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恵美押勝の乱

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フランク王国の法律に『サリカ法』という法律がありました。6世紀、メロヴィング朝(ちょう)の初代の王クローヴィスの晩年に原型が作られ、その後、改定を受けながらカール大帝の時代にも適用されました。フランク王国分裂後、次第に効力を失っていきましたが、その影響は後世に残り、特にフランスの王位継承の根拠となった法律です。

 

14世紀にフランスでカペー朝が断絶した際に、前国王フィリップ4世の娘、イザベラの息子であるイングランド王エドワード3世が女系のフランス国王の継承権を主張し出しました。そのために「百年戦争」(ひゃくねん・せんそう)が勃発しました。戦争でイングランドが優位に立つと、ヘンリー6世が「イングランドとフランスの王を兼ねる」と宣言しましたが、結局、フランスが勝利したため、ヴァロワ朝(ちょう)、ブルボン朝(ちょう)を通じて、『サリカ法』に基づく王位継承が行なわれました。要するに、女王及び女系の男性の王位継承を禁じた訳です。フランス王朝は、日本の皇統と同じ考え方に基づいていました。

 

ちなみに、カトリック教会の影響力が大きかった当時のフランスでは、正妻ではない女性との子供、いわゆる庶子には王位継承権が与えられませんでした。つまり、フランスの方が日本よりも厳しく、男系による王位継承を義務付けていました。シャルル九世の庶子はれっきとした国王の血筋であるにも関わらず、王位継承を認められませんでしたから。

 

だから、シャルル九世の弟であるアンリ三世が亡くなった時点で、ヴァロワ朝は断絶という事になりました。それで、血統を300年以上もさかのぼり、聖王と呼ばれたルイ九世から男系で血筋を受け継いできたブルボン朝のアンリ四世がフランス国王として即位することになりました。

 

日本の皇統もフランス王朝も何故そこまで男系にこだわるのか、といえば、当チャンネルの別の動画でも説明していますが、女性が権力を握ると、どうしても野心を持つ男性が近づいてくるため政治が混乱してしまうからです。つまりは最高権力者である女性と関係を結んだ男性が引き立てられて、やがては皇統や王朝が危機に至るわけです。

 

男性の天皇や国王であれば、結婚した女性が権力を奪いにくることはまずない。それに対して男性は違う。歴史を見れば明らかですが、悪いことを企てるのは常に男性ですから。

 

 

 

話は変わりますが、聖武天皇がお隠れあらせられ、光明皇太后(こうみょう・こうたいごう)と申し上げなさられましたが、光明皇太后こと、光明子(こうみょうし)は父親が藤原不比等(ふじわらの・ふひと)、母親が橘三千代(たちばなの・みちよ)で、聖武天皇の御代(みよ)に、史上2人目となる皇族以外の皇后となった女性です。生涯が不幸に満ちていた聖武天皇は、大仏建立に執念を燃やし、逆に通常の政務は光明皇后(こうみょう・こうごう)がお担いなさられるようになっていきました。

 

その光明皇后に接近した男性が次第に権力を握るようになっていきました。名前を藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)と言います。藤原四兄弟の長男、藤原武智麻呂(ふじわらの・むちまろ)の次男です。『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。

 

近江朝内大臣藤原朝臣鎌足曾孫。平城朝贈太政大臣武智麻呂之第二子也。率性聡敏。略渉書記。従大納言阿倍少麻呂。学算、尤精其術。

 

近江朝(おうみちょう)の内大臣(ないだいじん)、藤原朝臣鎌足(ふじわらの・あそん・かまたり)の曾孫(ひまご)で、平城朝(へいじょう・ちょう)の贈太政大臣(ぞう・だじょう・だいじん)藤原武智麻呂(ふじわらの・むちまろ)の第2子である。彼の性格は聡く、理解が早くて大抵の書物は読んでいた。大納言の阿倍少麻呂(あべの・すくなまろ)について算術を学び、その術に取り分け精通していた。

 

