日本三大怨霊(にほん・さんだい・おんりょう)は、非業の死を遂げ、強力な祟りをもたらすと恐れられた平安時代の3人、菅原道真(すがわら の みちざね)、平将門(たいら の まさかど)、崇徳院(すとくいん)を指します。
ちなみに平将門の首を祀った将門塚(しょうもんづか)は現在でも東京都千代田区大手町1丁目2番1号、フォーシーズンズホテル東京大手町の裏手に現存しています。 「怨霊が怖くて手を出せない」と言われています。関東大震災の後の再開発の際に、取り壊して大蔵省の仮庁舎を建てたところ、工事関係者や省の職員、当時の第1次若槻禮次郎(わかつき・れいじろう)内閣で大蔵大臣だった早速整爾(はやみ せいじ)の相次ぐ不審死。さらに戦後、GHQが駐車場を建設しようとすると、アメリカ軍のブルドーザーが作業中に横転して、運転手が投げ出されて死亡してしまいました。というわけで、これはヤバいということになり、将門塚は取り壊しや移転を免れました。
天満大自在天神(てんまん・だいじざい・てんじん)、略して天神様(てんじんさま)は平将門とは異なり、学問の神様としても名高い人物になります。
当チャンネルの「なぜ9歳の天皇が誕生したのか?」に関した動画を見てもらうとわかりますが、宇多(うだ)天皇は、全ての事柄について百官達は皆、太政大臣(だじょうだいじん)つまりは藤原基経(ふじわら の もとつね)を経由せよという詔(みことのり)をしました。こうして藤原基経は日本史上初の関白に就任しました。後(のち)に幼少の天皇を補佐するのが摂政、成人した天皇の場合は関白、という形で使い分けられるようになりました。
宇多天皇は、光孝(こうこう)天皇の第七皇子であり、母は桓武(かんむ)天皇の皇子、仲野親王(なかのしんのう)の娘である皇太后班子女王(はんし・じょおう)。光孝天皇は、先代の陽成(ようぜい)天皇の大叔父にあたり、陽成天皇が退位したために即位に至ったことから、次の天皇は陽成天皇の同母弟である貞保親王(さだやす・しんのう)に皇位が戻ることを考え、元慶(がんぎょう)8年(西暦884年)6月に26人の皇子皇女に源姓を賜い臣籍降下(しんせき・こうか)させました。定省王(さだみ・おう)もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称しました。
源定省の父親である光孝(こうこう)天皇が皇太子を立てないまま危篤に陥ったため、 仁和(にんな)3年、西暦887年に急遽、皇族に戻され即位しました。臣籍降下した身分から天皇に即位するのは、史上初めての事例です。現在も、GHQに皇族から追い出された旧宮家から養子として皇族に復帰させる事が議論されていますが、昔から似たようなことをやっていたわけです。
それはともかく、宇多天皇が即位した際に、藤原基経(ふじわら・の・もとつね)は関白になるように言われたのですが、とりあえず辞退しました。当時は重要な任を命じられた際に、慎みを見せるために二度断り、三度目に受諾するのが慣例になっていたからです。『三国志』の三顧の礼(さんこのれい)の影響でしょう。
というわけで基経の謝絶は普通のことでした。問題は二度目の宇多天皇の詔(みことのり)でした。
『日本三代實錄』には、このように記されています。
宜以阿衡之任為卿之任。
これからは、阿衡(あこう)の職務をもって、あなたの職務としなさい。
この詔を執筆したのは、参議(さんぎ)左大弁(さだいべん)橘広相(たちばな の ひろみ)でした。 ちなみに橘広相の娘の義子(よしこ)は宇多天皇の女御の一人で、すでに皇子もいました。
「阿衡」(あこう)とは、支那の古典においては、「名誉職で実務を伴わない役職」を意味する場合があるため、「それは“何もするな”ということか?」と受け取ったと思われるこの文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまいました。「阿衡」という呼称は、摂政や関白の異称と言えないこともないのですが、正式にそのように定まっていたわけでもない。実権を持った役職というふうにも取れれば、とりあえず、高い役職に就けておこうという意味にも取れました。
