神武天皇など、『記紀』にも多くの天皇がお詠みになられた和歌が記されておられますが、当チャンネルの別の動画にもあるように、雄略(ゆうりゃく)天皇は殺戮でも有名な天皇でしたが、日本の最古の歌集『万葉集』に天皇本人の和歌が掲載されているように、雅な一面もあった天皇でした。
「籠(こ)もよ み籠(こ)もち ふくしもよ みぶくし持ち この丘(をか)に 菜摘(なつ)ます児(こ) 家聞かな 名告(の)らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾(われ)こそをれ しきなべて 吾(われ)こそませ 我こそは 告(の)らめ 家をも名をも」
現代語訳:籠よ、立派な籠を持ち、掘串(ふくし)よ、立派な掘串をもって、この岡に菜を摘んでおられる娘よ。家と名前を申せ。この大和の国は、すべてこの朕が治めているのだ。全体的に朕が支配しているのだ。まずは朕こそ、家も名も教えてやろう
今風に言うと、
丘で籠や農具を持って働いている女の子に、「ねえ、家を教えて。名前教えて。この国は自分が支配しているんだよ」と話しかけているナンパの和歌なのですが、雄略天皇が皇族男子を皆殺しにしてしまったために、男系皇統を維持する事が非常に難しい状態に追い込まれる事になるという所までは気が回らなかったのでしょう。
雄略天皇が兄弟や親戚を殺し尽くしてしまい、それでなんとか生き残った仁賢天皇の皇子、武烈天皇を最後に男系の皇統が断絶に追い込まれた訳なので。それでも、現在に至るまで、神武天皇以来の男系の皇統が続いている訳です。この皇統の最大の危機を、先人たちはいかにして乗り切ったのでしょうか。
小長谷若雀命(おはつせの・わかさざきの・みこと)こと、第25代武烈(ぶれつ)天皇で仁徳天皇系の男系の血筋は断絶してしまいますが、その武烈天皇、『古事記』と『日本書紀』の記述が全く違っています。ここに先人たちの苦労が垣間見えます。
『古事記』では、
「小長谷の若雀の命、長谷の列木の宮に坐しまして、天の下治しめすこと捌歳なり。
此の天皇に太子无し。故、御子代と爲て小長谷部を定めき。御陵は片岡の石坏の岡に在り。」
現代語訳:「小長谷若雀命(オハツセノ・ワカサザキノ・ミコトこと武烈天皇)は長谷(はせ)の列木宮(なみきのみや)に居て8年の間、天下を治めました。
この天皇に太子(ひつぎのみこ、こと皇太子)はいませんでした。そこで皇子の代わりに小長谷部(おはつせべ)を定めました。御陵(ミササギ、つまり墓)は片岡の石坏(いわつき)の岡にあります。」
と書かれているだけです。それに対して、『日本書紀』では、まるで、中国史の悪逆皇帝のように、武烈天皇の非道、暴虐ぶりが記されています。
『日本書紀』には、このように書かれています。
二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。
三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。
四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。
五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。
七年春二月、使人昇樹、以弓射墜而咲。
即位2年秋9月、妊婦の腹を割いて、その胎児を見られなさいました。
即位3年冬10月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせなさいました。
即位4年夏4月、人の頭の髪を抜いて、木の頂に登らせ、木の根元を切り落として登った者を落として殺して面白がられました。
即位5年夏6月、人を池の堤の楲(ヒ)の中に伏せて入らせて、外に流れ出るのを三刃(ミツハ)の矛で刺し殺して喜ばれました。
即位7年春2月、人を木に登らせて弓で射落としてお笑いなさいました。
『日本書紀』のこれらの記述ですが、恐らくというか、ほぼ確実に創作だと思われます。例えば、安康天皇から雄略天皇にかけての混乱については、細かい所は多少の違いはあるものの、『古事記』と『日本書紀』の双方の記述が一致しています。安康天皇が大草香皇子(おおくさか・の・みこ)を殺し、妻を奪い、連れ子の眉輪王(まよわの・おおきみ)に寝首を掻かれ、怒り狂った大泊瀬幼武皇子(おおはつせ・わかたけの・みこ)が兄弟や眉輪王(まよわの・おおきみ)らを殺戮し、大泊瀬幼武皇子こと雄略天皇に殺された市辺押磐皇子(いちのへの・おしはのみこ)の二人の皇子が播磨国に隠れ住み、後に顕宗(けんぞう)天皇・仁賢(にんけん)天皇として即位するまでの流れが同じです。ところが、武烈(ぶれつ)天皇の場合、『古事記』には前述の文だけで、他には何も書かれておりません。
『古事記』と『日本書紀』は、ほぼ同じ時期に編纂されたのですが、共に当時はまだ残っていた歴史書や伝聞を元に書かれています。『日本書紀』は正史であり、『古事記』と比べると政治色が強いのは当たり前の事であり、そのために、武烈天皇については、次の天皇の正当性を強化するために、様々な暴虐な挿話(エピソード)が付け加えられたという説が最も有力なものとなっています。
『日本書紀』に載っている武烈天皇の数々の挿話(エピソード)は、支那の歴史書の影響が強かったのではないでしょうか?
