由が、戦法がメッケル式だったから、と言われています。非常に合理的で、自軍の被害が大きくなりそうな無茶な攻撃を避けていたため、「勇気がない」と思われて、出世コースにいたものの、本当の出世はしなかった、というような人でした。

 

息子の東條英機もまた、軍人の道を歩みました。

 

蒙古から満州の戦場で、ある事件が起こった時、東條英機は、東條兵団という軍団を指揮して、極めて短時間で使命を達成しました。その時、急に寒くなりました。普通なら、たくさんのしもやけ患者が出ても不思議ではないのですが、東條英機は、ただちに手配して、1人の凍傷患者も出さなかったため、当時の軍人達からは、名将と呼ばれるようになりました。当時の軍隊では、医者の進路だけ重んじられて、しばしば、歩兵達への被害は、無視される傾向がありましたが、東條英機は、非常に兵隊さんを大切にしました。

 

その後、東條英機は、第二次近衛(このえ)内閣の陸軍大臣として入閣しました。その頃、二・二六(にぃにぃろく)事件のゴタゴタが続いており、軍の中の統制が利いていなかったため、期待されて登用されました。

 

東條英機という人は、当時、「真面目に之繞(しんにゅう)をかけたような人、真面目の権化みたいな人」と言われていたそうで、いかなる場合でも、丹念に、人の話を聞き、何でもメモを取り、それをよく整理し、記憶していた、大変有能な軍官僚でした。軍隊の中でも、みんな東條に任せると安心だという感じもあったのだと思われます。それで、当時、支那事変が混迷していたため、陸軍を押さえられる人物ということで、東條英機に白羽の矢が立ったわけでした。

 

 

 

「東條英機に戦争の責任がある」といえば、三国軍事同盟をやった近衛内閣にいたという事です。支那事変を引き起こされたのは、近衛文麿(このえ・ふみまろ)の責任ですから。

 

盧溝橋事件が支那事変を引き起こす発端になったと言われています。ただ、別の動画でも語っていますが、中国側からの謝罪もあり、盧溝橋での話はついたのですが、支那大陸各地でも引き続き事件が起こる、そのきっかけとなりました。

 

当時の大本営の作戦部長であった石原莞爾(いしわら・かんじ)は、「絶対に支那と、大陸で戦ってはいけない。日本陸軍の本当の敵はソ連なので、そんな所で余分な力を使っている暇はない」と考えていましたから、日本が侵略戦争を起こすということは考えられませんでした。今では、「あれは中国共産軍が挑発した」という事が分かっています。なにしろ、毛沢東自身が認めていますから。

 

その後、それが治まらずに、だんだん拡大していきました。本格的な「支那事変」の始まりは「第二次上海事変」で、「西安事件(せいあんじけん)」などを経て、支那事変という、国民党政府との本格的な戦闘へと繋がっていきました。

 

そして、西暦1937(昭和12)年12月に、中華民国の首都南京を占領。その時も、参謀本部は、「絶対に戦争をやめる」と言っていたのですが、どうにもやめさせない勢力が近衛総理を動かしたようでした。現在の財政破綻論が大ウソだと歴代総理もよくわかっているのに、何も出来ないのと同じ事でしょう。

 

当時、近衛総理の周囲は、左翼で固められていました。といっても、共産主義者ではありませんが。そもそも、共産主義者は皇室廃止を訴える人達で、その頃は、皇室廃止などと叫ぶ人は、共産党員しかいませんでしたから。そういった人達は、みんな悔い改めたか、あるいは網走刑務所に投獄されていました。

 

ただ、社会主義者は、いっぱい、いました。この人達が戦争か事変を止めさせないように工作し続けました。支那事変が起こって分かったことは、戦争さえやっていれば、いくらでも社会主義的な法律が通せる、という事だったからです。それで、どんどん、事変を拡大させ、負けない戦争を続けさせておけば、日本の中では、どんな社会主義改革でも通せるという事でした。

 

 

 

例えば、地代家賃統制法という、「不動産には意味がありません」というような私有財産を否定する法律まで通ってしまいました。それがきっかけとなり、だんだん家庭でも産業界でも、配給制の方にジワジワと移行していく事になり、本当の社会主義体制ができあがるよういなるわけです。

