我が国初の政治改革となる大化の改新(たいかの・かいしん)。日本のそれまでの社会のあり方を大きく作り替えたいわゆる制度改革ですが、西暦645年、乙巳の変(いっしのへん)の直後に皇極天皇が退位し、弟の孝徳天皇が即位。皇極天皇の息子の中大兄皇子が皇太子となりました。乙巳の変の立役者の1人、後(のち)の中臣鎌足(なかとみの・かまたり)こと鎌子(かまこ)、は天皇の最高顧問といえる官職、内臣に就任しました。
『日本書紀』には、このように記載されています。
由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德(字馬飼)。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連国造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豊財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。以阿倍內麻呂臣爲左大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣爲右大臣。以大錦冠、授中臣鎌子連爲內臣、増封若于戸、云々。中臣鎌子連、懷至忠之誠、據宰臣之勢、處官司之上。故、進退廢置計從事立、云々。
軽皇子(カルノミコこと孝徳(こうとく)天皇)は固辞できなくなって、壇(たかみくら)に登って、天皇に即位しました。その時に大伴長徳連(おおともの・おなが・とこの・むらじ)、字(あざな)は馬飼(うまかい)、は金の矢を入れる筒を帯(お)びて、壇(たかみくら)の右に立ちました。犬上健部君(いぬかみの・たけべの・きみ)は金の矢を入れる筒を帯(お)びて、壇(たかみくら)の左に立ちました。百官(ツカサ・ツカサ、こと、役人・官僚)の臣・連・国造・伴造・180の部民は羅列して重なり、拝礼しました。この日に号(ミナ)を豊財天皇(トヨ・タカラノ・スメラミコト、こと、皇極(こうぎょく)天皇)に奉(たてまつ)り、皇祖母尊(スメミオヤ・ノ・ミコト、こと、皇極上皇(こうぎょく・じょうこう))と言うようになりました。中大兄(ナカノ・オオエ)を皇太子としました。阿倍内麻呂臣(アヘノウチマロノオミ)を左大臣としました。蘇我倉山田石川麻呂臣(ソガノクラノヤマダノイシカワノマロノオミ)を右大臣としました。大錦冠(ダイキムノカウブリ)を中臣鎌子連(ナカトミノカマコノムラジ)に授けて、内臣としました。管理する人は若干増えました。云々。
中臣鎌子連は忠誠心があり誠意がある。宰臣(マツリゴトマヘツキミ=宰相・臣下)の勢いによって、官司(ツカサツカサ=役人・官僚)の上にいます。それで人事の進退や配置といった計画に人々は従い、仕事はうまくいきました。云々。
その後の政治の実権は孝徳天皇ではなく、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)と中臣鎌子(なかとみの・かまこ)こと、鎌足(かまたり)が握る事になっていきますが、よく考えてみると、孝徳(こうとく)天皇と中大兄皇子の関係は、推古(すいこ)天皇の時代に、聖徳太子が政治権力を握っていたのと似ています。中大兄皇子は聖徳太子にならい、自らが天皇に即位する事を避けたのではないかという説が有力ですから。
別の動画で解説したように、『日本書紀』に
天豊財重日足姫天皇四年、爲大化元年。
天豊財重日足姫天皇(アメ・トヨ・タカラ・イカシ・ヒタラシ・ヒメノ・スメラミコトこと皇極(こうぎょく)天皇)は、皇極天皇即位4年を改めて大化(たいか)元年としました。
と記(しる)されており、西暦645年から650年まで、大化という元号が使われましたと説明しましたが、同じ頃から「日本」という国号が使われ始めたという説もあります。それまでは「日本」という国の名前が使われていなかったのかというと、それはわかりません。何しろ1000年以上も昔の事ですから、正確なところは不明で、諸説あります。ちなみに、当初は「にっぽん」、もしくは、「にほん」ではなく、太陽が昇る地という事で「ひのもと」と呼ばれていたという説もあります。