典型的な秀才タイプなのでしょう。藤原四兄弟が疫病で相次いで亡くなり、その後の聖武天皇の政権において、太政官のトップは橘諸兄になりました。橘諸兄(たちばなの・もろえ)政権下で順調に出世を重ねた仲麻呂は光明皇太后と組みました。お二方が、いわゆる男女の関係にあったのかはわかりません。藤原仲麻呂の父親である武智麻呂(むちまろ)と光明皇太后は異母兄妹であり、光明皇太后は仲麻呂の叔母にあたるわけです。とは言うものの、藤原仲麻呂は慶雲3(西暦706)年生まれで、光明皇后は大宝(たいほう)元(西暦701)年生まれ。甥と叔母とはいっても年齢差は僅かに5歳でした。そういう関係にあったとしても、別に不思議ではない年の差です。

 

天平勝宝(てんぴょうしょうほう)元(西暦749)年、病気がちの聖武天皇が譲位あらせられ、阿倍内親王が孝謙(こうけん)天皇として即位あそばされます。その際に藤原仲麻呂は中納言を飛び越して、一気に大納言に任じられました。さらに、朝廷の押さえとなり新帝を後見する立場にあった光明皇太后の肝いりで皇室の家政や財産を管理する紫微中台(しびちゅうだい)が設置され、仲麻呂がトップの紫微令(しびれい)に任命されていますので男女の関係を疑われても仕方がないと思われます。

 

 

 

つまり、橘諸兄(たちばなの・もろえ)政権とは別に「光明皇后と藤原仲麻呂」の政治権力が生まれてしまったという事です。仲麻呂は紫微令(しびれい)と太政官の大納言を兼務していました。もちろん官僚の行政を監督する太政官には、橘諸兄など、藤原仲麻呂よりも位(くらい)が上の大臣たちがいました。とはいえ紫微令と大納言を兼ねることで、仲麻呂は光明皇后の意向に基づき官僚機構を動かすことが可能になったわけです。要するに、藤原仲麻呂と光明皇太后との癒着が組織的に制度化されたということです。しかも藤原仲麻呂は紫微令就任と同時に軍事面のトップでもある中衛大将(ちゅうえの・だいしょう)を兼任することになりました。あたかも、第2の政府のようです。

 

橘諸兄は後ろ盾だった元正上皇が天平20(西暦748)年に崩御あそばされ、政治力が低下してしまいました。さらに天平勝宝(てんぴょうしょうほう)7歳(西暦755年)には橘諸兄が酒の席で聖武上皇に対して無礼な発言をしたという密告があり、聖武上皇はお責められなさらなかったのですが、その責任をとって橘諸兄は辞任しました。翌年、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)8歳(西暦756年)に聖武上皇が崩御あらせられ、後を追うように失意の橘諸兄も翌年に死去しました。最高権力者となった光明皇太后とその代弁者である藤原仲麻呂にとっては目の上のたんこぶが消えた形となりました。

 

光明皇太后の威光を全身にまとった藤原仲麻呂は、次々に政敵を追い落として行きました。橘諸兄の腹心だった吉備真備(きびの・まきび)は、天平勝宝4(西暦752)年に2度目の遣唐使として支那へ追い出し、さらには天平勝宝9歳(西暦757年)1月に橘諸兄が死去すると、聖武上皇が詔(みことのり)あそばされ、皇太子に立てられた道祖王(ふなどの・おおきみ)の廃太子を強行しました。

 

ちなみに、天平勝宝7年1月4日、勅命により「年」(ねん)が「歳」(さい)に改めあそばされました。このため、以後は、天平勝宝七歳・天平勝宝八歳・天平勝宝九歳と表記されましたが、天平宝字(てんぴょう・ほうじ)へ改元した際に「歳」を「年」へ復されなさられています。

 

聖武上皇が指名あそばされた道祖王が皇太子の座を奪われたのはなぜなのでしょうか?