 

「ロシア革命のようなものを起こさないでも、社会主義の社会が実現できる」という事がわかったので、それを望む人達が、近衛総理を取り囲むようになっていきました。「戦争だと言えば、日本人は何でも言うことを聞く」といったような感じでした。

 

ただ、当チャンネルの別の動画でも説明していますが、このような単純な理由だけで、あのような大戦争は起きませんが、こういった一面もあったという事です。

 

なので、東條が陸軍大臣になった時には、そういう軌道の上を日本が驀進していたわけです。

 

東條は、軍人としては強行派で、当時の支那というものをよく知っていて、適当な妥協策を提案しても意味がない事をよく知っていました。現在の日本や中国や韓国などと同じです。

 

そのうち、アメリカとの交渉も上手くいかなくなっていきました。戦前の日本は、今以上に貿易に依存しており、その最大の輸入元でした。中国との関係もあり、アメリカが石油などを売ってくれなくなり、エネルギー安全保障が崩壊しました。国民生活も儘ならず、帝国主義の時代だったので、いきなり攻め込まれても何の抵抗も出来ず、植民地にされてしまう危険も大でした。本当に緊急問題となり、戦争せざる状態に追い込まれていきました。東條が首相になった時には、戦争せざるをえない状況で、すっかり計画ができあがってしまっていました。

 

ところが、東條英機が首相に就任すると、昭和天皇が「絶対平和を望んでいらっしゃられる」ということが分かり、東條は、ただちに、本気で平和を求める工作をし出しました。ところが、アメリカのルーズベルト大統領は、突如、日本が絶対に呑めないような条件を押し付けてきたために、戦争に突入する事になりました。

 

アメリカとか他の国でも、東條はヒトラーと並ぶような独裁者だというそういうイメージがあります。ところが、日本には、独裁どころか、本当の意思決定機関がありませんでした。東條は、首相になって初めてその事に気づくことになりました。

 

 

 

おまけに、国際事情においても、東条には出来ることがありませんでした。

盧溝橋、それから後に、上海で、通州で、西安で、事件が起こりましたが、いずれも支那側から攻めてきたわけです。ところが、戦争が一端起こってしまえば、どんどん発展していきます。支那大陸には、各国の大使館だとか、外国人が警察・行政を管理した一定の地域である租界があり、日本の思惑だけではどうにもなりませんでした。

 

租界というのは、今では死語となりましたが、当時の支那にはたくさんありました。イギリス租界・フランス租界・日本租界・アメリカ租界などです。植民地なので、支配権がアメリカ租界ならアメリカにあり、イギリス租界ならイギリス租界にあったわけです。そういう所から見ても、国際問題が非常に複雑でした。

 

なので、軍事だけでどうにか出来るわけもなく、支那事変が起きると、大本営政府懇話会というのが作られました。戦闘が行われている最中(さなか)に、懇話会などというのもおかしな話なのですが。この懇話会の出席者は、総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・参謀総長・海軍大臣・軍令部総長の6名で、この人達が懇談して、そこで決まったことが日本の方針という訳でした。だから懇談会を支配できる人は、いませんでした。「何事も話し合って決めるべし」というのは、聖徳太子からの伝統ですが。話し合って、「まあまあ、なあなあ」で決める人がいないわけです。しかし、やっているうちに、「いくらなんでも、どんどん戦争が大きくなっているのに、懇話会じゃおかしいんじゃないか」ということになり、最高連絡会議に変更され、大本営政府連絡会議という名前が使われるようになりました。

 

懇話会よりは大分良いですが、連絡会議でも大きな決定をしなければならないことがあるわけです。例えばアメリカといよいよ戦争をするか、などという場合のように。

懇話会で決められるわけですが、懇話会での決定とはいえ、それだけでは日本国民も帝国議会も、さすがに承知しません。それで、非常に重要なことを決める連絡会議の時には、天皇陛下にご出席していただき、席に座っていただかれるわけです。天皇陛下は座っていただくだけで、ご意見を述べられることもありません。

