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千年の都 

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別の動画で解説していますが、井上皇后(いのえ・こうごう)を廃した光仁(こうにん)天皇には、実は高野 新笠(たかの の にいがさ)という女性との間に、山部王(やまべ の おおきみ)という皇子がいました。廃された他戸親王(おさべ・しんのう)よりも年齢が上でした。にもかかわらず、皇太子となったのは他戸親王でした。なぜかというと、母親の身分に差があり過ぎたためです。他戸親王の母親は聖武天皇の血を引く井上皇后。それに対し山部王は百済(くだら)の夫餘氏(ふよし)の子孫で、元の名前が、和新笠(やまと・の・にいがさ)。光仁天皇即位後に、高野、という姓を賜(たまわ)りました。母親の身分が低いと、大友皇子(おおともの・おうじ)のように、天皇として即位することが難しかったということです。

そもそも、光仁天皇こと、白壁王(しらかべ・の・おおきみ)自身が天武系ではなく天智系の傍流皇族でした。その白壁王と身分が低い女性との間に生まれた子である山部王には、皇族としての役割は全く期待されていませんでした。というわけで、山部王は官僚として、前半生を送りました。

ちなみに、江戸時代に、閑院宮家(かんいん の みやけ)の第6皇子(おうじ)である師仁(もろひと)親王が光格(こうかく)天皇として即位し、現在の皇室へと連なっています。なので、現在の皇室は、光格系となります。どういった系統であろうが、天皇として即位した柱(はしら)は、神武天皇の血筋を受け継いでいます。

山部王(やまべ の おおきみ)は、一応、優秀な官僚として評価されていたようで、天平宝字(てんぴょうほうじ)8(西暦764)年山部王は15位の位階を得たのですが、その直後に恵美押勝の乱が勃発しました。恵美押勝の乱に勝利した孝謙上皇が論功行賞(ろんこう-こうしょう)を行った際に、筆頭として山部王の名前が挙げられています。

恵美押勝の乱以降、山部王は出世の階段を駆け上がり、称徳天皇が亡くなった時点では左大臣の藤原永手(ふじわら の ながて)、右大臣の吉備真備(きび の まきび)に次ぐ第3位の高官となっていました。なので、他戸親王が廃太子とされた後、新たに皇太子とされたのも当然のことでした。

『続日本紀』には、このように記されています。

随法〈爾〉可有〈伎〉政〈止志弖〉山部親王立而皇太子〈止〉定賜〈布〉。故此之状悟〈天〉百官人等仕奉〈礼止〉詔天皇勅命〈乎〉衆聞食宣。

法に従って行われるべき政務として、山部親王を立てて皇太子として定めた。故にこの事情を理解して、百官の人達は皇太子に仕えるように、と仰せになる天皇のお言葉を、皆承れと申し述べる。

山部王(やまべ の おおきみ)の立太子は王と昵懇(じっこん)の仲だった藤原百川(ふじわら の ももかわ)が主導したと考えられています。つまり、藤原百川は親友の山部王を皇太子、天皇にするために井上(いのえ)皇后と他戸親王(おさべ・しんのう)を陥れたということでしょう。ちなみに山部王は即位後も百川への感謝の念を忘れず、藤原一族を優遇し続けました。

元々が高齢で即位した光仁(こうにん)天皇は70歳を過ぎても政務を取り続けましたが、山部王(やまべ の おおきみ)と母親を同じくする姉にあたる第一皇女の能登内親王(のとの・ひめみこ)が薨去(こうきょ)してしまい、それ以降、心身ともに俄(にわ)かに衰えてしまい、皇太子に譲位することになりました。

いち行政官僚として、一生を終えるはずだった山部王(やまべ の おおきみ)が、天皇として即位することになったわけです。この山部王こそが、平安京に遷都し、千年の都の礎(いしずえ)を築いた偉大な天皇となります。桓武(かんむ)天皇として即位した時点で44歳。行政官僚としての実績も豊富な壮年の人物が皇位を継ぐことになりました。

天応(てんのう)元(西暦781)年4月3日、光仁天皇から皇位を譲られた桓武天皇は、翌日、同母弟で13歳年下の早良親王(さわらしんのう)を皇太子に指名し、平城宮(へいじょうきゅう)の大極殿(だいごくでん)で即位の式を挙げました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。

