天武天皇の長男、高市皇子(たけちのみこ)の第一皇子(だいいち・おうじ)であらせられるのが長屋王(ながやおう)となります。母は天智(てんじ)天皇の皇女(ひめみこ)で元明天皇の同母姉である御名部皇女(みなべ・の・ひめみこ)であり、皇親(こうしん)として嫡流に非常に近い存在であらせられました。元明天皇の甥ということに加えて、更にはお后様まで、草壁皇子(くさかべの・おうじ)と元明(げんめい)天皇の次女で元正(げんしょう)天皇の妹で、文武(もんむ)天皇の姉もしくは妹である吉備内親王(きび・ないしんのう)であらせられます。官位は正二位・左大臣。 天皇として即位しても全く不思議ではなく、政界の重鎮とおなりになられていたのですが、対立する藤原四兄弟の陰謀で悲劇に巻き込まれなさいました。
まずは、中臣鎌足(なかとみの・かまたり)の次男である藤原不比等(ふじわらの・ふひと)について解説します。
中臣鎌足には、二人の息子がおり、長男は真人(まひと)、出家して定恵(じょうえ)と名乗り、遣唐使として唐(とう)に渡り、帰国した直後に死去しましたが。
定恵こと真人が亡くなった時は、不比等はまだ6歳の時でした。11歳の時には、父、鎌足も死去。これ以降、中臣から藤原となります。
不比等が朝廷に任官するのは、持統天皇3(西暦689)年。不比等は官僚として持統天皇、文武天皇、元明天皇、元正天皇に仕え、着実に権力基盤を固めていきました。ここで一人の女性が登場しました。名前は県犬養 三千代(あがた(の)いぬかい の みちよ)、後(のち)の橘三千代(たちばなの・みちよ)。阿閇皇女(あへ・の・ひめみこ)つまりは元明(げんめい)天皇に仕える女官(にょかん)の一人でした。県犬養 三千代は美努王(みぬおう)と結婚し何人も子供を生んでいるのですが、その後、夫と別れ不比等と再婚。不比等と三千代の夫婦の二人が敷いた路線が、後の藤原氏繁栄の礎になりました。
その路線とは皇族との婚姻関係を深めることで権力基盤を強化していくという手法でした。
不比等らが蘇我氏を手本にしたのは明らかで、まずは手始めに不比等は妻の一人、賀茂比売(かものひめ)との間に生まれた宮子(みやこ)を文武(もんむ)天皇に嫁がせました。
更に不比等は、文武天皇と宮子との間に生まれた皇子、首皇子(おびとの・おうじ)に、三千代との間の子、光明子(こうみょうし)を結婚させることに成功しました。
二つの婚姻により首皇子(おびとの・おうじ)が天皇に即位した場合、不比等(ふひと)は天皇の祖父にして天皇の義理の父親という立場になるわけでした。
もちろん、当時の朝廷には不比等のやり方に反発を抱く人達が少なくありませんでした。その中の一人が元明(げんめい)天皇で、皇位を皇太子である首皇子ではなく氷高皇女(ひだか・の・ひめみこ)にお譲りなさられたわけです。
即位した氷高皇女こと、元正(げんしょう)天皇は、妹の夫であり、いとこにあたる長屋王(ながやおう)を重用することになりました。元正天皇の父親である草壁皇子(くさかべの・おうじ)と長屋王の父親である高市皇子(たけちのおうじ)は異母兄弟ですから。
壬申の乱に勝利し即位なさられた天武天皇は政治の場から可能な限り豪族たちを排除し、皇族中心で政治を行おうとしました。皇親(こうしん)政治と言います。
奈良時代の初期、政界では藤原不比等を中心とする新勢力と長屋王率いる皇親政治派の二派が激しい権力争いを繰り広げていました。もっとも藤原不比等は娘を皇族に娶せたもののさすがに荒っぽい手段に出ようとはしませんでした。藤原不比等は、持統天皇以来、四代の天皇にお仕えしている訳なので、皇室に対して、それなりの恩義を感じていたのだとも思われます。
養老(ようろう)4(西暦720)年、藤原不比等が編纂に関わっていた『日本書紀』が完成し奏上されました。同時に不比等は病にかかりました。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《養老四年(七二〇)八月辛巳朔》○八月辛巳朔。右大臣正二位藤原朝臣不比等病。賜度卅人。詔曰。右大臣正二位藤原朝臣疹疾漸留。寝膳不安。朕見疲労。惻隠於心。思其平復。計無所出。宜大赦天下。以救所患。養老四年八月一日午時以前大辟罪已下。罪無軽重。已発覚。未発覚。已結正。未結正。繋囚・見徒。私鋳銭。及盗人。并八虐。常赦所不免。咸悉赦除。其癈疾之徒。不能自存者。量加賑恤。因令長官親自慰問。量給湯薬。勤従寛優。僧尼亦同之。
養老4年8月1日。右大臣正二位の藤原朝臣不比等が病気になった。平癒を祈るため、得度する人三十人を与えられ、次のように詔(みことのり)した。