 

天皇陛下がお座りになられた時点で、連絡会議の結論は、あらかじめ決まっていましたから。それを御前会議(ごぜんかいぎ)と呼んで、ものすごく箔をつけたわけです。国民もマスコミも、御前会議というと、天皇陛下がご出席の上で決断されたと思われ、これは動かし難いと考えたわけです。

 

実際は連絡会議で、「まあ、まあ、なあ、なあ」の結果でしたが。会議を開いて、「そうするよりしょうがあるまいな、まあそうだろうな」という事で、中心の6人が決めます。そこに天皇陛下にご出席を願う訳です。

 

 

 

 

それで、東條が首相になる前の御前会議で、アメリカと戦争をするという方針が固まっていたのですが、それでも東條は、それを元に戻して、もう1度アメリカと平和交渉をしようとしました。それまでは、陸軍大臣なので、天皇陛下のご意見を直接聞く機会は、あまりありませんでしたから。

 

東條は首相就任後、天皇陛下が、本当に戦争は避けたい、というお考えだということが分かったので、御前会議を元に戻して、またやり直して、アメリカと必死の交渉を始めました。

 

しかし、アメリカのルーズベルト政権の中に入り込んだソ連のスパイの手によって、ハル・ノートという、とんでもないものが書かれ、それが突き付けられたために、戦争に突入することになったわけでした。1940(昭和15)年夏から、日本の通信が全てアメリカ側にバレていて、どうしても日本側から手を出させたいアメリカ側の罠にハマった訳ですが、アメリカが悪いというよりも、暗号の管理に重きを置かなかった日本側の大失態でした。

 

東條は大日本帝国の首相ではあったけれども、アメリカのルーズベルトのような権限を持っていませんでした。戦時中ならなおさら、空軍だろうが海軍だろうが陸軍だろうが国民だろうが、誰にでも最終的な命令をすることができたわけです。ルーズベルトと同じく、ドイツではヒトラー、イタリアではムッソリーニ、ソ連ではスターリン、も全てにおいて命令することができました。

 

ところが、東條には、全くそのような権限がなく、いわゆる連絡会議でしか、物事が決まりませんでした。日本は議院内閣制の民主主義国家だったため、独裁国家の指導者のようなわけにはいかなかったからです。

 

東條総理は、陸軍大将も兼任していました。陸軍大臣は軍政であり、戦争の作戦ではない軍備などを担当していました。ところが、実際に作戦を練って軍隊を動かすのは、参謀本部でした。で、参謀本部と首相の意見が、食い違ったり、物事が滞らずに行かなかったりする事もしばしばありました。「これはまずい」と感じた東條総理は、参謀総長を兼ねました。陸軍大臣という軍政の面とそれから参謀総長という軍略の面の両方を同時に担ったわけです。

明治以降、初めての事でした。だから、戦後、当時を独裁などと言われましたが、それは陸軍の中だけの話でした。

 

 

 

 

戦争をするためには、色々な物資を自由に動かさなくてはいけないのですが、戦争が最優先事項だったので、一時は軍事物資のために、軍需大臣(ぐんじゅだいじん)になったこともありましたし、短期間ではありましたが、文部大臣になったこともありました。とにかく、東條総理は、3つや4つの大臣を兼任したこともありました。そして、軍略の方の参謀総長も兼任しました。このため東條独裁という声があったわけです。

 

しかし、東條総理は、現職の陸軍大臣ではあったものの、日本の当時の制度では、海軍には口出しが出来ませんでした。海軍が何をするかどうかは、海軍に承らなければいけません。海軍にこうしろと命令する事ができないので、連絡会議で希望を述べて、報告を聞くだけでした。なので、首相・陸軍大臣に、海軍の方が常にいつも本当のことをすぐに伝えていたかどうかはわかりませんでした。

例えばミッドウェー海戦の大敗北なども、いつ頃、東條総理の耳に入ったのか、など、よく分かりません。正確にすぐに伝えたとは、とても思われませんでした。なので、東條総理は、「日本の当時の情報員からアメリカの情報を取るよりも、海軍からの情報を取る方が難しい」と言ってたという、嘘か本当か、わからない、そういう話が伝わっているくらい、自分の国の太平洋での戦争情勢が直接把握できていませんでした。

