蘇我馬子(そがの・うまこ)が崇峻(すしゅん)天皇を暗殺し、その孫の入鹿(いるか)は上宮王家(じょうぐうおうけ)を滅ぼし、朝廷における蘇我氏の権力は、いよいよ手がつけられなくなっていきました。しかも、やることが実にきな臭くなっていきました。
少し後の話となりますが、皇極(こうぎょく)天皇3(西暦644)年には、蝦夷(えみし)と入鹿(いるか)の親子は甘樫丘(うまかしのおか)に邸宅を2棟建設し、それぞれ上の宮門(うえのみかど)・谷の宮門(はさまのみかど)と名付けました。
『日本書紀』によると、
冬十一月、蘇我大臣蝦夷・兒入鹿臣、雙起家於甘檮岡。呼大臣家曰上宮門、入鹿家曰谷宮門。(谷、此云波佐麻。)呼男女曰王子。家外作城柵、門傍作兵庫。毎門、置盛水舟一、木鉤數十、以備火災。恆使力人持兵守家。大臣、使長直於大丹穗山造桙削寺。更起家於畝傍山東、穿池爲城、起庫儲箭。恆將五十兵士、繞身出入。名健人曰東方儐從者。氏々人等入侍其門、名曰祖子孺者。漢直等、全侍二門。
(皇極(こうぎょく)天皇、即位3年)冬11月。蘇我大臣蝦夷(そがの・おとど・えみし)とその子の入鹿臣(いるか・おみ)は家を、奈良県高市郡(たかいちぐん)明日香村(あすかむら)の丘である甘檮岡(うまかしのおか)に二棟、並び立てました。大臣(おとど)の家を呼んで「上の宮門(うえのみかど)」と言いました。入鹿の家を「谷の宮門(はさまのみかど)」と言いました。
子供達のことを王子(みこ)と言いました。家の外に砦の柵を作り、門のほとりに兵器を収める倉を作りました。門ごとに水を入れる桶を一つ、火災が起きた時に建物を壊して、火が広がるのを防ぐものを数十置いて、火災に備えていました。常に兵士に武器を持たせて、家を守らせていました。大臣(おとど)こと、蘇我蝦夷(そがの・えみし)は長直(ながの・あたい)に大丹穂山(おおにほのやま)に桙削寺(ほこぬきのてら)を作らせました。また家を畝傍山(うねびやま)の東に立てました。池を掘って城としました。武器庫を立てて、矢を積み、蓄えました。常に50人の兵士を身の回りに巡らし、出入りさせました。兵士たちを、「東方の儐従者(アズマ・ノ・シトベ)」と呼びました。東方の兵士たちは、入って門に居ました。名付けて、祖子孺者(オヤノコノ・ワラワ)と言いました。渡来系の漢直(アヤノ・アタイ)たちは二つの門に居ました。
宮の門と書いて宮門(みかど)。「みかど」とは、天皇や朝廷のことを指しますが。何しろ蝦夷と入鹿は、自分の子供たちを王子(みこ)と呼ばせたとありますから、いずれにしても、自分たちが皇統に取って代わる気を隠そうとしなくなります。さらに畝傍山(うねびやま)に要塞を築き、武器庫も建設。矢を蓄え、東方の屈強な男たちを集め、皇室行事を独断で代行したりもしました。
その専横を苦々しく思っていた中心人物が、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)と中臣鎌足(なかとみの・かまたり)です。
『日本書紀』には、このように記されています。
三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。
即位3年春1月1日。皇極(こうぎょく)天皇、は、中臣鎌子連(ナカトミノ・カマコノ・ムラジ)を神祗伯(カムツカサ・ノ・カミ)に拝(はい)しましたが、再三(シキリ)に固辞して就任しませんでした。病気だと言って退出して、鹿島(かしま)に居ました。
中臣氏(なかとみし)は、古代日本では神事や祭祀を司(つかさど)る一族でした。中臣氏の始祖は、神代(かみよ)の時代にまで遡(さかのぼ)り、天児屋命(あめの・こやねの・みこと)です。岩戸隠(いわとがく)れの際、岩戸の前で祝詞(のりと)を唱え、天照大御神(あまてらす・おおみかみ)が岩戸を少し開いたときに布刀玉命(ふとだまの・みこと)とともに鏡を差し出し、天孫降臨(てんそん・こうりん)の際に、邇邇芸命(ににぎの・みこと)に随伴し、中臣連(なかとみの・むらじ)の祖となりました。
天児屋命(あめの・こやねの・みこと)に始まる中臣(なかとみ)氏は、鎌足(かまたり)の臨終の際に藤原氏の姓をたまわり、その後の日本の歴史において皇統を除くと、最も重要な一族となります。何しろ現代に至っても、著名な政治家を出しているわけですから。日本を泥沼の大東亜戦争に引き込んだ第34代内閣総理大臣の近衞文麿(このえ・ふみまろ)は、藤原家嫡流の近衛家第30代当主で、好んで藤原文麿(ふじわらの・ふみまろ)を名乗っていたそうです。また最近で言えば、第79代総理大臣の細川護熙(ほそかわ・もりひろ)は近衛文麿の娘の子です。
ちなみに、『日本書紀』によると、
五年春正月戊申朔夜、鼠向倭都而遷。壬子、以紫冠授中臣鎌足連、増封若干戸。
