結局、持統天皇が原因で、天武天皇の即位以来引き継がれてきた、天武系の男系の皇統が途絶えてしまう事となりました。もちろん、神武天皇の血統では、男系で皇統は続いていきますが、少なくとも、天武天皇の子孫が皇位に就くという時代は終わりました。そもそも、鸕野讚良皇后(うのの・さららの・おお・きさき)が持統天皇として即位したのは、天武天皇との間の息子、草壁皇子(くさかべの・おうじ)が若くして薨去(こうきょ)してしまったためです。それで、草壁皇子の皇子で、まだ幼かった軽皇子を皇位につけるために、鸕野讚良皇后が、いわば中継ぎとして即位したというわけです。
ところが、文武天皇として即位した軽皇子までもが若くして崩御してしまい、その後、皇位は文武天皇の母親の元明(げんめい)天皇、文武天皇の妹の元正(げんしょう)天皇へと受け継がれていきました。息子から母親、また、母親から娘への皇位継承はともに前代未聞でした。他の動画でも解説していますが、元明天皇は天智天皇の皇女(ひめみこ)で、元正天皇は天武天皇の孫であり、草壁皇子の皇女(ひめみこ)です。女系天皇ではなく、れっきとした男系の女性天皇です。
天武天皇は子沢山であり、高市皇子(たけちの・おうじ)、草壁皇子(くさかべの・おうじ)、大津皇子(おおつの・おうじ)、忍壁皇子(おあかべの・おうじ)、長皇子(ながの・おうじ)、舎人親王(とねり・しんのう)、新田部皇子(にいたべの・おうじ)、と、7人もいました。
それにもかかわらず、こういった強引な皇位継承がおこなわれていきました。
そのため、大津皇子の謀反を皮切りに、草壁皇子の系統ではない天武天皇の男系皇族が次々に悲劇に見舞われることになりました。
長屋王の事件は最も悲惨でしたが、新田部系の道祖王(ふなどのおおきみ)は一度は皇太子に立てられたものの、橘奈良麻呂(たちばなの・ならまろ)の乱に連座し、拷問を受けて獄死してしまいました。同じく、新田部系の塩焼王(しおやきおう)は恵美押勝の乱に参加し処刑されてしまいました。高市系の黄文王(きぶみのおおきみ)は道祖王と共に獄死してしまいました。安宿王(あすかべの・おおきみ)も奈良麻呂の乱で佐渡に流罪されてしまいました。舎人(とねり)系の和気王(わけおう)は称徳天皇に対する謀反を計り死罪となりました。
平城京に都があった奈良時代は、東大寺の大仏や正倉院の影響なのか、文化が栄えた華やかな時代という印象を持つ人が少なくないようですが、実際には、皇位継承にまつわる、文字通り、血みどろの権力闘争が繰り広げられた時代でした。
聖武天皇の皇女(ひめみこ)であり、史上唯一の、女性皇太子となった阿倍内親王(あべ・ないしんのう)が孝謙天皇として即位。舎人親王(とねりしんのう)の皇子である大炊王(おおいおう)が藤原仲麻呂の後押しで淳仁(じゅんにん)天皇として即位し、これで皇位が天武系で安定するのかと思えば、恵美押勝の乱で失脚。天皇の位を廃され、廃帝(はいたい)となり、おそらくは重祚(ちょうそ)した称徳天皇の指示で暗殺されてしまいました。皇位継承問題は完全に袋小路に行き着いてしまいました。何しろ、もはや天武系の男系皇族は一人も残っていませんでしたから。そもそも、女性天皇は全て独身(未婚か未亡人)ですから。
当チャンネルの別の動画でも語っていますが、天皇はローマ法王やダライ・ラマ、カリフと同じく宗教で最も偉い人なので、神道でも、伊勢神宮の斎王(いつきのみこ)のように終生結婚せずに過ごさねばならない事になっています。
挙句の果てに道鏡事件が勃発。少なくとも、称徳天皇が道鏡に皇位を譲ろうとし、道鏡もその気になったのは確かです。ところが和気清麻呂が宇佐八幡宮から持ち帰った神託により、二人の野望は潰えてしまいました。称徳天皇は道鏡事件の後も皇太子を定めないうちに、称徳天皇の寿命が尽きました。
さすがに懲りたのか、称徳(しょうとく)天皇以降、女性天皇は江戸時代になるまで誕生しませんでした。
