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古今和歌集

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当チャンネルの別の動画に『萬葉集』(まんようしゅう)について解説した動画があります。8世紀末に完成した『萬葉集』は素晴らしい和歌集にも関わらず、その後、日本には、「漢詩ブーム」が巻き起こりました。漢詩とは支那の伝統的な詩の事です。 8世紀末から9世紀にかけて、日本の宮廷人は、唐歌(からうた)と呼ばれた漢詩に夢中になり、天皇までもが漢詩の詩集の編纂ばかりを命じるようになりました。ちなみに、菅原道真も代表的な漢詩人の一人でした。当然ながら、和歌が衰退気味になっていきました。同じ日本人なので、舶来品が大好きなところは、昔も今も大差がなかったという事でしょう。例えば、藤原恵美押勝(ふじわらの・えみの・おしかつ)も支那かぶれでしたし。
ところが、光孝(こうこう)天皇の御代から和歌が再び宮廷で流行り始めました。時期的に、安史の乱(あんしのらん)以降の唐の衰退が始まった頃なので、日本の本来の文化である和歌が見直されるようになったという事でしょう。和歌が本格的に復興を遂げたのは、まさに遣唐使が廃止された宇多天皇の時代でした。
宇多天皇は漢詩人だったので、儒学者である菅原道真を重用(ちょうよう)しましたが、同時に和歌を愛好する帝(みかど)でもありました。

宇多天皇の御代には、寛平御時后宮歌合(かんぴょうの・おおんときの・きさいのみやの・うたあわせ)や是貞親王家歌合(これさだのみこ・の・いえのうたあわせ)といった大規模な歌合せが行われました。
歌合せとは、歌人(かじん)を左方(赤)と右方(青)に分け、決められた題で詠んだ和歌の優劣を競う文学的遊戯・文芸評論の会の事です。歌人たちは順番が回ってくるたびに即興で和歌を詠まなければなりませんでした。
そこで下手な歌を詠んでしまうと、宮中の雅な人たちの話題になり、しかも下手をすると愚策、駄作が後世にまで残る可能性がありました。逆に、歌合せで参加者全員を感動させるような歌を詠めば、宮中の話題を独占し、さらには後世においても評価されます。 若手の役人などは、和歌が上手いというだけで出世街道に乗れました。 今の多くの日本人には和歌を詠む習慣がありませんが、平安時代には、美しく人々を感動させる和歌が詠めるか否かで、官僚の出世が左右された時代でした。
日本が誇るべき文化である和歌は、宇多天皇の強力な統率力によって、宮廷の人々の公的な嗜み(たしなみ)として確立していきました。

宇多天皇の御代以降、和歌が上手い、下手、が出世を左右したため、下級役人の間に歌詠みが大流行しました。歌合せは、特に身分の低い官僚たちにとっては、出世するための絶好の機会でもありました。確認されている中で最も古い歌合わせは、元慶(がんぎょう)8年(西暦884年)から仁和(にんな)3年(西暦887年)にかけて催された、在原行平(ありわら の ゆきひら)が主催した在民部卿家歌合(ざい・みんぶのきょうけ・うたあわせ)です。まさに宇多天皇が即位した時期です。つまりは、和歌を好んだ光孝天皇(こうこうてんのう)、さらには歌合わせを積極的に開催した宇多天皇により、日本の和歌が復興したわけです。ちなみに、藤原北家の人々も和歌復興に貢献しています。平安初期に、強烈に唐歌(からうた)の流行を推進したのは、嵯峨天皇でした。弘仁(こうにん)年間、西暦810年から824年、の平安京は、嵯峨天皇の方針を受け、政治制度から生活様式に至るまで、唐を模倣しようという空気で満ち溢れていました。
御所では、天皇と公卿たちが唐歌を読み合う場が増え、漢詩集の編纂が嵯峨天皇、淳和天皇(じゅんなてんのう)と二代に渡り、続いていきました。戦後の日本が何でもかんでも「アメリカに学ぼう」とやっているのと同じ感じだと思われます。このチャンネルの一連の動画を御覧になっている皆様なら、日本人が、神々の時代からその性質がほとんど変わっていない事がおわかりだと思います。