 

そういうのが当時の日本の体制であり、東條英機は独裁者とは程遠い存在でした。これはアメリカ人には理解できないから、東條をヒトラーと並べるわけです。

 

大本営と政府の連絡会議も、最高戦争指導者会議(最高戦争指導会議)に名称変更されますが、結局は、中身は同じ連絡会議、さらにさかのぼれば、大本営政府懇話会と同じ内容でした。

 

で、サイパンが落ちた時に、当時大臣の1人であり、安倍晋三元総理の祖父で、戦後、総理大臣になった岸信介(きし・のぶすけ)が、「サイパンを落とされたのでは、とても戦争にならない」と言い出しました。日本は国内の天然資源は、極めて限られていて、戦争資源が、全然足りませんでした。石油もゴムもないわけですから。この輸入先であるサイパンを落とされると、日本国内に順調に入らなくなる。だから戦争はこの辺でやめなければならない、というようなことを言ったわけです。

 

東條にしてみれば、「始めた戦争を、そう簡単にやめられるか」という気もあったのだと思われます。しかし、戦前の日本の総理大臣には、国務大臣の首を切る権限がありませんでした。だから、どうしても辞めさせたい大臣がいるという時には、内閣総辞職するしか方法がありませんでした。内閣が総辞職すれば、自動的に閣僚は、全員、罷免されますから。そして、もう1度、大命降下(たいめいこうか)、つまり、天皇陛下から「組閣せよ」という命令がくれば、第二次なり第三次なりの政権で、気にいらない者を大臣にさせない事ができるわけです。東條総理も、岸大臣一人が反対したために、内閣を解散しました。

ただ、大命降下(たいめいこうか)は重臣などの助言に基づく事になっているので、重臣への根回しも必要だったためなのか、次の総理にはなれませんでした。

 

 

 

 

 

 

こんな弱い立場の戦争指導者というのは、当時の世界には、ありえませんでした。ルーズベルト、チャーチル、ヒトラー、ムッソリーニ、など、誰でも出来ます。スターリンなどは、殺す事も出来ました。ところが、日本の総理大臣は、殺すどころか、一人の大臣を辞めさせる事も出来ませんでした。それくらい、弱い基盤の上で、あの大戦争をしなければならなかったというのは気の毒としか言えません。

 

そもそも、東條が首相になった時には、もうアメリカが石油を売ってくれない状況だったので、世界第3位の大海軍を持っていても、石油がなければ動きませんから。陸軍を持っていても、石油がなければ、戦車も使えませんし、ノモンハンで勝った陸軍飛行隊も飛べません。もちろん海軍の飛行機も飛べません。国民生活もままならない、というような状態でした。

 

つまり、東條は、日本が本当にギリギリに追い詰められた時の首相でした。だから、いよいよ、日本がどうしても呑めない条件をアメリカに突き付けられ、こういうことで戦争を決断するわけです。とはいうものの、当チャンネルの別の動画でも説明していますが、東條を含めた陸軍の将軍たちはアメリカと戦争するなどとは思ってもみなかったようですが。

 

平和主義者でいらっしゃられた昭和天皇は、最後まで戦争を避けたいというご希望をお持ちでいらっしゃられなさったので、だから東條総理も、最後まで努力したのですが、その努力は無駄になってしまいました。真面目な努力をして来た東條総理と違って、それまでの総理達は、真面目ではなかったからです。天皇陛下のご希望に対して、うやうやしく承りながらも、本気ではありませんでした。しかし、東條というのは、今の日本人では考えられないくらい、天皇陛下に対して忠義心の強い人でした。本当に真面目に平和を求めた事を、昭和天皇は知っておられました。

 