称徳天皇が道鏡事件の後も皇太子を定めなかったために、聖武天皇の皇女で称徳天皇の姉にあたる井上内親王(いのえ・ないしんのう)が脚光を浴びる事となりました。母が、県犬養 広刀自(あがたいぬかい の ひろとじ)、つまり、橘(たちばな)氏。光明皇后(こうみょうこうごう)の娘である称徳天皇とは母親を異にする姉です。わずか5歳で伊勢神宮の斎皇女(いつきのみこ)となられた方ですが、天平16(西暦744)年、27歳で平城京に戻って来ました。神職を解かれ、伴侶を求めることを許されたのです。そして井上内親王が夫として選んだ人物が天智天皇の第7皇子である、志貴皇子(しきのみこ)の第6皇子(おうじ)の白壁王(しらかべおう)でした。結婚する当時、すでに43歳であり、むしろ権力から遠い人物だからこそ、結婚したのではないかと言われております。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
自勝宝以来。皇極無弐。人疑彼此。罪廃者多。天皇深顧横禍時。或縦酒晦迹。以故免害者数矣
『天平勝宝(てんぴょうしょうほう)より以来、皇位を継ぐ人が決まらなかったので、人々はあれかこれかと疑って、罪し廃されるものが多かった。白壁王はこうしたことから思いがけない災難に遭うことを用心して、あるいは酒を欲しいままに飲んで行方をくらまし、それによって度々害を免れた』
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)のような日本の正史(せいし)においても、当時は権力闘争が激しい時代だったことを否定していないという点は凄いところです。創作ではなく、 事実を淡々と書いたということでしょう。
神護景雲(じんごけいうん)4(西暦770)年8月4日、史上唯一の女性皇太子から皇位につき、譲位し、淳仁(じゅんにん)天皇を廃帝(はいたい)とし、重祚し、非男系皇族の道鏡に皇位を譲る直前まで行ったという波乱万丈の人生を送った称徳天皇も、ついに崩御してしまいました。
『続日本紀』には、
道鏡法師奉梓宮。便留廬於陵下。
天皇、自幸由義宮。便覚聖躬不予。於是。即還平城。
道鏡法師は御陵に仕え、そのまま山陵の辺りに庵(あん)して留まった。
天皇はさきに由義宮(ゆげのみや)に行幸(ぎょうこう)してからすぐに体に不調を覚え、そこでただちに平城宮(ならのみや)に還った。
と記されています。道鏡のために作った由義宮(ゆげのみや)で、称徳天皇は道鏡と一緒だった時に病気になってしまった。寿命が尽きることを予感した称徳天皇は平城京に戻った。そして2人が再会することはついになかったということです。
ちなみに当時、称徳天皇は52歳、道鏡は推定年齢ですが70歳でした。高齢の方の恋物語があったとしても構いませんが、称徳天皇と道鏡が男女の関係にあったのか否かは、もはや誰にも分かりません。
平城京に戻った称徳天皇が病の床に伏すと、さすがに皇太子問題が大きな関心の的(まと)となりました。
称徳天皇は側近の左大臣(さだいじん)藤原永手(ふじわら の ながて)と右大臣(うだいじん)吉備真備の権力を強化し、不穏な動きが起きることに備えました。そして、ついに称徳天皇は崩御され、永手や真備らが協議し、白壁王(しらかべおう)を立てて皇太子としました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
今詔〈久〉。事卒爾〈爾〉有依〈天〉、諸臣等議〈天〉。白壁王〈波〉諸王〈乃〉中〈爾〉年歯〈毛〉長〈奈利〉。又先帝〈乃〉功〈毛〉在故〈爾〉、太子〈止〉定〈天〉、奏〈波〉奏〈流麻爾麻〉定給〈布止〉勅〈久止〉宣。
『今仰せになるには、ことは突然であったので、諸臣らが合議して、白壁王は諸王の中で年齢も高く、また先帝の功績もあるので、太子と定めて奏上すると、奏上の通りに定める、と仰せになると申し述べる』
白壁王は立太子された時点で62歳、崩御された称徳天皇より10歳も年上でした。白壁王は恵美押勝の乱で功績を挙げ、称徳天皇に評価され、大納言に昇進していました。
むしろ、称徳天皇に評価されてしまったからこそ、白壁王は政争に巻き込まれることを恐れ、酒を飲み怠惰、愚昧を装っていたのでしょう。にもかかわらず、運命に操られるがままに皇太子になってしまった。井上内親王は権力から離れた人物だからこそ、白壁王と結婚したにも関わらず、結局は、宮廷の中枢に引き戻されてしまったわけでした。
