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聖武天皇

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天平(てんぴょう)10(西暦738)年、大友宿禰子虫(おおとも・の・すくね・こむし)が中臣宮処連東人(なかとみ・の・みやこの・むらじ・あずまびと)を刀で斬り殺すという事件が起きましたが、二人はもともとは長屋王に仕えていました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

《天平十年(七三八)七月丙子【十】》○丙子。左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫。以刀斫殺右兵庫頭外従五位下中臣宮処連東人。初子虫、事長屋王、頗蒙恩遇。至是、適与東人任於比寮。政事之隙、相共囲碁。語及長屋王。憤発而罵。遂引剣斫而殺之。東人、即誣告長屋王事之人也。

 

天平10(西暦738)年、左兵庫(さ・ひょうご)少属( しょう・さかん )従八位下(じゅ・はちいのげ)、大友宿禰子虫(おおとも・の・すくね・こむし)が、臣宮処連東人(なかとみ・の・みやこの・むらじ・あずまびと)を刀をもって斬り殺した。子虫(こむし)は、はじめ、長屋王(ながやの・おおきみ)に仕えて、すこぶる厚遇を受けていた。たまたまこの時、東人(あずまびと)と隣り合わせの寮(つかさ)の役に任ぜられていた。政務の隙に一緒に囲碁をしていて、話が長屋王(ながやの・おおきみ)に及んだ時、子虫(こむし)は酷く腹を立てて東人(あずまびと)を罵(ののし)り、遂に刀を抜いて、これを斬り殺してしまった。東人(あずまびと)は長屋王(ながやの・おおきみ)の事を、事実を偽って告発した人物である。

 

結局、デタラメな讒言によって、長屋王とその妻子までもが命を失っておしまいになられたという事だったとは、悲惨な話です。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には記されていませんが、東人(あずまびと)が藤原四兄弟の指示により偽りの告発をしたというのは、状況から見ても、間違いないなさそうだと思われます。というわけで、藤原四兄弟は長屋王のたたりなのかどうなのかは分かりませんが、四人とも死去してしまい、その後の政治は天平9(西暦737)年に、太政官の最高位に就いた橘諸兄(たちばな・の・もろえ)が担うことになりました。橘諸兄は、もともとは皇族で、葛城王(かずらき・の・みこ)と呼ばれていました。成人するにあたり、臣籍降下(しんせき・こうか)し、橘姓(たちばな・せい)を名乗る事になりました。諸兄(もろえ)は敏達天皇の後裔(こうえい)の美努王(みぬおう)と後(のち)に藤原不比等と結婚することになる橘三千代(たちばな の みちよ)との間にできた子供です。

 

橘三千代というと、藤原不比等と結婚し、光明皇后(こうみょう・こうごう)を産んだわけなので、つまり、光明皇后にとって橘諸兄は異父兄弟なので、元皇族ということで皇親(こうしん)政治派も納得でき、かつ藤原氏と縁がないわけではない。絶妙な人事です。

 

 

 

 

橘諸兄(たちばな・の・もろえ)政権を支えたのが、吉備真備(きび の まきび)と僧侶の玄昉(げんぼう)でした。吉備真備と玄昉は、養老(ようろう)元年(西暦717年)に、阿倍仲麻呂(あべ の なかまろ)らとともに遣唐使として大陸に渡った経歴の持ち主です。

 

養老(ようろう)元年に遣わされた遣唐使たちの中で、吉備真備や玄昉は帰国できたのですが、唐で官職に就いていた阿倍仲麻呂はついに祖国の土を踏むことがなく生涯を終えました。一度だけ帰国を許可された際に、阿倍仲麻呂が詠んだ望郷の歌が『古今和歌集』(こきんわかしゅう)に収録されている有名な一句です。

 

「あまの原(はら) ふりさけ見れば春日(かすが)なる 三笠(みかさ)の山に いでし月かも」

 

現代語訳:天を仰いではるか遠くを眺めれば、月が昇っている。あの月は奈良の春日にある、三笠山に昇っていたのと同じ月なのだなあ。

 

阿倍仲麻呂が唐の都の長安(ちょうあん)から、遥か遠くに離れた故郷の奈良を思って詠んだ歌です。

 

この時の仲麻呂の帰国は、船が難破してしまい失敗しました。結局、阿倍仲麻呂は唐の地で亡くなる事になりましたが、無事に帰国を果たした吉備真備と玄昉が橘諸兄を支える形で聖武天皇に仕えることになりました。