大変、平和をお求めなさられた昭和天皇が、東條英機を悪く思われませんでした。

「昭和天皇実録」を読むと、それが良くわかります。「東條は本当によくやってくれた」というような趣旨のことを述べておられます。真面目に努力したけれども、結局ダメだったという事です。なので、戦争が始まった時の大戦の書、戦争が始まった時に、『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』(米国および英国に対する宣戦の詔勅(しょうちょく))がご発布なさられたわけですが、その詔勅の中にも、「事旣ニ此ニ至ル帝國ハ今ヤ自存自衞ノ爲蹶然起ツテ一切ノ障礙ヲ破碎スルノ外ナキナリ」

「事態がここまで悪くなっている日本は、今や自存自衛のため、決意を持って一切の障害を粉々にするほかはありません。」とあります。

つまり、「このまま行くと、日本はどうしても生きていけないから、どうしても生きていくために、戦争をしなければならない」という事です。なので、大東亜戦争は、普通では、日本が生存するための、自衛のための戦争であるわけです。

 

 

 

 

その東條総理の忘れられた一面について解説しようと思います。それは、西暦1943(昭和18)年に催された大東亜会議というものです。アジアの平和のための非常に重要な出来事だったにも関わらず、戦後、大東亜会議は、ほとんど、教える人どころか、口にする人さえいなくなり、日本の歴史から消されてしまっています。

 

この大東亜会議というのは、西暦1943(昭和18)年に催されたのだから、対米戦争3年目に入った頃でした。重光 葵(しげみつ まもる)外務大臣の発想でしたが、外務大臣の発想でも、それを採用したのは首相ですから、東條首相が主催したことになります。

 

大東亜、つまりアジアの今まで植民地だった国の人達のリーダー達をみんな集めて、大会議を開催しました。そこには、どういう方々が参加したのでしょうか。ビルマのバー・モウ首相が参加しました。ビルマは、その直前、日本がイギリスから独立させました。

 

それから、満州国の張 景恵(ちょう けいけい)総理大臣が参加しました。満州国は、日露戦争に勝った日本が、ロシアから南満州の権利を奪って、満州人たちと協力して独立させた国です。清(しん)帝国の最後の皇帝、宣統帝(せんとうてい)であった愛新覚羅 溥儀(あいしんかくら ふぎ)を満州国の皇帝として仰ぎ、大臣は清朝の官僚で固めました。日本は後ろ盾となり、多大なインフラ投資を行いました。誤解されている人も少なくないですが、要するに、満州人の国です。

 

それから、中華民国からは、汪 兆銘(おう ちょうめい)が参加しました。蒋介石は重慶という山の中にいて、何もしていませんでした。中華民国を率いていたのは汪 兆銘でした。ただ蒋介石が滅びなかったのは、インド・ビルマの方からイギリスが物資を送り続け、アメリカ、オランダやソ連も軍事物資や食料などを送り続けたから、生き延びたというだけで、実際には単に山の中の政権です。汪兆銘は、南京政府を作っていて、その行政院長でした。

 

それから、タイのワン・ワイタヤコーン殿下が参加しました。タイはイギリスとフランスの緩衝地帯とされ、戦前も独立国でした。

 

それから、フィリピンのホセ・ラウレル大統領が参加しました。フィリピンを日本が独立させました。

 

それから、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首相が参加しました。このような人達が一堂に会したわけです。

 

 

 

 

 

中央アジアから東の国で参加していないのは、インドシナ三国、ベトナム・ラオス・カンボジア、のみでした。なぜなら、これはまだフランス領だったため、日本には手が出せませんでした。当時、フランスはドイツが制圧していましたから。

 

同じく、オランダもドイツが制圧しており、インドネシアはオランダ領だったので、スカルノが参加していますが、正式な代表ではありませんでした。まだ独立前だったので。それでも昭和天皇はスカルノと謁見なさられていらっしゃいます。昭和天皇が進んで握手をなさられたそうです。なので、スカルノは、ここに代表として出られなかったにもかかわらず、非常に感激して帰国しました。インドネシア人達は、オランダの支配下で、数百年間、酷い目に遭っていたわけでした。インドネシアは、お米が何度も獲れる暖かい国なのに、オランダ政府は、ヨーロッパで売れるものだけを優先的に栽培させて、米などを勝手に作ると、処刑しました。なので、米が大量に作れる国で餓死者が続出しました。そしてオランダはヨーロッパで売れる作物のみを作らせ、持ち帰って行ったわけです。香辛料などもそうですが。なので、スカルノにしてみれば、オランダの女王と会うなんていうことはできないし、握手してもらうなんて事はありえなかった。それなのに、日本では、ちゃんと昭和天皇から握手していただいた。だから、戦後、独立してからも、スカルノは、来日されると、よく皇居に行って、大変和やかに過ごされていたそうです。