右大臣・正二位の藤原朝臣は、病にかかって寝食もままならない。朕(ちん)はその疲労の様を見て心中哀れみ、悼んでいる。その平復を願っているが、なす術(すべ)がない。よって天下に大赦を行って、これにより病患を救いたい。養老4年8月1日の午(うま)の刻(こく)より以前の、死罪以下罪の軽重を問わず、すでに発覚した犯罪、まだ発覚していない犯罪、すでに判決のあった犯罪、まだ裁判中の犯罪も、現在すでに獄につながれている囚徒、贋金づくり及び盗人、八虐(はちぎゃく)の犯罪で通常の赦ではゆるされない者も、皆ことごとく赦免せよ。不治の病の者、自活できない者には、程度に応じて物を恵み、与えよ。そのため官司の長官は自ら親しく慰問して、煎じ薬を支給し、寛大で優しく接するようにせよ。僧尼もまた同じように処遇せよ。
元正(げんしょう)天皇は藤原不比等(ふじわらの・ふひと)を回復させるために恩赦をお命じなさられただけでなく、同時に平城京の48ヶ所の寺に命じ、一昼夜、薬師経を読ませなさられました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。
《養老四年(七二〇)八月壬午【二】》○壬午。令都下〓八寺一日一夜読薬師経。免官戸十一人為良。除奴婢一十人従官戸。為救右大臣病也。
八月二日 平城京の48ヶ所の寺にお命じなさられて、一昼夜、薬師経を読ませなさられました。官所有の賎民11人を解放して良民となさられなさいました。奴婢10人を除いて、他は官所有の賎民に従わせた。右大臣こと藤原不比等を病気から救うためである。
とはいえ彼らの努力の甲斐もなく8月3日不比等はこの世を去りました。
是日。右大臣正二位藤原朝臣不比等薨。帝深悼惜焉。為之廃朝。挙哀内寝。特有優勅。弔賻之礼異于群臣。大臣、近江朝内大臣大織冠鎌足之第二子也。
この日、右大臣正二位の藤原朝臣不比等が薨じた。天皇はこれを深く悼み、惜しまれた。ためにこの日は政務は見ず、内殿で悲しみの声を挙げる礼を行ない、特別に手厚い天皇の詔があった。死者を弔い贈り物をする礼は他の群臣とは異なって盛大だった。大臣は近江朝廷(おうみの・みかど)の内大臣・大織冠(たいしょっかん)であった鎌足(かまたり)の第二子である。
藤原不比等が持統天皇のもとに任官した時点では、氷高皇女(ひだか・の・ひめみこ)事、後(のち)の元正(げんしょう)天皇は9歳でいらっしゃいなさられました。それ以降、二人は30年以上も関わってきた訳です。元正天皇にとって藤原不比等は付き合いの長いおじさん的な存在だったのではないでしょうか。なので、元正天皇は不比等の平癒を願いなさられなさって、恩赦を施しなさられなさったり、一昼夜、薬師経を読ませなさられたりなさったのでしょう。
藤原不比等は孫である首皇子(おびとの・おうじ)の即位を見ることなく、この世を去ってしまいました。とはいえ、不比等はその生涯において日本の律令国家化を完成させ、さらには、その後平安時代にまで続く、藤原政権の端緒となりました。もちろん、持統天皇に協力する形ではありましたが、不比等は奈良時代から平安時代に続く、日本の政治の枠組みを確定させました。
不比等の4人の息子らが優秀でした。名前は長男が武智麻呂(むちまろ)、次男が房前(ふささき)、三男が宇合(うまかい)、四男が麻呂(まろ)。俗にいう藤原四兄弟です。この4人の兄弟こそが、後の藤原四家の始まりになりました。武智麻呂が南家(なんけ)、房前が北家(ほくけ)、宇合が式家(しきけ)、麻呂が京家(きょうけ)の開祖となります。
もっとも不比等が亡くなった時点では長男の武智麻呂ですらまだ19歳だったため、亡き不比等の後継者として右大臣に叙任されたのはもちろん藤原四兄弟ではなく長屋王でした。
そもそも、当時の元正(げんしょう)天皇は、朝廷内における藤原氏の影響力を抑え込むことが目的で即位した天皇でしたので。
ちなみに、長屋王は皇族の中の皇族であると同時に、不比等の娘である藤原長娥子(ふじわら・の・ながこ)を妻の一人にしていましたので、藤原氏と無関係というわけではありませんでしたが。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《養老五年(七二一)三月癸丑【丁未朔七】》○三月癸丑。勅日。朕君臨四海。撫育百姓。思欲家々貯積。人々安楽。何期。頃者旱〓不調。農桑有損。遂使衣食乏短。致有飢寒。言念於茲。良増惻隠。今減課役。用助産業。其左右両京及畿内五国。並免今歳之調。自余七道諸国亦停当年之役。