 

『続日本紀』には、このように記されています。

 

 

 

 

天平宝字元年三月丁丑。皇太子道祖王。身居諒闇。志在淫縦。雖加教勅。曾無改悔。於是。勅召群臣。以示先帝遺詔。因問廃不之事。右大臣已下同奏云。不敢乖違顧命之旨。是日。廃皇太子、以王帰第。

 

天平勝宝9歳3月29日。皇太子の道祖王(ふなど・おう)は、服喪中にもかかわらず、淫欲をほしいままにする心があり、教えいましめる詔(みことのり)があっても改めることができなかった。そこで詔により群臣を召し集め、道祖王を皇太子とするとされた先帝の詔を示し、皇太子を廃することがどうであろうかとお尋ねになられた。右大臣以下みな一致して「敢えてご質問の趣旨に反対いたしません」と奏した。この日、道祖王の皇太子の地位を廃し、もとの王に戻し、ご帰宅させなされた。

 

恐らく、理由は何でも良かったのではないでしょうか。要するに、藤原仲麻呂が道祖王ではなく別の人物を皇太子に据えたかったという事だと思われます。当時、舎人親王(とねりしんのう)の第七子、大炊王(おおいおう)が藤原仲麻呂の長男の未亡人、粟田 諸姉(あわた の もろね)を妻とし、藤原仲麻呂邸でお暮らしなさられていました。というわけで大炊王は仲麻呂の息子のような扱いを受けなさられておりました。そのために、「大炊王を孝謙天皇の皇太子としたかったからこそ道祖王を廃太子に追い込んだ」という風に言われるようになりました。

 

次の皇太子について、「続日本紀」(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

天平宝字元年四月辛巳。天皇召群臣問曰。当立誰王以為皇嗣。右大臣藤原朝臣豊成。中務卿藤原朝臣永手等言曰。道祖王兄塩焼王可立也。摂津大夫文室真人珍努。左大弁大伴宿禰古麻呂等言曰。池田王可立也。大納言藤原朝臣仲麻呂言曰。知臣者、莫若君。知子者、莫若父。唯奉天意所択者耳。

 

天平宝字(てんりょう・ほうじ)元年4月4日。天皇は群臣をお召しになられて「どの王を立てて、皇嗣(こうし)とすべきであろうか。」と問いあそばされた。右大臣・藤原朝臣豊成(ふじわらの・あそん・とよなり)、中務卿藤原朝臣永手(なかつかさきょう・ふじわらの・あそん・ながて)らは「道祖王の兄の塩焼王(しおやきおう)を立てると良いでしょう。」と述べ、摂津大夫(せっつの・たいふ)文室真人珍努(ぶんやの・まひと・ちぬ)、左大弁(さ・だいべん)大伴宿禰古麻呂(おおともの・すくね・こまろ)らは、「池田王(いけだおう)が良いでしょう。」と述べた。大納言(だい・なごん)藤原朝臣仲麻呂(ふじわらの・あそん・なかまろ)は、『「臣下の事を最も良く知っているのは君主であり、子どもの事を最もよく知っているのは父親である」と言います。私は天皇の選ばれる人に従うのみであります。』と答えた。

藤原仲麻呂は自分と関係が深い大炊王を皇太子に推薦することで、群臣たちから反発を受けることを避けた訳です。

 

 

 

 

勅曰。宗室中。舍人。新田部両親王。是尤長也。因茲。前者、立道祖王。而不順勅教。遂縦淫志。然則、可択舍人親王子中。然船王者閨房不修。池田王者、孝行有闕。塩焼王者、太上天皇、責以無礼。唯大炊王。雖未長壮、不聞過悪。欲立此王。於諸卿意如何。於是。右大臣已下奏曰。唯勅命是聴。先是。大納言仲麻呂招大炊王。居於田村第。是日。遣内舍人藤原朝臣薩雄。中衛廿人。迎大炊王。立為皇太子。

 

天皇は次のように詔あそばされた。

皇室の中では、舎人(とねり)、新田部両親王(にいたべの・りょうしんのう)は諸王の中でも最も年長であり、そこで先に新田部親王(にいたべの・しんのう)の子、道祖王(ふなど・おう)を太子に立てたが、天皇の教えにも従わず、ついにみだらな心を欲しいままにした。この上は、舎人親王の子の中から選ぶべきであろう。けれども、舎人親王の船王(ふねおう)は閨房(ねや)のことが乱れており、池田王は孝行に関して欠けるところがある。塩焼王(しおやきおう)については、太上天皇がその無礼のことを責められたことがある。ひとり、大炊王(おおいおう)はまだ壮年に達していないが、過誤悪行のあることを聞かない。この王を太子に立てようと思う。諸卿(しょきょう)の意見はどうだろうか?