基経は訴状(そじょう)を提出してまで抗議しました。
『日本三代實録』(にほん・さんだい・じつろく)にはこのように記されています。
臣某言。臣以不敏、忝居重任。夙夜憂懼、不敢怠慢。
臣聞、阿衡者、無所職掌之号也。今蒙此号、不知所為。是以不敢参内。
私、某が申し上げます。私は才能も十分でない身でありながら、恐れ多くも重い任務に就いております。朝から晩まで不安と緊張の中で職務にあたり、決して怠ることはございません。
私が聞くところによれば、「阿衡」とは実務を伴わない名ばかりの称号です。
今この称号を与えられても、何をすればよいのか分かりません。
したがって、参内することができないのです。
もちろん、宇多天皇は基経を名誉職に押し込むために「阿衡」という言葉を使ったのではありませんでした。 一度は臣籍降下(しんせきこうか)し、臣下の立場から即位した宇多天皇は、 父親の光孝天皇が万(よろず)の政(まつりごと)を託した藤原基経の力を必要としていました。 ところが、基経は「阿衡」という言葉にこだわり政務を見ようとしません。結局、翌年である仁和4年、西暦888年6月、宇多天皇は「阿衡」の詔書を取り消しました。しかし、このことは逆に橘広相が勅を誤ったということを宇多天皇が認めたこととなり、かえって橘広相は窮地に追い込まれました。基経も「阿衡」の問題が解決しないうちは参内できないと返答しました。宇多天皇は基経が光孝天皇から宇多天皇の行く末を託され、宇多天皇も基経を頼ったのにそれが裏切られたとして、日記に不満を書きつけています。
宇多天皇御記(ぎょき)である『寛平御記』(かんぴょうぎょき)にはこのように記されています。
必能随力奉仕云々
「必ずできる限りお仕えいたします」と、あれほど言っていたではないか。
とはいえ、そもそも光孝天皇の御世に、基経は「阿衡」となり政務を担当しろとの詔を受けている事もあって、宇多天皇は父親の光孝天皇同様に基経に権限を委ねるからこそ、「阿衡」という言葉を用いたのですが、それに反発したわけですから、言いがかりとも取れます。 姻戚関係にない宇多天皇への脅し、天皇の外戚になった橘広相への牽制、あるいは「阿衡」といった抽象的な表現ではなく、自らの権力、権限を明確化したかった、等々、基経と揉めた理由には様々な説があります。
結局、宇多天皇は基経の娘である藤原温子(ふじわら の おんし)を入内させるなどして和解に務め、10月になってようやく事態が鎮静化しました。寛平(かんぴょう)3年(西暦891年)1月に基経が死去すると、宇多天皇は親政(しんせい)を開始しました。なお宇多天皇が勅願寺(ちょくがんじ)として仁和寺(にんなじ)を建立したのは、この阿衡事件の最中(さなか)の仁和4年(西暦888年)のことでした。
ところで、藤原氏ではないのですが、基経が日頃から目をかけていた儒学者(じゅがくしゃ)の一人に、菅原道真(すがわら の みちざね)という人物がいました。儒学者とは、儒教を自らの行為規範にしようと儒教を学んだり、研究・教授する人の事です。
ちなみに菅原氏は天穂日命(あめの・ほひの・みこと)から連なる神別(しんべつ)です。天穂日命は天照大御神(あまてらす・おおみかみ)と須佐之男命(すさのお)が誓約(うけい)をしたときに生まれた五男三女神の一柱(ひとはしら)です。葦原中国(あしはらの・なかつくに)平定のために出雲の大国主神(おおくにぬし の かみ)の元に遣わされましたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原(たかまがはら)に戻りませんでした。後に建御雷之男神(たけみかづちのおのかみ)が大国主神の子である事代主神(ことしろぬしのかみ)や建御名方神(たけみなかた・の・かみ)を平定し、地上の支配に成功すると、大国主神に仕えるよう命令され、子である建比良鳥命(たけひらとり)は出雲国造(いずもの・くにのみやつこ)や土師氏(はじうじ)(およびその後裔氏族(こうえいしぞく)の秋篠氏(あきしのうじ)、菅原氏(すがわらうじ)、大江氏(おおえうじ))らの祖神(そしん)となったと言われています。