 

こういう扱いを受けたのはインドネシアだけではありません。白人から支配されたところは、どこでも同じような目に合っています。

 

ここに名前が挙がった方々は、誰ひとりとして、まともな国際会議に出席した事はありませんでした。世界中で出席できた唯一の有色人種の国は、日本だけでした。日清戦争、日露戦争、という二つの戦争に勝って認めさせる事が出来ました。

 

今の若い人達が理解できないのは、戦前の人種差別のものすごさ、とよく言われます。明治期にアメリカに移民した日本人が非常に冷遇された事や日米戦争が始まったら、みんな財産を取り上げられた事は知っていますが、他の国の有色民族に対する差別政策というのは、すごいものでした。

 

それは時々話題にもなりますが、アメリカの黒人問題・奴隷問題は有名ですが、例えば、イギリスも、綿製品を売るために食料である小麦の生産を制限して綿花を作らせ、後には支那に売るアヘンを作らせていました。「必要なものは外国から輸入すれば良い」と言われ、売れるものだけを作るよう強要されました。それゆえ、何度も飢饉が起こり、インド人の数百万人が餓死しました。ビルマでは、王妃が捕まり、セイロン島に流されました。そして王女は、インド兵用の娼婦にされました。そして絶対に住民に反乱を起こさせないように、尖った刃物は没収。そして仏教国のインドの警察官には、宗教の違う地域の人にやらせるとか、学校には行かせず、国語を奪い英語やフランス語、オランダ語を強要。国民を分断させて、国民同士にいがみ合いをさせられるとか、そういう仕打ちを受けてきた人達です。

 

 

 

 

なので、ここに集まった人達は、初めて、当時の世界の一流国から厚遇されたわけです。日本は、三大海軍国・五大陸軍国の1つで、皇紀2603年の立派な帝国で、イギリスをビルマやヒマラヤ、シンガポール、香港から、アメリカをフィリピンから、簡単に追っ払ってくれた国ですから。その上、独立させてくれました。そういう国の下に集まって、大会議を開く。こんなことは、いまだかつてありませんでした。

 

そして、その理想が謳われている宣言が非常に立派なものでした。簡単にいうと、「日本は諸外国における、あらゆる権益を全部放棄する。そしてアジアの国々は、全部独立国にして仲良くやっていきましょう」というものでした。

 

この宣言の意味は、この大東亜会議を開いたために、世界史はここから変わるということをはっきり歴史に残したわけです。東アジアから植民地はなくなります、という事です。東アジアからなくなるということは、他の所でもなくなるという事を意味しています。そして、これが、これからの世界になりますという事です。「すべての民族は平等である」という原則を白人に対して打ち出したわけです。これは世界的な大事件です。どうして、この事を、日本がもっと宣伝しないのでしょうか。敗戦国としては宣伝しにくかったかもしれませんが、少なくとも学者は、ちゃんと世界に向けて発信すべきです。これは東條内閣の最大の事業であって、そしてある意味では、日本の行った最善の事業でもあったのだから。

 

この大東亜会議の少し前に、ルーズベルトとチャーチルが船の上で会い、「大西洋憲章」というものを高らかに打ち上げました。それには、民主主義の、とか、とあるのですが、自分達が持っている植民地の解放という事には言及していません。「大西洋憲章」は、戦後の歴史の本では、随分ともてはやされているのですが、それよりも「大東亜会議」の方が、数百倍も重要なものです。「大西洋憲章」には、これという歴史的な意味はありません。強いて言えば、当時のアメリカとイギリスが戦争する時の口実みたいなものに過ぎません。

ところが、東條内閣が行った「大東亜会議」は、その後の20世紀、21世紀を支配する大原理を国際会議という形で示したものなのです。

 

