我が国の政治史は、貴族中心のものから、武士によるものに変わっていくことになりますが、歴史というものは、連続して成り立っているものであり、少なくとも、我が国では、ガラリと世界が変わったなどということが、ありませんでした。征服者が乗り込んで来て国を制圧し、男性を全員殺害して、征服者のものと入れ替わったという、ユーラシア大陸の国々でしばしば起きていたような目にあっていれば別ですが、当チャンネルの別の動画でも語っていますが、多くの現代日本人男性のDNA構造は縄文人のDNA構造と同じであり、一度も異民族に制圧されていないことを証明してくれています。なぜなら、日本人男性の持つDNAは世界でも例のない独特のものですから。なので、当然ながら、隣国の満州、中国、朝鮮半島、台湾、の人達とは別物なのですが、アイヌも琉球の人達も、DNAを見れば明らかなように、同じ日本民族です。とはいうものの、離れた所に住んでいると、多少、文化も異なってきます。何といっても、日本列島の長さは、ポルトガルからポーランドまで横断できるくらいなのですから。
武家の棟梁(ぶけのとうりょう)のことを、征夷大将軍(せいい・たいしょうぐん)と呼びますが、「征夷」とは何なのでしょうか?
岩宿(いわじゅく)遺跡から出土した磨製石器が3万5千年前のものであることからもわかるように、我が国では、先土器時代から縄文時代が長く続いており、弥生時代になり水田稲作が行われるようになっても、日本全体が一気に転換したわけではありませんでした。
弥生式土器は水田稲作の遺跡と一緒に出土する場合が多く、つまりは水田稲作の普及により大量の米が生産可能となり、穀物保存用として弥生式土器が普及していったものと思われ、そのことから、日本において、水田稲作は何百年もかけて普及していったということがわかります。
我が国最古の水田稲作跡地は紀元前930年頃のものである佐賀県の菜畑(なばたけ)遺跡ですが、本州最北端の水田稲作跡地は紀元前300年代前半のものとされている青森県弘前市の砂沢( すなざわ )遺跡です。なので、600年以上かけて、ようやく、水田稲作は佐賀県から青森県に伝わったわけです。
しかも、砂沢の水田遺跡からは、稲作に必要な木製農具や農具を作るための大陸系の石器は1点も出土していません。出土するのは縄文時代の石器ばかりで、土器も縄文式土器だらけ。わずかに弥生式土器が発掘されているのみ、です。
砂沢の人々は縄文式を維持しつつ、水田での稲作を始めていったということです。学校で使われる「日本史」の教科書だと、「縄文時代から弥生時代に変わりました」とサラッとした感じなのですが、実際には長い時間がかかり、しかも縄文式の文化と弥生式の文化が混在する形で、少しづつ変わっていきました。なにしろ縄文文明は数万年も続きましたから、当然の結果ですが。
弥生時代の次は、いわゆる古墳時代になります。古墳時代初期に建造された代表的な前方後円墳といえば、3世紀末から4世紀初頭に建造されたとされる、第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女(ひめみこ)、倭迹迹日百襲姫命(やまと・ととひも・もそひめ・の・みこと)の墓である「箸墓古墳」(はしはか・こふん)です。前方後円墳は近畿地方から全国に広がっていきました。当然ですが、古墳を建造するためには膨大な労働力を動員する必要があります。ということは、大和王朝の権力が届かない地域では古墳、特に箸墓古墳のような巨大な前方後円墳は作られなかったわけです。我が国で最北の前方後円墳は5世紀末から6世紀頃の古墳と考えられる岩手県奥州市の角塚(つのづか)古墳です。ちなみに岩手県からは角塚古墳以外に前方後円墳は発見されていません。
箸墓古墳から遅れること200年、しかも奥州市から北には前方後円墳が存在しない。ということは当時の東北地方には大和王朝とは無関係な人々が大勢暮らしていたということになります。もともと東北地方は縄文文明の中心地ですから。なので、弥生時代の頃から、東北の人々は蝦夷(えみし)と呼ばれていました。初代神武天皇の即位以降、大和王朝は長い時間をかけ、日本全国に支配を広げていきました。最初は婚姻による勢力拡大だったのでしょう。第10代崇神(すじん)天皇から戦争による勢力拡大が始まります。
とはいえ、全国にはなかなか朝廷に服属しなかったこともあり、日本武尊(やまと・たけるの・みこと)が九州の熊襲(くまそ)や東北の蝦夷(えみし)征伐などに行くわけですが。
