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皇統の危機

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我が国は、2000年以上、神武天皇以来の男系の皇統を守り続けている世界で唯一の国です。その起源は神話から続いております。神世七代(かみのよ・ななよ)の陽神(おがみ)である伊邪那岐神(いざなぎ)が禊(みそぎ)をして産まれた天照大御神(あまてらす・おおみかみ)と須佐之男命(すさのお・の・みこと)が誓約(うけい)をして産まれた天忍穂耳命(あめのおしほみみ・の・みこと)の息子の瓊瓊杵尊(ににぎ・の・みこと)が高天原(たかまがはら)から葦原中国(あしはらの・なかつくに)に降り立ち、その息子、火遠理命(ほおり の みこと)の息子の鵜葺草葺不合命(うがやふきあえず の みこと )の息子が神倭伊波礼毘古命(かむ・やまと・いわれびこの・みこと)、すなわち神武天皇です。つまり、元をたどれば、伊邪那岐神から今上(きんじょう)天皇まで、綿々と男系で続いている訳です。

その我が国の皇統の長い歴史の中で、男系の血統を維持するのが難しくなった事が何度もありました。現在もしきりに騒いでいる連中がいますが、現在の危機などは過去のものに比べれば、全く大した問題ではありません。最近の危機だと、明治天皇の御代でしょうか。当チャンネルの動画に詳しく解説したものがあるので、よろしければご覧ください。

その最初にして最大の危機でもあったのが、第20代の安康(あんこう)天皇から、第25代の武烈(ぶれつ)天皇の時代にでした。安康天皇は仁徳天皇の孫世代、武烈天皇は玄孫(やしゃご)、つまり孫の孫世代になります。

応神(おうじん)天皇の皇子(おうじ)の一人だった大雀命(おおさざきのみこと)は、次期天皇に、最も有力と目されていた皇太子の菟道稚郎子(うじのわき・いらつこ)が急死したため、天皇に即位しました。民の竈(かまど)や茨田堤(まんだのつつみ)などの事績でも有名な天皇で、初めて宮を大和に置かず、難波(なにわ)の高津宮(たかつ・の・みや)に移された天皇でいらっしゃいます。山城(やましろ)や大和で、大規模な治水目的の土木工事が行ない、灌漑設備を各地で整え、河内平野を穀倉地帯にする、等の様々な事業を行なった天皇で、更に、仁徳天皇は、支那の宋(そう)に朝貢(ちょうこう)した「倭の五王」の最初の王「讃」(さん)ではないか、と言われております。朝鮮半島の権益を確実なものにするため、宋の権威を利用しようとし、本格的な外交も始めました。

仁徳天皇は内政面でも外交面でも、その後の日本に大きな影響を与えた天皇であり、神武天皇の即位から、日本の国の形を定めた聖徳太子の時代までの、およそ700年間において、最も偉大な天皇なので、あれ程、大きな陵(みささぎ)が造られたのでしょう。

それで、仁徳天皇以降、皇統は仁徳系で受け継がれていく事になりました。まずは仁徳天皇の第一子に当たる大江之伊邪本和気命(おおえの・いざほわけの・みこと)が即位なされました。第17代の履中(りちゅう)天皇です。履中天皇の長子が市辺之忍歯王(いちのへの・おしはの・みこ)という皇子です。

履中天皇が難波宮(なにわのみや)におられた頃に、弟の墨江之中津王(すみのえの・なかつみこ)が皇位を奪おうと反乱を起こした事がありました。阿知直(アチノ・アタイ)が天皇を馬にお乗せになられ、大和の石上神宮(いそのかみじんぐう)にお連れになられました。
石上神宮(いそのかみじんぐう)といえば、神代三剣(かみよさんけん)の天羽々斬(あめのはばきり)と布都御魂剣(ふつみたまのつるぎ)の二振(ふたふり)が納められている神社です。