そこで、右大臣以下の人々は「ただ勅命にのみ従います」と申し上げた。これより先、大納言・藤原仲麻呂は、大炊王を招いて私宅の田村第(たむらてい)に居住させていた。この日、内舎人(うどねり)の藤原朝臣薩雄(ふじわらの・あそん・ひろお)と中衛(ちゅうえい)二十人を遣わし、田村第から大炊王を迎え、皇太子にお立てなさられた。

群臣たちは、それぞれが自分が推す皇族の名前を挙げたにも関わらず、孝謙(こうけん)天皇は誰からも推薦がなかった大炊王を皇太子とすることを決定しました。これを藤原仲麻呂と孝謙天皇による出来レースと呼ぶ人もいますが、実際には、光明皇太后の意向なのでしょう。後に、大炊王が淳仁天皇として即位する際に、藤原仲麻呂が皇太后について、次のように語っています。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。

 

皇太后叡徳上昇。善穆儷天之位。深仁下済。爰昭法地之猷。日月於是貞明。乾坤以之交泰。遂乃欽承顧命。議定皇儲。

 

また光明皇太后は、そのすぐれた徳が上に昇って、天と並び、皇后の徳の位(くらい)をお篤(あつ)くなさられました。深い仁愛を下(もと)に施されなされて、地に則(のっと)る道を明らかにされました。日月の運行は常に正しく、天地は互いに通じ合って安泰であります。遂には謹んで聖武太上天皇の遺詔(ゆいしょう)を承り、皇位の継承者を議(はか)り定められました』

 

 

 

 

 

聖武天皇は、道祖王(ふなどおう)を皇太子にするように遺詔(ゆいしょう)あそばされていたので、それに従うならば、皇位の継承者を議(はか)り定めらる必要はありませんでした。この藤原仲麻呂の言葉により、大炊王(おおいおう)を皇太子として決定したのは光明皇太后だった事を示唆しているとの解釈が成立します。

 

当たり前ですが、道祖王が廃されると、皇太子をすげ替えるほどの権力を持つ藤原仲麻呂に多くの群臣が反発しました。代表が橘諸兄(たちばなの・もろえ)の息子である橘奈良麻呂(たちばな の ならまろ)でした。橘奈良麻呂は藤原仲麻呂の専制政治に不満を持った皇族、群臣たちと組み、仲麻呂を打倒するべく政変を起こそうと画策しました。

 

ところが皇族の一人、山背王(やましろおう)が孝謙天皇に、橘奈良麻呂が兵を集めて藤原仲麻呂の館を包囲しようと計画しているということを密告しました。橘奈良麻呂や道祖王らは捕らえられ、杖で全身を打つ拷問が行われました。政変の首謀者たちの多くは獄中死することになりました。杖叩きの拷問により獄中死した皇族は、道祖王、黄文王(きぶみおう)の二柱(ふたはしら)。安宿王(あすかべおう)が妻子ともども佐渡島(さどがしま)に流罪。日本らしくない残酷な処罰でした。

 

更に藤原仲麻呂は自分と血がつながった兄である右大臣、藤原豊成(ふじわら の とよなり)を事件に関係したとして太宰府に左遷しました。橘奈良麻呂の乱を経て、ついに平城京には藤原仲麻呂に逆らい得る人は1人もいなくなってしまいました。

 

徹底的に政敵を追い詰め滅ぼし、自らの権力を高める藤原仲麻呂は、唐(とう)帝国にかなり傾注していました。何しろ大炊王が天皇として即位した際には、太政大臣、右大臣といった官職の呼称を唐式(とうしき)に変えてしまったくらいですから。日本人っぽくない処罰も大陸の影響なのでしょう。

 

橘奈良麻呂の乱の翌年、天平宝字(てんぴょうほうじ)2(西暦758)年、孝謙天皇が譲位あそばされ、大炊王(おおいおう)が淳仁(じゅんにん)天皇として即位あそばされました。

 

淳仁天皇即位を受け、藤原仲麻呂は官職を中国式に改めました。太政大臣(だじょうだいじん)は大師(たいし)、左大臣(さだいじん)は大傅(たいふ)、右大臣(うだいじん)は大保(たいほ)といった具合でした。

 

 

 

官職の名称変更を受け、譲位あそばされた孝謙(こうけん)上皇は以下のように詔あそばされました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)によると、

 