天応元年(七八一)四月辛卯。是日。皇太子受禅即位。

天応元年4月3日。この日、皇太子は光仁天皇から位(くらい)を譲られて皇位に就いた。

天応元年(七八一)四月壬辰。立皇弟早良親王為皇太子。

天応元年4月4日。皇弟(こうてい)の早良親王を立てて皇太子とした。

当時の桓武天皇には親王がいなかったわけではありませんでしたが、桓武天皇の長子である安殿(あて)親王はわずか8歳だったので、おそらく、父親である光仁上皇の意向が働いて、実子ではなく弟を皇太弟としたものと思われます。

さすがに8歳では皇太子にするわけにはいきませんから。ところが、いつものように、即位に際して母親の出自が問題にされることとなりました。桓武天皇が即位すると、同じ年の12月23日に光仁上皇が崩御しましたが、その直後の天応(てんのう)2(西暦782)年、閏(うるう)正月10日、天武朝の血を引く「氷上川継の乱」(ひがみの・かわつぐの・らん)が勃発することとなりました。

氷上川継(ひがみの・かわつぐ)は、天武天皇の皇子(おうじ)である新田部皇子(にいたべのみこ)の孫であり、父親は恵美押勝の乱で処刑された塩焼王(しおやきおう)であり、母親は聖武天皇の皇女(ひめみこ)である不破内親王(ふわ・ないしんのう)という由緒正しい血統です。桓武天皇よりも皇族としての血が濃いわけです。

それゆえ、氷上川継は味方を集め平城宮の北門より侵入して、朝廷を転覆させる謀反を計画しました。ところが、氷上川継の企(たくら)みは事(こと)がなる前に発覚してしまいました。氷上川継は逃亡を図るものの捕らえられ、流罪となってしまいました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)にはこのように記されています。

《延暦元年(七八二)閏正月丁酉【十四】》○丁酉。獲氷上川継於大和国葛上郡。詔曰。氷上川継潜謀逆乱。事既発覚。拠法処断。罪合極刑。其母不破内親王反逆近親。亦合重罪。但以諒闇之始P4388山陵未乾。哀〓之情未忍論刑。其川継者。宜免其死処之遠流。不破内親王并川継姉妹者。移配淡路国。川継塩焼王之子也。初川継資人大和乙人私帯兵仗闌入宮中。所司獲而推問。乙人款云。川継陰謀。今月十日夜。聚衆入自北門。将傾朝廷。仍遣乙人召将其党宇治王以赴期日。於是。勅遣使追召川継。川継聞勅使到。潜出後門而逃走。至是捉獲。詔減死一等。配伊豆国三嶋。其妻藤原法壱亦相随焉。

延暦(えんりゃく)元年、うるう正月14日、氷上川継を大和国(やまとの・くに)の葛上郡(かずらぎのかみ・の・こおり)で捕らえた。天皇は次のように詔(みことのり)した。
氷上川継は密かに反乱を謀ったが事件はすでに発覚した。法によって裁断すれば、罪は極刑に当たる。川継の母、不破内親王も反撃者の近親であるからまた、重罪にあたる。ただし、
天皇の服喪(ふくも)の期限である諒闇(りょうあん)が始まったばかりで山陵(みささぎ)の土も乾いていない。哀悼の気持ちでまだ刑を論ずるには忍びないので、川継はその死を免じて遠流(おんる)に処し、不破内親王と川継の姉妹は淡路国に移配(いはい)せよ。

光仁上皇が崩御したばかりだったため、氷上川継は命だけは助けられたという事です。

もっとも、この頃から桓武(かんむ)天皇は自分の立太子や即位に反対した者、反抗心を抱いていそうな者を次々に左遷していきました。やはり、母親の出自が白眼視されていたという事でしょう。皇族出身ではない女性から生まれた桓武天皇には、皇太子時代から敵が多かったという事です。それで、人事権を活用し、強引に反対勢力を一掃したわけでした。

その後の延暦(えんりゃく)3(西暦784)年から、桓武天皇は、平城京からの遷都という大事業に乗り出しました。

桓武天皇がなぜ平城京を捨てようと考えたのかについては、皇統が天武系から天智系に移ったので自らの即位を正当化するという意味で、気分一新のために、都を新しくしたかったなどという話が歴史学界では通説となっていますが、当チャンネルの他の動画でも語っているように、実際にはより切実な理由があったものと思われます。