母親が同じで他の弟である水歯別命(みずは・わけの・みこと)が石上神宮に参上し、履中天皇は謁見なさいました。水歯別命が履中天皇に邪心がない事を訴え、

「然らば今還り下りて墨江中王を殺して上り來よ。彼の時に吾必ず相言わん」
現代語訳:それならば、今、引き返して下り墨江中王(すみのえの・なかつみこ)を殺して上って来なさい。その時、必ず話し合おう」

と詔(みことのり)しました。水歯別命は住吉仲皇子(すみのえの・なかつみこ)の側近である隼人(はやひと)の曾婆加理(そばかり)を懐柔し、主を殺させました。

その後、大和国(やまとのくに)の伊波礼若桜宮(イワレノ・ワカザクラノミヤ)にて、正式に即位する事になりました。『古事記』では伊波礼(いわれ)ですが、『日本書紀』では磐余(いわれ)です。磐余は大和の地名で、『古事記』では伊波礼毘古(いわれびこ)、『日本書紀』では磐余彦(いわれびこ)と表記されている神武天皇は磐余の権力者という事です。

即位して6年後に崩御。『日本書紀』には、諸国に国史(ふみひと)と呼ばれる書記官を設置し、国内の情勢を報告させた、等の記述がありますが、『古事記』には即位後の記述が非常に少なく、次の第18代天皇が水歯別命(みずは・わけのみこと)こと、反正天皇(はんぜい・てんのう)も、在位5年余りで崩御しており、『古事記』にも『日本書紀』にもほとんど事績はなく後継者も指名しないままでした。

それで次の第19代天皇も仁徳天皇の皇子(おうじ)の允恭天皇(いんぎょう・てんのう)が即位なされました。当初は群臣の薦めを断っていらっしゃっていたのですが、応神(おうじん)天皇の孫に当たり、継体(けいたい)天皇の祖父の伯母にあたる、妃の忍坂大中姫(おしさかの・おおなかつひめ)に促されて天皇に即位なされました。

第20代になってようやく仁徳天皇の孫の世代になります。当初は允恭天皇の第一皇子(おうじ)の木梨軽皇子(きなしの・かるのみこ)が即位する予定だったのですが、木梨軽皇子は同母妹(どうぼまい)の軽大娘皇女(かるの・おおいらつめ)と情を通じ、それが原因となって、伊予国(いよのくに)姫原(ひめばら)へ流刑となってしまい、数種の和歌を残して、二人は自殺してしまいましたが。

結局、弟の皇子(おうじ)の穴穗御子(あなほのみこ)が安康天皇(あんこうてんのう)として、即位することになりました。

古代日本でも近親相姦はタブーだったのかというと、母親が同じだとダメだったようですが、父親が一緒でも、母親が違えば問題なかったようで結婚も出来ました。

穏(おだ)やかな名前である第20代天皇安康天皇(あんこうてんのう)から、皇統断絶の危機が始まることになる訳です。決して安康天皇が悪い訳ではありませんでしたが、その弟が実に問題のある天皇でした。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)こと、第21代天皇雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)です。倭の五王の「武」です。結果的に、神武天皇から続く男系の皇統を断絶の危機に追い込むことになりました。

安康天皇が即位し、天皇の弟の身分になった大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は、反正天皇の娘たちを自分のものにしようとしました。が、皇女(ひめみこ)たちは、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)の誘いを断るだけでなく、身を隠してしまいました。

『日本書紀』には、

十二月己巳朔壬午、穴穗皇子卽天皇位、尊皇后曰皇太后、則遷都于石上、是謂穴穗宮。
當是時、大泊瀬皇子、欲聘瑞齒別天皇之女等(女名不見諸記)、於是皇女等皆對曰「君王恆暴强也、儵忽忿起、則朝見者夕被殺、夕見者朝被殺。今妾等顏色不秀、加以、情性拙之。若威儀言語、如毫毛不似王意、豈爲親乎。是以、不能奉命。」遂遁以不聽矣。