支那の史書では、日本の事を「倭」という別称で呼んでいますが、これは古代の日本人が自分たちのことを「わ」、あるいは「われ」と称していたためではないかという説もあります。支那の人たちが日本列島にやって来たら、日本人が自分のことを「わ」・「われ」と呼んでいるので、彼らは「わ」の人々なのだと思って、「倭」という漢字を当てはめたという事でしょう。
「わ」という言葉は、「和服」という言葉からも分かる通り、今でも「日本の」という意味を持ちます。そして「和」の集まり。すなわち大きな「和」が大和(やまと)です。どうして、大きな「わ」で「ヤマト」と読むのかは、本当のところは、よくわかりませんが。元々、「やまと」という言葉の語源は山のふもと、あるいは山に囲まれた場所、ともいわれています。
ちなみに和(わ)。平和や和服の和ですが、和だけでもヤマトと呼びます。山だらけの国である日本がヤマトと呼ばれ、支那の「倭国」(わこく)という蔑称(べっしょう)が美称である平和の「和」(わ)に変わり、和という漢字がヤマトと読まれ出し、更に大という漢字が付いて、大きな和も大和(やまと)と呼ばれるようになったという説が有力です。
ちなみに、大化の改新の少し後の、奈良時代には、「和」の字に「大きい」を付けた「大和」という文字が「やまと」と呼ばれていた事は確証されています。
また、大化の改新から「日本」という国号が使われ始めたという説の理由は、理由は大化の改新以降、『日本書紀』で、やたらに「日本天皇」という言葉が登場し始めるためです。
ところが、「実際に使われ始めたのは、もう少し後の天武天皇の時代である」という説もあります。『日本書紀』は、天武天皇が編纂を命じた歴史書です。なので、天武天皇の御代には、間違いなく我々の先祖は祖国の事を日本と呼称していました。いつから日本なのか正確なところが分からないのですが、少しでも新しくしたい勢力があるようです。毎度の事ですが。
大化の改新は、中大兄皇子らが新たな施政方針を示すために発した詔(みことのり)、いわゆる改新の詔から始まったとされています。
『日本書紀』には、
二年春正月甲子朔、賀正禮畢、卽宣改新之詔曰。其一曰、罷昔在天皇等所立子代之民・處々屯倉・及別臣連伴造国造村首所有部曲之民・處々田莊。仍賜食封大夫以上、各有差。降以布帛賜官人百姓、有差。又曰、大夫所使治民也、能盡其治則民頼之。故、重其祿、所以爲民也。
即位2年春1月1日。賀正の礼が終わって、すぐに「改新之詔(アタラシキニアラタムルミコトノリ)」を述べました。
「第1条。
昔の天皇たちの立てた子代(こしろ)の民、ところどころの屯倉(みやけ、つまり、直轄地)、および、その他に臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらの・おびと)の所有する部曲(かき、つまり、豪族の部民(べみん))の民、ところどころの田荘(たどころ、つまり、豪族の運営する土地)をやめなさい。その代わりに食封(へひと)を大夫(まへつきみ、つまり、臣下)より以上に与え、それぞれに品が有ります。それより下には…布帛(きぬ)を官人(つかさ、つまり、役人)・百姓に与え、品がある。また、大夫は民を治めるものです。その政治を誠意を尽くして行えば、民は頼ってくるものです。よって、その禄(たまもの、つまり、民の取り分)を重くするのは、民のためにするものです。
古代の封禄制度の事です。公地公民で、日本中の民が「天皇のもの」となったのですが、天皇が直接管理なんてできるわけもなく、民の管理は地域の氏族がやります。その氏族が管理する「公民」が田畑を耕して得た「収益」から「税」を取るのですが、徴収した税の半分を封主が得ます。この制度を「食封(ヘヒト)」と言います。
では、これ以前はどうしていたのでしょうか?