 

聖武天皇は、東大寺盧舎那仏像(とうだいじ・るしゃな・ぶつぞう)、つまり、大仏建立の影響で華々しい天皇として想像される方も少なくないのですが、実際には不幸な人物だったのでは、と思われます。光明(こうみょう)皇后との間に生まれた基皇子(もといのみこ)に薨去(こうきょ)なさられておしまいになられたわけですから。不幸だったからこそ、仏教への帰依を深め、大仏の建立をご懇願なさられたわけです。

 

おまけに、聖武天皇のご不幸は基皇子の薨去だけではなく、実は聖武天皇は生まれてから一度も母親にお会いなさられていませんでした。

 

 

 

 

厳密には産まれた瞬間には会っているに決まっていますが、首皇子(おびと・の・おうじ)を出産なさられた藤原宮子(ふじわら・の・みやこ)について、『続日本紀』では、このように記されています。

 

大宝元年。是年。夫人藤原氏誕皇子也。

大宝(たいほう)元年。この年、夫人の藤原氏が皇子をお産みなさられた。

 

《天平九年(七三七)十二月丙寅【廿七】》是日。皇太夫人藤原氏、就皇后宮、見僧正玄〓[日+方]法師。天皇亦幸皇后宮。皇太夫人為沈幽憂、久廃人事。自誕天皇、未曾相見。法師一看。恵然開晤。至是、適与天皇相見。天下莫不慶賀。

 

天平(てんぴょう)9年12月27日。この日、皇太夫人の藤原宮子(ふじわら・の・みやこ)が皇后宮(こうごう・ぐう)に赴いて、僧正の玄昉(げんぼう)法師を引見なさられました。天皇もまた皇后宮に行幸(ぎょうこう)なさられなさいました。皇太夫人が憂鬱な気分に陥り、長らく常人らしい行動をとっていなかったためである。

夫人は聖武天皇を出産なされて以来、まだ、子である聖武天皇に会ったことがなかった。玄昉法師がひとたび看病するや、おだやかで悟りを開かれた境地となった。そうなった時、ちょうど天皇と相まみえることになったので、国中がこれを慶び祝した。

玄昉は唐の地で神通力を授かったのでしょうか?でも、これならば、僧侶の身でありながら、玄昉が政治の世界に取り立てられたのも納得できる話です。聖武天皇にとっても、まさに恩人ですから。

 

天然痘という疫病が収束した後の朝廷では橘諸兄(たちばな・の・もろえ)、吉備真備(きび・の・まきび)、玄昉(げんぼう)の三人が政治の中心になりましたが、これに我慢がならなかったのが藤原氏でした。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)によると、小さい時から凶暴で成長するに及んで人を偽り、陥れるようになった藤原広嗣(ふじわら・の・ひろつぐ)が、天平(てんぴょう)12(西暦740)年、筑前国(ちくぜんのくに)の太宰府(おお・みこともち・の・つかさ)にて、「反・吉備真備」、「反・玄昉」を訴え反乱を起こしました。
藤原広嗣は藤原四兄弟の一人、藤原 宇合(ふじわら の うまかい)の息子ですが、父親が亡くなった後、広嗣は聖武天皇の母親である皇太夫人の宮子(みやこ)を誹り、太宰府に左遷されていました。その後、兵をあげることになります。要するに「君側(くんそく)の奸(かん)を討つ」というわけです。

 

 

 

もっとも、吉備真備(きび・の・まきび)や玄昉(げんぼう)を登用したのは橘諸兄(たちばな・の・もろえ)で、橘諸兄を政権の座につけたのは聖武天皇その人ですから、結局のところ、藤原広嗣(ふじわら・の・ひろつぐ)は国家に対する反乱を企てたという事です。

 

藤原広嗣は太宰府(おお・みこともち・の・つかさ)で九州の隼人(はやと)を中心に兵を集め、討伐に赴いた朝廷軍と激突しました。敗北した藤原広嗣は済州島(さいしゅうとう)に逃亡を図りましたが、結局は捕えられ斬られてしまいました。橘諸兄政権は内乱という深刻な危機を切り抜けたわけですが、この藤原広嗣の乱以降、聖武天皇が少しおかしくおなりになられました。

 