また、日本で和歌が復興した理由こそが、藤原 良房(ふじわら の よしふさ)や基経 (もとつね)など、藤原北家の影響でした。ご存知の通り、藤原北家の戦略は、親族の娘を天皇や皇族に目合わせ、権力を拡大していくというものでした。平安京に都が築かれて以降、ひらがなやカタカナといった仮名(かな)文字が普及していき、崩し字(くずしじ)で文章が書かれるようになっていきました。漢詩や漢学は、役人にとって出世のために必須の学問でしたが、女人は漢字に触れる機会があまりありませんでした。
そもそも、漢字だけでは日本語を表現しきれなかったため、「万葉仮名」(まんようがな)が生み出されました。漢字を使って日本語の音を表したものです。漢字だと画数が多いので、長文を書くには不便だったこともあり、崩したり、省略したりすることで、「ひらがな」と「カタカナ」が生まれました。
多くの女性が仮名文字を使って自分の気持ちを文として残すことが可能になった時代が訪れました。そして藤原北家の戦略は、一族の女性を皇室に送り込むことでした。 送り込んだ女性が仮名文字で人々を感銘させる和歌を読めば評判になり、その結果、藤原氏の権力強化に繋がったわけです。更には、天皇も藤原北家の女性の影響で和歌を見直すようになりました。

寛平(かんぴょう)9年、西暦897年、宇多天皇は譲位し上皇となりました。後を継いだ醍醐天皇が『萬葉集』(まんようしゅう)に選ばれなかった古い時代の歌から、現在の人々までの和歌を選んで、歌集を作成せよと詔(みことのり)し、編纂されたのが『古今和歌集』(こきんわかしゅう)です。撰者(せんじゃ)は、紀 貫之(き の つらゆき)、紀 友則(き の とものり)、凡河内 躬恒(おおしこうち の みつね)、壬生 忠岑(みぶ の ただみね)の4人。

この歌集には、仮名で書かれた仮名序(かなじょ)と漢文で書かれた真名序(まなじょ)の二つの序文があります。
仮名序は紀貫之(き の つらゆき)が書いています。

やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
世の中にある人、ことわざしげきものなれば、心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
花に鳴く鶯、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。
力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、
男女の仲をもやはらげ、猛き武士の心をもなぐさむるは歌なり。

やまとうた(和歌)というものは、
人の心を種として、さまざまな言葉となって現れるものです。
この世に生きる人は、何かと感じることが多い存在です。
だからこそ、心に思うことを、目にするもの、耳にするものに託して、言葉として表現するのです。
花のもとで鳴く鶯や、水辺に生きる蛙の声を聞けば、この世に生きるもののうち、いったい誰が歌を詠まずにいられるでしょうか。
歌は、力を使うことなく天地さえ動かし、目には見えない鬼神の心にまで、しみじみとした感情を起こさせます。
男女の仲を和らげ、荒々しい武士の心さえ慰める――それが歌なのです。

真名序は紀 淑望(き の よしもち)などが書いています。

夫和歌者、託其根於心地、発其華於詞林者也。
人之在世、不能無感。
感而不発、則為憂思。
発而為言、則為詩歌。

そもそも和歌とは、その根を人の心に置き、言葉の世界に花を咲かせるものである。
人がこの世に生きる以上、何も感じずにいることはできない。
感じながらもそれを表さなければ、それは心の内にこもる思い(憂い)となる。
しかし、それを言葉として表せば、それが詩や歌になるのだ。