『日本書紀』によると、日本武尊は葦浦(あしうら)・玉浦(たまうら)を経て、竹水門(たかのみなと)という蝦夷との境に至っています。葦浦、玉浦は現在の宮城県と考えられています。日本武尊は蝦夷(えみし)の首領、嶋津神(しまつかみ)、国津神(くにつかみ)たちを平定しましたが、だからと言って蝦夷の人々がこぞって大和王朝の支配下に入ったわけではありませんでした。
そもそも、日本武尊ですら、宮城県より先には足を踏み入れていませんでしたから。広大な東北地方には朝廷の権威に服さない勢力が存在し続け、それが蝦夷の人々だったということです。
『日本書紀』に蝦夷(えみし)という呼称が初めて登場したのは、第12代、景行(けいこう)天皇、つまりは日本武尊(やまと・たけるの・みこと)の父親の御代でした。景行天皇が武内宿禰(たけのうちの・すくね)を北陸や東北に送り、地形やそこに住んでいる人々を視察させた時でした。視察から戻った武内宿禰は、景行天皇に報告しました。
『日本書紀』には、このように記されています。
廿七年春二月辛丑朔壬子、武內宿禰、自東国還之奏言「東夷之中、有日高見国、其国人男女、並椎結文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷。亦土地沃壤而曠之、擊可取也。」秋八月、熊襲亦反之、侵邊境不止。
東国の夷(ひな)の中に日高見国(ひたかみ・の・くに)があります。その国の人は男も女も髪を槌(つち)のような形に結(ゆ)い、身体に刺青をしていて勇敢です。これら全て蝦夷(えみし)と言います。また土は肥えていて広大です。攻略すると良いしょう。
髪を椎(つち)の形に、とありますが、ツチは椎茸(しいたけ)の椎の字で、これはハンマーという意味もあります。要するに髪を束ねて上に伸ばしていたものと思われます。大和朝廷の人がやっていた「美豆良(みずら)」のようなものなのでしょう。
また体に刺青をしているのは、これは『魏志倭人伝』にある「倭人」の特徴のひとつです。支那の史書に描かれている、倭人の「刺青」は魚に襲われないようにするための呪文ですが、それが蝦夷でも成人儀礼としてなのか、また呪術としてなのか、はわかりませんが、そういう風習が残っていても、何ら不思議ではありません。近畿地方の人たちと、日向国(ひむか・の・くに)、つまり、今の宮崎県出身の大和王朝の人々には刺青をする習慣がありませんでしたが。詳しくは、当チャンネルの別の動画で解説しています。
蝦夷(えみし)はよく「縄文人」と言われます。その縄文人はどこから来たか? 当然、九州です。そもそも、縄文人は、丸木舟で、琉球から、樺太、千島列島、までを行ったり来たりしていたので、蝦夷と九州にあった熊襲(くまそ)などの文化がかなり似ていたというのも不思議ではありません。縄文文化を守りながら水田稲作は受け入れたものの、大和王朝の権威にも服さず、前方後円墳を作ることもなかったわけでした。
ちなみに、蝦夷(えみし)の蝦(えび)は漢字からもわかる通り「エビ」や「ガマカエル」という意味を持ちます。そして蝦夷の夷(えびす)という漢字は、支那の中華思想では東夷(とうい)の夷(えびす)、つまり、「東方の蛮族」ということになります。
縄文人ということは、元をたどれば、同じ日本人なので、意思の疎通は可能だったと思われます。なにしろ、北海道のアイヌの言葉にも、沖縄の琉球の言葉にも、日本語の古語に由来する言葉が多く残っていますから。なので、蝦夷(えみし)の言葉にしても、方言的な違いはあったものの、系統的には同じ言語というわけです。
ただ、似た言葉を話し、民族的にも同一とはいえ、文化や生活様式が違う人々を、大和王朝の人たちは、蝦夷(えみし)と呼びました。武内宿禰(たけのうちの・すくね)の視察、日本武尊(やまと・たけるの・みこと)の東征以降、大和王朝は500年以上も費やし、蝦夷(えみし)を支配下に組み込んでいきました。
雄略(ゆうりゃく)天皇22(西暦478)年、倭王武(わおう・ぶ)こと雄略天皇が、南朝(なんちょう)の宋(そう)の皇帝に送った上表分に
東征毛人五十五国
「東は蝦夷(えみし)を制すること55国」という文章があります。ちなみに蝦夷(えみし)は「エビ」に「イ」と書きますが、「毛の人」という文字を使う場合もあります。「蝦の夷」(「エビ」の「イ」)も「毛の人」(け・の・ひと)も読みは「えみし」で意味も同じです。蝦夷(えみし)の人々は体毛が濃かったということでしょう。