元国土交通省官僚の竹村公太郎氏の説によると、神武天皇以来、奈良盆地には大和王朝の都が置かれ続けており、奈良湖もなくなり、当然人口も増えていきました。

炭素 14 年代法によると、橿原神宮(かしはらじんぐう)での神武天皇の即位が紀元前50年よりも前で、桓武天皇の即位が延暦(えんりゃく)3(西暦781)年。となると実に800年以上もの期間、奈良盆地は日本の政治の中心でした。政治の中心である以上、大勢の人々が暮らしているわけです。ということは、人々が暮らすためにはエネルギーが必要となるわけです。

エネルギーとは、木材のこと。当時は建築資材としてはもちろん、日々の煮炊きにも木材が必要でした。木材を燃やさなければ何もできないわけです。

竹村氏の試算では、当時の生活水準では人々は1人当たり年間10本の木材を消費したようです。そして奈良盆地の人口は少なくとも平均で10万人だったと言われています。ということは、年間に100万本の木を切り倒さなければならなかったわけです。

そして、その状況が数百年も続いたために、奈良盆地周囲の森林は木々が切り尽くされていたものと思われます。植林もなされていたようですが、

藤原京や平城京の造営に伴い、大型の木造建築物が盛んに建造されるようになりました。必然的に奈良盆地周辺の森林の伐採も盛んになったという事です。

実際、禿山も増えていたようで、天武天皇5(西暦676)年には、天武天皇が飛鳥川上流の山々の森林伐採を禁じる詔を出しているくらいですから。

『日本書紀』にはこのように記されています。

勅「禁南淵山・細川山、並莫蒭薪。又畿內山野、元所禁之限、莫妄燒折。」

即位5年5月に、この月に勅(みことのり)をしました。
「南淵山(みなぶちやま)・細川山(ほそかわやま)を禁足地として、草を刈ったり、木こりをして薪を取ってはいけない。また、畿内(うちつくに)の山野(やまの)の元からの禁足地の場所は、みだりに焼いたり、折ってはいけない」

周辺の木材資源の枯渇に加えて、平城京には下水の問題もあったようです。奈良盆地は盆地なので、藤原京と同じく、平城京も、排水がしにくいという問題が付きまといました。汚水が排出されないため、奈良時代は頻繁に疫病が発生していました。

加えて、水運にも問題がありました。生駒(いこま)山脈の西が海で、水運の便が良いから、大和(やまと)の地を目指して、神武天皇は東征に繰り出したのですが、初代から50代を数え、800年以上が経過しています。神武天皇の頃の河内潟(かわちがた)は、河内湖(かわちこ)の時代を経て海面が後退し、大阪平野(おおさかへいや)という完全な陸地になりつつありました。なので、生駒山を越えるとすぐに海だったという奈良盆地の利点も失われてしまっていました。しかも北部を流れる木津川(きづがわ)の水運を利用するにしても、平城京からまずは平城山(ならやま)を越えなければならず、大変な苦労を伴いました。

桓武天皇としては天武朝(てんむちょう)から天智朝(てんじちょう)へと系統が変わったことを受け、まさに天武朝の象徴である平城京から都を移したかったからという説もあります。

とはいえ、それ以前の話として、木材エネルギーの確保の面で厳しく、流通の不便さが限界に達していたことが、奈良盆地に都を置き続けることを妨げたのでしょう。

それで、桓武天皇は平城京からの遷都を決意したわけでした。

そこで、桓武天皇は、木津川と宇治川が合流する地点の北、長岡京に都を移すことを決断しました。水運を利用するので物資の運搬が圧倒的に楽になりますから。しかも、遷都の翌年には木津川と宇治川の合流地点から淀川に向けて三国川(みくにがわ)が開削(かいさく)され、川を下るだけで瀬戸内海に出られるようになりました。

桓武天皇は延暦(えんりゃく)3(西暦784)年、側近の藤原種継(ふじわら の たねつぐ)等を山背国(やましろ・の・くに)に派遣し、長岡(ながおか)の地に都城(とじょう)と宮殿(きゅうでん)の建設を始めさせました。聖武天皇が築いた難波宮(なにわのみや)の宮殿を解体して、木材を長岡に運ばせました。

長岡京への遷都を決断した理由が『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に記されています。

又朕以水陸之便遷都茲邑。

また、朕(ちん)は、水陸交通の便利を考えて、都(みやこ)をこの長岡邑(ながおかむら)に移した。

興味深いことに桓武天皇は遷都を決断してから、わずか半年後には長岡京へと移り住みました。しかも、長岡京に移るまで、一度も現地の視察をしていませんでした。「桓武天皇が自らの権威付けのために、天武朝の色が濃い平城京から離れたかったため」と解説している歴史家が大半なのですが、あまりにも急すぎると思われ、竹村氏の、「木材エネルギーの枯渇と下水問題が手に負えない状況になったから」という説の方が俄然(がぜん)として、信憑性(しんぴょうせい)があります。