例えば、インド独立を考えてみると、日本によってシンガポールが落ちた時、そこにもインド兵達がおり、そこでインド独立軍が発足しました。あの大英帝国が有色人種に負けたわけです。そこで、チャンドラ・ボースが、独立軍のリーダーになりました。チャンドラ・ボースは、インドの名門の出身で、愛国者で、インド独立のために戦ってきた人でした。そして日本軍と一緒に、ビルマ戦線に参加して、イギリス軍を打ち破っています。ほんのわずかではあるものの、インドにも足を踏み入れています。それで、戦後、イギリス軍から裁かれる事になりました。

 

 

 

 

 

日本軍に手を貸したというわけで、反逆罪に問われようとしました。その時に、ある日本人が、あくまでも好意から、なのですが、「あの人達は日本人から強制されてインド独立軍を作ったんだ」というような事を証明してやろうとしました。チャンドラ・ボースは、終戦の直前、飛行機事故で亡くなってしまうのですが、チャンドラ・ボースの部下達は、「とんでもない。我々はインド独立のために戦ったのである」と言うので、堂々と述べたわけです。

 

そうなると、インドの民衆も、熱狂的に支持しました。「それだけの愛国者を裁かせるな」という声が大きくなり、結局イギリスも手が出せなくなってしまいました。これが引き金で、インドが独立する事に繋がります。

 

東條首相の下では、インドは独立出来ませんでしたが、東條首相の下で、大東亜会議に参加し、「自由インド仮政府」と名付けられました。それがインド独立の直接のきっかけになりました。

 

イギリスは無理やり引き起こした対日戦線で弱体化してしまい、インドから撤退する事になりました。それで、ネールが首相になりました。ネールは非常に親日的でした。ネール自身も、「初めて独立の夢を抱いたのは、日露戦争の日本の勝利を聞いた時だ」と言ってますし。

しかし、時間が経ってみると、無抵抗主義で時の流れを待って独立したと言われた「ガンジー、ネール路線」よりも、戦って、一時期はイギリス軍にも勝った「チャンドラ・ボース路線」の方が輝いて見えてくるわけです。なので、最近のインドを訪ねた人の話では、チャンドラ・ボースは、インドでは、ガンジーやネールよりも尊敬されているそうです。

 

それから、ビルマのバー・モウは、戦後も色々な事情で日本に来たりしていますが、この方も、「日本ほど他の国、アジアの諸民族の役に立った国はない」と述べています。しかし「日本ほど報われない国はない」というような事を著書に書いてもいます。こういう事を日本人が書くと、「自己宣伝」と言われたりもしますが、ビルマ独立の英雄が書くと非常に力があります。

 

それから、タイの王室からワン・ワイ・タヤコーン殿下がいらっしゃいました。このワン・ワイ・タヤコーン殿下も、ずっと日本に好意的で、日本が国際連合に加盟する際には、非常に力を尽くされた方です。

 

 

 

それから、フィリピンのラウレル大統領も、ずっと日本のために好意を持ってくださった方です。アメリカは、大東亜戦争が始まる前に、フィリピンに独立を約束していましたが、その後、全く無視しました。大戦後、だからと言って、慌てて日本から独立させてもらってまで、大統領になる必要はないのではないかという批判もあったのですが。それに対して、ラウレル大統領は、「アメリカは、前に何度も独立を約束してくれてたけど、全く守られていない。スペイン戦争の時もそうだった。だから、とにかく実際に独立させてくれるという日本を頼って独立した」と、このように反論したそうです。

 

現在のフィリピンの独立記念日は、戦後、アメリカから独立させてもらった日を祝っているのですが、日本の協力の下(もと)にラウレル大統領で独立した日が本当の独立記念日です。これは、フィリピン国内の問題なのですが、そのうちに、正しい歴史が伝わるようになるのではないかと思われます。

 

それから、満州国の張景恵(ちょう けいけい)総理大臣ですが、この人も、敗戦後の日本に対して、ずっと「日本は良いことをした」という考えを変えなかったそうです。

 