ちなみに体毛が濃い人はテストステロンという男性ホルモンが多いのですが、テストステロンは、特に動物性たんぱく質を摂取することで増えますから。蝦夷(えみし)の人々が動物や魚を多く食する縄文時代の食文化を守り続けていたならば、米が主食になった大和王朝の人々と比べ、体毛が濃くても当たり前ですから。
さらに、武内宿禰(たけのうちの・すくね)が報告したように、蝦夷(えみし)は勇敢でした。蝦夷(えみし)には頑強、壮健、という意味もあります。西日本の人々は米を主食にするようになって以降、身長が縮んでいきましたが、蝦夷の人々が動物性たんぱく質を豊富に摂っていたならば、相対的に強靭な肉体を持っていても不思議でも何でもありません。
弥生以降の日本人は米を主食とし、さらには、仏教という宗教上の理由から4本脚の動物を食べなくなりました。その結果、平均身長がどんどん縮んでいき、江戸時代には最低となりました。江戸時代の日本人は縄文時代の日本人よりも数十センチも平均身長が低かったのですから。
ちなみに、明治以降、日本人も牛肉や豚肉を食べ始めるようになりましたが、すると、日本人の平均身長はぐんぐん伸び始めました。顎などの骨格も変わっていきました。古代の日本でも、動物性たんぱく質を多く食べる東日本の人の方が西日本の人よりも体が頑丈だったということを証明してくれています。
だからこそ、東日本出身者は、その多くが戦士として大和王朝に採用されたわけでした。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
是東人〈波〉常〈爾〉云〈久〉。額〈爾方〉箭〈波〉立〈止毛〉背〈波〉箭〈方〉不立〈止〉云〈天〉。君〈乎〉一心〈乎〉以〈天〉護物〈曾〉。
この東人(あずまびと)たちは「常に額(ひたい)に敵の矢が立っても、背中には矢は立たせまいぞ」と言って、君(きみ)を一心に護(まも)る人たちである。
西日本に住んでいた人たちと比べて、肉体が頑健な東日本に住んでいた人たち、東人(あずまびと)は戦士として優秀で、非常に重宝されていました。ということは、それよりも、更に東の地に住んでいて、縄文文化を完全に捨て去っていない蝦夷(えみし)の人々は、当然ながら、より強靭な戦士たちが多かったものと思われます。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)において、蝦夷(えみし)は
一以当千
「一人で千人に匹敵する」と評されており、その高い戦闘能力は散々、大和王朝を苦しめることになりました。
『日本書紀』によると、遣唐使である小錦下(しょう・きんげ)の坂合部連石布(さかいべ・の・むらじ・いわしき)と大仙下(だいせんげ)の津守連吉祥(つもりの・むらじ・きさ)が唐の皇帝に、同行した蝦夷(えみし)を紹介しています。その際に唐の皇帝から蝦夷が住む地域について
其国有五穀
「その国に、五穀はあるのか?」
と尋ねられ、遣唐使は
無之。食肉存活
「ありません。肉を喰らって生活しています」と答えています。
水田の遺跡から見ても、蝦夷(えみし)たちが、穀物を全く食べなかったわけではないという事がわかりますが、大和朝廷の役人から見れば、穀物を食べないで肉食だけだったという印象だったのでしょう。
朝廷に帰属することになった蝦夷(えみし)は俘囚(ふしゅう)と呼ばれたのですが、俘囚で組織された軍隊である俘軍(ふぐん)は平安時代に入ると防人(さきもり)に変わり、北九州で防衛任務にあたるようになりました。大和朝廷は蝦夷(えみし)を東の野蛮人と蔑視する名で呼んでおきながら、勇猛さや戦闘能力の高さをちゃんと評価していたということです。
皇極(こうぎょく)天皇4(西暦645)年の乙巳の変(いっしのへん)以降、日本で律令(りつりょう)国家化が始まりましたが、地方行政として国や郡、里の整備が進み、更には耕作権を整理した班田収授法(「あかちだ・おさめさずくる・のり」つまり「はんでん・しゅうじゅ・の・ほう」)が施行され、租庸調(そ・よう・ちょう)による徴税制度も整えられました。
そうなると、税に関わってくるため、朝廷の支配がどこまで及ぶのかが重要な問題になりました。
『日本書記』の記述や遺跡を見る限り、7世紀には越後平野、仙台平野、米沢盆地に城柵(じょうさく)が建設され、律令国家の支配が及んでいました。もともとこれらの地域には水田稲作が早期に伝わり、大型古墳の造営も行われていました。関東平野の延長線上にあったという事がわかります。古代日本の道路交通インフラや移動手段を考えれば律令政府の手が届く範囲は仙台平野までで、その先は朝廷の統治権が及ばない地域にならざるを得なかったのでしょう。8世紀に入ると中央政府は東北地方の支配地域の拡大を始めました。まずは仙台平野から山を越えたところに広がる大崎平野、今の大崎市から登米市(とめし)にかけた地域です。そして酒田市から鶴岡市にまたがる庄内平野から始めていきました。