白壁王と井上内親王との間には他戸親王(おさべしんのう)という皇子が産まれていました。井上内親王は聖武天皇の皇女(ひめみこ)なので、他戸親王は聖武天皇の孫にして、天智天皇のひ孫にあたる皇子(おうじ)ですから。つまりは、他戸親王が次の天皇として即位すれば、聖武天皇の血統が受け継がれていくことになります。
武烈(ぶれつ)天皇が崩御し、直系の男系皇統が断絶したときに、系図を応神天皇まで遡って男系を受け継いできた継体天皇が即位し、武烈天皇の姉にあたる手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后とした場合と似ています。
皇太子となった白壁王は、まずは、良からざる陰謀があるとして、道鏡から法王の地位を奪い、薬師寺の長官として下野国(しもつけのくに)に左遷しました。その、1年8ヶ月後に道鏡は、そのまま下野国で亡くなりました。栃木県下野市の龍興寺には道鏡塚と呼ばれる円墳が残されています。元からあった円墳に道鏡が葬られたと伝えられています。
そして、道鏡が失脚したことを受け、別部穢麻呂(わけべの・きたなまろ)こと、和気清麻呂(わけの・きよまろ)と姉の別部広虫売(わけべの・ひろむしめ)こと、和気広虫(わけの・ひろむし)も大隅国から呼び戻され、官僚として復位することになりました。名前ももちろん元に戻されました。なお、『日本後紀』(にほんこうき)では、狭虫(せまむし)と改名された、という記述がありますが、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)では、広虫売(ひろむしめ)です。
こうして、日本の皇統を守った和気清麻呂は、無事に復活することができました。その後も官僚として活躍し、延暦(えんりゃく)13(西暦794)年の平安京への遷都にも関わっていきます。
宝亀(ほうき)元(西暦770)年10月1日、白壁王は光仁天皇として即位して、年号を神護景雲(じんごけいうん)から宝亀(ほうき)に改元(かいげん)しました。もちろん井上内親王を皇后とし、息子の他戸親王を皇太子に立てました。これで、神武以来の男系の皇統が守られ、女系とはいえ、天武天皇、聖武天皇の血統も引き継がれることになりました。
ところが、これで「めでたし、めでたし」というふうにはなりませんでした。
藤原四兄弟の三男、藤原宇合(ふじわら の うまかい)の八男に藤原百川(ふじわら の ももかわ)という人物がいました。百川は宇佐八幡宮神託事件の際にも、道鏡の皇位継承を阻止するべく、いとこの藤原永手(ふじわら の ながて)らと共に暗躍したと言われている人物です。百川ら藤原氏のみならず、当時の群臣たちには、一つだけ、どうしても避けたい体制がありました。それは、宗教的な権威を帯びた絶対的かつ専制的な天皇の出現でした。
実は、称徳天皇は、日本史上、最も権力を最大限に行使した天皇でした。専制的な権力を握っていたからこそ、皇族でも何でもない一僧侶に皇位を譲るなどという話が現実味を帯びたわけですから。称徳天皇以外では、そもそも道鏡に皇位を譲る云々といった発想自体がありえません。
称徳天皇は母が藤原氏出身であるものの、皇太子から天皇に即位した由緒正しい律令国家の天皇であり、更に、本人も出家したため、当時圧倒的に勢力が強かった仏教界の支持を全面的に得て、宗教的な権威をも身に纏っていました。加えて、恵美押勝の乱に勝利し、戦争の勝利者としての権威も持っていました。挙句の果てに、母親の光明皇后から皇后、皇太后としての権威も引き継いだ。
孝謙天皇の御代はともかく、淳仁(じゅんにん)天皇を廃帝(はいたい)として天皇の座から引きずり下ろした以降の称徳天皇は、歴史上最も政治的権力を持つに至った女帝でした。
だからこそ、神武天皇の血縁の男系が原則の日本において、皇統と無関係な道鏡を皇位につけようとする冒険ができたわけです。
群臣たちとしては、これ程の権威を持つ天皇が現れることに危機感を持つ人も少なくなかったと思われます。そもそも、天皇の権威と権力があまりにも強まると、むしろ男系の皇統が危うくなりまし、加えて、相対的に群臣たちの権力が弱体化してしまうわけです。政治とは基本的には権力のぶつかり合いです。称徳天皇の時代に、身を縮ませなければ生き延びることができなかった藤原氏を代表とする群臣たちにとって、称徳天皇の再来だけは絶対に避けなければならなかったでしょう。