養老5年3月7日 次のように詔(みことのり)を下された。朕(ちん)は天下に君臨し人々を愛(め)で慈(いつく)しみ、家々が次第に富を蓄え、人々が安楽に暮らせるように願っている。ところが近頃気候が不順で干害(かんがい)と水害が起こり、農耕や養蚕(ようさん)に被害を与え、ついには衣服にも事欠き、飢えと寒さに襲われることになろうとは、思いがけぬことであった。このことを考えては、朕はまことに、心から民を哀れみ悼(いた)んでいる。今は課役を軽減して、生業(なりわい)を助けようと思う。そこで、左右の京(みやこ)及び畿内の五ヶ国に、すべて今年の調(みつき)を免除し、他の七道(しちどう)の諸国についても、今年の夫役(ぶやく)を停止する。
また隼人や蝦夷との反乱鎮圧の最前線であった筑紫や陸奥の住民に対しても免税を実施し、反乱軍との戦いで戦死した兵士の家族に対しても1年間の租税を免除しています。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
又陸奥・筑紫辺塞之民。数遇煙塵。疚労戎役。加以、父子死亡。室家離散。言念於此。深以矜懐。宜令免当年調庸。諸国軍衆。親帥戦兵。殺獲逆賊。乗勝追北者。賜復二年。冒犯矢石。身死去者。父子並復一年。如無子者。昭穆相当郷里者。議亦聴復之。
陸奥(みちのく)や筑紫(ちくし)の辺境の砦の民は、しばしば戦乱に遭い、兵役に病み疲れています。そればかりか父子ともに死亡し、一家離散する者もあります。これを深く憐れんでおります。そこで、この年の租税を免除すべきと思います。諸国の軍人たちで、自ら兵士を率いて逆賊を捕えたり殺したり、勝ちに乗じて逃亡する敵を追撃した者には、二年間の租税負担を免除したい。戦場で働いて死去した者には、その父子とも一年間免除とし、もし子のない時は、親族で最も血縁の近い者を審議して選び、免除することにしたい。
国民が苦しんでいるならば減税するというわけです。疫病の蔓延や東欧での軍事侵攻による経済危機の最中でも、減税を拒否するばかりか大型増税を目論んでいるどこかの政治家たちに聞かせたいエピソードです。
ちなみに当時の日本は現在とは異なり人口が増加し、耕作地が不足しつつありました。そこで長屋王は田地の開懇を奨励。新たに切り開いた田畑の場合、三代まで所有を認める三世一身法を制定します。三代にわたり所有権を認めることで農民のやる気を引き出したわけです。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《養老七年(七二三)四月辛亥【十七】》○辛亥。太政官奏。頃者。百姓漸多。田池窄狭。望請。勧課天下。開闢田疇。其有新造溝池。営開墾者。不限多少。給伝三世。若逐旧溝池。給其一身。奏可之。
養老7年4月17日。太政官が次のように奏上した。近頃、人民の人口が次第に増加し、田や池が不足しております。どうか天下の人民に田地の開墾を勧め割り当てたいと思います。その場合、新たに溝や池を作り、田地を開墾した者があれば、多少にかかわらず、三代目まで、その所有を許し、もし古い溝や池を手入れして、使えるようにした場合は、本人の代にのみ、所有を許すことにしたいと思います。奏上を可として許可なされなさいました。
つまり、三代に渡って、土地の所有権を認めることで、農民のやる気を引き出した訳です。
養老5(西暦721)年、元正(げんしょう)天皇の母親にして、長屋王にとっては義理の母に当たる元明(げんめい)上皇が病床にお伏せなさられました。60歳というご高齢で、重体に陥りなさられた上皇は、右大臣であった長屋王と参議の藤原房前(ふじわら の ふささき)をお召しになさられて、詔を下されなさいました。
《養老五年(七二一)十月丁亥【十三】》○丁亥。太上天皇召入右大臣従二位長屋王。参議従三位藤原朝臣房前。詔曰。朕聞。万物之生。靡不有死。此則天地之理。奚可哀悲。厚葬破業。重服傷生。朕甚不取焉。朕崩之後。宜於大和国添上郡蔵宝山雍良岑造竈火葬。莫改他処。謚号称其国其郡朝庭馭宇天皇。流伝後世。又皇帝摂断万機。一同平日。王侯・卿相及文武百官。不得輙離職掌。追従喪車。各守本司視事如恒。其近侍官并五衛府。務加厳警。周衛伺候。以備不虞。
養老5年10月13日。太上天皇が右大臣、従二位の長屋王と、参議従三位の藤原朝臣房前(ふじわら の あそん ふささき)を召し入れて、次のように詔なさられなさいました。