まずは城柵を建設し周囲に柵子(さくこ)と呼ばれる人々を移住させました。
『日本書紀』には、このように記されています。
造渟足柵、置柵戸
大化3(西暦647)年、渟足柵(ぬたりのき、こと、木材を連ねた防衛施設)を作って、柵戸(きのへ、こと、柵に配置した屯田(とんでん)兵)を置きました。大化4(西暦648)年には、
治磐舟柵、以備蝦夷。遂選越與信濃之民、始置柵戸。
大化4(西暦648)年、磐舟柵(いわふね・のき、つまり、防衛施設である新潟県村上市岩船の柵)を作って、蝦夷(えみし)に備えました。越(こし)と信濃(しなの)の民を選んで、柵戸(きのへ、つまり、柵に置く屯田兵)を置き始めました。
現在の新潟県村上市に城柵(じょうさく)を建てて、北陸や長野の人たちを柵子(さくこ)として移住させたわけですが、それは、蝦夷(えみし)側から見れば完全に侵略でした。日本だけではなく、世界中で共通した侵略のやり方ですが。
大和朝廷は城柵と柵子方式で支配地域を広げていったのですが、慶雲(けいうん)2(西暦705)年頃から、現山形県の庄内平野で、蝦夷(えみし)の反乱が頻発するようになりました。
『続日本紀』にはこのように記されています。
養老四年九月丁丑。陸奥国奏言。蝦夷反乱。殺按察使正五位下上毛野朝臣広人。
養老(ようろう)4年9月28日。陸奥国(みちのく・の・くに)から、次のように、天皇に対して申し上げてきた。
「蝦夷(えみし)が反乱を起こして、按察使(あぜち)・正五位上(しょう・ご・い・じょう)の上毛野朝臣広人(かみつけの・あそん・ひろひと)を殺害しました、と。
朝廷は反乱鎮圧のために軍隊を派遣せざるを得ませんでした。その後も蝦夷(えみし)の地では反乱が相次ぎました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
神亀元年四月丙申。以式部卿正四位上藤原朝臣宇合為持節大将軍。宮内大輔従五位上高橋朝臣安麻呂為副将軍。判官八人。主典八人。為征海道蝦夷也。
神亀(じんき)元年(西暦724年)4月7日。式部卿(しきぶきょう)・正四位上(しょう・よんい・じょう)の藤原朝臣宇合(ふじわらの・あそん・うまかい)を持節大将軍(じせつ・たいしょうぐん)に任じ、宮内大輔(くない・たいほ)・従五位上(じゅ・ごい・じょう)高橋朝臣安麻呂(たかはし・の・あそん・やすまろ)を副将軍に任じた。この他、判官(じょう)八人。主典(さかん)八人を任じた。海道の蝦夷(えみし)を征討(せいとう)するためである。
藤原四兄弟の一人である藤原宇合(ふじわら・の・うまかい)も東北地方に派遣されたわけでした。
神亀(じんき)元年、西暦724年に、現在の宮城県多賀城市に大規模な城柵、多賀城が建設されました。陸奥国府(むつこくふ)や鎮守府(ちんじゅふ)が置かれ、朝廷の東北支配の中心地となりました。松島湾を見下ろせる松島丘陵に位置しており、11世紀中頃まで東北の政治文化軍事の中心地としての役割を果たしました。多賀城の規模は9000メートル四方で中央に政庁、さらには実務を行う役所や公房、兵士の宿舎も設置されていました。
その後、しばらく平和な時代が続きました。朝廷は蝦夷(えみし)に対し毛皮、昆布、金、馬、鷹などの特産品での納税を認めました。神護景雲(じんごけいうん)3(西暦769)年の元日、朝賀(ちょうが)の儀には陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)が参列し拝賀しました。参列した蝦夷(えみし)の民は道鏡(どうきょう)から赤い衣(ころも)を下賜(かし)されました。もっとも、当時の朝廷の支配圏は、太平洋側は宮城県北部まで、日本海側は秋田県南部までにしか及んでいませんでした。
称徳天皇が崩御し光仁天皇の御代に入ると、この頃から雲行きが怪しくなっていきました。神護景雲(じんごけいうん)4(西暦770)年、蝦夷(えみし)の宇漢迷公宇屈波宇(うかにめ の うくつはう)が、称徳天皇の崩御を見計らったかのように、突如、一族を率いて故郷に逃げ帰ってしまいました。朝廷は使(つかい)を差して喚(よ)んだものの、戻ろうとはせず、宝亀(ほうき)5(西暦774)年には、蝦夷(えみし)の上京や朝貢が停止されました。光仁天皇の即位以降、いきなり朝廷と蝦夷(えみし)の関係が悪くなるのですが、朝廷は仏教の殺生禁止や天皇の権威強化を目的として鷹の飼育や鷹飼いの規制を始めたことが、蝦夷(えみし)の人々の逆鱗に触れたという説が有力です。縄文文明の色が濃い蝦夷(えみし)の人々にとって、獲物を狩って食料にするのは普通のことでしたが、それが中央政府の都合で禁止されたので、抗(あらが)いたくなるのも当然の事でしょう。