聖武天皇は広嗣の乱の知らせを聞くと追討軍を送り出さられならりましたと同時に、なぜか平城京を離れ、各地を転々と移動なさられなさい始めました。「藤原広嗣が勝利すると自分の身が危ないので、念のために避難した」という話なら納得がいくのですが、乱が収束した後も、あちこちと移動し遷都を繰り返すことにおなりになさられました。

 

聖武天皇が気まぐれに次々と都をお移しになられるたびに、皇族や公卿、百官は大混乱に陥りました。聖武天皇はまず伊賀から伊勢にお入りになられ、その後、美濃から不破の関を抜け、平城京の東北、現在の京都府木津川市の恭仁京(くにきょう)にお入りになられました。恭仁京には、天皇のお宮など、あろうはずもなく、公卿や群臣たちは恭仁京を天皇の都とするべく大急ぎでお宮の造営を進めました。

 

聖武天皇は事後承諾的に遷都を御告げなさられ、天平13(西暦741)年の正月は恭仁京で朝賀をお受けなさられました。まだお宮を囲む垣が完成していなかったため、帳(とばり)を引き回らせました。

 

更に3カ月後、聖武天皇は詔をお下されなさいました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

《天平十三年(七四一)三月乙巳【廿四】》○乙巳。詔曰。朕以薄徳。忝承重任。未弘政化。寤寐多慚。古之明主、皆能先業。国泰人楽。災除福至。修何政化。能臻此道。

 

天平13年3月24日、次のように詔をお下しになられた。朕(ちん)は徳の薄い身であるのに、かたじけなくも、重任を受け継ぎ、まだ民を導く良い政治を広めておらず、寝ても覚めても恥じることが多い。しかし昔の名君は皆祖先の仕事をよく受け継ぎ、国家は安泰で人民は楽しみ、災害がなく幸いがもたらされた。どういう政治指導を行えばこのような統治ができるだろうか。

 

 

 

 

自虐的な詔をお下しになられる事が多い聖武天皇ですが、もっとも、聖武天皇の御代は干ばつや飢饉、大地震や疫病などで国民が苦しんだ時代でしたから。さらには藤原広嗣(ふじわら・の・ひろつぐ)の乱もあり、私生活面での不幸もあり、「どうして自分の御代はここまで災厄ばかりが起きるんだろうか」と悩み続けていらっしゃられていたのではないかと思われます。

 

それで、大仏建立の前段階として、聖武天皇は前述の詔に続き、全国に国家鎮護のため国分寺の建立をお命じなさられました。聖武天皇の詔を受け、国分寺は全国津々浦々に建設されていきました。

 

しかも聖武天皇は恭仁京(くにきょう)が完成する前に、今度は今の滋賀県甲賀市の信楽に熱心に通い始め、紫香楽宮(しがらきのみや)の建設をお始めなさられました。更に信楽の地に大仏を建立するように御指示なさられました。ますます人々が苦しむことになると思われますが。

 

《天平十五年(七四三)十月辛巳【丁卯朔十五】》○冬十月辛巳。詔曰。朕以薄徳、恭承大位。志存兼済。勤撫人物。雖率土之浜、已霑仁恕。而普天之下、未浴法恩。誠欲頼三宝之威霊、乾坤相泰。修万代之福業、動植咸栄。粤以天平十五年歳次癸未十月十五日。発菩薩大願、奉造盧舍那仏金銅像一躯。

 

天平15年、冬10月15日。天皇は次のように詔をお下しになられた。

朕(ちん)は徳の薄い身でありながら、かたじけなくも天皇の位(くらい)を受け継ぎ、その志は広く人民を救うことにあり、努めて人々を慈しんできた。国土の果てまで、すでに思いやりと情け深い恩恵を受けているけれども、天下のもの一切が全て仏の法恩(ほうおん)に浴しているとは言えない。そこで本当に三宝(仏法僧)の威光と霊力に頼って、天地共に安泰になり万世までの幸せを願う事業を行なって、生きとし生けるものことごとく栄えんことを望むものである。

ここに天平15年、天を12年で一周する木星が、癸羊(みずのと・ひつじ)に宿る10月15日を以て、菩薩の大願(たいがん)を発して、盧舎那仏(るしゃな・ぶつ)の金銅像(こんどうぞう)一体をお造りすることとする。

 