朕(ちん)は万物の生命には必ず死があると聞いている。これは天地の道理であり、どうして悲しむべきであろうか。葬儀を盛大に行ない、人民の生業を壊し、服装を飾って生活を痛めつけることは、朕の取らないところである。朕が崩じた後は、大和国添上郡(そうのかみぐん)蔵宝山(きほやま)の北の雍良(よら)の峰に竈(かまど)を作って火葬に付し、改めて他の場所に移してはならない。諡号は簡単に「某国某郡の朝廷に「あめのした しろしめしし すめらみこと」とだけ称し、後世に伝えるようにし、天皇は通常と同じように政務万般を執り行い、皇親や公卿および文武の百官は簡単に職場を離れて柩車に付き従うべきではない。それぞれ自分の本務を守り、平素と同じように仕事をするように。近侍の官人や五衛府は、厳重に警戒の任務に当たり、固く守護して側(そば)に仕え、不慮の出来事に備えよ。
さらに死の直前、また詔を下されなさいました。
《養老五年(七二一)十月戊戌》○戊戌。詔曰。凡家有沈痼。大小不安。卒発事故者。汝卿房前。当作内臣計会内外。准勅施行。輔翼帝業。永寧国家。
養老5年10月24日。次のように詔なさられなさいました。
およそ家の中に久しく治らない病気がある時は、何かと平安でなく、ふいに悪い出来事が起こるものである。汝、藤原房前はまさに内臣(うちつおみ)となって内外にわたってよく諮
(はか)り、考え、詔に従って施行し、天皇の仕事を助けて長く国家を安寧にするように。
内臣(うちつおみ)とは朝廷の最高顧問で、重要な政務を掌握する大臣に匹敵する官職です。元明(げんめい)上皇は、お隠れになられなさる前に、藤原 房前(ふじわら の ふささき)を内臣に御任命なさられたのですが、その結果、藤原四兄弟の政治力が強化され、長屋王派との権力闘争が激化することになってしまいまいた。
元明上皇が、なぜ房前を死の間際に重職につけたのかについては、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に、理由が述べられていないのでわかりませんが、持統天皇の御代(みよ)以降、長年、国家のために尽くした藤原不比等への感謝の気持ちがあったのでは、とも言われております。
ただ、不比等と彼の子どもたちとの間には大きな違いがあったのですが、元明上皇にはその点に気が付かられておられませんでした。
藤原不比等は確かに藤原鎌足という近江朝の重臣の息子ですが、壬申の乱以降、天智天皇の側近の息子という立場は別に不比等を利することはありませんでした。壬申の乱で天武天皇が勝利した以上、鎌足の息子であった事実は逆に朝廷で彼の足を引っ張りかねなかったからです。だからこそ、不比等は、特に持統天皇に対し、徹底的に忠義を尽くしました。それに対し、武智麻呂や房前ら、の、藤原四兄弟は、生まれた時点で権力者の息子だったわけです。皇族を重視する気持ちが親子ではまったく異なっているのも当然です。藤原不比等と四兄弟の関係は、蘇我蝦夷と入鹿との親子関係のようなものでしょう。蘇我蝦夷は父親の馬子、さらには聖徳太子等と一緒に物部一族と戦い、勝利して権力者の地位を固めたわけなので、それなりに皇族を敬う気持ちがありました。ところが、朝廷で苦労した経験を持たない蘇我入鹿にはそのような気持ちが無く、だからこそ山背大兄王(やましろのおおえのおう)をはじめとする上宮王家を滅ぼすことができた。聖徳太子と付き合いが長かった蘇我蝦夷なら聖徳太子の子孫を皆殺しにするといった事はできなかったはずです。
蘇我入鹿同様、藤原四兄弟は父親と比べ皇室に対する敬意が薄く、しかも兄弟たちには父親の望みを何としても果たしたいという共通の野心がありました。不比等の孫の首皇子(おびと・の・おうじ)を天皇として即位させ、不比等と三千代の娘である光明子を皇后の座に付けることでした。当時は皇族の女性以外は皇后になる事が出来ませんでしたから、だからこそ、何としても実現したわけでした。これらが実現できれば、藤原家一族は事実上の準皇族として扱われるようになり、藤原一門の権力は他の氏族を圧倒し、末永く日本国の権力の座を独占できる可能性がありました。
藤原不比等は首皇子(おびと・の・おうじ)がご即位なさられる前に亡くなりましたが、氷高皇女(ひだか・の・ひめみこ)が元正(げんしょう)天皇としてご即位なさられたとはいえ、皇太子まで、すげ替えられたわけではなく、元正天皇の皇太子も、それまで通り、首皇子でした。
神亀(じんき)元年(西暦724)年、元正天皇が譲位なさられ、ついに首皇子が天皇として即位なさられました。第45代、聖武(しょうむ)天皇です。ご譲位なさられる際の元正天皇のお言葉が、聖武天皇がご即位なさられる際の詔(みことのり)の中にあり、そのお言葉が『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に残されています。