しかも、藤原仲麻呂から称徳天皇の御代(みよ)には、朝廷が次々と蝦夷(えみし)の土地に城柵を建設し、支配領域を拡大していきました。侵略される側である蝦夷(えみし)には当然ながら朝廷に対する憎しみが蓄積されていきました。というわけで、宝亀(ほうき)5(西暦774)年から、38年間も対蝦夷戦争(たい・えみし・せんそう)が続くことになってしまいました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
宝亀五年七月壬戌。陸奥国言。海道蝦夷。忽発徒衆。焚橋塞道。既絶往来。侵桃生城。敗其西郭。鎮守之兵。勢不能支。国司量事。興軍討之。但未知其相戦而所殺傷。
宝亀5年7月25日。陸奥国司が言上(ごんじょう)した。「太平洋側の辺りの蝦夷(えみし)が突然、衆を発して、橋を焼き、道を塞(ふさ)いで往来を遮断し、桃生城(ももの・うの・き)に侵攻して、その西郭(にし・の・まる)を破りました。城を守る兵はそのなりゆきに、これを防ぐことができませんでした。それで、国司(くにのつかさ)は事態を判断し、軍を興(おこ)して、これを討ちました。ただし、その合戦で殺傷された人数はまだわかりません」と。
まずは現在の石巻市に築かれた城柵、桃生城(ももの・うの・き)を太平洋岸の蝦夷(えみし)が襲撃しました。光仁(こうにん)天皇は蝦夷(えみし)騒乱を報告してきた大伴駿河麻呂(おおとも の するがまろ)に征夷(せいい)、つまりは東方(とうほう)の蛮族を征伐するよう詔(みことのり)しました。ところが、蝦夷(えみし)の騒乱を治めるべく多くの武将が次々に出兵したにも関わらず、誰も討ち果たすことができず、不甲斐ない報告が次々と届けられるために光仁天皇が叱責の詔を発したくらいでした。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。
得去五月廿四日奏状。具知消息。但彼夷俘之為性也。蜂屯蟻聚。首為乱階。攻則奔逃山薮。放則侵掠城塞。而伊佐西古。諸絞。八十嶋。乙代等。賊中之首。一以当千。竄迹山野。窺機伺隙。畏我軍威。未敢縦毒。今将軍等。未斬一級。先解軍士。事已行訖。無如之何。但見先後奏状。賊衆四千余人。其所斬首級僅七十余人。則遺衆猶多。
何須先献凱旋。早請向京。縦有旧例。朕不取焉。宜副使内蔵忌寸全成。多朝臣犬養等一人乗駅入京。先申軍中委曲。其余者待後処分。
去る5月24日付けの上奏文を得て、詳しく状態を知る事ができた。ただあの蝦夷(えみし)の性質は蜂のように寄り集まり、蟻(あり)のように群がって、騒乱の元をなしている。攻められれば山や藪(やぶ)に素早く逃げ込み、放っておくとすぐに城や砦(とりで)を侵略する。しかも、伊佐西古(いさせこ)・諸絞(しょこう)・八十島(やそしま)・乙代(おとしろ)らは賊の中の首領で、一人で千人に匹敵する。彼らは行方を山野にくらまして、機会をうかがい隙(すき)を狙っているが、われらの軍の威勢を恐れて、まだ敢えて害毒をふりまいていない。
今、将軍たちは未だ一人の賊の首も斬らないまま、先に征夷の軍隊を解散してしまった。事はすでに行われてしまって、もうどうすることもできない。ただ先と後の上奏を見ると、賊軍は四千人あまりいて、そのうち斬った首級(しゅきゅう)はわずかに七十余人である。残っている賊はなお多い。どうして先に戦勝を報告して、急いで都へ向かうことを願うのか。たとえ、旧例があるからと言っても、朕(ちん)は認めない。そこで、副使(ふくし)の内蔵忌寸全成(くら・の・いみき・の・またなり)、多朝臣犬養(おお・の・あそん・いぬかい)のうち一人を駅馬(えきば)に乗って入京させ、まず軍における委細を報告させよ。それ以外のことは、後(のち)の指示を待つように。
地の利が蝦夷(えみし)側にあったのが最大の理由なのでしょう。攻めていくよりも待って戦う方が有利なのは、今でも変わりませんから。
宝亀(ほうき)11(西暦780)年には、蝦夷(えみし)の族長の伊治呰麻呂(これはり の あざまろ)が朝廷に反逆しました。伊治呰麻呂は陸奥按察使(みちのく・の・あぜち)、つまり、東北地方の行政の責任者であった紀広純(き の ひろずみ)を殺害し、東北支配の拠点であった多賀城を焼き払ってしまいました。