其二曰、初修京師、置畿內国司・郡司・關塞・斥候・防人・驛馬・傳馬、及造鈴契、定山河。凡京毎坊置長一人、四坊置令一人、掌按檢戸口、督察姧非。其坊令、取坊內明廉强直、堪時務者充。里坊長、並取里坊百姓淸正强□者充。若當里坊無人、聽於比里坊簡用。凡畿內、東自名墾横河以來、南自紀伊兄山以來、(兄、此云制)西自赤石櫛淵以來、北自近江狹々波合坂山以來、爲畿內国。凡郡以四十里爲大郡、三十里以下四里以上爲中郡、三里爲小郡。其郡司、並取国造性識淸廉、堪時務者、爲大領・少領、强□聰敏、工書算者、爲主政・主帳。凡給驛馬・傳馬、皆依鈴傳符剋數。凡諸国及關、給鈴契。並長官執、無次官執。
第2条。
初めて京師(ミサト、つまり、天皇の住む都のこと)を治め、畿内国(ウチツクニ、つまり、大和近辺の国)の司・郡司(つかさ・こおりのつかさ)・関塞(せきそこ、つまり、防御施設)・斥候(うかみ、こと、諜報員)・防人(さきもり、こと、西海の防衛隊)・駅や郡に馬を置き、駅の鈴と手形を作り、地域区画を定めなさい。京には町ごとに長(おさ)を一人置きなさい。四つの町には令(ウナガシ)を一人置きなさい。戸数と人口を調べて、邪(よこしま)な悪事を正し、監察して、人のためになる尽くしなさい。その坊令(マチノ・ウナガシ)には坊(まち)の中で潔白で強く実直で、時節の政務に堪えるものを取り上げて当てなさい。里坊(さとまち)の長(おさ)には、里坊(さとまち)の百姓の中で、清く正しく、勇ましいものを取り立てて当てなさい。もしその里坊(さとまち)にそういう人物がいない時は、隣の里坊(さとまち)から選んで用いることを許します。畿内(うちつくに)では東は名墾横河(なかりの・よこかわ、現在の三重県名張市(いが・なばりし))から、南は紀伊の兄山(せのやま、現在の紀伊国紀ノ川中流=現在の和歌山県伊都郡(いとぐん)かつらぎ町に背山(せやま)・対岸に妹山(いもやま)がある)から、西は明石の櫛淵(くしふち)から、北は近江の狹々波(ささなみ)の合坂山(おうさかやま、現在の滋賀県大津市)を畿内国とします。郡(こおり)は40里を持って大郡(おお・こおり)としなさい。30里(り)以下、4里(り)より以上を中郡(なかつ・こおり)とし、3里を小郡(すくなき・こおり)としなさい。その郡司(こおり・の・みやつこ)には、国造(くにの・みやつこ)の性格が清廉で、時節の政務に堪えるものを取り立てて、大領(こおりの・みやつこ)・少領(すけの・みやつこ)として、強くて勇ましく、聡(さと)くて、読み書き、計算が上手いものを、主政(まつりごと・ひと)・主帳(ふびと)としなさい。駅馬(はいま)・伝馬(つたわり・うま)の数は、鈴・伝符(つたえの・しるし)を刻んだ数によります。諸国と関には鈴契(すず・しるし)を与えよう。長官が取りなさい。そうでなければ、次官(すけ)が取ってください。
日本はこれまで地方の氏族が中央に出向いて、政治について話し合っていましたが、大化の改新以降では、氏族は大和朝廷に属する役人のようになります。と言っても、それは形式であって、実際はほとんど変化が無かったのだと思われます。
しかし、孝徳天皇と中大兄皇子という儒教を学んだ人物が思い描いた「理想の大和朝廷」とは、天皇と頂点としたピラミッド型の組織だったのでしょう。
儒教では上下関係が大事で、上の命令は絶対です。このルールを保つことで戦乱を避けようというのが儒教の考え方であり、それによって、社会が安定します。