相変わらず自虐的です。それにしても大仏を信楽に作るという事は、再遷都ということなのでしょう。

 

 

 

しかも紫香楽宮(しがらきのみや)に落ち着くかと思ったら、聖武天皇は恭仁京(くにきょう)と難波京(なにわきょう)、つまり今の大阪市ですが、いずれを都にするべきなのかを群臣にお問いになられました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

天平十六年閏正月乙丑朔。詔、喚会百官於朝堂。問曰。恭仁・難波二京、何定為都。各言其志。於是、陳恭仁京便宜者。五位已上廿四人。六位已下百五十七人。陳難波京便宜者。五位已上廿三人。六位已下一百卅人。

 

天平(てんぴょう)16年うるう正月一日。天皇は詔をお下しになられて百官を朝堂(ちょうどう)にお呼び集めなさられた。そして次のようにお尋ねになられた。恭仁(くに)、難波(なにわ)の二つの京で、どちらを都と定めるべきか、それぞれ自分の考えを述べよ。」と。

 

過半数の群臣は恭仁京に残ることを求めました。ところが、天平15(西暦743)年、聖武天皇は難波京に移動してしまい、2ヶ月ほど、ご滞在なさられました。その後、紫香楽宮にお戻りになられ、大仏建立に専念なさられるようになりました。聖武天皇が紫香楽宮に滞在している状況でありながら、左大臣が聖武天皇の詔を皆に告げまました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

《天平十六年(七四四)二月庚申【廿六】》○庚申。左大臣宣勅云。今以難波宮定為皇都。宜知此状。京戸百姓任意往来。

 

天平(てんぴょう)16年2月26日。左大臣が勅(みことのり)を述べて、次のように言った。

「今から難波宮を皇都(こうと)と定める。この事態をわきまえて、京戸(きょうこ)の人々は意のままに両都の間を往来して構わない。」

 

というか、聖武天皇自身は紫香楽宮(しがらきのみや)にご滞在なさられているわけです。その上、元正(げんしょう)上皇は難波京(なにわのみやこ)に残り、多くの廷臣は恭仁京(くに・の・みやこ)に留まっていたため、何が何だかわからない状況になりました。

 

 

 

 

聖武天皇が畿内各地を転々とし、都が頻繁に変わってしまったこの時代は彷徨五年(ほうこう・ごねん)と呼ばれています。その後、最終的に日本の都は平城京(なら・の・みやこ)に落ち着きました。難波京(なにわ・の・みやこ)に残っていた元正(げんしょう)上皇が紫香楽宮(しがらき・の・みや)に入り、天平(てんぴょう)17(西暦745)年の正月、聖武天皇は紫香楽を新京とするとの詔を発します。紫香楽は山に囲まれ細長く狭い盆地です。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

《天平十七年(七四五)正月己未朔》十七年春正月己未朔。廃朝。乍遷新京。伐山開地、以造宮室。垣牆未成。繞以帷帳。

 

天平十七年春、正月一日、朝賀の儀式が中止された。にわかに紫香楽宮に遷都して、山を刈り開き土地を造成して宮殿(みやこ)を建造したのであるが、まだ垣や塀が出来上がらないので代わりに垂れ幕などを張り巡らせた。

 

行き当たりばったり感が凄いです。しかも、山の中でお宮や大仏を建設するという事に、人々の不満が高まりました。工事に携わっている人々はもちろん、遷都のたびに転居させられた廷臣たちも不満でいっぱいでした。すると紫香楽宮の周辺で次々に山火事が発生するようになりました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

《天平十七年(七四五)四月戊子朔》○夏四月戊子朔。市西山火。

《天平十七年(七四五)四月庚寅【三】》○庚寅。寺東山火。

 

天平十七年、夏4月1日、紫香楽宮(しがらき・の・みや)の市の西の山で火災があった。4月3日、寺の東の山で火災があった。

 

連続で山火事が発生したという事は、聖武天皇に不満を持った人による放火なのでは?と思われます。それで、聖武天皇は慌てて大赦と租税免除を決定したのですが、なんとその当日に美濃を震源地とする大地震が発生しました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

天平十七年四月甲寅。是日。通夜地震。三日三夜。美濃国櫓・館・正倉。仏寺堂塔。百姓廬舍、触処崩壊。

天平17年4月27日。この日一晩中地震があり、それが三昼夜続いた。美濃の国では国衙(こくが)の櫓(やぐら)、館(やかた)、正倉(しょうそう)、仏寺の堂や塔、人民の家屋が被害受け、少しでも触れるとたちまち崩壊した。