陸奥按察使(みちのく・の・あぜち)の殺害と多賀城の落城は朝廷に衝撃を与えました。その結果、大伴益立(おおとも の ますたて)が率いて、大規模な征夷軍が送られることになりました。しかし、現地で2ヶ月以上も硬直状態が続き、痺れをきらした光仁(こうにん)天皇は、結局、大伴益立(おおとも の ますたて)を解任して、代わりに、藤原小黒麻呂(ふじわら の おぐろまろ)を派遣したのですが、やはり、なかなか動かず、光仁天皇がまたまた激怒し、解任することになりました。
蝦夷(えみし)の地を自分の目で見た大伴益立や藤原小黒麻呂は、単純な征夷戦を開始しても勝てないと判断したのでしょう。ところが、その事を、都にいる光仁天皇には理解できなかったのだと思われます。遠くにいる人が現場を理解できていないということは多々ありますから。
それで、38年にも及ぶ戦争が始まるのですが、そうなると、当然ながら、朝廷に協力的だった蝦夷(えみし)たちも次々と離反していきました。
それで、蝦夷(えみし)の平定を果たせぬまま、光仁天皇が譲位することとなり、桓武(かんむ)天皇が即位することとなりました。ここから、本格的に対蝦夷(たい・えみし)戦争が始まりました。
延暦(えんりゃく)7(西暦788)年、桓武天皇は、恵美押勝の乱で活躍した紀古佐美(き の こさみ)を征東大将軍(せいとう・だいしょうぐん)に任命し、5万2千8百人の軍勢を与えて、蝦夷(えみし)の地に送り出しました。当時、前代未聞の大軍を率いた紀古佐美(き の こさみ)は現在の奥州市胆沢に軍を進めました。蝦夷(えみし)軍の主力が北上川の東に結集しているので、川を渡って攻撃しようとしました。ところが、やはり、紀古佐美もなかなか動こうとせず、桓武天皇から叱責されてしまいました。
それで、紀古佐美は4千の軍勢に北上川を渡らせたのですが、当時の胆沢には蝦夷(えみし)の英雄である、阿弖流為(アテルイ)が控えていました。
阿弖流為(アテルイ)は紀古佐美(き の こさみ)の軍を巧みに操り、北上川東岸の狭隘(きょうあい)な地形を利用し、敵軍を南北から挟み撃ちにしました。その結果、紀古佐美(き の こさみ)の軍は、25人の戦死者、245人の負傷者に加え、1036人の溺死者を出しました。この時の、蝦夷(えみし)軍の総数は1500人でした。朝廷軍は前代未聞の惨敗を喫し、紀古佐美は朝廷の許可も受けずに征東軍を解散しました
アテルイとは、アイヌ語で「アッ・ウォロ・イ」つまり「楡(にれ)の皮・ひたす・ところ」を意味しています。今の青森・岩手・秋田の3県には北海道と同じくらいアイヌ語地名が分布していて,この地域の蝦夷(えみし)はアイヌ語系の言語を話していました。もちろん、アイヌ同様に、蝦夷(えみし)は縄文人であり、大和政権の民(たみ)と同じ遺伝子構造を持っている日本人であり異民族ではありません。琉球も同じですが。唱歌(しょうか)の「蛍の光」の4番の歌詞「千島の奧も、沖繩も、八洲の内の、護りなり」(ちしまのおくも、おきなわも、やしまのうちの、まもりなり)が胸に沁みます。
なので、他国から見れば、この征東は、戦国時代のような、あくまでも内戦であり、アメリカの白人がインディアンの地を征服していったのとは別物です。
紀古佐美(き の こさみ)軍の敗戦を受けて、桓武天皇の権威が失墜することになってしまったこともあり、当然ながら、桓武天皇は第2次征東軍の派遣を決定せざるを得ませんでした。そして、その第2次征東軍において副使(ふくし)として抜擢されたのが、武門、坂上(さかのうえ)氏の出身であり、桓武天皇の信任が篤かった坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)でした。
『日本後紀』には、このように記されています。《卷廿一弘仁二年(八一一)五月丙辰【廿三】》
田村麻呂。赤面黄鬚。勇力過人。有將帥之量。帝壯之。延暦廿三年拜征夷大將軍。以功叙從三位。但往還之間。從者無限。人馬難給。累路多費。大同五年轉大納言。兼右近衞大將。頻將邊兵。毎出有功。寛容待士。能得死力。薨于粟田別業。贈從二位。時年五十四。
