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明治維新で日本が一気に近代化を成し遂げられた秘密

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江戸から近代に向けての明治の近代化で、一気に日本は近代国家になった訳ですが、なぜ、そのように一気に近代化が成し遂げられたのでしょうか。当チャンネルの別の動画にも、これについて解説したものがありましたが、ボリュームが少なかった事もあり、作り直す事にしました。

よく、明治の近代化については、「奇跡」という言葉で表現される事が少なくありません。英国の有名な歴史家、分析・文明評論家、歴史学者である、アーノルド・トインビーが、「人類の歴史の奇跡の1つに、日本の明治以降の近代化がある。」と言っていますが、「一気に日本人が変貌したという事が奇跡だ」という事については、トインビー自身も、なぜなのか、がよくわからないという事です。「奇跡」という言葉を使ったという事は、もう完全に分析を諦めている訳なのですから。「日本人は分からない。なぜ、こんなふうに一気に近代化したのだろうか。」と、あの名だたる文明評論家・歴史家が、このような評価をしているという事です。ところが、明治の近代化はトインビーが言うような奇跡ではありません。江戸から明治に向かった近代化というのは必然だった訳ですから。

一言で言うと、幕藩封建体制から国民国家への転身という事だと思われます。これは、アヘン戦争があり、その後、ペリー艦隊が日本に来航した事を受けての決断でした。日本の国内では、ペリー艦隊こと黒船を巡(めぐ)って、「どうするのか」というのが、大きな論争の的(まと)となり、大政奉還につながり、王政復古を経て、そして、幕末の佐幕派と倒幕派の二つの国内勢力による戦争が起こり、それが極めて厳しい局面になった時に、勝海舟(かつ・かいしゅう)と西郷隆盛(さいごう・たかもり)という両派の首脳による会見で、江戸城無血開城によって、江戸の町が戦火を免(まぬがれ)れました。もちろん、一部の血の気(ちのけ)の多い武士たちが、刀を抜いて抵抗し、結局は血を見なければ治まらなかった、のですが、大々的に、国内を二分する内戦状態にはなりませんでした。

その勝海舟と西郷隆盛の対談で、西洋人にはよくわからない点があるようです。「なぜ通訳がいないのか?」という事です。通訳がいないなんて事は、世界の常識では、ありえません。
幕臣(ばくしん)である勝海舟は江戸の言葉をしゃべり、薩摩藩の家老であった西郷隆盛は薩摩弁をしゃべります。

言語というのは、分裂していく運命にあるものです。日本列島は、3,000キロと非常に長い。3,000から3,500キロ。南北に非常に長い列島です。そして、中央に脊梁山脈が走っていて、各地が分断されています。地形で。分断された地形で、そこに住んでいる人たちが、同じ言語をしゃべるなんてことは、ありえないのです。なんたって、江戸と鹿児島とは、ヨーロッパではフランスのパリとスペインのマドリッドの距離よりも少し短いくらい離れている訳ですから。

その象徴が『旧約聖書』に書かれているバベルの塔です。「さあ、街を作り、天に届く塔を立て、名を挙げよう。我々が全地に散らばらないように」という事で、「創世記」で、バベルの塔を造る人間たちの気持ちが謳(うた)われています。ご承知のように、このバベルの塔を見ていた神様が、「どうして、人間は天に届くような高い塔を造るのだろう?冗談じゃない!そうか、人間は同じ言葉をしゃべるからだ。同じ言葉をしゃべると強いから、バラバラにしてやろう。」とおっしゃられ、神様が人間の言葉をバラバラにしました。言語学者に言わせると、『「バラバラ」という日本語は、このバベルから来た』そうです。バベルの塔で、人間たちが異なった言葉をしゃべる事で、みんなが塔を造る事を止めて、各地にバラバラになっていってしまったという物語です。これ以降、人間は、どんな土地に行っても、違った言葉をしゃべる。そういう宿命に追われていくことになりました。