それから、中華民国の汪 兆銘(おう ちょうめい)ですが、この人は、現在の中国では最高の悪玉ということになっていますが、これは日本が敗戦したから、そんな事を言っているのでしょう。現実の問題として、日本は、当時、中国の大都市の8割くらいを占領していました。蒋介石は、山の奥に閉じこもっていただけだし、毛沢東にも戦う気がなかった訳です。そんな時に、中国の民衆を代表して、日本と交渉する機関は必要でした。汪兆銘は「自分がいなければ、日本軍と交渉して民衆の代表となる者がいない」と思ったでしょうし、実際、そうだったのだから。そして出来る事ならば、その線をちゃんとして、日本が引き上げれば良かったわけです。ただ、それが出来なかったのは、蒋介石をアメリカ・イギリス・ソ連が助け続けるから、日本は簡単に軍隊を引くことができなかったからで、その点では、フランスのヴィシー政権と似ていると思われます。

 

ヴィシー政権というのは、ヒトラーがパリを占領して、フランスが敗戦国になった後、取り残されたフランス人をまとめあげて、ナチス・ドイツと交渉していた政府です。ド・ゴールは、イギリスに逃げてしまいました。そういう時に、第一次大戦の英雄であったフィリップ・ペタン元帥が、ヴィシー政権の首相となって、フランス国を維持し続けました。ところが、ドイツが負けてからは、「ヴィシー政権がけしからん」と多くのフランス人が言い出しました。ヴィシー政権ができたから、フランスがヒトラーに負けたわけではありません。フランスが負けてしまって、どうしても必要だから、ヴィシー政権ができていたのに、「ヴィシー政権はけしからん」という事になり、ペタン首相を死刑に宣告しました。ド・ゴールは、実情が分かっていますから、死刑執行は取りやめさせましたが。実際上、フランスは降伏してしまったのだから、その後片付けの内閣がなければならないという事です。

 

 

 

どうしても、汪 兆銘(おう ちょうめい)は、「これ以上日本と戦うことは、何も知らない民のためには不幸なことで、ちゃんと手を打つべきである」と思ったのだと言われています。実際、汪兆銘は、もっと分かっていたのだと言われています。支那事変が始まったのも、日本側が勝手に攻め込んだわけではなく、毛沢東とか蒋介石とかが悲劇を起こして、上海はもちろん、それから武漢三鎮(ぶかん‐さんちん)まで占領されるような事になってしまった。自分が出て、なんとか日本と手を打って、日本軍に引き上げてもらおう、ということだったと思われます。

 

汪兆銘は、大東亜会議において、完璧に日本側から希望通りの約束を取り付けました。それまでなかった程の確実な約束をもらったわけです。そして同時に、当時の支那大陸にあったイギリスやアメリカやフランスなどの権益も、全部日本が取り去ってくれる事が、この会議で確認されたわけです。なので、汪兆銘は大成功だったと思われます。ただ、日本が敗戦してしまったので、「汪兆銘は中国の裏切り者」とされてしまいました。中国人が汪兆銘を裏切り者と言うのは勝手ですが、日本人から見れば、むしろ無益な戦いを仕掛けてきた、あるいは続けようとして、「とにかく、まだ援助があるから戦争ができる」くらいに考えてやっていた蒋介石や毛沢東などよりも、はるかに中国民主主義のことを考えた人であったと思われます。

 

で、このように見ていくと、東條内閣は敗戦内閣ですから、東京裁判史観を注ぎ込まれた人達は、「東條は悪者である」とか、あるいは、「巣鴨プリズンで死刑になったのだから、靖国神社に祀るべきではない」とか、あるいは、「中国が文句を言ってくるなら、中国と和解、仲良くするために、靖国神社から取り除くべきである」とか、そういうバカげた事を言う余地がないはずです。

 

むしろ、東條首相が催した大東亜会議こそ、20世紀中頃の、世界の思想史の最大の事件であり、そして今の国際連合の本当の基礎にもなっている思想であろうと思われます。そして、これから100年200年経ってみると、大東亜会議というものの意義の大きさが、世界史的に理解されてくると思われます。

 

 

 

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