(允恭天皇即位42年)12月14日。穴穂皇子(あなほのみこ)は天皇の位(くらい)を継ぎました。皇后を尊び、皇太后としました。都を石上(イソノカミ)に移しました。これを穴穂宮(あなほのみや)といいます。このとき、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ、つまり、のちの雄略(ゆうりゃく)天皇)は瑞歯別天皇(みつはわけの・すめらみこと、つまり、反正(はんぜい)天皇)の娘たちを与えて欲しいと申し出ました。(娘の名前は諸々の記述には見られない。)

皇女(ひめみこ)たちは皆、答えて言いました。
「君王(きみ)は、日ごろから乱暴で、怖いお方です。にわかにご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され、夕にお目にかかった者でも、翌朝には殺されます。今、私たちは見目形(みめかたち)が美しくなく、また気も利かぬ者です。もし振る舞いや言葉が毛の先ほどでも王の心にかなわなかったならば、どうしてかわいがっていただけましょうか。こんなわけですから、仰せ事を賜ることはできないのです。」
そうして遂に結婚の命令を受けませんでした。

と記されています。それで、皇女(ひめみこ)たちは大泊瀬皇子の誘いを断るだけではなくて、そのまま身を隠してしまいました。

『古事記』『日本書紀』を「万世一系の皇統を正当化するために書いた」などと主張している日本の歴史家たちがいかに、いい加減なのかを証明しております。もし、そのようなものだとしたら、この挿話は削除されていたはずです。

従妹の皇女(ひめみこ)達にフラれた弟の大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)のために、安康天皇は嫁探しに乗り出します。次に白羽の矢が立ったのは、仁徳天皇の息子の一人、大日下王(おおくさかの・みこ)(『日本書紀』では、大草香皇子(おおくさかのみこ))の妹、若日下(部)王(わかくさかべの・みこと)(『日本書紀』では、草香幡梭姫皇女(くさかの・はたびひめの・ひめみこ))でした。血縁上は叔母に当たりますが、草香幡梭姫皇女は仁徳天皇の最後の方の子どもたちなので、年齢はそれほど変わりません。

最終的には、若日下王(わかくさかべの・みこと)は雄略天皇の皇后となるのですが、ここから、大変な事になっていきます。

安康天皇は若日下王を大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)に嫁がせてほしいと大日下王(おおくさかのみこ)に、根臣(ねのおみ)を遣い(つかい)として送り、根臣は大日下王の屋敷を訪れ、安康天皇の御言葉を伝えました。

「汝が命の妹、若日下の王を大長谷の王子に婚わせんと欲う。故、貢るべし」

現代語訳:「お前の妹の若日下王(ワカクサカノミコ)を大長谷王子(オオハツセノミコ)と結婚させようと思う。よって献上しなさい」

大日下王(オオクサカノミコ)は四回拝んで言いました。

「若しかくの大命有らんかと疑えり。故、外に出ださずして置けけるなり。是れ恐し。大命の隨に奉進らん。」

現代語訳:「もしかして、このような重要な命令があるのではないか?と想定していました。だから(妹の若日下王を)外に出さずに置いていました。畏れ多いことです。命令のままに奉りましょう」

しかしこの言葉だけでは無礼に思ったので、その妹の礼物(アヤモノ)として押木玉鬘(オシキノ・タマカズラ)を(根臣に)持たせて献上しました。根臣はその礼物の玉鬘を盗み取って大日下王(オオクサカノミコ)を貶めるように報告して言いました。

「大日下の王は勅命を受けずして曰く、『己が妹をや、等しき族の下席と爲すや』といいて、横刀の手上を取りて怒りつるか。」

現代語訳:「大日下王(おおくさかの・みこ)は勅命(オオミコト)を受けないで言ったのです。
『わたしの妹を、同列の氏族の下働きにできるか』と横刀(たち)の柄(つか)を掴んで怒っていました」