高天原〈 爾 〉神留坐皇親神魯岐・神魯美命、吾孫将知食国天下〈 止 〉与佐〈 斯 〉奉〈 志 〉麻爾麻爾。高天原〈 爾 〉事波自米而、四方食国天下〈 乃 〉政〈 乎 〉、弥高弥広〈 爾 〉天日嗣〈 止 〉高御座〈 爾 〉坐而、大八嶋国所知倭根子天皇〈 乃 〉大命〈 爾 〉坐詔〈 久 〉。此食国天下者、掛畏〈 岐 〉藤原宮〈 爾 〉天下所知、美麻斯〈 乃 〉父〈 止 〉坐天皇〈 乃 〉美麻斯〈 爾 〉賜〈 志 〉天下之業〈 止 〉、詔大命〈 乎 〉、聞食恐〈 美 〉受賜懼〈 理 〉坐事〈 乎 〉、衆聞食宣。可久賜時〈 爾 〉、美麻斯親王〈 乃 〉齡〈 乃 〉弱〈 爾 〉、荷重〈 波 〉不堪〈 自加止 〉所念坐而、皇祖母坐〈 志志 〉、掛畏〈 岐 〉我皇天皇〈 爾 〉授奉〈 岐 〉。
高天原(たかまがはら)に神として留(とま)りおいでになる天皇の遠祖の男神(おがみ)・女神(めがみ)が、皇孫(こうそん)の統治すべき国として授けられた事に従い、高天原にはじまる四方の治めるべき国の政治を、いよいよ高く、いよいよ広く、天日嗣(あまつひつぎ)として、高御座(たかみくら)においでになって、大八嶋国(おお・やしま・ぐに)を統治される大倭根子天皇(おおやまと・ねこ・の・すめらみこと)こと元正(げんしょう)天皇が大命(おおみこと)して仰られなさいますには、「この統治すべき国は口にするのも畏れ多い藤原宮(ふじわらのみや)に天下を統治された汝の父にあたる文武天皇が、汝に賜った天下の業(わざ)である。」と仰せられるお言葉を承(うけたまわ)り、恐懼(きょうく)していることを、皆、承(うけたまわ)れと申しのべる。
「このように汝に天下を下し賜う時に、汝、親王の年齢は若かったので、汝には荷が重く耐えられないだろうと思われ、皇祖母(おおみおや)に当たられる、口にするのも恐れ多い我が大君(元明(げんめい)天皇)に天下の業(わざ)を授けられた。」
その後、元正(げんしょう)天皇は瑞祥(ずいしょう)である白い亀『神亀』(じんき)が現れたことを引き合いに出し、
今神亀二字御世〈 乃 〉年名〈 止 〉定〈 〓[氏+一] 〉改養老八年為神亀元年而、天日嗣高御座食国天下之業〈 乎 〉、吾子美麻斯王〈 爾 〉、授賜譲賜〈 止 〉詔天皇大命〈 乎 〉、頂受賜恐〈 美 〉持而、辞啓者。
そこで今、神亀(じんき)の二文字を年号に定め、養老8年を改めて神亀元年とし、天津日嗣(あまつひつぎ)の高御座(たかみくら)と天下統治の業(わざ)を我が子である汝に授ける』
首皇子(おびとの・おうじ)は元正(げんしょう)天皇にとっては、我が子ではなく甥なのですが、「言い回し」なのでしょう。というわけで元正天皇から譲位を受け、首皇子がご即位なさられました。聖武(しょうむ)天皇です。聖武天皇は即位の直後、長屋王を左大臣に昇進なさられなさいました。と、同時に、藤原武智麻呂(ふじわら の むちまろ)、房前(ふささき)兄弟をも出世なさせておしまいになられました。政治闘争の舞台を整えておしまいになれてしまわれました。
聖武天皇は、まずは母親の藤原宮子(ふじわら・の・みやこ)を大夫人(おおみおや)と称することをお決めなさられました。上代(じょうだい)では、皇后もしくは皇太后を意味するとされていますので、「皇太后」という事です。ただ、「皇太后」とは、先の皇后陛下にたいする尊称なので、当時は皇族の女性しか皇后になれなかったため、藤原不比等(ふじわら・の・ふひと)の娘である宮子は当然ながら皇后ではありませんでした。聖武天皇は「皇后」ではなかった母親を「皇太后」と呼ぶよう御指示なさられた訳ですが、当然ながら、皇族や藤原氏以外の有力者たちからの反発が押し寄せました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
伏見二月四日勅。藤原夫人天下皆称大夫人者。臣等謹検公式令。云皇太夫人。欲依勅号。応失皇字。欲須令文。恐作違勅。不知所定。伏聴進止。詔曰。宜文則皇太夫人。語則大御祖。追収先勅。頒下後号。
「恭しく今年2月4日の詔を拝見しますと、藤原夫人を天下の人々は皆、大夫人(おおみおや)と称せとあります。しかしわたくしども謹んで公式令(くしきりょう)を調べますと皇太夫人と称することになっています。先頃の詔(みことのり)によろうとすれば、皇の字を失うことになり、公式令(くしきりょう)の文を用いようとすれば、詔(みことのり)を違(たが)える事になるのを恐れます。いかに定めれば良いか分かりませんので、伏してお指示を仰ぎたいと思います。」聖武天皇は、次のように詔(みことのり)なさられなさいました。
「文書に記す場合には皇太夫人(すめみおや)とし、口頭では大御祖(おおみおや)とし、先の詔での大夫人(おおみおや)の号を撤回して、後の名号(皇太夫人(すめみおや)と大御祖(おおみおや))を天下に通用させよ。」