例えば、EU諸国に関して、ですが、日本とほぼ同じ長さである、南北3,500キロの長さに渡って、多くの国々が参加しています。現在27ヶ国がEUに参加しており、公用語が23言語となっています。TPPこと、環太平洋パートナーシップ協定では、公用語が、英語、スペイン語、フランス語の3言語で、参加国の中で、最も経済規模が大きい日本の公用語の日本語が含まれておりません。日本と同じ時期に参加したカナダが、参加国の中では日本語よりも使う人が少ないフランス語を公用語に推して認めさせたのに、日本の外務省は何をやっていたのでしょうか?それに対して、EUでは、27ヶ国が参加した時の約束で、「自分たちの国の言語を守れ」となりました。だから議会では、自分たちの言語が公用語になる事が参加の大きな条件だったのです。今EUでは、23言語が公用語になっています。議会の同時通訳が、常時350人おり、大事な議会がある場合には、500人に増員されます。現在、年間で、1500億円を超える費用がEU議会にかかっていて、高すぎると悲鳴が挙がっていますが、EU議会は、決してドイツ語・英語・フランス語・イタリア語を話す人たちのためだけにあるのではありません。23言語それぞれを話す人たち、皆のものです。これが、多様性という事です。

バイオダイバーシティ、生物多様性という言葉があります。多くの日本人は多様性と聞くと、バラバラになった最後の形を思い浮かべるものと思われます。日本人は、その結果としての多くの種がある事を多様性、バイオダイバーシティと認識しているからです。

ところが、バイオダイバーシティというのは、「生物が分離する」という事を意味しています。つまり、英語では、分裂していくその瞬間をとらえて、バイオダイバーシティと呼ぶ訳で、つまり、ヨーロッパの生物多様性という概念は、どんどん分裂していくことが多様性なのだという概念です。ですから、まったく言語と同じなのです。EUから離れる際に、イギリスで国民投票がありました。イギリスは、連邦国家です。あの小さな国が連邦国家で、イギリス英語・コーンウォール・ウェールズ・スコットランド・アイルランドの5つの言葉が、堂々と公用語として、イギリス連邦では通用しています。あの小さなイギリスでさえ、このような言語が分裂する訳です。

なので、EUの27ヶ国の言葉が分裂していったというのは、当たり前といえば当たり前の事でした。この27ヶ国が参加するEUの1番の原点は、バベルの塔にあったという事です。

そもそも、「旧約聖書」には、なぜ人間が、こんな高い塔を造ったのか、という理由については、

וַיֹּאמְר֞וּ הָ֣בָה ׀ נִבְנֶה־לָּ֣נוּ עִ֗יר וּמִגְדָּל֙ וְרֹאשֹׁ֣ו בַשָּׁמַ֔יִם וְנַֽעֲשֶׂה־לָּ֖נוּ שֵׁ֑ם פֶּן־נָפ֖וּץ עַל־פְּנֵ֥י כָל־הָאָֽרֶץ׃

「さあ、街を作り、天に届く塔を立て、名を挙げよう。我々が全地に散らばせられないように。」

としか、書かれていませんが、この最後の「全地に散らばせられないように」という文こそが大事なのでしょう。大洪水があって、様々なオスとメスの動物をノアの方舟(はこぶね)に乗せて、ノアの家族だけが彷徨(さまよ)っていた訳です。そして、その子孫たちが、この塔を造った訳です。という事は、これは洪水に対する避難タワーなのではないでしょうか?また再び大きな洪水があっても、「この塔に逃げれば良い」と思って造ったのではないでしょうか?東日本大震災で、大きな津波被害を受けた我々も、東北で避難タワーを造りましたが、それと同じような塔を造り、それに対して、神様が面白く思われなかった、という事でしょう。

同じように、日本も列島の長さが3,500kmもあり、真ん中に脊梁山脈(せきりょうさんみゃく)があって、各地が分断されている国土をしています。にもかかわらず、幕末の時に、なぜ、遠方に住んでいる日本人同士が、通訳の必要がなく、会話が出来たのでしょうか?なぜ、なぜ日本語は分裂しなかったのでしょうか?