田村麻呂は赤ら顔で黄ばんだ髭を生(は)やし、勇気や力が他の人より優れ、将軍としての力量を有し、桓武天皇は勇壮な人物だと評した。延暦23年に征夷大将軍となり、軍功により従三位に叙された。京と蝦夷地(えぞち)とを往来するにあたっては無数の従者がつき従い、路次(ろじ)の諸国は人馬を提供しきれず、費用が嵩(かさ)んだ。大同(だいどう)5年に大納言となり、右近衛大将(うこんえのだいしょう)を兼任した。しばしば、征夷(せいい)のため辺境の地で軍事行動に従事し、出勤するたびに功績をあげた。寛容な態度で兵士に臨(のぞ)み、命を惜しまず戦う力を引き出した。粟田(あわた)の別荘で死去し、朝廷は従二位を贈った。行年(ぎょうねん)54。
残念ながら、『日本後期』は応仁の乱(おうにんのらん)の時に散逸してしまった部分が多く、坂上田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)に関しての記述は、「薨伝」(こうでん)と呼ばれる追悼文が残っているのみです。これは、正三位(しょうさんい)以上の高官が亡くなった時に国家の正史に記録される追悼文で、その人物の人柄と業績を忍んで書かれるものです。
また坂上田村麻呂の没後、嵯峨(さが)天皇の時代に書かれたという「坂上田村麻呂伝記」が『群書類従』(ぐんしょ・るいじゅう)の中に残されていて、ここには、田村麻呂について、もう少し詳しい描写がなされています。
『群書類従』は、江戸時代の国学者の塙 保己一(はなわ・ほきいち)が国学・国史を主とする古書の散逸を危惧して、江戸幕府や諸大名・寺社・公家(くげ)などの協力を得て、収集・編纂した一大叢書(そうしょ)で、
大将軍身長五尺八寸。胸厚一尺二寸
坂上田村麻呂は身長が約174センチで、胸板が36センチもあった。
と記されています。当時としては大変な大男だったでした。
また、このようにも記されています。
動静合機。軽重任意。怒而廻眼。猛獣忽斃。咲而舒眉。 稚子早懐。丹款顕面。桃花不春而常紅。勁節持性。松色送冬而獨翠。
その行動は機に応じて機敏であり、臨機応変な頭の持ち主でした。怒ると猛獣もたちまち恐れをなすほどの勇猛さでしたが、笑うと幼子もすぐに懐(なつ)くほどのやさしい笑顔の持ち主でもあり、真心に溢れ、強い意思の持ち主でした。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)、『日本後紀』(にほんこうき)、『群書類従』(ぐんしょ・るいじゅう)等によると、
平安京に都が移った延暦(えんりゃく)13(西暦794)年、桓武天皇は大伴弟麻呂(おおとも の おとまろ)を史上初の征夷大将軍(せいい・たいしょうぐん)に任命し、征夷副使(せいい・ふくし)の坂上田村麻呂らと共に、10万の軍勢を率いて、蝦夷(えみし)の地に送り出しました。
10万もの大軍を動かすとなるとその兵糧や兵器もまた大量になります。桓武天皇は、延暦(えんりゃく)8(西暦789)年以降、何年もかけて、関東近辺の地域に糧食(りょうしょく)や武器を準備させました。それで、初代の征夷大将軍、大伴弟麻呂が率いる征夷軍は蝦夷を征伐しました。
ちなみに、延暦13(西暦794)年の征夷(せいい)戦の詳細な解説は現存していません。この戦いの詳細が書いてあるはずの『日本後記』が応仁の乱の際に散逸してしまったため、詳しいことがわかりません。ただ、『六国史』(りっこくし)の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史が記されている『日本紀略』(にほんきりゃく)には、
副将軍坂上大宿禰田村麿已下征蝦夷
征討副将軍坂上大宿禰田村麻呂已下、蝦夷を制す
と記されています。という事は、実際には征夷大将軍ではなく副将軍の坂上田村麻呂が軍を指揮し、蝦夷との戦いに勝利したものと思われます。
この成果については、『日本紀略』(にほんきりゃく)には、このように記されています。
延暦十三年(七九四)十月丁卯【廿八】》○丁卯。征夷將軍大伴弟麻呂奏。斬首四百五十七級、捕虜百五十人、獲馬八十五疋、燒落七十五處。』
征夷大将軍、大伴弟麻呂(おおともの・おとまろ)が、斬首(ざんしゅ)457級、捕虜150人、馬の捕獲85匹、焼け落ちた村75ヶ所、の成果を挙げたと奏上した。
10万もの大軍を動かした割には戦果がそれほど大きくなかった事もあり、桓武天皇は3度目の征夷戦を決意し、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命しました。延暦(えんりゃく)20(西暦801)年、入念な準備の末、坂上田村麻呂が4万の軍勢を率い蝦夷の地に入りました。