藤原氏も天児屋命(あめのこやねのみこと)の子孫ですが、同じく、神々を先祖に持つからというわけではないと思われますが、藤原基経は菅原道真に目をかけていました。 理由は単純に漢詞(かんし)や学問の才能に惹かれていたためです。
才能がありすぎたが故に、周囲の学者たちからの誹謗中傷に苦しめられた道真は、太政大臣(だじょうだいじん)であった藤原基経(ふじわら の もとつね)に助けを求めました。 基経は9歳年下の道真に文章の代筆を依頼したりもしました。学者たちからの攻撃に苦しめられた道真は、基経を訪ね、自身への誹謗中傷を訴えました。 基経がどのように対応したのかは残されていないのでわかりませんが、その後の両者の関係から見ても、何らかの手助けをしたのは確かだと思われます。 若く才能ある後輩を立身出世を果たした先輩が支援するという、普通といえば普通の関係です。
藤原北家の棟梁(とうりょう)である基経には時平(ときひら)という嫡男(ちゃくなん)がおり、道真が42歳の時に元服(げんぷく)しました。父親同様に摂政、関白、太政大臣(だじょうだいじん)になる事を約束されていたのも同然でした。道真と時平の年齢差は26歳。 時平の母親は仁明天皇の第四皇子、人康親王(さねやすしんのう)の娘です。 基経には3人の妻がいました。子供は息子が5人、娘が7人。 ちなみに、道真には妻が3人以上、子供は20人以上、いました。 道真の妻や子供については伝承でしか残っていないので、実はよくわかっていません。いずれにしても、日本が一夫一妻制になったのは大正時代以降です。過去の日本が一夫多妻だったのは、乳児死亡率が高かった影響もあると言われています。
明治時代初期には5人に1人から4人に1人が1歳未満で死亡、大正時代後期でも7〜8人に1人が1歳未満で死亡しています。男子の死亡率は女子のものより高かったので。昭和初期に、水道水のカルキ消毒が行われるようになり、乳児死亡率が激減するようになりますが、それ以前は、後継ぎを確保するためには、一夫多妻制が合理的だったものと思われます。
話は「阿衡」で揉めていた頃にまで少し遡りますが、宇多天皇が苦渋の思いで橘広相を罷免したにも関わらず、基経は罷免だけでは納得せず、橘広相を流罪(るざい)にするように宇多天皇に迫りました。橘広相に悪気がなかった事を知っている宇多天皇は苦慮しました。 そこに、讃岐に赴任していた菅原道真から、 基経に宛てて奉公勧請状(ほうこう・かんじょうじょう)が送れてきました。 奉公勧請状とは奉公を勧める書の事で、要するに、基経を諌める書状でした。
『菅家文草』(かんけぶんそう)にはこのように記されています。
公宜奉公、以安国家。
勿以小嫌、而廃大義。
あなたは公に仕え、国家を安定させるべき立場にあります。
個人的なわだかまりによって、大きな道理を損なってはなりません。
道真は書状で、「阿衡」事件を聞いて以降、寝食(しんしょく)休まる事がなかったと語りました。 理由は、橘広相は宇多天皇にとって恩人であり、 その広相を罰すれば、基経が恨みを買ってしまう。 橘広相には才能、知能、計り事や考えもあるので、 そんな者から恨まれるべきではない、と。
また、道真は基経に、このまま橘広相が罰せられれば、 その後、文章を作る者も罪を免れなくなると主張しました。 自らも儒学者で文章家でもある道真は、 文脈を無視し、「阿衡」という言葉だけを問題視して責め立てた基経に 苦言を申し立てた訳です。
というわけで、道真らしい上品な文章で諌められた基経は、 ようやく矛を収める事にしました。尤も、「阿衡」事件は、天下が藤原氏のものであり、 天皇は傀儡に過ぎない、という現実をまざまざと見せつける事になりました。
「阿衡」事件が決着した頃、道真は平安京に戻って来ました。歌御会(うたごかい)に参加し、歌を詠みました。宮廷の四季の歌会や天皇への奉答を外側から見つめ直した“漢詩が有名です。
四時遊宴興未休
奉詔吟詩志不羞
願従今以後
莫将詞客作諸州
四季折々に催される宮廷の宴──その楽しみは、まだ尽きることはない。
天皇の命に応じて詩を詠むことも、私は恥だとは思わない。むしろ誇りだ。
だが、願わくは──これから先はどうか、
詩を詠む者を理由に、地方へ赴かせるようなことはやめてほしい。