実は、これが日本近代化の1つの大きな手掛かりとなります。まず、大きな点として、日本人は情報を共有していました。文字の共有をしていたという事です。これは、とても大切な事なのです。

日本列島は、情報のクモの巣だった訳です。それを江戸時代の浮世絵師である歌川広重(うたがわ ひろしげ)は、品川宿(しながわしゅく)をこのように描いています。もの凄く多くの船が、帆を上げて出航しようとしている風景です。人々が朝、旅立つところです。これは、次の神奈川宿(かながわしゅく)です。夕方、船が帆を下げて。旅人が宿に泊まるところを描いています。このような大きな船が、日本列島中を駆け巡っていた訳です。これは、広重が描いた東海道五十三次(とうかいどう・ごじゅうさん・つぎ)の由比宿(ゆいしゅく)、そして、これは三保松原の三保の遠景。多くの船が帆を下ろして休んでいます。これが日本海側の越前で描かれた船が港に停泊して、芸者衆が、その船に行くところです。大きな船が港に着くと、次は何があるかというと、江戸の姿となります。小船で川の中を小運搬していきます。日本橋の下の方に、小運搬の船が見えます。これが、どんどん上流に向かっていく訳です。そして、帆を立てて、行ける所まで行く訳です。日本中が、船を連絡網として、結ばれていたという事です。これは、江戸時代の日本列島の港を記録した貴重な図面です。日本列島中が蜘蛛の巣のようです。情報の蜘蛛の巣です。この蜘蛛の巣の上に、日本人はいたという事です。こんな国は他にありません。

イギリスは、このような水運で、自分たちの列島を囲んだ訳ではなく、ドーバー海峡を越えて、フランス・イタリア・ドイツ、等との連絡を頻繁に行いましたが、日本のように、この列島に閉じこもった蜘蛛の巣があった訳ではありませんでした。

この日本列島の蜘蛛の巣、天竜川・利根川・淀川・信濃川、等の水運の港を描かれた図では、川の上の方まで地名が入っています。川の地名が入っているという事は、川の中まで港があったという事です。どんどん船が港へ上がっていき、自分で自力で行けない所は、曳船(ひきぶね)で行きました。今でも各地に曳船という地名が残っています。

これは、横山大観が描いた曳舟という掛け軸ですが、この掛け軸には2人の剛力(ごうりき)が描かれています。この剛力がピンと引っ張っている綱は見えませんが、その先には小舟がいます。滝があり、岩があり、波しぶき、がある。つまり、ものすごく山の奥まで、曳舟が運航していたという事がわかります。こんな山まで何を運んだのでしょうか?江戸へ行く時には、米やリンゴや木材を運びました。でも、この山奥まで、何を運んだのでしょうか?

江戸の羽子板とか、お正月の人形だとか、ひな人形など、様々な全国各地の人形などが運ばれました。材木商人たちが材木を切って、江戸や大坂に持って行って、その帰りに、人形などを持って帰ってきた訳です。空船(からぶね)になった江戸から帰ってくる船の中には、江戸の貴重なものが満載されていました。人形だけではなく、当時は情報の塊でもある、瓦版や浮世絵が、船の中には満載されていました。当時の日本中の人たちが、この瓦版を読んで楽しんでいました。谷風が何連勝した、とか、赤穂浪士が討ち入りした、とか。その事があった1週間後には、全国中で知れわたっていたそうです。

この江戸で作られた版画・瓦版・浮世絵という、まさに情報の塊が、日本列島の津々浦々、川の通じた山奥の中まで辿り着いていた訳です。つまり、250年間の江戸時代、この水運、船のおかげによって、日本中の人達は、江戸発信の情報を共有していました。日本人は、情報の蜘蛛の巣のハンモックに揺られて育った訳です。

同じ言語をしゃべるのは強いという事です。欧州の列強が植民地を支配した時に、なるべく違う言葉をしゃべらせて意思の疎通を出来ないようにして、なるべくバラバラに住ませて、住民が互いにいがみ合うように努め、教育を受けさせなかった、という事からもわかるように、日本人が同じ文字を読み、同じ文字を語る。これこそが、近代化へ向けた第一歩でした。