白雉(はくち)5(西暦654)年1月5日。紫冠を中臣鎌足連(なかとみの・かまたりの・むらじ)に授(さず)けました。若干の封が増しました。
孝徳(こうとく)天皇の項に、いつの間にか、鎌子(かまこ)から鎌足(かまたり)となって、突然現れます。
それはともかく、
『日本書紀』には、
三年春正月乙亥朔、以中臣鎌子連拜神祗伯、再三固辭不就、稱疾退居三嶋。于時、輕皇子、患脚不朝。中臣鎌子連、曾善於輕皇子、故詣彼宮、而將侍宿。輕皇子、深識中臣鎌子連之意氣高逸容止難犯、乃使寵妃阿倍氏、淨掃別殿、高鋪新蓐、靡不具給、敬重特異。中臣鎌子連、便感所遇、而語舍人曰、殊奉恩澤、過前所望、誰能不使王天下耶。(謂充舍人爲駈使也。)舍人、便以所語、陳於皇子、皇子大悅。
皇極(こうぎょく)天皇即位3(西暦644)年春1月1日。中臣鎌子連(ナカトミノ・カマコノ・ムラジ)に神主の仕事をするように命じました。ところが、再三固辞して、就任しましせんでした。病気だと称して、退出して、摂津(せっつ)三嶋(ミシマ)に居ました。その時、軽皇子(カルノミコ、こと、のちの孝徳(こうとく)天皇)は足の病気で朝廷に参上できませんでした。中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は以前から軽皇子(かるの・みこ)と仲が良かったので、皇子(みこ)の宮(みや)に詣でて、仕えて、宿に泊まりました。軽皇子は深く中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)の心意気が、高く優れていて、内面は動かし難いものだという事を知って、すぐに寵妃の阿倍氏に、別殿(コトドノ)を清めさせ、新しい寝床を高く敷いて、細かく世話をさせました。敬愛し、重用し、特別扱いでした。中臣鎌子連は、すぐに厚遇されていると感じて、舎人(トネリ、つまり従者)に語って言いました。
「このように特別に恩恵を受け賜(たまわ)るというのは、かねてから望んだもの以上だ。(軽皇子が)天下の王になることを、誰が邪魔できるだろうか!」
軽皇子は自分の舎人を、中臣鎌子への使者としていたと言いますが、そのことを舎人は皇子(みこ)に申し上げました。皇子(みこ)は大いに喜びました。
と記されています。
軽皇子は中臣鎌子(なかとみの・かまこ)を厚遇し、鎌子はそれを感じて答えようとします。寝床を高くするのは、非常に厚遇です。また妃に身の回りの世話をさせたというのも、厚遇です。少なくとも、「王と従者」の関係ではありません。軽皇子から見れば「同等」くらいに思っているよというアピールです。ただこういうことを書くということは、天皇になるためには血統だけではなく「後ろ盾」がないとなれなかったということです。それは山背大兄王(やましろの・おおえのおう)の人生がよく表しています。
なぜ中臣鎌足(なかとみの・かまたり)は神主にならなかったのでしょうか?『日本書紀』にはその理由が書かれていませんが、その後の中臣鎌足の行動を見れば想像がつきます。ちなみに、中臣鎌子(なかとみの・かまこ)は、後の鎌足(かまたり)で、欽明(きんめい)天皇の時代に、物部尾輿(もののべの・おこし)と共に排仏を行った中臣鎌子(なかとみの・かまこ)とは別人です。
『日本書紀』には、このように書かれています。
中臣鎌子連、爲人忠正、有匡濟心。乃憤蘇我臣入鹿、失君臣長幼之序、挾闚社稷之權、歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。便附心於中大兄、䟽然未獲展其幽抱。偶預中大兄於法興寺槻樹之下打毱之侶、而候皮鞋隨毱脱落、取置掌中、前跪恭奉。中大兄、對跪敬執。自茲、相善、倶述所懷。既無所匿。後恐他嫌頻接、而倶手把黃卷、自學周孔之教於南淵先生所。遂於路上、往還之間、並肩潛圖。無不相協。於是、中臣鎌子連議曰、謀大事者、不如有輔。請、納蘇我倉山田麻呂長女爲妃、而成婚姻之眤。然後陳說、欲與計事。成功之路、莫近於茲。中大兄、聞而大悅。
中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は人となりは忠誠心があり、間違いを正し、人を救おうとする心があります。蘇我臣入鹿(ソガノ・オミ・イルカ)が、王と臣下・年功序列の上下関係の順序を無視し、国を奪おうと伺っているのを苦々(にがにが)しく思っていました。だから皇族たちの中に交わって、次々に試して、功名を立てる哲主(さかしき・きみ)を探し求めました。それで、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)を心に決めたのだけども、近づく機会が無く、離れていたので、その内面に抱いた深い思いを見ることは出来ませんでした。