道真は讃岐に赴任させられたことが不満だったようです。いずれにせよ、公明正大な儒学者であり、詩や文章の才能が抜群だった道真に、宇多天皇は惚れ込みました。 「阿衡」事件の後に橘広相が死んでしまった事もあり、宇多天皇は道真に橘広相の代わりを務めさせる事にしました。寛平(かんぴょう)3年(891年)、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に任命されました。天皇の秘書官長のような役職で、学者なのに蔵人頭に任じられたのは、道真以前には橘広相しかいませんでした。道真は藤原基経とも親交が深いので、橘広相のように基経から難癖をつけられる心配もありませんでした。
寛平(かんぴょう)2年(西暦890年)に、基経は病床につきましたが、その平癒を願って10月30日には大赦が行われ、宇多天皇から得度者(とくどしゃ)30人を賜りました。基経はこれを拝辞(はいじ)しようとしたのですが、宇多天皇は重ねてこれを受けるよう勅(ちょく)しました。この詔を執筆したのが道真でした。
残念ながら、この効果はなく、翌年1月13日に基経は薨去(こうきょ)しました。
その後、基経の嫡男である藤原時平(ふじわら の ときひら)は21歳と若年のため摂関ではなく、参議に認じられ、源 能有(みなもと の よしあり)を事実上の首班とし、菅原道真、藤原保則(ふじわら の やすのり)、平 季長(たいら の すえなが)、藤原 忠平(ふじわら の ただひら)、等、様々な人物を抜擢した宇多天皇の親政が始まりました。いわゆる寛平の治(かんぴょうのち)です。国司の権限を強化する改革を次々と行ったのですが、最も有名なのは、寛平6(西暦896)年の遣唐使の廃止でしょう。
寛平4(西暦894)年、56年ぶりに唐への使節派遣の再開が計画され、道真が遣唐大使に認じられました。 つまりは遣唐使を率いる責任者です。ところが、道真は遣唐使派遣の再検討を求める「請令諸公卿議定遣唐使進止状」(けいれい・しょこうけい・ぎじょう・けんとうし・しんしじょう)を提出して中止になり、そのまま遣唐使は再開されないまま、延喜(えんぎ)7(西暦907)年に唐が滅亡するとそのまま消滅する形となりました。
「請令諸公卿議定遣唐使進止状」にはこのように記されています。
遣唐使之事、近年停止不行。其所以者、渡海之間、風涛難測、人物多損。
加以、彼土喪乱、道路不通。往還之間、動経年歳。
若復遣之、恐無益於国家、有損於人民。
望請、令諸公卿議定進止。
遣唐使の派遣については、近年すでに停止され実施されていません。
その理由は、海を渡る際に風や波の危険が予測できず、多くの人命や物資が失われているからです。
さらに、唐の国内は混乱しており、道も安全に通行できる状況ではありません。
往復には何年もかかってしまいます。
もし再び派遣を行えば、国家にとって利益がないばかりか、人々に損害を与える恐れがあります。
どうか、公卿たちにこの件を議論させ、派遣の是非を決定していただきたい。
ここで道真は、感情的に「やめるべきだ」と叫んでいるわけではありません。
むしろ、冷静すぎるほどに、唐から学ぶ時代が終わりつつあるという現実を見据えていました。そしてこの建議が、結果的に遣唐使の廃止へとつながりました。
西暦755年から763年にかけての節度使(せつどし)の安 禄山(あん ろくざん)とその部下の史 思明(し しめい)による安史の乱(あんしのらん)以降、唐はそれまでの隆盛が嘘のように凋落していきました。ウイグル帝国からの協力もあり、唐・ウイグル連合軍は何とか安史の乱を終息させましたが、その後も、裘甫の乱(きゅうほのらん)、龐勛の乱(ほうくんのらん)、黄巣の乱(こうそうのらん)、を経て、907年に唐が滅亡。五代十国時代となりました。道真が遣唐使廃止を勧めてからわずか13年後の事です。 道真には、きちんと状況が見えていたという事です。
天智2年、西暦663年の白村江の戦い(はくすきのえのたたかい)以降、安全保障上の最大の脅威として立ちふさがっていた唐が、10世紀初めにはあっさり滅びてしまったのに、反対側で日本は淡々と存続しているわけです。島国で外敵の侵入に怯える必要もなく、しかも東北の北部と北海道、沖縄を除き、ほぼ中央政府の統治が行き渡っていた状況だったのが大きかったと思われます。