内相於国。功勲已高。然猶報効未行。名字未加。宜下参議・八省卿・博士等。准古正議奏聞。不得空言所。無濫汗聴覧。

 

紫微内相(藤原仲麻呂)は、国家に対して勲功が立派であった。けれどもそれに報いる処置が行われていないし、勲功に見合う銘号もまだ加えられていない。そこで参議・八省の卿・博士らに命じて、古例に準じて正しく論議し、功績にふさわしい名号を奏上するようにせよ。命じたことを虚しくすることのないように、また誤った奏上をして、叡慮を乱すことのないようにせよ。

 

天平宝字二年八月甲子。以紫微内相藤原朝臣仲麻呂任大保。勅曰。褒善懲悪。聖主格言。賞績酬労。明主彜則。其藤原朝臣仲麻呂者、晨昏不怠。恪勤守職。事君忠赤。施務無私。愚拙則降其親。賢良則挙其怨。殄逆徒於未戦。黎元獲安。固危基於未然。聖暦終長。国家無乱。略由若人。平章其労。良可嘉賞。其伊尹有〓之勝臣。一佐成湯。遂荷阿衡之号。呂尚渭浜之遺老。且弼文王。終得営丘之封。況自乃祖近江大津宮内大臣已来。世有明徳。翼輔皇室。君歴十帝。年殆一百。朝廷無事。海内清平者哉。因此論之。准古無匹。汎恵之美。莫美於斯。自今以後。宜姓中加恵美二字。禁暴勝強。止戈静乱。故名曰押勝。朕舅之中。汝卿良尚。汝卿良尚。故字称尚舅。更給功封三千戸。功田一百町。永為伝世之賜。以表不常之勲。別聴鋳銭・挙稲及用恵美家印

 

天平宝字(てんぴょう・ほうじ)2年8月25日。紫微内相(しびないそう)藤原朝臣仲麻呂(ふじわらの・あそん・なかまろ)を大保(たいほ)に任命した。天皇は次のように詔あらせられた。

善を誉め悪を懲らすというのは、聖人たる君主の格言であり、功績を賞め労に報いるのは賢明な君主の常則である。ところで大保の藤原仲麻呂は、朝夕怠ることなく、精勤に職責を守り、君主に仕えるのに真心をもってし、務めを果たすのに私心がない。部下が愚拙であれば、一族の者でもその任を外し、賢良であれば怨敵でも推挙する。反逆の徒を戦う前に鎮圧したので、人民も安泰を得、国家の基(もと)を危うくすることを未然に防いだので、皇室の統治は永く続くこととなった。国家が大乱に陥ることがなかったのは、まず、このような人がいたためである。その功労を評価してみると、本当に賞賛すべきである。

そも伊尹(いいん)は湯王(とうおう)の妃(きさき)の有莘(ゆうしん)の側近であったけれども、ひとたび湯王(とうおう)に仕えて補佐をすると、ついに阿衡(宰相)の号を帯びるようになった。呂尚(ろしょう)こと、太公望(たいこうぼう)は渭水(いすい)のほとりに住む老人であったけれども、しばらく、周(しゅう)の文王(ぶんおう)を補佐し、ついに斉(せい)の営丘(えいきゅう)に封土(ほうど)を与えられた。況(いわ)んや、藤原氏は祖先の近江大津宮(おうみ・おおつのみや)の内大臣、鎌足(かまたり)より以来、代々明徳をもって、皇室を助け、天皇は十帝(じゅってい)をもって、年数はほぼ百年に及び、この間、朝廷に大事なく海内(かいだい)は平穏であった。このことからすれば、過去においても仲麻呂に匹敵する者はなく、ひとく恵みを施す美徳もこれに過ぎるものはない。今より後、藤原の姓に恵美(えみ)の二字を加えよ。また暴虐の徒を鎮圧し、強敵に勝ち、兵乱を押し静めた故に、名付けて押勝(おしかつ)と言おう。朕の重臣のうちでも、卿(きょう)はまことに尚(とうと)い。それで字(あざな)を尚舅(しょうきゅう)と呼ぼう。更に功封(こうふ)三千戸(さんぜんこ)・功田(こうでん)百町(ひゃくちょう)を給付し、永く代々に伝える賜物とし、特別の勲功である事を表す。また別に銭を鋳造する事・春夏に稲を貸し付け、秋にそれを五割の利子とともに回収する事を許し、恵美家(えみけ)の印(いん)を用いる事を許す。