仮名序が「人の心」から始まるのに対して、真名序は「天地」から始まっています。

仮名序は、あなたに語りかけます。
「その胸の痛みは、歌になる」
真名序は、世界に問いかけます。
「その感情は、宇宙とつながっている」
同じ和歌を語りながら、ふたつの序文は、まるで別の方向を見ているかのようです。
ところが、どちらも嘘ではありません。むしろ、両方があって初めて、和歌は「人」と「世界」を結ぶものになるという事です。

ここでは全文を紹介したのではないのですが、仮名序によれば、醍醐天皇の勅命により『万葉集』に選ばれなかった古き時代の歌から撰者たちの時代までの和歌を撰んで編纂し、延喜(えんぎ)5年(西暦905年)4月18日に奏上されました。ただし現存する『古今和歌集』には、延喜5年以降に詠まれた和歌も収録されており、奏覧(そうらん)の後(のち)も内容に手が加えられたと考えられています。

それでは、ここに収録されている歌にはどのようなものがあるのでしょうか?
ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(ちるらん)
歌の訳:こんなに日の光がのどかに射している春の日に、なぜ桜の花は落ち着かなげに散っているのだろうか。

この歌は『小倉百人一首』(おぐらひゃくにんいっしゅ)にも選ばれている有名な一首です。読み手は『古今和歌集』の編参者の一人でもある紀 友則(き の とものり)です。春の日がのどかであればあるほど、散っていく花が惜しくてたまらない、と嘆いています。しかも、桜の花を人間のように見立てています。紀 友則は桜の花を擬人化し、はやばやと散っていくのを訝(いぶか)しむことを通じて、花を惜しむ心を言葉として結実させました。 わずか31文字で桜が散る光景を詠み手の心に移し、自分の思いを伝えています。ちなみに「ひさかたの」というのは光に対する枕言葉(まくらことば)です。さらには春と花という言葉が入っている。 枕言葉とは特定の語の前に置き、語調を整え、情緒を添える言葉のことです。

また、春と花、あるいは桜を組み合わせるといった規則を型と呼びます。 つまりは春を詠んだ和歌の場合は、花や桜を入れなければなりません。『古今和歌集』は日本初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)、天皇の詔(みことのり)によって編纂された和歌集なのですが、様々な型を定めました。『古今和歌集』の型に基づくことで、情緒豊かな平安時代の雰囲気を後世に伝えることが出来ています。そもそも和歌は5・7・5・7・7と文字数が決められています。多少の字余り等は許されますが。なぜ、5・7・5・7・7、なのかはわかっていません。単純に日本語の調べと5・7・5・7・7が合っているという事ではないでしょうか。
他にも有名な歌が多いのですが、よみ人しらず(よみびとしらず)のこの歌は、国歌『君が代』の歌詞の源流となりました。
我が君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで
現代語訳:あなたの命は、細かい石が巌となってそこに苔が生えるまで永遠に続いて欲しい
元は、当時の若者の恋歌風の、一種の民謡のようなものを採録したそうです。『古今和歌集』の「よみ人知らず」にはその種のものが多いので、一理あるでしょう。

『古今和歌集』の撰者の一人で、三十六歌仙の一人でもある紀 貫之(き の つらゆき)は平安時代を代表する歌人なのですが、貫之は『古今和歌集』だけでも101種、その他の勅撰(ちょくせん)和歌集を含めると、歴代の歌人の中で最高数である435種の和歌を後世に残しました。
ちなみに、当代きっての文化人だった菅原道真が詠んだ和歌も『古今和歌集』に収められています。
秋風の吹上に立てる白菊は花かあらぬか浪の寄するか
あきかぜのふきあげにたてるしらぎくははなかあらぬかなみのよするか
歌の訳:秋風が吹き上げる吹上の浜に立っている白菊は、花なのかそうでないのか、あるいは波が寄せているのか。
この場合、秋と菊が型として使われています。続けてもう一首(いっしゅ)。
このたびは 幣も取りあへず 手向(たむけ)山 紅葉(もみぢ)の錦 神のまにまに
このたびは ぬさもとりあえず たむけやま もみぢのにしき かみのまにまに