にもかかわらず、白壁王の即位により、井上皇后(いのえ・こうごう)が宗教的な権威を帯び、皇后、皇太后としての権力を纏(まと)ったまま天皇に即位する可能性が生じてしまいました。何しろ井上皇后は内親王時代に伊勢の斎王(さいおう)でした。当時は行き過ぎた仏教による鎮護国家化が改められ、元々の神道が復権しつつありました。その神道の中心はもちろん伊勢神宮です。そして、井上皇后は、伊勢神宮で斎皇女(いつきのみこ)こと、天照大御神(あまてらす・おおみかみ)の代理人として仕えていました。井上皇后は称徳天皇とは形こそ違えど、聖俗合一の権威を纏(まと)っていました。宗教は違えど、まるで称徳天皇の再来のような印象を与えてしまったということです。
そもそも、井上皇后は称徳天皇の姉にあたりますし、しかも、光仁(こうにん)天皇は、妻であった井上内親王のおかげで天皇に即位することができたと当時から噂されていました。
『続日本紀』には、このように記されています。
又嘗竜潜之時。童謡曰。
葛城寺〈乃〉。前在〈也〉。豊浦寺〈乃〉西在〈也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉。桜井〈爾〉。白壁之豆久〈也〉。好璧之豆久〈也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉。然為〈波〉。国〈曾〉昌〈由流也〉。吾家良〈曾〉昌〈由流也〉。於志〈止度〉。刀志〈止度〉
また、天皇となる以前に、次のような童歌がうたわれた。
葛城寺(かづらきでら)の前なるや、豊浦寺(とゆらでら)の西なるや、おしとど、としとど、桜井に白壁つくや、よき壁つくや、おしとど、としとど、然(しこう)しては国ぞ栄(さか)ゆるや、わが家よぞ栄(さか)ゆるや、おしとど、としとど
歌の訳:葛城寺(かづらきでら)の前だろうが、豊浦寺(とゆらでら)の西だろうが、桜井の井戸に白壁が沈んでいるよ、良い壁が沈んでいるよ。そうすれば国が栄え我が家が栄えるよ。
つまり白壁王(光仁天皇)と井上内親王の二人がよい政治をしてくれる、といった期待を意味します。光仁天皇は井上皇后に庇護されて天皇として即位したと謳われています。
桜井とは井上皇后を井戸になぞらえているわけで、つまりは井上皇后という井戸に白壁が沈めば国や我が家が繁栄するということです。これではまるで天皇として即位したのは井上皇后で、光仁天皇はおまけみたいな扱いになっています。
その上、光仁(こうにん)天皇は即位するまで、平城京に住んだことがありませんでしたが、それに対し、井上皇后(いのえ・こうごう)は平城京(ならのみやこ)の主(あるじ)であった聖武天皇の皇女(ひめみこ)であり、称徳天皇の姉でした。光仁天皇の即位は、まるで平城京の主である井上皇后の許に光仁天皇が婿入りしたような印象を与えました。光仁天皇が即位した翌年、他戸親王(おさべしんのう)の立太子の礼の儀式が執り行われたのですが、その際の詔について、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《宝亀二年(七七一)正月辛巳【廿三】》○辛巳。立他戸親王為皇太子。詔曰。随法〈爾〉皇后御子他戸親王立為皇太子。故此状悟〈弖〉百官人等仕奉詔天皇御命、諸聞食〈止〉宣。
宝亀(ほうき)2年1月23日。法に従って、井上皇后(いのえ・こうごう)の子の他戸親王(おさべしんのう)を立てて皇太子とする。そこでこのことをよく知って、百官の人たちはお仕えするように、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承れと申し述べる。
つまり、他戸親王は光仁天皇の皇子だからという理由ではなく、井上皇后の子だからこそ立太子されたという話です。
となると、既に高齢だった光仁天皇がいつ崩御するかわからないにも関わらず、いまだ10歳になったにすぎない他戸親王が成人するまで天皇に即位しない可能性は高くなかったと思われます。
そうなると、当然、井上皇后が血筋、宗教的な権威を背景に女性天皇として即位することになります。すると、まさに称徳天皇あるいは持統天皇の再来となります。藤原氏をはじめ多くの群臣たちもそう感じたようで、それで悲劇が起きることになりました。