要するに皇后ではなかった藤原宮子(ふじわら・の・みやこ)を皇太后と呼ぶことはいかがなものなのでしょうか?と長屋王か指摘したわけですが、それに対し、聖武天皇は、結局文章に記す場合は皇太夫人(すめみおや)、口で述べる場合は大御祖(おおみおや)と呼ぶことになり、大夫人(おおみおや)の号を撤回せざるを得なかったわけでした。大御祖(おおみおや)とは単に天皇の母親という意味になります。
藤原宮子(ふじわら・の・みやこ)を大夫人(おおみおや)にしたかったものの果たせなかったのは、聖武天皇ばかりでなく、同時に藤原氏の敗北でもありました。というわけで、聖武天皇の御代は皇親政治の維持を図る長屋王派と、自分たちの血族を強化したい藤原派との対立で始まりました。神亀(じんき)四(西暦727)年、聖武天皇は不思議な詔(みことのり)を発し、それを長屋王が読み上げました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
神亀四年二月甲子。天皇御内安殿。詔召入文武百寮主典已上。左大臣正二位長屋王宣勅曰。比者咎徴荐臻。災気不止。如聞。時政違乖。民情愁怨。天地告譴。鬼神見異。朕施徳不明。仍有懈欠耶。将百寮官人不勤奉公耶。
神亀(じんき)四年二月二十一日、天皇が内安殿(うちの・あん・どの)に出御(しゅつぎょ)なさられなさって、詔(みことのり)なさられなさって、文武百官の主典(さかん)以上の者をお召し入れられなさられた。左大臣正二位(しょう・にい)の長屋王が勅(みことのり)を述べて、次のように言った。
『この頃、天の咎(とが)めの印がしきりにあり、災異がやまない。時の政治が道理に背き、民の心が憂いうらむようになると、天地の神々はこれを責めて、鬼神が異常を表わすと聞く。朕(ちん)が民に徳を施すことが顕著でなく、そのために怠り欠けるところがあるのであろうか。または百寮(ひゃくりょう)の官人(かんにん)が奉公に勤めないためであろうか。』
聖武天皇は災害が続いている状況を自らの不徳の致すところと反省していて、官僚たちが怠けているせいでもあると叱責しているように思えます。ただ、天皇の反省の詔を、臣下である長屋王が普通に読み上げてしまったという点が問題でした。聖武時代の初期は実質的には長屋王政権でした。聖武天皇がいかなる心境から反省の詔を出そうとしたのかは分かりませんが、少なくとも長屋王は止め立てしようとはせずに、それを承認してしまったわけです。聖武天皇からしてみれば、確かに自分は不徳かもしれないが、それをおおっぴらにしようとした際に静止してくれても良さそうなものじゃないかという反発の念を長屋王に抱(いだ)かせた可能性がありますから。
というわけで聖武天皇と長屋王との関係が微妙になりつつある状況で、聖武天皇の妃、光明子(こうみょうし)が男の子を産みました。基皇子(もといのみこ)の事です。聖武天皇にも跡継ぎの男の子ができるやいなや、聖武天皇は基皇子の立太子を強行なさられなさいました。前代未聞の生後一ヶ月の皇太子の誕生というわけです。
皇太子、日嗣の御子(ひつぎ‐の‐みこ)とはもちろん天皇の位を受け継ぐ皇子(おうじ)という意味です。つまりは聖武天皇が急死してしまった場合には、次の天皇として即座に即位しなければならない存在なのですが、さすがに赤ちゃんを天皇として即位させるわけにはいきません。藤原四兄弟(ふじわらよんきょうだい)としては基皇子(もとい・の・みこ)を皇太子にすることで、聖武天皇以降も藤原氏の血族が皇位を継承することを決定付けたかったのでしょう。とは言え、当然ながら基皇子の立太子は反藤原氏の皇族や百官たちをも愕然とさせました。
皇太子に拝謁するため、百官が藤原邸を訪れた際には、なぜか長屋王が欠席しました。本来なら、百官を率いてお祝いするべき人物なのですが。それに対して、藤原氏側も、長屋王派である大伴旅人(おおとも の たびと)を筑紫に左遷してしまう等で、報復したという説もあるように、聖武天皇を間に挟んで、反藤原氏勢力と藤原四兄弟の対立が激化していきました。
ところが、長屋王派と藤原派の全面衝突が避けられない状況になっていった時点で、皇太子となった基皇子(もとい・の・みこ)がお隠れなさられてしまいました。昭和初期に水の消毒の技術が発展するまでは、特に男の子の乳児死亡が高い時代が続きましたから。しかも、同じ時期に聖武天皇と別の女性との間に安積親王(あさかしんのう)がお生まれなさられました。当然、藤原四兄弟は焦りました。聖武天皇と光明子の間には、基皇子がお産まれになられる前に阿倍内親王(あべ・ないしんのう)という皇女(ひめみこ)がいらっしゃられなさいました。とはいえ、当時は長屋王を始め、天武系の男性皇族が多数いらっしゃられなさったわけです。他に候補者がいなかったならばともかく、長屋王たちが健在な状況で阿倍内親王を皇太子にすることには無理があり過ぎました。