歌の訳:今度の旅は急なことで、神様に捧げるぬさを用意できませんでした。手向山の錦のような紅葉をわたくしの捧げるぬさとして、神の御心のままにお受け取りください。

御幣(ごへい)を忘れてしまったけれども、もみじが錦(にしき)のようにきらめいているので、これを御幣の代わりに神様に捧げます、という訳ですが、風流ですが、神様に失礼という気もします。

『古今和歌集』の撰者は、もともとは前述の4名だったのですが、紀 友則(き の とものり)が完成を見ずに没してしまい、紀 貫之を中心に選定が進みました。この歌集が新たに生み出したのは、暦に則った季節の移り変わりです。春の巻から冬の巻を通して、季節の変化を明確に意識し、時間の流れに四季という枠組みを付け加えました。選定した和歌を、春歌(はるうた)、夏歌(なつうた)、秋歌(あきうた)、冬歌(ふゆうた)、賀歌(がのうた)、離別歌(りべつか)、羈旅歌(きりょか)、物名(ぶつめい)、恋歌(こいうた)、哀傷歌(あいしょうか)、雑歌(ぞうか)、雑体(ぞうたい)(長歌(ちょうか)、旋頭歌(せどうか)、誹諧歌(はいかいか))、大歌所御歌(おおうたどころのおおんうた)、神遊びの歌(かみあそびのうた)、東歌(あずまうた)、と、それぞれ分類して掲載されています。藤原定家(ふじわら の さだいえ)が、墨で印をして本来は無いものとされていた和歌を別にまとめた11首の和歌が載っている「墨滅歌」(すみけちうた)が定家本(ていかぼん)には収録されています。

この中でも、恋歌は全20巻中5巻(第11〜15巻)を占めており、平安時代の「出会いから別れまで」を物語仕立てで配列されているのが特徴です。忍ぶ恋の苦しさや、情熱的な逢瀬、別れの悲しみが、四季の風景や繊細な心理描写とともに31文字の短歌に凝縮されています。

四季を詠んだ和歌が342首、選ばれているのですが、恋歌は360首(しゅ)という最も多くの和歌が選ばれています。平安時代の日本人も、恋愛の歌が多かったわけで、今と変わらず、千年前でも恋愛が歌の中心だったという事です。
平安時代の恋歌(こいうた)で有名な歌人に三十六歌仙(さんじゅうろっかせん)の一人である小野小町(おの の こまち)がいます。絶世の美女として有名なのですが、肖像画が存在せず、彼女が美人であったという資料も残っていません。紀貫之(き の つらゆき)が『古今和歌集』の序文で
小野小町は、いにしへのそとほり姫の流なり。
あはれなるやうにて、強からず。
いはば、よき女の、なやめるところあるに似たり。
強からぬは、女歌なればなるべし。
小野小町の歌風は、昔の衣通姫(そとおりひめ)の系統を受け継いでいる。
しみじみとした情趣はあるが、力強さには欠けている。
たとえて言うなら、美しい女性が、どこか物思いに沈んでいる姿のようである。
力強くないのは、女性の歌だからなのだろう。

しかし本当に、小野小町の歌は“弱い”のでしょうか。
むしろ彼女の歌には、言葉にした瞬間に壊れてしまいそうな感情を、ぎりぎりのところで抱きしめる“危うい強さ”がある、と言われています。
小野小町の歌は、“女性だから弱い”のではない。
弱さを隠さなかったからこそ、千年残ったのだと。
そして、その痛みは、現代を生きる私たちにも、あまりに近いものなのです。