残念ながら、坂上田村麻呂の第三次征夷戦が『日本後記』(にほんこうき)に記された部分も失われてしまっています。もっともこの年の9月に田村麻呂から『夷賊を討ち伏す』との報告が入り、清水寺演義に『この時、賊とはあるいは山荘に姿を隠し、あるいは手を縛って降伏を請うたため、東国は平定された』との記述があります。
『日本後紀』(にほんこうき)には、このように記されています。
延暦二十年九月丙戌。征夷大將軍坂上田村麻呂等言。臣聞。云々。討伏夷賊。
延暦20年9月27日。征夷大将軍(せいい・たいしょうぐん)坂上田村麻呂(さかのうえの・たむら・まろ)らが「服従しない蝦夷(えみし)を討ち平らげました、と臣から聞きました。」と言上した。
京都、清水寺(きよみずでら)草創(そうそう)の由来と、これに因(ちな)んだ色々な霊験譚(れいげんたん)を描かれている『清水寺縁起』(きよみずでら・えんぎ)には、創建に深く関わった坂上田村麻呂に関する記述があり、田村麻呂の軍隊の前に、蝦夷(えみし)の勢力は降伏するか逃走するか降伏するしかなかった、という記述があります。
これで、坂上田村麻呂が征夷大将軍として率いた征夷軍により、胆沢(いさわ)から志波(しわ)、現在の奥州市から盛岡市にかけ、蝦夷(えみし)は完全に制圧されました。胆沢の蝦夷の族長である阿弖流為(あてるい)等もついに降伏しました。坂上田村麻呂は降伏してきた阿弖流為を伴って、平安京に凱旋することになりました。
坂上田村麻呂は「彼らを陸奥(みちのく)に戻し、懐柔策に利用すべき」と主張したのですが、平安京の官僚たちは反対し、最終的には桓武天皇の意向により、阿弖流為らは処刑されてしまいました。侵略軍である征夷軍と堂々と戦い、敗れ、降伏したにも関わらず、最後は殺されてしまう、というのは、阿弖流為が特別というわけではなく、世界中あらゆる国の歴史では珍しくありませんが、気の毒な気もします。
桓武天皇が阿弖流為を処刑した理由は、征夷戦のためにあまりにも膨大な費用や人命を費やしてしまったためだと言われています。莫大な犠牲により捕らえられた蝦夷(えみし)の族長を助命してしまうと、軍事行動の正当化が難しかったからなのでしょう。
とはいえ、坂上田村麻呂が平定したのは志波(しわ)、今の盛岡市までで、桓武天皇は第四次征夷軍として、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、軍を編成させました。とはいえ、第4次征討は計画こそされたものの実行には移されませんでした。
桓武天皇が、一代で、平安京遷都と征夷という大事業を同時に推進したため、民衆の負担が耐え難いまでに高まってしまったためでした。延暦(えんりゃく)24(西暦805)年、桓武天皇は参議である藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)と菅野真道(すがのの まみち)に命じ、天下の徳政を議論させました。いわゆる徳政相論(とくせいそうろん)です。徳のある政治、つまりは民衆に恵みを与える政治、経世済民、のことです。
『日本後紀』(にほんこうき)には、この時に藤原緒嗣が語った言葉が記されています。
方今天下所苦。軍事與造作也。停此兩事。百姓安之。
現在天下の人民が苦しんでいるのは蝦夷(えみし)討伐と平安京の造営ですので、両者を停止すれば、百姓の生活を楽にすることができるでしょう。
と、征夷とさらなる平安京拡大事業の中止を進言しました。
桓武天皇の方針に真っ向から逆らっていたこともあり、論争相手の菅野真道(すがの・の・まみち)は異議を唱えたのですが、桓武天皇は藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)の意見を受け入れて、両事業を停止することを決定しました。藤原緒嗣は桓武天皇の恩人である藤原百川の長男であるとはいえ、まだ若く、天皇の方針に真っ向から逆らえる立場ではありませんでした。ということは、桓武天皇は征夷戦と平安京拡大工事の中止を初めから決めていたものと思われます。桓武天皇自身も自らの二つの事業が民衆を苦しめていることを自覚していたということです。
桓武天皇以降、朝廷が征夷戦を起こすことはありませんでした。嵯峨(さが)天皇の時代に一度行われましたが、これは桓武天皇の征夷の成果を補完するものにすぎず、それ以降は二度と征夷戦は行われませんでした。桓武天皇が一気に進めてくれたからこそ、その後の天皇は蝦夷(えみし)問題から解放されたという面もあったと思われます。また、平安京にしても桓武天皇が遷都し、基盤を整備してくれたからこそ、その後千年の都になったわけです。