紀元前221年に秦(しん)の政王が戦国時代を終わらせて初めて支那大陸を統一し、初めての皇帝という事で、始皇帝(しこうてい)と名乗るのですが、それまでの支那大陸は群雄割拠の時代で、春秋(しゅんじゅう)時代、戦国時代の前の時代、周(しゅう)王朝は紀元前1100年頃に武王武王(ぶおう)が殷(いん)王朝の紂王(ちゅうおう)を打倒することで成立した王朝でした。ちなみに、殷も周も支那大陸全土の半分も統一していませんが。
その打倒された帝辛(ていしん)こと紂王は、愛妾である絶世の美女の妲己(だっき)と一緒に日夜宴会を開いて乱交に耽る悪逆非道の王として史書に記されています。
例えば、肉を天井から吊るし、林のように見せかけ大量のお酒を溜めて池とし、その上で女性をはべらかしながら享楽にふけっていた「酒池肉林」というのは有名ですし、大量の油を塗った銅の丸太で火の海を渡る橋を作り。その上を罪人に素足で渡らせるといった「炮烙(ほうらく)の刑」という刑罰を好んだとか。
あるいは、紂王の叔父である比干(ひかん)が残酷な刑罰をやめるように諌めたのを聞き入れず、
紂怒曰:「吾聞聖人心有七竅。」
「聖人の心臓には7つの穴が開いているそうだ。それを見てやる」といって比干を殺害して、実際に心臓をえぐり出してしまったとか、という話も残っております。
ただ、支那の各王朝最後の王は、後世、悪逆とされるのが常であり、実態は不明です。なぜならば、支那は易姓革命(えきせい・かくめい)の国であり、王朝が変わるたびに、新たな国王や皇帝は自分を正当化するために、滅ぼされた旧王朝の最後の君主を、歴史書に悪く書かせる事が普通だからです。殷(いん)の紂王(ちゅうおう)はもちろん、次の王朝である周(しゅう)の分裂を引き起こした幽王(ゆうおう)も、愛人の褒姒(ほうじ)を笑わせるために、何度も嘘の非常招集をかけ、国中から諸侯を呼び寄せ、余りにもそれが繰り返されたため、そのうちに諸侯が招集に応じなくなり、結果として滅んでしまった、という話が歴史書に残されている事でもわかると思われます。
ちなみに、殷の妲己(だっき)や周の褒姒(ほうじ)など、中国の歴史には、国家を滅亡に追い込むような美女が何人も登場します。この種の美女の事を「傾国傾城」(けいこくけいせい)と言います。
『日本書紀』の武烈天皇に関する挿話(エピソード)は、実に支那の史書的です。しかも『古事記』には全く書かれていない訳なので、特定の政治目的があり、暴虐者としての挿話(エピソード)が後から付け加えられたものと思われます。もちろん、次の天皇で在(あ)らせられる継体(けいたい)天皇の権威を強化するために、前の天皇である武烈天皇が悪い天皇だったことにしたかった訳です。
というわけで、安康天皇・雄略天皇により引き起こされた男系皇統の危機に、我々の先人がいかに対応したかですが、武烈天皇が崩御した時点では、もはや仁徳天皇の子孫は男系男子では1人も残っていませんでした。男系女子はいましたが。
日本の皇統は男系を維持し続けてきた理由は、別の動画でも語っていますが、皇族と無関係な男性を排除したかったためです。なので、日本の男系の皇統は女性差別でも何でもなく。むしろ、一般の日本人男性を皇室からの排除するという、どちらかというと、男性差別である訳です。一般男性を皇統から排除した理由は、皇位簒奪などと良からぬ事を考える人は、基本的には男性だからです。他には、継承戦争を避けたかったために、男系皇統以外を認めなかったとも説明しています。
王家同士の婚姻が繰り返された欧州では、外国の王子や国王が自らの継承権を主張し、他国に攻め込む継承戦争が繰り返されました。イタリア継承戦争。ネーデルランド継承戦争。スペイン継承戦争。ポーランド継承戦争。オーストリア継承戦争など、この10倍くらいがあります。
現在のイギリス王室の先祖であるノルマンディー公ギヨーム2世、後(のち)のウィリアム1世は、フランスからイングランド王国に攻め込む際に、血縁関係を理由に、自らにイングランド王国の王位継承権があるとの大義名分を掲げて攻め込みました。ヘイスティングズの戦いです。