問題は中央政府、つまりは平安京の朝廷における権力闘争でした。 藤原北家の頭領(とうりょう)で摂政・関白を受け継ぐべき時平は、基経が薨去が死んだ時点で未だに20歳。 宇多天皇としては、「阿衡」事件での反省から王政復古を志向しました。その右腕が菅原道真でした。寛平(かんぴょう)5年、西暦893年、宇多天皇は第一皇子の敦仁(あつひと)親王を皇太子に立てますが、その際に相談した相手は道真ただ一人でした。 この事は、藤原氏はもちろんの事、多くの百官から嫉妬、誹謗中傷の対象となりました。宇多天皇は道真を「大師」(たいし)、つまりは優れた学者であり自分の先生、と呼ぶようになりますが、摂政でも関白でもなく、儒学者だった道真としては不本意だっただろうと思われます。「阿衡」事件に懲りた宇多天皇により、権力の中枢に放り込まれていきました。しかも道真が優秀なゆえに、普通に天皇の期待に応えてしまいました。 藤原北家としては面白くないわけです。
寛平9年、西暦897年、皇太子の敦仁親王が13歳で元服し、宇多天皇は譲位して、醍醐(だいご)天皇が即位する事となりました。宇多天皇は宇多上皇となりました。 新天皇は何しろ13歳なので、政務については、相変わらず宇多上皇と道真が中心に見ることになりました。 つまりは、道真は醍醐天皇にとっても恩人であるという話です。
昌泰(しょうたい)2年、西暦899年、藤原時平が左大臣に、菅原道真は右大臣に、任じられました。道真は家が儒家であり家格が低いことと、出世につけて中傷が増えたため辞退したいと上申(じょうしん)していたにもかかわらず、悉く(ことごとく)醍醐天皇から却下されてしまいました。要するに右大臣の職を拒むことを許さないという意味です。逆に、宇多上皇から道真のみに政務を委任したい旨の打診を受けてしまいました。道真はこれを拒絶していますが。
もともとは学者である道真は、多くの貴族たちから嫉妬、誹謗中傷を受けつつも、しぶしぶ右大臣の職を受け入れました。 その結果、藤原時平との権力闘争に追い込まれる事になりました。昌泰(しょうたい)3年、 西暦900年、道真はまたまた右大臣の職を辞する事を願い出ました。 ところが醍醐天皇は道真が提出した辞表を却下しました。儒学者としては異例の出世を果たした道真は、妬まれ、誹謗され、さらには宇多上皇の側近で、醍醐天皇側と対立する存在として捉えられてしまいました。 道真は別に醍醐天皇と対立するつもりはなかったのでしょう。 その後、道真に対する攻撃は激化しましたが、辞職を願い出ても醍醐天皇から却下され、引退する事も出来ませんでした。
昌泰(しょうたい)4年、西暦901年、1月25日、藤原時平が31歳、道真は57歳。醍醐天皇は道真を太宰府に左遷する詔(みことのり)を下しました。
『日本紀略』(にほんきりゃく)にはこのように記されています。
左大臣藤原朝臣時平、忠誠在公、器量宏深。
菅原朝臣道真、才学雖優、志行多僻。
又誑惑上皇、潜構異図。
菅原朝臣道真、輒信讒言、謀廃東宮。其罪非軽。宜左遷為大宰権帥。
左大臣・藤原時平は、忠誠心が公に尽くされ、器量も広く深い。
一方で菅原道真は、学問の才能は優れているが、考え方や行動には偏りが多い。
さらに上皇を惑わし、ひそかに不穏な計画を企てた。
菅原道真は軽々しく讒言(ざんげん)を信じ、皇太子を廃そうと企てた。
その罪は決して軽くない。よって太宰府の副長官に左遷せよ。
完全な言いがかりでしょう。この詔は、命令ではなく、「記録された決別」です。
つまりは、醍醐天皇は、宇多上皇と藤原時平ら、摂関政治派とを天秤にかけ、後者を選んだということです。
皇太子を廃そうと企てた、というのは、醍醐天皇を廃位し、斉世(ときよ)親王に譲位させようとしたという嫌疑(けんぎ)がかけられたという事です。斉世親王の妻の父親が菅原道真だったので。