紀貫之がここで述べている衣通姫(そとおりひめ)とは、第19代天皇の允恭天皇(いんぎょうてんのう)の皇女[1]の軽大郎女(かるの・おおいらつめ)の別名で、大変に美しい女性であったため、その美しさが衣を通してあらわれるようだ、という意味を込めて呼ばれました。当チャンネルの別の動画で木梨軽皇子(きなしの・かるのみこ)の所で説明しています。小野小町が衣通姫の子孫というわけではありませんが、詠んだ歌が、絶世の美女であると印象付けるのは確かでしょう。

思ひつつ寝ればや人の見えつらむ夢と知りせば覚めざらましを
(おもひつつ ぬればやひとの みえつらむ ゆめとしりせば さめざらましを)
歌の訳:思いながら眠りについたので、(あの人が)夢に現れたのだろうか。もし夢とわかっていたなら(夢から)覚めなかったろうに。

うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものはたのみそめてき
(うたたねに こいしきひとを みてしより ゆめてうものは たのみそめてき)
歌の訳:うたた寝をして恋しい人を夢に見て以来、夢というはかないものを、私は頼みにし始めたのです。

夢路には足も休めず通へども現に一目見しごとはあらず
(ゆめじには あしもやすめず かよえども うつつに ひとめ みしごとはあらず)
歌の訳:夢の中の逢瀬の通い路では、足を休めることはしません。
ただひたすらに逢いに通いますが、いくら夢でお逢いできても、現実に一目お逢いした時にはかないません。

切なく敵わぬ恋に苦しむ女心が伝わってくるようです。

小野小町は恋歌(こいうた)以外にも多くを詠んでいます。

花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに
(はなのいろは うつりにけりな いたずらに わがみよにふる ながめせしまに)
歌の訳:美しかった桜が長雨に打たれて空しく色あせてしまった。私の容色も物思いに沈んで、この世を過ごしているうちに衰えてしまった。

この和歌には、大きく分けて二つの解釈があります。中世においては、この和歌は男女の恋や、衰えていく美貌を桜に重ねた歌だと考えられていました。桜の花の色があせていく様子を、自分の若さや恋の移ろいにたとえたものだ、という読み方です。
ところが、江戸時代になると、古典研究で知られる契沖(けいちゅう)、賀茂真淵(かも の まぶち)、本居宣長(もとおり のりなが)などの国学者が、これとは異なる読み方を示しました。彼らは言葉の本来の意味を重視し、この歌を必ずしも恋の比喩と決めつけず、純粋に桜の花の衰えを詠んだ歌としても理解できると考えました。つまり小野小町は、「春の長雨を眺めているうちに、桜の花の色が衰えてしまった」という春の情景を、そのまま歌にしたとも読みうるというのです。
ところが、現在の国語の授業では、この歌は「恋や老いを重ねた歌」として教えられることが多く、時代ごとにさまざまな意味をまといながら広く読まれていくところが名歌たる所以(ゆえん) なのでしょう。

平安時代に成立した日本の歌物語に『伊勢物語』(いせ ものがたり)という本があります。平城(へいぜい)天皇の第一皇子である阿保親王(あぼしんのう)の五男である在原 業平(ありわら の なりひら)と文徳天皇の皇女で、伊勢斎宮である恬子内親王(やすこないしんのう)との悲恋が描かれています。天照大御神(あまてらすおおみかみ)にお仕えしているのに、俗世の男性と恋をしてよいはずがありませんから。
『古今和歌集』には、詠み人知らずとして、まずは斎宮(さいぐう)が詠んだ和歌が載っています。

君や来し 我や行きけむ 思ほえず 夢かうつつか 寝てか覚めてか
きみやこし われやゆきけむ おもおえず ゆめかうつつか ねてかさめてか
歌の訳:あなたが逢いに来てくださったのでしょうか。それとも、私から逢いに行ったのでしょうか。夢の中だったのでしょうか、現実だったのでしょうか。寝ていたのでしょうか、起きていたのでしょうか。