天皇はとても怒って大日下王(おおくさかの・みこ)を殺して、その王の妻の長田大郎女(ながたの・おおいらつめ)を取り上げて皇后としました。

長田大郎女(ながたの・おおいらつめ)には連れ子、目弱王(まよわの・きみ)がいました。目弱王は父親が殺されたのを恨み、寝ていた安康(あんこう)天皇を殺害してしまいました。

『古事記』によると、目弱王(まよわの・きみ)はまだ七歳だったのですが、ある日、安康天皇が、后である長田大郎女に秘密を口走ってしまいます。

「吾は恆に思う所有り。何となれば、汝の子、目弱王、人と成りたらん時に、吾が其の父の王を殺ししを知らば、還りて邪しき心有らんと爲すか。」

現代語訳:「わたしは常に不安に思うところがある。何かというと、お前の子の目弱王(まよわの・きみ)が成人したときに、わたしが父を殺したことを知ったならば、心が変わって反逆するのではないか?」

宮殿の下で遊んでいた目弱王はこの言葉を聞いて、すぐに密かに天皇が寝ているのを伺って、その傍らにあった大刀(たち)を取って、その天皇の首を打ち、坂合黒彦皇子(さかいの・くろひこの・みこ)の家に逃げ込みました。

目弱王(まよわの・きみ)に兄の安康(あんこう)天皇を殺されてしまった大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)はもの凄く怒り、兄の八釣白彦皇子(やつり の しろひこ の みこ)が安康天皇暗殺の黒幕ではないか、また彼が皇位を継ごうと企んでいるのではないか、と疑い斬り殺しなさいました。

八釣白彦皇子が弟に切り殺されたのを知った、もう一人の兄、坂合黒彦皇子(さかいの・くろひこの・みこ)は、自分も殺されると思い、目弱王(まよわの・きみ)を連れて、大臣(おとど)の都夫良意富美(つぶら・の・おおみ)の屋敷に逃げ込みました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は刀を振りかざし、坂合黒彦皇子(さかいの・くろひこの・みこ)と目弱王(まよわ・の・きみ)の両名を引き渡すことを求めましたが、都夫良意富美(つぶら・の・おおみ)が遣い(つかい)を出して答えました。

「然れども其の正身の參い向かわざるゆえは、往古より今時に至るまで、臣・連が王の宮に隱れしを聞けども、未だ王子の臣が家に隱れしを聞かず。是を以ちて思うに、賎しき奴、意富美は力を竭して戰うと雖ども更に勝つ可く無けん。然れども、己を恃みて隨が家に入り坐しし王子は、死ぬとも棄てじ。」

現代語訳:「しかし、私があなた側につくわけにはいきません。古くから現在に至るまで、臣・連が応急に隠れたという話は聞きましたが、まだ王子が臣の家に隠れたなどという話は聞いたことがありません。思うに、卑しい奴である意富美(オウミ=自分のこと)は力を尽くして戦っても勝つことは無いでしょう。それでも自分を頼みにして我が家に逃げ入って来た王子(=目弱王)は死んでも棄てません。」

家来の下(もと)に皇子が逃げ込むなど、いまだかつて聞いたことがない。自分を頼って来た皇子を見捨てることなど出来ません、といった訳ですが、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)はもちろん激怒。都夫良意富美の屋敷に火をつけ、皇子たち、もろとも焼き殺してしまいました。