そもそも、他国に嫁いだ王女や皇女の子どもに継承権を認めてしまうと、それこそ敵国に侵略の大義名分を与えかねないという事です。それが男系の皇統しか認めず、皇族男子は天皇に即位しなかったとしても、天皇を守護する藩屏(はんぺい)として皇室に残るとなると、継承戦争は絶対起きません。
実際、2000年を超える我が国の歴史において、継承戦争など起きた事がありませんから。無論、壬申の乱(じんしんのらん)のように、皇位を巡る男系の皇族同士の戦いはありましたが、外国勢力など、皇族と無関係な勢力に介入された事は一度もありませんでした。
というわけで、武烈天皇が日嗣の皇子(ひつぎの・みこ)を残さずに崩御なさられて、当時の日本人は困ってしまいました。なにしろ、仁徳天皇の子孫に男系男子は1人もいなくなってしまったわけですから。
その時、当時の日本人は、どのように対応したのでしょうか?『日本書紀』によると、
壬子、大伴金村大連議曰「方今絶無繼嗣、天下何所繋心。自古迄今、禍由斯起。今、足仲彦天皇五世孫倭彦王、在丹波国桑田郡。請、試設兵仗、夾衞乘輿、就而奉迎、立爲人主。」大臣大連等一皆隨焉、奉迎如計。於是、倭彦王、遙望迎兵、懼然失色、仍遁山壑、不知所詣。
12月21日。大伴金村大連は話し合って言いました。
「まさに今、絶えてしまって後継者がいない。天下は、どこを心の「より所」にすればいいのだろうか。古くから今に至るまで、禍(ワザワイ)はこうして起こるものだ。今、足仲彦天皇(タラシナ・カツヒコノ・スメラミコト、つまり、仲哀(ちゅうあい)天皇)の五世の孫の倭彦王(ヤマトヒコノ・オオキミ)が丹波国の桑田郡(クワタノコオリ、こと、現在の京都府北桑田郡・亀岡市)にいる。請い願って、兵仗(ツワモノこと武器)を設けて、乗輿(ミコシ)を挟んで守って、行って迎えて奉り、人主(キミ)になっていただこう。」
大臣(おおおみ)・大連(おおむらじ)は一つにまとまり、従って、計画通りに迎え奉りました。すると倭彦王は遠く遥かに迎えに来た兵を眺望して、恐れて、顔色を失って(=顔を青くして)しまいました。それで山谷へと逃げて隠遁して、どこにいるのか分からなくなりました。
元年春正月辛酉朔甲子、大伴金村大連、更籌議曰「男大迹王、性慈仁孝順、可承天緖。冀慇懃勸進、紹隆帝業。」物部麁鹿火大連・許勢男人大臣等、僉曰「妙簡枝孫、賢者唯男大迹王也。」丙寅、遣臣連等、持節以備法駕、奉迎三国。夾衞兵仗、肅整容儀、警蹕前駈、奄然而至。於是、男大迹天皇、晏然自若、踞坐胡床、齊列陪臣、既如帝坐。持節使等、由是敬憚、傾心委命、冀盡忠誠。
即位元年春1月4日。大伴金村大連(オオトモノ・カネムラノ・ムラジ)はまた話し合って言いました。
「男大迹王(オオドノ・オオキミこと、継体(けいたい)天皇)は性格は慈しみや仁愛があって、孝順の気持ちがある。天緒(アマツヒツギつまり天皇の位)を受け継ぐべきだ。願わくば、慇懃(ネンゴロ)に進めて、帝業(アマツヒツギ)を受け継ぎ、国を盛んにしていこう」
物部麁鹿火大連(モノノベノ・アラカイノ・オオムラジ)・許勢男人大臣(コセノ・オヒトノ・オオオミ)たちは、皆、言いました。
「枝孫(ミアナスエ、つまり、枝からさらに別れた枝のこと、で、継体天皇が分家の分家であることを示している)の中から、吟味して選べば、賢者(サカシキ・ミコ)はただ男大迹王(オオドノ・オオキミ)だけだ」
6日に、臣・連(おみ・むらじ)たちを派遣して、節(しるし)を持ち、法駕(みこし)を準備して、三国(みくに)に迎えに行きました。兵士たちで挟み守り、容儀(ヨソオイ)を粛々と整えて、先頭で、声を上げて人を追い払い、急にやって来ました。すると男大迹王(オオドノミコ)は静かにいつものように自然にしていて、胡床(アグラ)をかいて座っていました。陪臣(サブラウヒト、つまり従者)を整列させ列にして、すでにまるで帝(みかど)がいるようでした。節(しるし)を持つ死者たちは、それでかしこまって、心を傾け、命(めい)を寄せて、忠誠を尽くしたいと願うほどでした。