井上皇后は、何しろ権力の中枢から離れていたことを理由に、白壁王(しらかべおう)と結婚した女性で、権力闘争に巻き込まれず、平穏な人生を送りたかったのかもしれませんが、運命の変転と彼女の血筋、そして元・斎王という立場がそれを許さなかったわけでした。
宝亀(ほうき)3(西暦772)年、他戸親王が立太子された翌年、井上皇后は呪詛の罪を問われ、皇后の地位を廃されることになりました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。
《宝亀三年(七七一)三月癸未【壬午朔二】》○三月癸未。皇后井上内親王坐巫蠱廃。
宝亀3年3月2日、皇后の井上内親王は呪詛(じゅそ)の罪に連座して、皇后の地位を廃された。
これだけなので、具体的に、呪詛の罪とは何かということがわかりませんが。
呪詛の罪についてはいくつか解釈があり、例えば、「光仁天皇の姉にあたる難波内親王(なにわ・ないしんのう)を呪い殺した」とか、「天皇本人を巫女(みこ)や、まじない師の呪いで殺そうとした」などがあります。
さらに5月、他戸親王(おさべしんのう)も皇太子の座から引きずり降ろされ、皇族の身分まで剥奪されてしまいました。
また『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《宝亀三年(七七二)五月丁未【廿七】》○丁未。廃皇太子他戸王為庶人。詔曰。【S54】天皇御命〈良麻止〉宣御命〈乎〉百官人等天下百姓衆聞食〈倍止〉宣。今皇太子〈止〉定賜〈部流〉他戸王其母井上内親王〈乃〉魘魅大逆之事一二遍〈能味仁〉不在。遍麻年〈久〉発覚〈奴〉。其高御座天之日嗣座〈波〉非吾一人之私座〈止奈毛〉所思行〈須〉。故是以天之日嗣〈止〉定賜〈比〉儲賜〈部流〉皇太子位〈仁〉謀反大逆人之子〈乎〉治賜〈部例婆〉卿等百官人等天下百姓〈能〉念〈良麻久毛〉恥〈志〉賀多自気奈〈志〉。加以後世〈乃〉平〈久〉安長〈久〉全〈久〉可在〈伎〉政〈仁毛〉不在〈止〉神〈奈賀良母〉所念行〈須仁〉依而〈奈母〉他戸王〈乎〉皇太子之位停賜〈比〉却賜〈布止〉宣天皇御命〈乎〉衆聞食〈倍止〉宣。
宝亀(ほうき)3年5月27日 天皇は、皇太子の他戸親王(おさべしんのう)を廃して、
庶人とした。天皇は次のように詔した。
天皇のお言葉であると仰せられる詔を、百官人たち、および天下の人民は、みな承れと申し告げる。
今、皇太子と定めてあった他戸王(おさべの・おおきみ)の母である井上内親王(いのえ・ないしんのう)が、呪詛によって大逆を計っていることは、一度や二度のことではなく、度々発覚している。そもそも高御座(たかみくら)の天の日嗣の座(あまの・ひつぎの・くらい)というものは、自分一人の私的な位ではないと思っている。それゆえ、皇嗣(こうし)と定め設けられた皇太子の位に、謀反・大逆の人の子を決めておいたなら、公卿たち、百官の人たち、天下の人民たちがどう思うだろうか。朕(ちん)は恥ずかしく、おそれ多い。それだけでなく、後世が平安で末永く欠けることがないような政治でなければならぬと神として思うので、他戸王(おさべの・おおきみ)を皇太子の位を停(とど)め退(しりぞ)ける、と仰せになる天皇のお言葉を、みな承(うけたまわ)れと申し告げる。
長屋王の悲劇の再来のようですが、井上内親王(いのえ・ないしんのう)が繰り返し呪詛によって呪い殺そうとしたというのは、絶対に違うと思われます。井上内親王が皇后の座を追われた際に、本来は彼女を守るべき立場である側近の藤原永手(ふじわら の ながて)の息子である藤原 家依(ふじわら の いえより)、神祇祭祀(じんぎ・さいし)を担当していた大中臣 清麻呂(おおなかとみ の きよまろ)達は何の行動も起こしていません。さらにはその後も彼等には一切のお咎めがありませんでした。
つまりは光仁天皇と官僚たちの間に称徳天皇の再来になる可能性がある井上皇后(いのえ・こうごう)、厳密には井上皇后と年少の他戸皇太子(おさべしんのう)を排除する必要があるという合意があったのでしょう。主導したのは「天皇が甚だ信任し、腹心を委(ゆだ)ね、内外の勤務に関わり、知らないことはなかった」と称された藤原百川(ふじわら の ももかわ)だと思われます。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、その後について、このように記されています。