延暦(えんりゃく)4(西暦785)年、桓武天皇が、皇女(ひめみこ)の朝原内親王(あさはら・ないしんのう)が斎皇女(いつきのみこ)として伊勢に向かうのを見送るため平城京に戻っていた時に大事件が発生しました。長岡京の造営責任者であった藤原種継が炬(かがりび)をかざして工事を促して検分していたところ、灯火(ともしび)の下で矢に射られ、翌日殺されてしまいました。

種継の死の知らせを受け、桓武天皇は急遽平城京から帰還しました。天皇の命を受け、大伴継人(おおとも の つぐひと)、大伴竹良(おおとも の たけら)とその徒党の数十人が捕えられて取り調べられたところ、そろって、みな罪を認めたので、法によって判決し、斬首あるいは配流(はいる)されることとなりました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には記されていませんが、『日本紀略』(にほん・きりゃく)では、種継(たねつぐ)暗殺事件には、桓武天皇の皇太弟(こうたいてい)、早良親王(さわら・しんのう)が絡んでいたとされています。当時の朝廷では、既に自分の長子である安殿親王(あて・しんのう)を後継者にしたい桓武天皇派と、天皇の弟である早良皇太弟派との間で権力闘争が始まっていました。というわけで、桓武天皇が長岡京を留守にした直後に早良皇太弟派が安殿親派の筆頭である藤原種継を暗殺しました。

種継暗殺事件を受け、責任を問われた早良親王は皇太弟の地位を剥奪され、船で淡路に移送されることになりました。それで、14日間、自ら飲食を断ち続け、淀川下流の高瀬橋付近で憤死しました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に続く日本の正史である、『日本後紀』(にほん・こうき)
にも早良親王が自ら命を絶ったと書かれているのですが、とはいえ、桓武天皇が意図的に飲食物を与えず、餓死させる形で処刑したのでは、とする説もあります。

中国や欧州と比べれば、かなりマシなのですが、宮廷闘争は血みどろな事件の連続であることは、同じ人間である以上、どこの国でも同じだと思われます。二千年以上も続いているのに、日本だけが牧歌的な王朝が続いてきたなどあり得ない話ですから。

この事件以降も長岡宮の造営は続けられたのですが、平城京から遷都して4年後でも完成には程遠い状況だったのを見て、延暦(えんりゃく)7(西暦788)年9月、桓武天皇は次のように詔(みことのり)を発しました。

『続日本紀』(しょく・にほんぎ)には、このように記されています。

延暦七年(七八八)九月庚午。詔曰。朕以眇身。忝承鴻業。水陸有便。建都長岡。而宮室未就。興作稍多。徴発之苦。頗在百姓。是以優其功貨。欲無労煩。

延暦7年9月26日。天皇は次のように詔(みことのり)した。朕(ちん)は微小な身ながらも、おそれ多くも、帝王の大業を継承し、水陸に便利な長岡の地に都を建てている。しかし、皇居は未だ完成せず、建設の作業はますます多くなっていく。人民は挑発されて大変苦しんでいる。そのため、提供した働きや物資に対し、手厚い恵みを与え、苦労のわずらわしさがないように望むものである。

更に、この年の5月に、桓武天皇擁立の功労者である藤原百川(ふじわら の ももかわ)の長女で、桓武天皇の後宮(こうきゅう)に入って、後(のち)の淳和(じゅんな)天皇を産んだ藤原旅子(ふじわら の たびこ)が30歳の若さで薨去(こうきょ)。延暦(えんりゃく)9(西暦790)年には、桓武天皇の生母である高野新笠(たかの の にいかさ)が薨去し、続いて、藤原 良継(ふじわら の よしつぐ)の娘であり、平城(へいぜい)天皇と嵯峨(さが)天皇の母である、皇后の藤原乙牟漏(ふじわら の おとむろ)も薨去しました。ちなみに、藤原氏出身の女性だけで9人が桓武天皇の後宮に入っていました。

母親や后が次々に薨去する状況で、延暦(えんりゃく)9(西暦790)年の秋には畿内を中心に天然痘が流行。30歳以下の男女の多くが発病し、重症者は次々に死亡しました。