その暴虐振り、暴力性で雄略天皇を超える人物は、日本史上、存在しないのではないでしょうか。

かつて、安康(あんこう)天皇が履中(りちゅう)天皇の皇子の市辺押磐皇子(いちのへのおしはのみこ)に皇位を継がせようとした事をかねてから恨みに思っておりました。
それで、大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は従兄の市辺押磐皇子を狩りに誘い出し、射殺してしまいました。更に、市辺押磐皇子の弟の御馬皇子(みまのみこ)も謀殺しました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は皇族の皇子を自分以外は片っ端から殺してしまったという事です。で、自分の政敵になりそうな者を全員排除した上で、第21代雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)として即位しました。雄略天皇以降は『日本書紀』の年号が春秋年(しゅんじゅうねん)ではなく、今と同じように数えられていると言われております。『宋書』によると西暦477年に倭国が朝貢し、

倭國王興死弟武立

兄の「興 (こう)」、つまり安康天皇が崩御され、弟の「武(ぶ)」が王に立った、と書かれています。

雄略天皇の治世は23年続きましたので、ちょうど5世紀末の天皇という事になります。

即位前に同族の皇子を全員謀殺しましたが、即位後も相変わらずの暴虐ぶりでした。ところが、公務には意外と熱心で、国内で養蚕(ようさん)を盛んにしたり、有力豪族をことごとく屈服させ、大和王朝の権威を著しく高めました。

外交面でも、高句麗(こうくり)に攻撃された新羅(しらぎ)を救い、かと思えば、今度は新羅を攻め、支那の宋(そう)からの使者をもてなし、高句麗に滅ぼされた百済(くだら)を復興する、等、雄略天皇の御代は、なかなか華々しい御代でもありました。

1968年に、埼玉県行田市にある埼玉古墳群(さきたま・こふんぐん)の稲荷山古墳(いなりやま・こふん)で発見された鉄剣に、

獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
(ワカタケル大王の寺、シキの宮に在りし時、吾、天下を左治せり。此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記すなり。)

年代に関しては「辛亥年」(かのといのとし)とあるので、西暦471年になります。『宋書』の倭王武の時代と一致します。

雄略天皇が崩御され、第三子の白髪武広国押稚日本根子皇子(しらかの・たけ・ひろくに・おしわか・やまと・ねこの・みこ)が第22代清寧天皇(せいねいてんのう)として即位なされました。『日本書紀』によると、

天皇、生而白髮、長而愛民、大泊瀬天皇於諸子中特所靈異。

天皇は生まれながらの白髪です。大人になって民を愛しました。大泊瀬天皇はもろもろの子の中から(白髮武広国押稚日本根子天皇(しらかの・たけ・ひろくに・おしわか・やまと・ねこの・すめらみこと))に霊力を感じました。

とあるので、本当に生まれながらにして白髪でした。生まれつき色素がとても少ない白皮症のような感じだったのでしょうか?今となってはわかりません。

清寧天皇は后も皇子も持たないまま。お隠れになりましたが、市辺押磐皇子(いちのへの・おしはのみこ)には二人の皇子がいました。億計王(おけ・の・みこ)と弘計王(をけ・の・みこ)です。雄略天皇が殺した市辺押磐皇子に皇子がいたのを知った清寧天皇は、二人の皇子を宮中に呼び、後継ぎにしていました。

大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)なら、まだ残っていたのか、と殺してしまうかもしれないのに、清寧天皇(せいねい・てんのう)は、随分穏やかな帝(みかど)でした。二人の皇子は父親が殺された後、雄略天皇を恐れ、播磨国(はりまのくに)で牛飼いをしながら身を隠していました。

清寧天皇がお隠れになった後、弘計皇子(をけのみこと)が第23代顕宗天皇(けんぞうてんのう)として即位しました。
『古事記』には、

ここに二柱の王子等、各天の下を相い讓り意富祁の命、其の弟袁祁の命に讓りて曰く、「針間の志自牟が家に住みし時に、汝命、名を顯さずは更に天の下に臨む君に非ざりき。是、既に汝が命の功と爲し、故、吾は兄と雖ども、猶、汝命、先ず天の下治せ」といいて、堅く讓りき。故、辭ぶること得ずして、袁祁の命、先ず天の下治しめしき。