 

 

 

 

というわけで、藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)は藤原恵美押勝(ふじわらの・えみの・おしかつ)と名前を変えました。しかも、尚舅(しょうきゅう)という、天皇が親しみをこめてお呼びなさられました。

 

天平宝寺(てんぴょうほうじ)4(西暦760)年、藤原恵美押勝は、皇族以外では初めて大師(たいし)、つまりは大政大臣(だじょうだいじん)に任じられ、「位(くらい)人臣を極める」という事になりました。

 

大政大臣という官僚機構の最高責任者であり、紫微令(しびれい)として皇族の意志の伝達も司り、更には中衛大将(ちゅうえのだいしょう)として軍事の最高責任者も兼任するという、人臣(じんしん)としては史上に例がない地位にのし上がりました。加えて、藤原恵美押勝は、天皇に並ぶ鋳銭の特権、つまり、通貨発行権までをも与えられました。

 

通貨発行権までを与えられたという事は、今で言うと、第2の政府です。藤原恵美押勝の一族は準皇族みたいな扱いになってしまったという事でした。ただ、淳仁(じゅんにん)天皇が「恵美」という姓や各種の特権を与えたのは藤原一族ではなく、あくまで、藤原仲麻呂(ふじわらの・なかまろ)とその子孫のみという事でした。つまり、藤原仲麻呂の兄弟はもちろんの事、他の藤原四家の子孫たちも対象外でしたので、藤原恵美押勝以外の藤原氏が反発することになりました。

 

自分の養子のような大炊王を天皇として即位させたとはいえ、結局のところ、藤原恵美押勝の権力は光明(こうみょう)皇太后という1人の女性に依存していた状況に変わりはありませんでした。

 

天平宝字4(西暦760)年、藤原恵美押勝は人臣としては初の太師(たいし)、つまりは太政大臣に任ぜられました。これまでの太政大臣は高市皇子ら皇族か、もしくは藤原不比等のように、死後に太政大臣の位(くらい)が送られたことはありましたが、皇族ではない人物が存命のうちに太政大臣に就任したのは藤原恵美押勝が初めてでした。まさにその瞬間が藤原恵美押勝の絶頂となりました。

 

藤原恵美押勝の凋落の原因は主に3つでした。1つ目は「恵美」という姓を、自分の血族だけに与え、藤原一族の中で特別な一族になったことにより、逆に他の藤原氏から反発を買う結果になってしまったこと。

 

 

 

 

2つ目は、通貨発行権を与えられた藤原恵美押勝は、金銭(きんせん)を孝謙太政天皇(こうけん・だじょう・てんのう)に、銀銭(ぎんせん)を淳仁(じゅんにん)天皇に、銅銭(どうせん)を光明皇太后(こうみょう・こうたいごう)に擬(ぎ)し、前例のない金銀銅という三種の貨幣を発行しました。

 

貨幣経済というものがわからなったのだから仕方がないと思いますが、奈良時代は供給能力が不十分だったにもかかわらず、調子に乗って貨幣を発行し支出してしまったために、総需要が供給能力を上回りインフレで庶民が苦しむ事になりました。需要よりも供給能力が余りまくっているデフレで苦しむ平成以降の日本とは反対です。

 

そこに、3つ目。よりにもよって、その時、光明皇太后が薨去あそばされ、しかも、その年は3月以降、全国各地でまたもや疫病が大流行することになりました。

 

さらに、光明皇太后が崩御あそばされて以降、娘である孝謙上皇がまるで憑き物が落ちたように政治力を発揮するようになりました。偉大なる母親の影に怯え、天皇、上皇という地位にありながら持ち前の手腕を振るうことができなかったという事でした。

 

そもそも、淳仁(じゅんにん)天皇はまさに藤原恵美押勝の傀儡天皇だったわけですが、藤原恵美押勝の権力の源は太政大臣(だじょうだいじん)として行政を抑え、中衛大将(ちゅうえ・の・だいしょう)として軍事力を握り、そして紫微令(しびれい)として皇室の日常生活の世話を握っていたことです。藤原恵美押勝が皇室の中でそこまで好き勝手できたのは、皇族の最高権威者である光明皇太后との関係が深かったためでした。その権力の支柱の1本が、光明皇太后の薨去(こうきょ)によって、へし折れてしまいました。