 

 

 

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)によると、この日の後、五月一日、二日、三日、四日、五日、六日、七日、八日、九日、十日、十六日、十八日、と連続して地震が起こっていますが、まさに天の怒りのごとく大地震が連発したとなると、聖武天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)を都に定め、大仏を作っている事に対する天罰だと受け止められてしまいました。動揺した聖武天皇は五月二日に公卿百官を集め、どこを都とするべきか問いただしました。すると全員が全員、平城京に戻るべきと主張しました。

 

天平十七年(七四五)五月己未【二】》○己未。是日。太政官、召諸司官人等、問。以何処為京。皆言。可都平城。

 

天平17年5月2日。この日、太政官は諸司(しょし)の官人(かんにん)たちを招集してどこを都とするのが良いか問うたところ、みな奈良を都にするのが良いと言上した。

 

歴史研究家によると「彷徨五年(ほうこう・ごねん)」は疫病の流行による社会不安と藤原広嗣の乱に象徴される政治の混乱を一気に収束させることが目的だったとされていますが、本当のところはわかりません。いずれにせよ、聖武天皇の時代の政策は、内省はもちろん皇統関連でもこの種の混乱が至る所でおきました。例えば疫病後の、天平10(西暦738)年、聖武天皇は、光明皇后(こうみょう・こうごう)との間に生まれた皇女(ひめみこ)で、幼くして亡くなった基皇子(もとい・の・みこ)のお姉さんである阿倍内親王(あべないしんのう)を皇太子としました。

 

今までも女性天皇は登場していますが、みんな男性天皇の皇后だった、あるいは譲位によりいきなり天皇として即位した方ばかりですが、阿倍内親王は即位する前から皇太子とおなりになられた唯一の女性天皇です。何しろ日本の皇統は男系により受け継がれていきます。この原則は絶対に崩せません。となると皇太子となった阿倍内親王は生涯結婚できないわけです。内親王が皇族でない男性と結婚しその子が次の天皇となるといわゆる女系天皇、厳密には非男系天皇となってしまいますから。という事は、安倍内親王の立太子により聖武天皇の子孫が皇統を継げないことが確定したわけです。

 

聖武天皇には光明皇后の子ではないものの、安積親王(あさかしんのう)という正真正銘の聖武天皇の皇子がいらっしゃられたのですが、当時の皇族の中では、光明皇后の政治力が圧倒的に大きかったこともあり、光明皇后が聖武天皇を動かし、安積親王ではなく自分の娘である阿倍内親王の立太子を実現させたのでは、と考えられています。

 

 

 

 

 

もっとも安積親王(あさかしんのう)も天平16(西暦744)年、難波京(なにわのみやこ)への遷都の際に、わずか17歳で薨去(こうきょ)なさられてしまいました。

 

聖武天皇は、幼い頃に父親の文武天皇がお隠れになられ、母親は出産後に鬱(うつ)になってお会いすることもままならなくなっておしまいになり、光明皇后(こうみょう・こうごう)との間に生まれた男の子、基皇子(もといのみこ)と二人目の男の子である安積親王が幼くして薨去(こうきょ)なさられ、阿倍内親王の立太子により自分の血統が皇統を受け継ぐ可能性もなくされておなりになった。しかも、国内で災害や飢饉、疫病が相次ぐことになり、絶望して仏教に傾倒しておしまいになられたのも理解できます。

 

彷徨(ほうこう)五年を終え平城京(なら・の・みやこ)に戻った聖武天皇は、平城京の東に位置する金光明寺(こんこうみょうじ)、後(のち)の東大寺にて大仏建立をご再開なさられました。ますます仏教にのめり込み、政務は光明皇后(こうみょう・こうごう)に丸投げなさられるようになっていきました。自分の不幸な境遇や国内で相次ぐ災厄を、御仏(みほとけ)の力で救ってほしいとご祈願なさられたものと思われます。

 

そして、天平勝宝( てんぴょう・しょうほう)元年(西暦749年)、聖武天皇は皇太子の阿倍内親王にご譲位なさられました。孝謙(こうけん)天皇です。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