『続日本紀』(しょくにほんぎ)には、このように記されています。

延暦九年是年秋冬。京畿男女年卅已下者。悉発豌豆瘡。〈俗云裳瘡。〉臥疾者多。其甚者死。天下諸国往往而在。

延暦(えんりゃく)9年。この年の秋と冬に、京や畿内の30歳以下の男女はほとんどが天然痘にかかり、病に伏した者が多かった。病気の重い場合は死亡した。天下の諸国でしばしば発生した。

天然痘というと、スペイン人がアメリカ大陸に持ち込み、先住民の大半を死に追いやった、恐ろしい病気ですが、新たに皇太子となった安殿(あて)親王までもが病床に伏してしまいました。

それだけ重なるとなると「またもや祟りなのでは?」と当時の人々もそのように考えたようです。桓武天皇により死に追いやられた弟の早良親王の呪いが炸裂したという事でしょう。

安殿親王が長患いになった原因を占ったところ、「早良親王の祟り」という結果が出た事もあり、桓武天皇は淡路国(あわじの・くに)にある早良親王の墓に墓守(はかもり)を置き、丁寧な管理をするよう、詔しました。

となると、長岡京に住んでいた人々は、自分たちが住んでいる土地は呪われている土地であるという印象になってしまいました。

水上交通の便の良さは洪水という自然災害と隣り合わせということです。長岡京の位置では桂川(かつらがわ)や小畑川(おばたがわ)が氾濫するとたちまち大災害になってしまいます。そこで和気清麻呂が登場することになりました。

和気清麻呂は、桓武天皇の朝廷では、淀川や大和川(やまとがわ)を管理する治水担当の官僚でした。和気清麻呂の治水担当の官僚としての活躍は、『続日本紀』(しょく・にほんぎ)に続く、三番目の勅撰史書(ちょくせん・ししょ)である『日本後紀』(にほんこうき)に詳しく記されています。

『続日本紀』の後をうけて、桓武天皇の治世の途中から、平城(へいぜい)天皇、嵯峨(さが)天皇、淳和(じゅんな)天皇の治世を記しています。編者は藤原緒嗣(ふじわら の おつぐ)等で、21年に及ぶ編纂事業に、一貫して関わったのが、藤原緒嗣のみです。全40巻あったのですが、応仁の乱の時に、散逸してしまい、10巻のみしか現存していません。

『六国史』(りっこくし)などの抜粋版である『日本紀略』(にほんきりゃく)と、『六国史』の項目分類である『類聚国史』(るいじゅこくし)等に引用文(逸文)があり、『日本後紀』欠落部分の概略を復元することができますが、完璧ではありません。

更に、延暦11(西暦792)年6月、雷雨による集中豪雨により、長岡京の式部省の南門が倒壊して、8月には大雨が洪水を引き起こし、都全体に甚大な被害をもたらしました。

『日本後紀』(にほん・こうき)にはこのように記されています。

延暦十一年六月乙巳。雷雨。潦水滂沱。式部省南門爲之倒仆。

延暦11年6月22日。雷雨があり、大雨で水があふれだして、式部省(しきぶのしょう)の南門が倒れてしまった。

そこで、和気清麻呂が、再遷都を提案しました。『日本後紀』にはこのように記されています。

長岡新都。經十載未成功。費不可勝計。清麻呂潜奏。令上託遊獵相葛野地。更遷上都。

長岡京は造営開始10年後に至っても完成せず、費用はかさむばかりであった。清麻呂は人を避けて上奏し、桓武天皇が狩猟に託して葛野(かどの)の地の様子を視察できるように図(はか)り、平安京へ遷都したのであった。

つまりは清麻呂が推薦した葛野の地に平安京が建設され、再遷都になったわけです。長岡京では、早良(さわら)親王の祟りが続いていたから、というよりも、治水の問題の方が大きかったのでしょう。長岡京は水利の便が良いため、逆に水害の危険に常に晒され続ける場所だったからでした。

長岡京に遷都する前に、災害リスクを考慮できればよかったのですが、現在のように、土木工学が高度に発展していたわけではありませんでしたから。藤原京遷都の際もそうでしたが、都を移してから初めて水害の危険性が分かったようです。

ということは、和気清麻呂(わけの・きよまろ)は、宇佐八幡宮神託事件で皇統を救った上に、千年の都となる平安京への遷都のきっかけを作ったというわけです。色々な意味で日本の歴史に大きな影響を与えた人物なので、お札の肖像画にまでなったということでしょう。