この詠み人知らずの和歌に対して、在原 業平(ありわら の なりひら)が返歌しています。

かきくらす心の闇にまどひにき夢うつつとは世人さだめよ
かきくらす こころのやみに まどいにき ゆめうつつとは よひとさだめよ
歌の訳: まっくらな心の闇に閉ざされて判断がつきません。夢なのか現実なのかは、世の人が定めてください。 わたしもあなたへのつのる思いで惑(まど)ってしまいました。今宵こそ、夢か現実かを定めましょう。

詠み人知らずの和歌に対して、返歌しているのですが、『伊勢物語』第69段「狩の使(かりのつかい)」の冒頭文に、「むかし、男ありけり。その男伊勢の国に、狩の使いにいきけるに、かの伊勢の斎宮なりける人の親、常の使よりは、この人、よくいたはれ、といひやれりければ、親のことなりければ、いと懇にいたはりけり。
昔、いた男の話です。その男が伊勢の国に朝廷の狩の使いとして行きました。そのとき伊勢の斎宮であった人の親が「平素の勅使とは違います。この人のことはよく接遇しなさい」と言ってやったので、親の言葉ですから、斎宮はたいそう心をこめてこの勅使をもてなしました。

とあるので、バレバレなのですが。という事は『古今和歌集』は神事の秘め事をも取り込んでしまっている、という事です。編纂者の紀 貫之(き の つらゆき)らがおおらかで日本的な発想の持ち主たちだったということでしょう。
ちなみに、現代の日本文学史上では『古今和歌集』が最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)ということになっていますが、序文を読む限り、紀 貫之らは『萬葉集』(まんようしゅう)についても勅撰和歌集と認識していたものと思われます。そもそも、『萬葉集』が勅撰和歌集として扱われていないのはなぜなのでしょうか。勅撰説以外にも、橘諸兄(たちばな の もろえ)編纂説、大伴家持(おおとものやかもち)編纂説など古来種々の説があり、現在では家持編纂説が最有力であるためだからでしょうか。持統天皇(じとうてんのう)、元明天皇(げんめいてんのう)、元正天皇(げんしょうてんのう)、等が関与している箇所もあるのですが。
もっとも、紀 貫之らは『萬葉集』を継承する歌集として『古今和歌集』を編纂しています。紀 貫之は仮名序(かなじょ)の最後を、以下の文章で結んでいます。

時移り、事去り、楽しび悲しび行き交ふとも、この歌の文字あるをや。
青柳の糸の絶ゆることなく、松の葉の散り失せずして、柾木の葛長く伝はり、鳥の跡久しく留まれらば、歌の様をも知り、事の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、いにしへを仰ぎて、この木の実のなりにける今を恋ひざらめかも。

時代が移り変わり、さまざまな出来事が過ぎ去り、喜びや悲しみが次々と行き交ったとしても、この歌集の文字が残っているならば、
青柳の糸が絶えることなく、松の葉が散り失せることもなく、まっすぐ伸びる葛のつるのように長く伝わり、鳥の足跡が久しく残るように、この歌集が後の世まで伝わるならば、歌のあり方を知り、その心を理解する人は、大空に浮かぶ月を眺めるように昔を仰ぎ見て、この歌が実を結んだ現在の世を、愛おしく思わないことがあるだろうか。

つまり、紀 貫之は『古今和歌集』の編纂を成し遂げたことで、将来の日本人も、言葉の本質を理解しているならば、今の自分たちを恋い慕うに決まっている、と断言しているわけです。 『萬葉集』という過去の伝統を受け継ぎ、将来の日本人たちに心と言葉の文化を残し、一種の文明を築き上げたわけです。

桜花散りぬる風のなごりには水なき空に波ぞ立ちける
さくらばなちりぬるかぜのなごりには みずなきそらになみぞたちける
歌の訳:さくらの花が散ってしまった風がやんだ後でも、水もない空に波のように花びらは舞っているなあ。

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