仁徳天皇の子孫に男系男子は1人も残っていない、となると、さらに1代前である応神天皇にまでさかのぼる必要がありました。武烈天皇のお父さんが仁賢(にんけん)天皇で、おじいさんが市辺押磐皇子(いちのへの・おしはのみこ)。ひいおじいさんが履中(りちゅう)天皇。ひいひいおじいさんが仁徳(にんとく)天皇。さらにその前である、応神(おうじん)天皇までさかのぼった訳です。仁徳系の男系男子が1人も残っていない以上、5代前にさかのぼるのも仕方がない事です。応神天皇の五番目の皇子(おうじ)で、仁徳天皇の弟の1人が稚野毛二派皇子(わかぬけ・ふたまたの・みこ)でした。ちなみに、稚野毛二派皇子の娘の1人、忍坂大中姫(おしさかの・おおなかつ・ひめ)は、雄略(ゆうりゃく)天皇の母親です。
その応神天皇の息子にして仁徳天皇の弟の稚野毛二派皇子の4代後(あと)の子孫。つまりは、玄孫(やしゃご)に当たる人物の1人が男大迹王(おおどの・おおきみ)でした。男大迹王は、一応、皇族ではあったのですが、越前の国(今の福井県)を治めていました。皇族ではあるものの、豪族という感じなのでしょう。高貴な血統ではあるものの、朝廷がある大和から離れていたため、安康(あんこう)天皇から雄略天皇の時代のゴタゴタに巻き込まれることもなく、近江の国で生まれ越前の国で育った人物です。
儒教では、王様は天から選ばれてなるものなので、自分から「俺が、俺が」と訴えて、なるものではありません。そういう事もあって、なのか、継体天皇は、大臣・大連(おおおみ・おおむらじ)から請われて、天皇として即位なされれる訳です。
その中で「枝孫」(みあなすえ)という言葉があり、これは「枝から枝が出る事」の意味で、暗に「分家で天皇の血を引いている人はたくさんいたよ。」という意味です。つまり、継体天皇は残された一人というわけではなく、逃げ出した倭彦王(やまと・ひこの・おおきみ)のように、他にも天皇の血を引いた天皇候補はいたわけです。
そんなの創作かもしれない、と突っ込む人もおいででしょう。なら、「継体天皇しか天皇の血を引く人は居ない」と書かなかったのは、なぜなのでしょうか?そのように書いた方が継体天皇の存在意義が高まりますし。いくらでも創作できるのであれば、ここは「枝孫の中の賢者」とは書かないはずです。
大臣たちの来訪を受けた男大迹王(おおどの・おおきみ)は、何度か躊躇するのですが、結局は皇位を継ぐことを承知し、58歳で第26代継体(けいたい)天皇として即位なされました。
武烈天皇がお隠れになり、遠い親戚が新たな天皇として即位なされたという感じなのでしょう。もっとも、継体天皇の曾祖母に当たる忍坂大中姫命(おしさかの・おおなかつひめ)が允恭(いんぎょう)天皇の皇后であり、安康(あんこう)天皇や雄略(ゆうりゃく)天皇の母なので、大和に暮らす皇族たちとそれほど縁遠い存在という訳でもありませんが。
それに、継体天皇は、即位なされるとすぐに仁賢(にんけん)天皇の皇女(ひめみこ)で武烈天皇の姉に当たる手白香皇女(たしらかの・ひめみこ)を皇后としてお迎えになられていらっしゃるので、「今の日本の皇族には仁徳天皇の血は流れていない」という訳ではありません。手白香皇女は、武烈天皇と同じく仁徳天皇の玄孫(やしゃご)ですから。皇統が男系で続いているので、父親ばかりが意識されますが、継体天皇が仁徳天皇の血を引く皇女と結婚したので、その皇子、皇女は母方では仁徳天皇とつながっている事になります。
仁徳天皇の弟である稚野毛二派皇子(わかぬけ・ふたまたの・みこ)の玄孫(やしゃご)の継体天皇と仁徳天皇の玄孫の手白香皇女が結ばれ、産まれた皇子である第29代の欽明(きんめい)天皇が現代の皇室の遠いご先祖様という事です。
そもそも、なぜ継体天皇は、わざわざ仁徳天皇の血を引く手白香皇女を皇后としてお迎えなさったのでしょうか?尾張目子媛(おわりの・めのこ・ひめ)との間に、第27代の安閑(あんかん)天皇と第28代の宣化(せんか)天皇がいらっしゃったというのに。