延暦(えんりゃく)12(西暦793)年1月15日、桓武天皇は群臣(ぐんしん)を葛野(かどの)に派遣し、新都建設予定地の地形を視察させ、いよいよ平安京への遷都事業が始まりました。半年後に慌ただしく遷都した長岡京とは違って、1年以上かけて行いました。

葛野(かどの)の地に役人を派遣するのに合わせ、長岡宮の建物の解体と葛野への運搬が始まり、桓武天皇は内裏(だいり)から洞院(とういん)に移りました。もともと、長岡京は難波京の建物を解体して建設されたものでしたが、平安京に移設されたという事です。

桓武天皇は、長岡京遷都の際には、事前に一度も視察に行かなかったのですが、平安京の造営が始まって以降は10回以上も葛野を訪れました。緊急避難的だった長岡京遷都とは、いろいろと違うということでしょう。

延暦13(西暦794)年10月22日、桓武天皇は新たな都に移り、同月28日に、詔を発しました。

『日本後紀』(にほん・こうき)にはこのように記されています。

遷都詔曰。云々。葛野〈乃〉大宮地者、山川〈毛〉麗〈久〉四方國〈乃〉百姓〈乃〉參出來事〈毛〉便

葛野の宮(みや)が営まれることになった土地は、山川も麗しく、四方の国の百姓が参上するに際し好都合である。

こうして桓武天皇は平安京遷都を実現し、「千年の都」の礎を築いたわけでした。ちなみに京都という名称は平安時代後期に平安京が「京の都」と呼ばれていたのが次第に固有名詞として定着したものです。平安京の別称ということです。

実は、世界には古代から存在する都市が無数に存在しますが、ひとつの国家の都として1000年以上も存続したのは、日本の京都のみです。ローマを首都とした古代ローマは王政ローマが共和政ローマになった紀元前509年からマクシミアヌス帝が宮廷をミラノに移した西暦286年までの約800年続きました。王政ローマと共和政ローマは別の国と見なされるのですが、同じローマとして考えると、古代ローマも1000年の都と言って構わないのですが、国体としての一貫性がある国家の首都として、宮廷が1000年を超える期間、置かれ続けたのは京都のみです。平清盛(たいらの・きよもり)が福原に遷都したことはありましたが、半年ほどだけでした。

都(みやこ)は京都に置かれ続けましたが、政治権力は鎌倉幕府や江戸幕府の将軍が持ち続けました。当時の日本は権威と権力が分離していました。政治権力は鎌倉幕府や江戸幕府にありましたが、権威としての天皇の宮廷は常に京都に置かれ続けました。

その結果、明治4(西暦1871)年、明治天皇は次のように詔(みことのり)しています。「服制改革內敕」(ふくせいかいかく・ないちょく)です。

朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ
治ムルヤ固ヨリ久シ天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク

朕(ちん)が考えるに、「風俗」とは時流にしたがって移り変わり、「国体」は変わらない。衣冠などの装束はいにしえの唐(とう)の真似で、これは軟弱なものであり嘆かわしい。我国は武をもって治めてから長い時間がたっており、現在では神武天皇や神功皇后のような元帥姿を見ることができない。一日も早く軟弱な姿を示さないようにするため、服制を改革して祖先からの尚武の国のあり方を立てたいと思う。この気持ちを理解して欲しいという。

1000年以上も都が変わらないと、こういうになる、ということを、象徴しています。平安京に都が移されて以降、模倣された唐の方はとっくに滅んでいるにもかかわらず、明治時代まで、いにしえの唐帝国を真似た宮廷制度が延々と続けられてきたというわけです。

千年の都には千年間ほとんど変わらなかったという意味もあるわけです。古臭いと言えば古臭いのかもしれませんが、それが独特の伝統を育(はぐく)み、固有の文化を育ててきたわけです。やはり日本では権力と権威が分離され、天皇が権力闘争に巻き込まれることがそれほどなかったからこそ、伝統として続いてきたという話なのでしょう。加えて、流れの速い海流に阻まれた島国であるために、外国の軍隊に侵略されることがほとんどなかったことも大きな理由に挙げられます。京都は戦乱、大火事、大地震、疫病など何度も深刻な危機に見舞われましたが、形式的には千年以上もの長期にわたり都として存続しました。

それを作ったのが、桓武天皇だったわけです。

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