基皇子(もとい・の・みこ)がお隠れになられ、光明子(こうみょうし)が再び男の子を産む保証はないので、皇統が藤原氏の血統以外に受け継がれてしまう可能性が一気に高まりました。危機感を強めた藤原四兄弟は、せめて光明子を聖武天皇の皇后とするべく動き出したのですが、その前に立ちふさがったのが長屋王というわけでした。というわけで、というわけで神亀6(西暦729)年に事件が勃発しました。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
天平元年二月辛未。左京人従七位下漆部造君足。無位中臣宮処連東人等告密。称、左大臣正二位長屋王私学左道。欲傾国家。
2月10日左京の住人である十七位下の漆部造君足と無位の中臣宮処東人らが左大臣正二位の長屋王は密かに左道を学び国家を倒そうとしていますと密告した。
左道(さどう)とは、何なのでしょうか?正確なところはわかっていないのですが、文脈から見て、邪道といった意味ではないかと考えられています。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、長屋王が何をしたのかは全く書かれていないのですが、聖武天皇は密告を受け、即座に関所を封鎖なさられ、更には藤原宇合(ふじわら の うまかい)に軍隊を率いさせ、長屋王の屋敷を包囲させなさられました。つまり、聖武天皇や藤原四兄弟にとっては、長屋王が何を学んでいたのか、具体的な話はどうでも良かったわけです。長屋王排斥こそが、最初から目的だったという事なのでしょうか。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
其夜。遣使固守三関。因遣式部卿従三位藤原朝臣宇合。衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂。左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道。右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物等。将六衛兵。囲長屋王宅。
《天平元年(七二九)二月壬申【十一】》○壬申。以大宰大弐正四位上多治比真人県守。左大弁正四位上石川朝臣石足。弾正尹従四位下大伴宿禰道足。権為参議。巳時。遣一品舍人親王。新田部親王。大納言従二位多治比真人池守。中納言正三位藤原朝臣武智麻呂。右中弁正五位下小野朝臣牛養。少納言外従五位下巨勢朝臣宿奈麻呂等。就長屋王宅、窮問其罪。
《天平元年(七二九)二月癸酉【十二】》○癸酉。令王自尽。其室二品吉備内親王。男従四位下膳夫王。無位桑田王。葛木王。鉤取王等。同亦自経。乃悉捉家内人等。禁着於左右衛士・兵衛府等。
天皇はその夜、使いをお遣わせななさられ、三関(鈴鹿・不破・愛発(あらち))を固く守られなさられまさいました。またこのため、式部卿(しきぶきょう)・従三位(じゅ・さんい)の藤原朝臣宇合(ふじわら の あそん うまかい)・衛門佐(えもん・の・すけ)の従五位下(じゅ・ごい・げ)の佐未朝臣虫麻呂(さみの・あそん・むしまろ)・左衛士佐(さえじのすけ)の外従五位下(がいい・じゅ・ごい・げ)の津嶋朝臣家道(つしま・の・あそん・いえみち)・右衛士佐(うえじさ)外従五位下(がいい・じゅ・ごい・げ)紀朝臣佐比物(きの・あそん・さいもつ)らを遣わして。六衛府(ろくえふ)の兵士を引率して、長屋王の屋敷をご包囲なさられた。
2月11日。大宰大弐(だざいの・だいに)正四位上(しょう・よんい・じょう)多治比真人県守(たじひの・まひと・あがたもり)、左大弁(さ・だいべん)正四位上(しょう・よんい・じょう)石川朝臣石足(いしかわの・あそん・いわたり)、弾正尹(だんじょうのかみ)従四位下(じゅう・よんい・げ)大伴宿禰道足(おおともの・すくね・みちたり)の三人をかりに参議に任じた。巳(み)の時(午前10時前後)に、一品(いっぽん)の舍人親王(とねり・しんのう)と新田部親王(にいたべ・しんのう)、大納言従二位(だいなごん・じゅ・にい)の多治比真人池守(たじひ・の・まひと・いけもり)。中納言正三位(ちゅうなごん・しょうさんい)藤原朝臣武智麻呂(ふじわらの・あそん・むちまろ)、右中弁正五位下(う‐ちゅうべん・しょうごい・の・げ)小野朝臣牛養(おの の あそん・うしかい)、少納言外従五位下(しょうなごん・がいい・じゅごい・の・げ)巨勢朝臣宿奈麻呂(こせ の あそん・すくなまろ)らを長屋王の屋敷に遣(つか)わし、その罪を追求し訊問(じんもん)させられた。