「旧約聖書」のバベルの塔の挿話からもわかるように、同じ言語をしゃべる集団は強いという事です。

しかも、日本語は、とても不思議な、世にもまれなる言語、他の国の人達が真似できない不思議な言語です。これも地形に関係しています。日本列島は海に囲まれていますが、世界中の海流が流れている中のユーラシア大陸の極東(きょくとう)に位置しています。日本列島の周りには、親潮・黒潮・対馬海流・リマン海流が、ものすごい勢いで流れています。日本のテレビのバラエティ番組でもやっていたように、ドーバー海峡を泳いで渡るという話はよく聞きますが、対馬海峡を泳いで渡ったなどは聞いたことがありません。潮(しお)の様子が良い時だけ、舟の往来ができたようですが、その潮を読む事が大事だったと言われています。日本列島は、極めて厳しい潮の中に囲まれていたのですが、この事が、ユーラシア大陸の文明と隔離されて、日本独自の文明を築く事へと繋がって来ました。簡単に他国が侵略できなかった訳です。

そのためなのか、日本人は、どこの国の人達とも違う、不思議な脳を持っています。角田忠信(つのだ ただのぶ)東京医科歯科大学名誉教授の「日本語人(にほんごじん)の脳: 理性・感性・情動、時間と大地の科学」という本では、日本人の脳と西洋人の両方の脳細胞を比較しています。

日本人の左脳・右脳と西洋人の右脳・左脳で、両方に共通する事は、左脳が、言語・論理(ろんり)を司るという事。論理(ろんり)を司る左脳に、日本人は虫の音だとか、動物の鳴き声を感じます。これはどういう事かというと、角田先生は、虫の音(むしのね)を聞かせて、その脳に、電気の電極を当てて、どこが反応するか、つまり、鳥の声・虫の声を聞いて、どこの脳細胞が反応するかを丁寧に調べていったら、なんと日本人は論理を司る左の脳細胞で、人間のあらゆる声、笑い声・泣き声・虫の音・動物の鳴き声を処理していることがわかりました。西洋人は違いました。西洋人は。左の脳は、言語と計算をするというのは、日本人と一緒なのですが、他には、何の仕事もしません。他のものは全て、右の脳で処理されます。虫の声とか、人の泣き声とか、笑い声は、西洋人にとっては、一種の雑音です。論理の中に虫の声とか自然の声は入れません。ところが、日本人は論理の中に虫の音(むしのね)だとか動物の鳴き声を入れて判断している訳です。

日本人は、人間のあらゆる笑い声・泣き声・虫の音(むしのね)・動物の鳴き声を左の脳で処理しているので、例えば、松尾芭蕉(まつお・ばしょう)の「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」や「古池や蛙(かわず)飛びこむ水の音」という俳句に、わび、さびの世界を感じる事が出来ますが、欧米人には、何が何だか分からないでしょう。

でも日本人は、静かな所で蝉が鳴いていたとしても、その鳴き声が、その周辺の静かさを見事に表しているのを感じ取れる訳です。表現の論理と蝉の声というのが、見事に融合しています。そして、「古池や蛙飛びこむ水の音」では、古い池があって、ポツンと蛙が飛び込む。その水の音によって、その周辺の静けさ。または、その寺の古池周辺のさびれた様子。または、周辺の街の中の騒音から隔離された、ある極めて静かな空間。それを表している。つまり、虫の声・自然の音が我々日本人の論理の中に見事に構築されているんです。これを英語で注脚(ちゅうきゃく)しても、まったく分からないでしょうね。

角田(つのだ)先生は、日本人と同じく、虫の声とか自然の音を左脳で処理する人達を、世界中で探しました。台湾の人達、韓国の人達、中国の人達、にも同じ実験をしました。欧米の人達やトルコの人達、モンゴルの人達などにも。これらの国の人達と日本人は全く違った脳細胞をしている事がわかりました。日本人だけが論理の中に自然を感じてしまう非論理的な脳細胞を持っていた訳です。なので、日本人は他の国の人達ほど、論理的ではないと言われるのかもしれません。でも、我々日本人の脳がそうさせているのです。知能とか、そういう問題ではありません。日本人だけが不思議な脳細胞をしているのです。日本人の左脳には様々なものが入り込んでいますが、これらの人達の左脳には、言語と計算だけ。なぜかというと、日本人以外の人達は言語能力を発達させざるをえなかったのではないでしょうか?平和に生活することが出来ず、しょっちゅう争いに巻き込まれていたからでしょう。

その後、角田(つのだ)先生は、世界の中で、日本人と同じ脳細胞と言語を持った国を見つけました。それが、この世界中の太平洋のど真ん中にあるトンガとサモアです。海の孤島の人たちとまったく同じ言語脳細胞でした。当チャンネルの別の動画に、日本人は、ツングース系とオーストロネシア系の混血と解説してある動画がありますが、脳細胞を見ても共通していたという事です。