 

天平宝字(てんぴょうほうじ)5(西暦761)年、孝謙上皇と淳仁天皇は近江の保良宮に行幸あそばされました。実は淳仁天皇は近江国(おうみのくに)、今の大津市近辺に、保良宮(ほらのみや)という新都を御建設させなさられていました。もちろん藤原恵美押勝が近江の国守(くにもり)を兼任していたためでもありました。新都がほぼ完成したという知らせをお聞きなさられて、上皇と天皇が揃って行幸し給(たま)われたわけですが、この保良宮で、二柱(ふたはしら)の間に決定的な対立がご生じなさられてしまいました。

 

 

 

 

保良宮(ほらのみや)で孝謙上皇は病におなりになられました。お苦しみなさられる上皇を看病した1人の僧、道鏡(どうきょう)を孝謙上皇はご寵愛なさられるようになりましたが、淳仁天皇が上皇の道鏡へのご寵愛に異を唱えあそばされ、二柱(ふたはした)の仲は決定的に裂かれておしまいになられました。

 

保良宮から帰った上皇は、平城京の中宮(ちゅうぐう)には戻らず、法華寺(ほっけじ)にお住まいになさられました。そして天平宝字6(西暦762)年6月3日、なんと孝謙上皇は淳仁天皇を糾弾する詔をお発しなさられました。

 

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

 

加久為〈弖〉今帝〈止〉立〈弖〉須麻〈比〉久〈流〉間P4066〈爾〉、宇夜宇也〈自久〉相従事〈波〉無〈之弖〉、斗卑等〈乃〉仇〈能〉在言〈期等久〉、不言〈岐〉辞〈母〉言〈奴〉。不為〈岐〉行〈母〉為〈奴〉。凡加久伊波〈流倍枳〉朕〈爾波〉不在。

 

朕は淳仁(じゅんにん)を今の帝(みかど)として立てて、年月(としつき)を過ごしてきたところ、淳仁は朕(ちん)に恭しく従うことなく、外人(そとびと)の仇が言うような、言うべからざることも言い、為すまじきこともしてきた。およそこのようなことを言われるべき朕(ちん)ではない。

 

是以、出家〈弖〉仏弟子〈止〉成〈奴〉。但政事〈波〉、常祀〈利〉小事〈波〉今帝行給〈部〉。国家大事賞罰二柄〈波〉朕行〈牟〉。

 

そこで、朕は出家して仏弟子となった。ただし政事(まつりごと)のうち恒例の祭祀(さいし)など小さなことは今の帝が行われるように。国家の大事と賞罰の二つの大本(おおもと)は朕が行うこととする。

 

つまりは、孝謙上皇の親政(しんせい)宣言ということなのでしょうか。今後の政治は自らが執るというわけです。聖武天皇以降の平城京では、御仏(みほとけ)の政治的権力が高まっていたこともあり、孝謙上皇もそれにお従いなさられました。

 

 

 

まずは、天平宝字8(西暦764)年、孝謙上皇は太宰府から吉備真備(きびの・まきび)をお呼び戻しなさられました。阿倍仲麻呂(あべの・なかまろ)とともに遣唐使に赴き、無事に戻って橘諸兄(たちばなの・もろえ)の腹心となり、またもや遣唐使として唐に送られ、ようやく帰国したと思ったら太宰府に左遷された、という波乱万丈の人生を送って来たので、当時は70歳になっていました。とはいえ、当時の行政の中枢は藤原恵美押勝の一派で占められていました。皇太子時代に自分に対する指導、教育を担当した吉備真備は、孝謙上皇にとって信頼できる数少ない廷臣の一人だったということです。

 

また、出家した孝謙上皇は、仏教界から全面的な支持を得ることに御成功なさられたばかりではなく、圧倒的に支持してくれる勢力がありました。

 

恵美の姓を与えられなかった藤原氏の勢力です。同じ藤原家とはいえ、自分たちを排除しようとする恵美押勝は、藤原氏一族にとっても仇敵と化していたということです。

 