二柱の王子はそれぞれが天下を譲り合いました。意富祁命(おおけのみこ、こと、仁賢(にんけん)天皇)は弟の袁祁命(をけのみこ、こと、顕宗(けんぞう)天皇)に譲り言いました。
「播磨(はりま)の志自牟(しじむ)の家に住んでいたときに、お前が名を明かさなかったなら、天下を治める君主にはなれなかっただろう。だからこれはお前の手柄だ。わたしは兄といっても、まずはお前が天下を治めるのだ」
と言って、硬く譲りました。それで断ることができず、袁祁命(をけのみこ)がまず天下を治めました。

と記載されています。

ようやく第23代顕宗天皇として即位なされましたが、わずか三年で崩御し、兄の意富祁命(おおけのみこ)が第24代仁賢天皇(にんけんてんのう)として即位なされました。皇后は雄略天皇の皇女(ひめみこ)である春日大郎女(かすがの・おおいらつめ)です。

ところが、仁賢天皇も十年ほどでお隠れになり、皇位は皇太子の小泊瀬稚鷦鷯尊(おはつせの・わかさざきの・みこと)が第25代武烈天皇(ぶれつ・てんのう)に引き継がれ、即位することとなりました。武烈天皇は仁徳天皇の玄孫(やしゃご)となります。

武烈天皇の記述が『古事記』と『日本書紀』の記述がまるで違っており、大変興味深いのですが、その武烈天皇も跡継ぎを残さずに崩御なされてしまいました。短命が続くというのは、古代日本にしては珍しい例ですが、いずれにせよ、神武天皇以来続いていた男系の皇統は断絶の危機を迎える事となりました。

一番悪いのは雄略天皇です。雄略天皇が自分の兄弟や従兄たちを皆殺しにしてしまった結果、皇統の断絶が問題化するようになってしまった訳です。 しかも、せっかく隠れて生き延びていた市辺忍歯別王(いちのへの・おしはわけの・みこ)の血統も顕宗(けんぞう)天皇・仁賢(にんけん)天皇・武烈(ぶれつ)天皇で途絶えてしまいました。でも考えてみると、幼武が暴走するきっかけになったのは、安康天皇が眉輪王に殺されたことですよね

事の発端は、根臣(ね・の・おみ)が「押木玉縵」(おしきの・たまかずら)をネコババしようとした事ですが。諸悪の根源です。大泊瀬幼武尊 (おおはつせ・わかたけるのみこと)は元々、暴れん坊として有名だったのですが、少なくとも、根臣が火をつけた事だけは間違いありません。

根臣は、その後、『日本書紀』によると、

夏四月甲午朔、天皇欲設吳人、歷問群臣曰「其共食者、誰好乎。」群臣僉曰「根使主可。」天皇、卽命根使主爲共食者、遂於石上高拔原、饗吳人。時、密遣舍人、視察裝飾、舍人復命曰「根使主所著玉縵、大貴最好。又衆人云、前迎使時又亦著之。」於是、天皇欲自見、命臣連裝如饗之時、引見殿前。皇后、仰天歔欷、啼泣傷哀。天皇問曰「何由泣耶。」皇后避床而對曰「此玉縵者、昔妾兄大草香皇子、奉穴穗天皇勅、進妾於陛下時、爲妾所獻之物也。故、致疑於根使主、不覺涕垂哀泣矣。」