《宝亀六年(七七五)四月己丑【廿七】》○己丑。井上内親王。他戸王並卒。
宝亀(ほうき)6年4月27日。井上内親王(いのえ・ないしんのう)と他戸王(おさべの・おおきみ)がともに卒(しゅっ)した。
さらにひどい話になってしまいますが、井上内親王、他戸王の親子は大和国宇智郡(やまとのくに・うちぐん)(現在の奈良県五條市(ごじょうし))にあった当時の留置場のような邸宅に幽閉されていたのですが、宝亀(ほうき)6年4月27日、幽閉先で同じ日に亡くなってしまいました。ほぼ確実に、暗殺されたものと思われます。
ちなみに、井上内親王(いのえ・ないしんのう)と他戸王(おさべの・おおきみ)が死んだ4ヶ月後、伊勢、尾張、美濃で暴風雨があり、井上皇后が斎皇女(いつきのみこ)を務めていた伊勢の斎宮(さいぐう)が修理のための遣いが派遣されました。
『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《宝亀六年(七七五)八月癸未【廿二】》○癸未。伊勢。尾張。美濃三国言。九月日異常風雨。漂没百姓三百余人。馬牛千余。及壊国分并諸寺塔十九。其官私廬舍不可勝数。遣使修理伊勢斎宮。又分頭案検諸国被害百姓。是日。祭疫神於五畿内。
宝亀(ほうき)6年8月23日。伊勢・尾張・美濃(みの)の三国が言上(ごんじょう)して、『異常な風雨があり、人民300人余りと牛馬1000頭余りが流されて、水中に没しました。さらに国分寺や諸寺の塔が19基も壊れました。官人や個人の家に至っては数えられないほどであります。』と言った。
そこで、使者を遣わして伊勢の斎宮を修理させ、また手分けして、諸国の被害を受けた人民を調査させた。
その日、疫病の神を畿内5ケ国で祭った。
これは、「井上内親王(いのえ・ないしんのう)と他戸王(おさべの・おおきみ)の祟りなのでは?」と当時の人々もそのように考えたようで、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。
《宝亀八年(七七七)十二月乙巳【廿八】》○乙巳。改葬井上内親王。其墳称御墓。置守冢一煙。
宝亀(ほうき)8(西暦777)年12月28日、井上内親王の遺骸を改葬した。その塚を「御墓(みはか)」と称して墓守(はかもり)一戸(いっこ)を置いた。
何度も呪詛によって大逆を謀ったはずの井上内親王のお墓が新たに建て直され管理人まで置かれ、既に都が平安京に移った後の延暦19(西暦800)年、には、井上内親王は皇后に復位されました。冤罪だったことが公式に認められたという事です。
加えて、奈良時代末期から平安時代初期にかけ、井上内親王(いのえ・ないしんのう)が息子の他戸王(おさべの・おおきみ)とともに怨霊になった、あるいは竜になったという話が広まりました。
それで、祟りを恐れたということでしょう。それにしても、元々、権力闘争が嫌で白壁王(しらかべおう)と結婚したはずの井上内親王が、夫がまさかの天皇に即位することとなり、さらには称徳天皇の再来の可能性があるからといって、夫や官僚たちに皇后の座から引きずりおろされ、おそらくは息子共々暗殺されてしまったという、まさに悲劇の女性です。
というわけで、男系ではないものの、天武天皇、聖武天皇の血を引く他戸親王が亡くなり、天武朝は終焉を迎えてしまうことになりました。とはいうものの、天武天皇の血が現在の皇室には流れていないというわけではありません。
壬申(じんしん)の乱で滅んだ大友皇子(おうともの・おうじ)と天武天皇の娘、十市皇女(とおちの・ひめみこ)との間に生まれた皇子、葛野王(かどの・の・おおきみ)の子孫である藤原詮子(ふじわら の せんし)が、円融(えんゆう)天皇と結婚し、第66代一条(いちじょう)天皇を産み、その血が現在の皇族にも流れているためです。
十市皇女は天武天皇と額田王(ぬかたの・おおきみ)との間に生まれた皇女(ひめみこ)なので、あの伝説的な万葉歌人の血も、現在の皇統は引き継いでいることになります。