そこで、反押勝(はん・おしかつ)である孝謙上皇の勢力は急速に力をつけていきました。それでも藤原恵美押勝の権力には到底及ばなかったこともあり、藤原恵美押勝は孝謙上皇の勢力が膨れ上がらないうちに最終的な解決をしてしまうことを決断しました。

 

藤原恵美押勝は自らの軍事権力を強化し、畿内諸国及び鈴鹿関(すずかのせき)、不破関(ふわのせき)、そして愛発関(あらちのせき)という三つの関所を監督する任に就き、その上で軍を集めて孝謙上皇の勢力を打倒することを計画しました。

 

藤原恵美押勝は国ごとに5日間で20名の兵を集めると称し、独断で自分のもとに大軍を招集させようとしました。それを藤原恵美押勝の部下の1人、高丘比良麻呂(たかおか の ひらまろ)が孝謙上皇に密告しました。さらに藤原恵美押勝の信頼が厚かった陰陽師(おんみょうじ)の大津大浦(おおつ の おおうら)も、藤原恵美押勝が良からぬことを考えていると上皇に報告しました。

 

孝謙上皇は、すぐさま淳仁天皇の住まいに一軍を差し向けなさられまして、朝廷が命令を発する際に必要な御璽(ぎょじ)と駅鈴(えきれい)の二つを奪取なさられました。これを知った藤原恵美押勝は息子の一人である藤原久須麻呂(ふじわら・の・くずまろ)を派遣し、御璽と駅鈴を奪い返しました。

 

 

 

 

 

藤原久須麻呂(ふじわら・の・くずまろ)は、首尾よく任務をやり遂げましたが、孝謙上皇がさらに送り込んできた軍と交戦し射殺されてしまいました。

 

孝謙上皇は御璽と駅鈴を手中にお取り戻しなさられたことを受け、藤原恵美押勝の官職を解き、彼の位階や藤原姓の剥奪を宣言あらせられた。つまりは、藤原恵美押勝はこれ以降、恵美押勝(えみの・おしかつ)となりました。初戦で敗れた恵美押勝は、皇族の一人、塩焼王(しおやきおう)を伴い近江国(おうみのくに)に逃れました。自らの本拠地に戻って、反撃しようとしたのですが、孝謙上皇は恵美押勝追討をお呼びかけなさられ、吉備真備(きびの・まきび)を中衛大将に任命あらせられました。更には冷遇されていた恵美(えみ)以外の藤原氏をご優遇なさられ、藤原恵美押勝に左遷されていた実の兄の藤原豊成(ふじわら の とよなり)も復権させ、右大臣に任命あらせられました。

 

中衛大将、吉備真備の命を受け、恵美押勝追討軍が派遣されました。追討軍は琵琶湖に先回りし、瀬田の唐橋(せたのからはし)を焼き、恵美押勝軍の行く手を阻みました。東に抜けられなかった恵美押勝軍は、琵琶湖の西を北上し越前に向かおうとしました。ところが、やはり先回りした追討軍が恵美押勝の息子で越前国守であった藤原辛加知(ふじわら の からかち)を討ち、畿内から越前に抜ける愛発関(あらちのせき)を封鎖しました。

 

逃げ込む先を失ってしまった恵美押勝軍は船で塩津(しおつ)、現在の滋賀県長浜市に向かいましたが、逆風に阻まれて失敗。仕方なく南下し、琵琶湖の西、三尾(みお)で朝廷軍と激闘になりました。そこに討賊将軍(とうぞく・しょうぐん)に任じられた藤原蔵下麻呂(ふじわら の くらじまろ)の軍が到着。水陸から激しく責め立てられた恵美押勝軍はついに敗北。恵美押勝は琵琶湖に船を出して逃れようとしたものの捕捉されて家族共々斬られ、命を落とすことになりました。

 

恵美押勝が権力の絶頂から転がり落ち、反逆者として斬られるまで、わずかに7日。まさに歴史的な転落劇となりました。

 

光明皇太后という女性権力者が恵美押勝を引き上げ、最終的には破滅させることになったわけでした。ところが、恵美押勝がいなくなった後、日本はまたもや女性権力者と結びついた1人の男性によって、政治的な混乱が続くことになってしまいました。

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