(即位14年)夏4月1日。天皇は宋(そう)からやって来た人達に食事を振る舞おうと思い、群臣に次々に問いました。
「共に食事をする人は誰がよいか?」
群臣たちはことごとく言いました。
「根使主(ネノ・オミ)がよいでしょう」
天皇はすぐに根使主(ネノ・オミ)に命じて、宋(そう)からやって来た人達と一緒に食事をするよう、命じなさいました。
石上(イソノカミ)の高抜原(タカヌキノハラ)で、宋(そう)からやって来た人達と食事をさせました。そのときに密かに舎人(とねり)を派遣して、装飾を視察させました。舎人は報告して言いました。
「根使主が身につけた玉縵(タマカズラ)は太くて高貴で、とても素晴らしいものです。
『前に使者を迎えたときにも、また、身につけていました』と、周囲の人たちも言っていました。」
それで天皇は見たいと思って、臣たちに命じて、食事をしたときのような装いで、天皇の宮殿の前へと呼び寄せました。すると皇后(つまり草香幡梭姫皇女(くさかの・はたびひめ の ひめみこ))が天を仰ぎ見て嘆き、泣き悲しみました。天皇は問いました。
「どういう理由があって泣いているのだ?」
天皇・皇后は一段高い床にいるので、皇后は床を降りて、答えました。
「この玉縵(タマカズラ)は、昔、わたしめの兄の大草香皇子(オオクサカノミコ)が安康天皇の勅命を受けて、わたしめを陛下(つまり雄略天皇)に嫁がせるときに、わたしのために献上した結納品なのです。それで根使主を疑って、不覚にも涙を流してしまいました」

天皇聞驚大怒、深責根使主、根使主對言「死罪々々、實臣之愆。」詔曰「根使主、自今以後、子々孫々八十聯綿、莫預群臣之例。」乃將欲斬之、根使主逃匿、至於日根造稻城而待戰、遂爲官軍見殺。天皇命有司、二分子孫、一分爲大草香部民以封皇后、一分賜茅渟縣主爲負嚢者。卽求難波吉士日香々子孫賜姓爲大草香部吉士、其日香々等語在穴穗天皇紀。事平之後、小根使主(小根使主、根使主子也)夜臥謂人曰「天皇城不堅、我父城堅。」天皇傳聞是語、使人見根使主宅、實如其言、故收殺之。根使主之後爲坂本臣、自是始焉。

天皇はそれを聞いてとても怒り、根使主(ネノオミ)を深く責めました。根使主は答えて言いました。
「死罪、死罪、まことにわたしめの過ちです」

天皇は詔(ミコトノリ)して言いました。
「根使主は今より以後、子々孫々、群臣に名を連ねてはならない。」
それで斬り殺そうとしました。根使主は逃げ隠れて、日根(ヒネ、つまり、和泉国(いずみのくに)日根郡)に着いて、稲で作った城で待ち戦いました。ついに官軍に殺されました。天皇は官僚・役人に命じて、根使主の子孫に二系統に分けて、一部を大草香部(オオクサカベ、つまり和泉国大島郡日下部郷)の民として、皇后に与えました。一部を茅渟県主(チヌノアガタヌシ)に与えて、負嚢者(フクロカツギビト)としました。難波吉士日香々(ナニワノキシヒカカ)の子孫を探し求めて、姓を与えて大草香部吉士(オオクサカベノキシ)としました。その日香香(ヒカカ)たちの物語は安康(あんこう)天皇の紀にあります。事が平定した後に、小根使主(オネノオミ)は夜、寝床に入って、人に語りました。
小根使主は根使主の子です。

「天皇の城は堅くない。わたしの父の城は硬い」
天皇は人づてにこの話を聞いて、使者を送って根使主の家を見させました。本当にその言葉の通りでした。それで捕らえて殺しました。根使主が後に坂本臣(サカモトノオミ)となったのはこれが始まりです。

と記されています。

宋からの使者が来た際に、わざわざ「押木玉縵」(おしきのたまかずら)を身につけて出迎え、大草香皇子(おおくさか の みこ)の妹にして、雄略天皇の皇后、若日下(部)王(わかくさかべのみこと)が、大草香皇子が結納品として用意したものだと見抜き、雄略天皇に誅殺されました。
このネコババで七名もの皇族が死に、挙句の果てに皇統断絶の危機を迎えることになってしまったのだから、もの凄く罪が重いです。

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