トンガは、赤道から南に位置しています。南太平洋にある島の多くは発見されにくかったので、19世紀から20世紀の初め頃まで、欧米の植民地にならなかったのですが、同様に、トンガとサモアも、同じ頃まで植民地になりませんでした。後に、英国領となりましたが。赤道から北の地域の人々の歴史というのは、侵略戦争という暴力が支配するもので、それが大航海時代以降の世界史でした。ところが、トンガとサモアはなかなか植民地になりませんでした。ちなみに、トンガは、1900年に英国の植民地となり、1970年に独立しました。

つまり、トンガと日本の共通する事は、「文明の衝突」です。これも当チャンネルの別の動画で語っていますが、世界の国々のどこの文明でも、共通する事は、敵対する事です。なので、ユーラシアの文明国の都市は。よく見ると、塀で囲まれています。この中には、自分達の仲間だけ、家族だけが住んでいて、外に向かっては、小さな窓を介して、敵に向かって対峙している訳です。ところが、日本では、平城京にしろ、平安京にしろ、塀がありません。日本でも戦国時代や江戸時代には、お城をお堀で囲んだりしていますが、江戸の町には塀がありません。つまり、世界中で共通する事は、常に外部の民族に侵略される恐れがあったのに対して、日本とトンガは、両国の歴史の中で文明が侵された事がなかったという事です。近代になって、外敵と戦いはしました。しましたけれど、文明そのものから徹底的かつ完璧に、言語や風俗や歴史を潰され、というような文明の衝突はありませんでした。外部の文明に侵されなかった。これが日本とトンガの共通の地理的な地形的な共通点です。文明が侵されるという事は、様々な文明が入ってくるので、この中で生き抜くには、交渉能力が必要です。交渉能力とは何かというと、言語力の事です。複雑な言語能力を必要として、生き抜かなければなりませんでした。ユーラシア大陸に住む人達は、他文明と交渉しながら生き抜いてきた民族でしたが、日本人には、文明に侵されて、他文明と交渉する必要など、全くその必要がありませんでした。

だから、この左の脳細胞の言語の記憶領域には隙間がいっぱいあったので、虫の声(むしのね)や動物の声などを処理する能力が入っていった訳です。ユーラシア大陸の人達には、そんな余裕はありませんでした。左の脳細胞には、言語能力をいっぱい詰め込まなければなりませんから。これが日本人の極めて大きな特徴です。なので、日本人が日本語でしゃべる共同体こそが極めて重要なテーマなのです。

日本語という同じ言語でしゃべり、情報のハンモックに乗って、同じ情報を共有していた事によって、同じ共同体意識を持つ事が出来るようになり、西洋列強からの侵略に負けぬように、日本の国家体制を変えていく大きな原動力になった訳です。

もう1つ。会話の共通の社会システムは江戸時代にありました。それは何かというと、日本語を共有した社会システムです。参勤交代です。これは、一年(いちねん)置きに、自分の領土と江戸を往来するのですが、つまり、自分の領土に単身赴任するという事です。正室と嫡男は江戸に住んでいます。つまり、大名は三代目以降になると、皆、江戸っ子という事です。江戸っ子の大名が成人して、領主になって、一年置きに、自分の領土に行く訳です。帰るのは自分の領土から江戸に行く事です。これは、日本人の単身赴任の長い長い歴史です。今の政治家にしても、安倍晋三は成蹊学園、岸田文雄は開成高校、麻生太郎は学習院、石破茂は慶應義塾高校、故・中川昭一(なかがわ・しょういち)、谷垣 禎一(たにがき さだかず)、福田康夫、平沼赳夫、は麻布高校、小沢一郎は小石川高校(こいしかわ・こうこう)、加藤紘一は日比谷高校、等のように、選挙区は地方でも、世襲議員なので、みんな江戸っ子です。参勤交代の風習が、21世紀の今でも、日本の政界の姿でもある訳です。参勤交代をして、各々の宿場に泊まり、そして、この宿場で、お殿様や家老たちが話す言葉は、江戸弁でした。そして、皆が集まった旅籠(はたご)でも、江戸弁が共通語になっていました。つまり、お殿様が江戸弁をしゃべっていたら、部下たちは江戸弁をしゃべらざるをえません。何しろ、お殿様は江戸っ子なのですから。なので、幕臣である勝海舟と薩摩藩家老の西郷隆盛との対談では、多少の訛りはあったと思いますが、全く通訳は不必要でした。というのが日本人の江戸時代の姿でした。