2月12日。長屋王を自殺させた。その妻で二品(にほん)の吉備内親王(きび・ないしんのう)、息子で従四位下(じゅ・さんい・げ)の膳夫王(かしわで・おう)、無位桑田王(むい・の・くわた・おう)、葛木王(かずらぎ・おう)、鉤取王(かぎとり・おう)らも、長屋王と同じく自ら首をくくって死んだ。そこで、邸内に残る人々を皆捕えて、左右の衛士府(えじふ)や兵衛府(ひょうえふ)などに監禁した。
神亀(じんき)6年2月11日、聖武天皇は包囲された長屋王の屋敷に舍人親王(とねり・しんのう)、新田部親王(にいたべ・しんのう)という天武天皇の皇子(おうじ)、つまりは、長屋王にとっては叔父にあたる二人の皇子らを送り、その罪を追求し尋問なさられました。もっとも具体的に何を問いただしたのか詳しい話は全く残されていませんが。そして、翌日の2月12日に、長屋王を自殺させたわけです。長屋王だけではなく、彼の妻にして文武(もんむ)天皇や元正(げんしょう)天皇の妹にあたる吉備内親王(きび・ないしんのう)や息子たちの多くも自殺しました。
天武(てんむ)天皇の死後、大津皇子(おおつの・みこ)が死を賜った時には具体的には謀反という罪があったわけです。しかも大津皇子には鸕野讚良皇女(うのの・さららの・ひめみこ)の息子である草壁皇子(くさかべの・おうじ)ではなく、自らが天皇に即位なさられたいという動機もあったわけです。それに対し長屋王のケースは具体的な罪がわかりません。しかも左道(さどう)を学び国家を倒す、とは何なのでしょうか。結局のところ、藤原四兄弟と聖武天皇が光明子(こうみょうし)を皇后にすることに反対する長屋王を排除したかっただけなのでしょう。
何しろ、同じく長屋王の妻であっても、藤原不比等の娘である長娥子(ながこ)とその子供たちについては全くお咎めなしでしたので。逆に藤原氏以外の血縁の妻や子供たちは根絶やしにされてしまいました。
というわけで長屋王の死により藤原四兄弟に刃向かう勢力が消滅することとなり、天平(てんぴょう)元(西暦729)年、ついに光明子を皇后とする詔(みことのり)が聖武天皇から発せられることになりました。皇族以外の身分の女性が皇后になるのは、なんと仁徳天皇の皇后であらせられる『日本書紀』では磐之媛(いわのひめ)、『古事記』では石之日売(いわのひめ)以来で、違例中の違例が通ってしまいました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
天平元年八月戊辰。詔立正三位藤原夫人為皇后。
天平元年8月10日。天皇は詔(みことのり)をなさられなさって、正三位(しょうさんい)の藤原夫人(ふじわらの・ぶにん)、つまり、光明子(こうみょうし)を皇后にお立てなさられた。
そして聖武天皇の下で藤原四兄弟がこの世の春を謳歌する時代がやって来た、と思いきや、そうはなりませんでした。
天平(てんぴょう)9(西暦737)年に、大陸から疫病が海を渡ってきたからです。即ち天然痘の襲来です。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
天平九年是年春。疫瘡大発。初自筑紫来。経夏渉秋。公卿以下天下百姓。相継没死不可勝計。近代以来、未之有也。
天平(てんぴょう)9年、この年の春、腫物(はれもの)のある疫病が大流行し、はじめ筑紫(つくし、つまり福岡)から伝染してきて、夏を経て秋にまで及び、公卿(くぎょう)以下、天下の人民が相次いで死亡するものが数えきれない程であった。このような事は、近来このかた、いまだかつてなかったことである。
福岡から日本全土に広まった天然痘により役人も百姓も次々に死んでいった。これほどの疫病は近年なかったというわけです。そして天然痘は奈良の平城京の人々にも容赦なく襲い掛かり、『続日本紀』に疫病で死んだ役人の名前が次々と記載されることになります。死者の名簿の中には藤原武智麻呂(ふじわらの・むちまろ)、藤原房前(ふじわらの・ふささき)、藤原宇合(ふじわらの・うまかい)、藤原麻呂(ふじわらの・まろ)の名前が含まれていました。藤原四兄弟全滅です。当然ですが、当時の人達も、長屋王のたたりなのでは、と噂したようです。
もっとも「長屋王の変」の最終的な責任者である聖武天皇は生き延び、光明皇后とともに歴史に名を残すことになりました。