平城宮御宇天皇詔挂畏近江大津宮御宇天皇不改常典初賜定賜法随、斯天日嗣高御座業者、御命坐、伊夜嗣奈御命聞看勅御命畏自物受賜坐、食国天下恵賜治賜間、万機密多御身不敢賜有、随法天日嗣高御座業者、朕子王授賜勅天皇御命、親王等・王等・臣等・百官人等、天下公民、衆聞食宣。

 

『奈良の宮で天下を治められた元正天皇が仰せられたことには、「口に言うのも恐れ多い近江の大津の宮で天下をご統治なさられた天智天皇が、改める事があってはならない皇位継承の掟として、初めて定められた法に従い、この天津日嗣(あまつ・ひつぎ)の高御座(たかみくら)は、朕(ちん)の大命であるから、あなたが治めなさい」と仰られなさられた御命(おおみこと)を、恐れ多いものとして受け賜り、天下を恵み、お治めなさられてる間に、万機が数多く重なって、お身体がそれに耐えられることができないので、法に従って天津日嗣の高御座の業(ごう)は、朕の子である王にお授けになると仰せなさられる天皇の御命(みこと)を、親王たち、王たち、臣(おみ)たち、百官の人たち、および、天下の公民は、みな承れと申し述べる。』

 

 

 

 

聖武天皇は、体が天皇の職務に耐えられないことを理由に、阿倍内親王に御譲位なさられる事になりました。実際、聖武天皇はお体が頑健というわけではなられなかったそうでした。というわけで、聖武天皇は太上天皇(だじょう・てんのう)とおなりになられました。自ら譲位し、上皇におなりになられた男性の天皇は聖武天皇が初めてでいらっしゃられます。史上初の男性の上皇になってまで、皇位を自分の子どもにお譲りになられたかった訳です。

 

詔(みことのり)で、散々、自虐的な反省の弁をお述べになられていらっしゃるのに、大仏建立や各地における国分寺の建設、さらには「彷徨五年」など、余計な遷都や大事業をなさられなかった方が、どう考えても人民の負担が軽くなり喜ばれていたと思われます。今でもそうですが、政治や権力はなかなか合理的には機能しないということです。

 

聖武上皇(しょうむ・じょうこう)は体がお衰えなさられていくのを感じつつ、まさに執念で大仏建立の指揮をお執りなさられました。そして、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)4(西暦752)年、天竺から唐を経由して来日した菩提僊那(ぼだい・せんな)により大仏に目を書き込む儀式、開眼法要(かいげんほうよう)が行われました。まだ大仏は完成したわけではありませんでしたが、聖武上皇がご存命のうちに、と開眼法要が急がれたそうです。聖武上皇が執念で完成させた大仏こそが、東大寺盧舎那仏像(とうだいじ・るしゃなぶつぞう)、通称、奈良の大仏です。東大寺は、大仏だけではなく、お寺そのものも、世界最大級の木造建築物で、現在でも、奈良観光の目玉となっています。

 

大仏の開眼法要以降、聖武上皇は、唐から来日した鑑真(がんじん)と会見し、受戒(じゅかい)なさられていらっしゃいます。仏教の戒律をご授かりになられて、教えに対する帰依(きえ)をお深めなさられました。が、同じ頃、長く病を患っておられた母親の藤原宮子(ふじわらの・みやこ)が薨去(こうきょ)なさり、後を追うように、聖武上皇は、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8(西暦756)年、天武天皇の孫にあたる道祖王(ふなどおう)を皇太子とするように御遺言なさられ、お隠れになられました。

 

聖武天皇がご崩御なさられ、光明皇后(こうみょうこうごう)が、聖武天皇の様々な遺品を東大寺に納めなさったのですが、その一部が、現在でも、正倉院(しょうそういん)に現存しています。

 

東大寺大仏殿の後方に位置する正倉院に納められている聖武ゆかりの宝物は9千点以上あり、唐や新羅の品々はもちろんのこと、当時の先進国であったササン朝ペルシャで制作されたガラス製の器、白瑠璃の椀や瑠璃の杯、さらにはスパイス諸島原産の肉桂(シナモン)、胡椒も保管されています。7世紀から8世紀にかけて作られた品々が正倉院には多数現存しているわけで、遣唐使、遣日使(けんにちし)、という文化交流を通じて、当時の日本がシルクロードの国々との交流があったことがわかります。

 

 

 

 

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