つまり、明治の近代化に向けて、江戸時代に養ったものは何かというと、情報を共有する水運と、そして、言語・情報を共有して知識を共有する日本語。そして、それをしゃべる会話する能力としての参勤交代。これらが近代化を迎えるにあたって、日本中の人間が同じ言語で集まって同じ力を合わせたというのが、この近代化の準備です。

さて、実際この地方封建を破ったもの、トインビーが言ったあの奇跡、とは何なんだったのでしょうか?日本社会は、幕藩封建体制というよりも流域封建体制の中に権力が封じられた、権力が閉じ込められたものでした。藩の権力は流域の中にあったという言い方が出来ます。これは、全国の日本列島を流域で分割した図面ですが、各藩は、この流域の中に封じられていました。あの尾根を越えられませんでした。戦国時代は、尾根から越える戦いを繰り広げていましたが、江戸時代は尾根を越えてはいけません。でも尾根の中の川の流域の中では何をやっても良かったので、沖積平野・扇状地を1つの川、堤防の中に川を押し込んで、土地利用を高めていきました。前は、このように八岐大蛇(やまたのおろち)が住んでいた所を1本のきれいな穀倉地帯に直していった。これが江戸時代の力でした。平安から安土桃山時代までは、ほとんど農地の増加が見られませんでしたが、江戸時代になった時点から、日本の農地は一気に増えています。自分の国を外に広げようとしていた時代が終わり、内を充実させようとする時代になったという事です。これが江戸の250年間の平和な中で培(つちか)われた日本国土という事です。

この流域の中に住んでいた日本国土、日本人が、なぜこの流域から飛び出したのでしょうか。封建領主のために生きる時代ではなくて、自分自身のために生きる国民国家が誕生したため、と言われています。自分自身のために生きる人生に一気に変わっていくという事です。

ただ、「維新」というくらいですから、古い体制に戻った訳です。王政復古です。勘違いされている人が、もの凄く多いですが、「すべて改まり新しくなる事」ではありません。多くの国語学者も嘆いています。「維新」という言葉は、支那の最古の詩篇『詩経』の「周雖旧邦其命維新」(周(しゅう)は旧邦(きゅうほう)なりといえども、その命(めい)は維(これ)新(あらた)なり))という言葉から付けられており、幕末の論客である水戸学(みとがく)の藤田東湖(ふじた・とうこ)が「維新」を愛用した事から、天皇中心の体制に戻るのを「維新」と名付けた訳です。

当チャンネルの別の動画でも語っていますが、明治維新が成功した1つの大きな理由は、矛盾に見えるようなものを一致させたことだと思われます。明治維新の約700年前に、源頼朝(みなもとの・よりとも)が鎌倉に幕府を開いてから、日本の政治の実権は、武士にあって宮廷になかった。その実権を宮廷に戻す、700年前の体制に戻すという復古運動です。ところが、その復古運動自体が、近代化運動でもある訳です。

それまでの幕府は、自然科学の研究などを非常に危険視して、キリシタン、バテレンじゃなかろうかとか。それから外国の交流を、出島でオランダと、琉球と清(しん)、対馬と朝鮮、アイヌと満州、に限り、厳しく抑えたりしました。ところが、明治維新というのは、その逆にグローバル化を押し進めた運動でした。それが同時に復古運動なのです。

復古運動が同時に近代化運動であったということが、日本の大きな幸運だったのでしょう。
パラドックス、逆説というわけですが、普通はありそうにもないのですが、よくよく考えてみれば、上手いな、という風に改革していきました。それは、復古運動。明治維新は復古運動だと、どんな、いわゆる原理主義者みたいな人でも、反対のしようがない。それと同時に、これは近代化運動を推し進めました。

それが、トインビーが言ったあの奇跡を生んだのでした。

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