道真が左遷されるという知らせを聞いた宇多上皇は、道真を救うべく、すぐさま内裏(だいり)に駆け付けますが、門は閉ざされたままで開かれる事はありませんでした。 道真と家族はもちろん、宇多上皇の側近も地方に流されることになりました。 結局、藤原時平と宇多上皇の権力闘争で、醍醐天皇は時平側に付いたというわけでした。太宰府に追放となった道真は、食料や馬も支給されず、自費で向かうことになりました。 左遷後は、俸給や従者も与えられず、政務に当たることも禁じられました。
『菅家後集』(かんけこうしゅう)に収められた「叙意一百韻」(じょい・いっぴゃくいん)では、左遷・流謫の身に至るまでの自らの嘆きを綴っています。
この詩は全100韻(約200句)に及ぶ長編なので、全原文を一度に提示すると、かえって内容がわからなくなるので、今回は、核心となる冒頭部分を記します。
余自少年、志在文章。
奉仕聖朝、累蒙恩光。
位極人臣、名忝搢紳。
不意讒構、忽遭遠謫。
一朝辞闕、万里投荒。
孤舟夜発、旅涙沾裳。
私は若い頃から、文章の道に志を抱いていた。
朝廷に仕え、幾度も恩恵を受けてきた。
地位は臣下として最高位に達し、名声も高官の列に連なった。
だが、讒言(ざんげん)によって、突然遠くへ流されることになるとは、思いもよらなかった。
ある朝、宮中を去り、はるか遠い地へと追いやられる。
孤独な船で夜に出発し、旅の涙が衣を濡らした。
大宰府にて謹慎していたものの、左遷から2年後の延喜(えんぎ)3年(西暦903年)2月25日に薨去(こうきょ)して、後に太宰府天満宮となる安楽寺に葬られました。享年59歳。刑死ではありませんが、衣食住もままならず窮死(きゅうし)に追い込まれたわけであり、緩慢な死罪と言っても構いませんでした。
延喜(えんぎ)6年、西暦906年 冬、道真の嫡子である菅原高視(すがわら の たかみ)は赦免され、大学頭(だいがくのかみ)に復帰しました。
その後、菅原道真追放に関与した人々が次々に死んでいくことになりました。
延喜(えんぎ)8年、西暦908年には藤原菅根(ふじわら の すがね)が病死し、延喜9年、西暦909年には藤原時平(ふじわら の ときひら)が39歳で病死しました。延喜13年、西暦913年には右大臣源光(みなもと の ひかる)が狩りの最中に泥沼に沈んで溺死しました。
延喜23年、西暦923年には醍醐天皇の第二皇子で東宮(とうぐう)の保明親王(やすあきらしんのう)が薨御(こうぎょ)しました。
『日本記略』(にほんきりゃく)にはこのように記されています。
此皆菅原朝臣之怨霊所為也
これらはすべて、菅原道真の怨霊が引き起こしたものである。
延喜23年4月20日、西暦だと923年5月13日ですが、道真は従二位(じゅ・にい)大宰員外帥(だざいいんがいの・ごんのそち)から右大臣(うだいじん)に復され、正二位(しょうにい)を贈られました。
ところが、その後も不幸が続きました。
延長8年、西暦930年、朝議(ちょうぎ)中の清涼殿(せいりょうでん)が落雷を受け、大納言、藤原清貫(ふじわら の きよつら)をはじめ朝廷の要人(ようじん)に多くの死傷者が出た上に、それを目撃した醍醐天皇も体調を崩し、3ヶ月後に崩御してしまいました。これも道真の怨霊が原因とされ、天暦元年、西暦947年、に北野天満宮(きたのてんまんぐう)において神として祀られるようになりました。朝廷は、さすがに道真の復権に動き出したという事です。
一条天皇の時代には道真の神格化が更に進み、正暦(しょうりゃく)4年、西暦993年6月28日には贈正一位左大臣(ぞう・しょういちい・さだいじん)、同年閏(うるう)10月20日には太政大臣(だじょうだいじん)が贈られました。
学問や書、和歌、連歌(れんが)などにも秀(ひい)で、多くの人々から尊敬されていた道真は、 その才能や真面目でひたむきな人柄から天神様として崇められるようになりました。「学問の神様」にして雷神(らいじん)、天満大自在天神(てんまんだいじざいてんじん)と呼ばれるようになりました。天神様は、学者の身でありながら権力闘争に巻き込まれ、 悲劇の死を遂げた菅原道真が恩霊と化す経緯で生まれたわけです。 菅原道真を祀った神社、天満宮(てんまんぐう)は日本各地に多数建てられ、今でも受験生が合格祈願に訪れています。 菅原道真は、その悲劇的な死により、逆に後世の日本人に慕われ、受験生に頼られるようになったわけです。