ただ、日本は上下関係の薄い「和の社会」であり、そもそも他国に比べれば、圧倒的に、争い事の少ない社会でした。ここに儒教の世界観を持ち込んでも、あまり意味がないと思われます。ただ当時の支那は超大国であり、見習うべき存在だったので、支那が儒教を尊ぶのなら、取り入れるのは当然といえば当然、だったのでしょう。
其三曰、初造戸籍・計帳・班田收授之法。凡五十戸爲里、毎里置長一人、掌按檢戸口・課殖農桑・禁察非違・催駈賦役。若山谷阻險・地遠人稀之處、隨便量置。凡田長卅步・廣十二步、爲段。十段爲町。段租稻二束二把、町租稻廿二束。
第3条。
初めて、戸籍(への・ふみた)・計帳(かずの・ふみた)・班田収授之法(あかちだ・おさめさずくる・のり)を造りなさい。50戸(こ)で里(さと)とする。里ごとに長(おさ)を1人置く。戸口を調べて、農業と桑を育てさせ、法を犯すものを禁じ、監察し、賦役(えつき、つまり、労働する税)を促し、使役する役目を負いなさい。もし山谷が険しくて、遠いところで人が稀にしかいない地域には、便(タヨリ、つまり、報告)に従って、調べたことにして処理しなさい。田の長さは30歩。広さは12歩を段とする。10段を町としなさい。段ごとに祖(たちから、つまり、穀物の税)の稲2束2把。町ごとに祖の稲を22束としなさい。
どのくらいの土地だと、このくらいの税を徴収し、それを誰がやるかを指定しています。
日本人は穢(けが)れを嫌いました。穢れとは、いろいろあるのですが、中でも動物の死体を嫌いました。だから動物の死体から取れる「毛皮」「皮」を使った伝統工芸品が日本にはほとんどありません。しかし、どうしても生活の中で必要なものがあります。それが動物の毛から作る「筆」です。しかし、日本人の感覚では筆は穢れているため、筆で書いた「文」も穢れたものでした。これでは記録もできない。だから日本人は長い間「文字」を使用する事をしなかったのでしょう。理屈から言えば、少なくとも倭の奴国(なこく)が金印(きんいん)を受けた頃には「文字」「漢字」というものを、知っていたはずですから。
記録しないと税を取り立てることができません。よって大きく発展することができません。蘇我稲目(さがの・いなめ)の時代の頃から、「穢(けが)れ」気にしない朝鮮半島の人や蝦夷(えみし)を利用して、この「記録」をさせたのですが、全く人数が足りません。
そこで、仏教を取り入れる事になったのでしょう。仏教には穢れの概念がありませんから。それで、仏教関係者がまず「書き記す」ことを始め、それが基礎となって、法と、戸籍や土地の広さの記録を基にして税金を徴収し始めました。
其四曰、罷舊賦役、而行田之調。凡絹絁絲綿、並隨鄕土所出。田一町絹一丈、四町成匹。長四丈、廣二尺半。絁二丈、二町成匹。長廣同絹。布四丈、長廣同絹絁。一町成端。(絲綿絇屯、諸處不見。)別收戸別之調。一戸貲布一丈二尺。凡調副物鹽贄、亦隨鄕土所出。凡官馬者、中馬毎一百戸輸一匹。若細馬毎二百戸輸一匹。其買馬直者、一戸布一丈二尺。凡兵者、人身輸刀甲弓矢幡鼓。凡仕丁者、改舊毎卅戸一人、以一人充廝也。而毎五十戸一人、以一人充廝。以死諸司。以五十戸、充仕丁一人之粮。一戸庸布一丈二尺、庸米五斗。凡采女者、貢郡少領以上姉妹及子女形容端正者。從丁一人、從女二人。以一百戸、充采女一人粮。庸布・庸米、皆准仕丁。
第4条。
古い賦役(エツキ、つまり、労働の税)をやめて、田の調(みつき)を行いなさい。絹(かとり、つまり、絹を固く織ったもの)・絁(ふとぎぬ、つまり、目の粗い絹)・生糸・絹綿(きぬわた)は、土地の事情に合わせて献上品を変えても構いません。田が1町(ちょう)ならば絹を1丈(じょう)。4町(ちょう)で1匹(むら)となります。長さ4丈は広さ2尺半。絁(ふとぎぬ)ならば2丈、2町で1匹(むら)となります。長さと広さは絹と同じです。布ならば4丈、長さ広さは絹(きぬ)・絁(あしぎぬ)と同じで、1町で1匹(むら)となります。