大和王朝としては、神武天皇以来の男系の血筋とはいえ、越前の国で暮らしていた男大迹王(おおどの・おおきみ)を新たな天皇として頂(いただ)くに際して、何らかの権威づけが必要だったものと思われます。
そう考えると、前述の武烈天皇の暴虐ぶりに関する記述が、『古事記』には全く書かれていないのに、『日本書紀』にこれでもかと書かれている理由が推測できる訳です。支那の歴史書のように、よそからやって来た継体天皇の即位を正当化するために、その前の天皇である武烈天皇が酷い人物だったと記述しておいた方が都合が良かったのでしょう。
もっとも、別に『古事記』にしろ『日本書紀』にしろ、継体天皇の業績について美化してはいません。継体天皇の時代は、任那の4つの群(ぐん)を百済に譲渡してしまったり、筑紫(つくし)の豪族、磐井(いわい)に反乱を起こされたり、結構ダメな御代(みよ)でもありました。つまりは、正当化できていない訳です。
だからなおさら、正当化の必要があったのだと思われます。継体天皇の御代がダメな時代だったなら、男大迹王(おおどの・おおきみ)を越前からお連れになった重臣たちが責任を問われかねない訳で、だから、なおのこと、継体天皇の前任者の武烈天皇を悪く書いて、継体天皇を即位させた責任を回避したのはないか、という説もありますから。
という訳(わけ)で、安康天皇や雄略天皇の皇族殺しで危機に瀕した日本の皇統を、なんとか神武天皇以来の男系の血統を維持するように存続させる事ができました。
が、例によって、自虐史観の話になるのですが。神武以来の万世一系の皇統を否定したい現代の歴史家たちは、日本の皇統は武烈天皇で一旦途絶え、継体天皇による新王朝が始まった。つまり、新しい王朝が始まったと主張している訳です。継体天皇は、応神天皇の血を引く男系の皇族にもかかわらず。とにかく、自虐史観の歴史家たちは、現在の皇統が神武以来の万世一系である事を否定できそうなネタがあれば、それに飛びつく訳です。しかも、呆(あき)れた事に、いわゆる保守派を自称している方々の中にも、継体天皇新王朝説を信じている人たちが少なくありません。
その代表が百田尚樹です。自著の『日本国紀』の中で、次のように書いています。
「現在、多くの学者が継体天皇の時に皇位簒奪(こういさんだつ)が行われたのではないかと考えている。私も十中八九そうであろうと思う。つまり、現皇室(げん・こうしつ)は継体天皇から始まった王朝ではないかと想像できるのだ。継体天皇が即位してから19年も都を定めなかったのも、その間、前王朝(ぜん・おうちょう)の一族と戦争していたと考えれば、しっくりくる。」
つまり、継体天皇は内戦を経て、神武以来の旧王朝を滅ぼし、新たな王朝を建てたと主張している訳です。内戦の記録はどこにもありません。しかも、当時の大和王朝の歴史は朝鮮半島の史書にも結構残されています。当時の大和王朝が朝鮮半島の任那や百済と関係が深かった以上、当然と言えば当然なのですが。王朝が変わるほどの内戦、いわゆる革命があったならば、間違いなく、朝鮮半島や支那の史書に記録が残されているはずなのですが、そのようなものは全くありません。結局のところ、『古事記』や『日本書紀』という日本の史書を全否定し、日本の皇統は神武天皇以来の万世一系ではないという妄想に現実味を持たせるために、懸命に想像力を働かせているとしか思えません。
ちなみに、継体天皇は確かに19年間、河内(かわち)や山城(やましろ)、現在で言えば、大阪や京都に都を置いていましたが、例えば、仁徳天皇にしても、都を難波(なにわ)に移しており、別に大和盆地に都がなければならないと決まっていたわけではありません。それにもかかわらず、継体天皇が大和以外に都を置いていたことをネタに、新王朝説にまで妄想を膨らませているわけです。継体天皇が内戦を経て、神武以来の旧王朝を滅ぼし、新たな王朝を建てたというのなら、その証拠を示していただきたいものです。