それとは別に戸(ヘ、つまり、家)ごとに、調(みつき、つまり、税)を取りなさい。1戸に、あら布は一丈二尺。調(みつき)の副物として塩と贄(にえ)は、郷土(くに)の出したものに従ってください。公(おおやけ)に献上する馬は、中級の馬を100戸ごとに1匹を献上しなさい。もし、良い馬ならば200戸ごとに1匹を献上しなさい。馬が無い場合は布を1戸に布1丈2尺献上しなさい。兵(ツワモノ、つまり、兵器)は一人につき、刀(たち)・甲(よろい)・弓・矢・幡(はた)・鼓(つづみ)を献上しなさい。雑役をするものは以前は30戸ごとに1人だったのを改めて、50戸ごとに1人を諸司(ツカサツカサ、こと、役所)に当てなさい。
50戸に仕丁(よほろ)1人の粮(かて、つまり、食料)に当てなさい。1戸につき庸布(ちからしろの・ぬの、つまり、税として布)を一丈二尺、庸米(ちからしろの・こめ、つまり、税としての米)を五斗。采女(うぬめ)は郡の少領(すくの・みやつこ)より以上の姉妹、および子女の容姿端麗のものを献上しなさい。
従丁(ともよほろ、つまり、従者)一人と従女(ともめわらわ、つまり、侍女)二人。
100戸で采女(うぬめ)1人の食料に当てなさい。
庸布(ちからしろの・ぬの)・庸米(ちからしのの・よね)は仕丁(つかえの・よほろ)と同じとします」
と記されています。が、実は「これも相当に怪しい。」という説もあります。
1967(昭和42)年12月に、藤原京(ふじわらきょう)の北面外濠(ほくめん・そとぼり)から「己亥年(つちのと・い・の・とし)十月、上捄国(かずさのくに)阿波評(あわ・の・ひょう)松里□(まつさと)」と書かれた木簡が掘り出されました。これにより、それまでの郡評論争(ぐんひょう・ろんそう)に決着が付けられたとともに、『日本書紀』の「改新の詔(みことのり)」の文書が奈良時代に書き替えられたものであることが明白になった、と言われました。
改新の詔で「地方支配のために郡(こおり)を置く」と述べているにも関わらず、飛鳥時代の石碑や遺品には「郡」(こおり)と書かれたものが、一つも出てきませんが、代わりに「評」なら出てきます。
そこで、「飛鳥時代の地方組織は、郡ではなく評だろう」、「郡は701年に定めた大宝律令で採用されたんだろう」、「改新の詔は『日本書紀』編纂時の創作か、もしくは奈良時代の常識を当てはめて、編纂者が書いてしまった可能性がある」と言われるようになりました。
藤原京跡で発掘された木簡には、「己亥年(つちのと・い・の・とし)十月、」と書かれていましたが、己亥年は西暦699年であって、律令発布のわずか2年前まで、都でも「評」と書かれていたとあって、「評を廃止して郡に改めるには時間がかかる」という郡支持派の言い訳は通じなくなったと言われましたが、上捄国(かずさのくに)、つまり、千葉県の事が書かれているので、「時間がかかるだろうに」と思えます。
大化の改新は、それまで地方豪族に属していた住民をすべて天皇の民。すなわち大御宝(おおみたから)とし、地方行政組織を整備し、戸籍と土地の利用権、それに税制を定めたものですが、中大兄皇子や中臣鎌足の時代に一気に進んだわけではなく、大化元(645)年の乙巳(いっし)の変から大宝元(たいほう・がん)(701)年の大宝律令(たいほう・りつりょう)制定にかけ、半世紀かけて整えられたというのが真実なのでしょう。