たまたま中大兄皇子が法興寺(ほうこうじ、つまり飛鳥寺(あすか・でら))の槻(ツキ)の木の下で鞠(まり)を打っている仲間に加わって、皮の靴が鞠に付随して、脱げて落ちたのを拾って、手に取って持ち、前に進んで跪いて慎んで奉(たてまつ)りました。中大兄皇子は向かい、跪いて敬って取りました。これでお互いに仲良くなり、共に思うところを述べました。すでに隠すことはありませんでした。のちには他人が頻繁に会っている事を、良からぬように疑われることを恐れて、共に手に書を取り、儒教の教えを南淵請安(みなみぶちの・しょうあん)のもとで学びました。通学の路上で、肩を並べて密かに計画を立てました。協力し合わないということはありませんでした。中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は合議して言いました。
「大きなことを計画するには助けが有る方がいいでしょう。請い願います。蘇我倉山田麻呂(そがの・くらやまだの・まろ)の長女を妃(きさき)として、縁組しましょう。そうして後に、陳述して説得して、共に事を計画しようと思います。功を成す道は、これより近いものは無いでしょう」
中大兄皇子はそれを聞いて、大いに喜びました。
だから神主の仕事に就くわけにはいかなかったのでしょう。
中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は舒明(じょめい)天皇と皇極(こうぎょく)天皇の間に生まれた皇子です。当時は皇極天皇の御代ですから、先帝と今上(きんじょう)天皇との間に産まれた皇子。しかも大兄(おおえ)というわけですから、まさに皇族中の皇族という立場にある重要人物でした。当初、中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は中大兄皇子と知り合うきっかけを中々つかめず苦労しました。
ある日、中大兄皇子が法興寺(ほうこうじ)で蹴鞠(けまり)の催しをした際に、中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は幸運なことにその仲間に加わることができました。
蹴鞠とは、鹿皮製の鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数を競う遊びです。蹴鞠は西暦600年ごろに仏教とともに日本に入り、その後、平安時代に大流行する事になります。今で言うと、リフティングです。それはともかく、蹴鞠の会の最中、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)の靴が脱げてしまいました。中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は靴を拾い上げ、うやうやしく中大兄皇子に差し出しました。すると中大兄皇子もひざまずき、同じく、うやうやしく受け取りました。儒教的ですね。蹴鞠と靴をきっかけに2人は親しくなり、次第に心中を明かし合うようになります。
中大兄皇子も、また蘇我入鹿(そがの・いるか)の専横を苦々しく思っていました。二人は蘇我入鹿を打倒するために、蘇我蝦夷(そがの・えみし)の弟の息子、つまりは入鹿にとってはいとこに当たる蘇我倉山田麻呂に接近。中大兄皇子が蘇我倉山田麻呂(そがの・くらやまだの・まろ)の娘である姪娘(めいの・いらつめ)を娶(めと)り関係を深めました。同じ蘇我氏の女性と結ばれることで、蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)勢力との分断を図(はか)りました。
皇極(こうぎょく)天皇4年こと西暦645年。新羅・百済・高句麗、いわゆる三韓の使者が朝貢(ちょうこう)してきました。三韓から貢物(みつぎもの)を受け取る儀式は、国家としては極めて重要であるため、大臣である入鹿は必ず出席しました。
『日本書紀』には、このように書かれています。
六月丁酉朔甲辰。中大兄、密謂倉山田麻呂臣曰、三韓進調之日必將使卿讀唱其表。遂陳欲斬入鹿之謀、麻呂臣奉許焉。戊申、天皇御大極殿、古人大兄侍焉。中臣鎌子連、知蘇我入鹿臣、爲人多疑、晝夜持劒。而教俳優、方便令解、入鹿臣、咲而解劒、入侍于座。倉山田麻呂臣、進而讀唱三韓表文。於是、中大兄、戒衞門府一時倶鏁十二通門、勿使往來、召聚衞門府於一所、將給祿。時中大兄、卽自執長槍、隱於殿側。中臣鎌子連等、持弓矢而爲助衞。使海犬養連勝麻呂、授箱中兩劒於佐伯連子麻呂與葛城稚犬養連網田、曰、努力努力、急須應斬。子麻呂等、以水送飯、恐而反吐、中臣鎌子連、嘖而使勵。倉山田麻呂臣、恐唱表文將盡而子麻呂等不來、流汗浹身、亂聲動手。鞍作臣、怪而問曰、何故掉戰。山田麻呂對曰、恐近天皇、不覺流汗。中大兄、見子麻呂等畏入鹿威便旋不進、曰、咄嗟。卽共子麻呂等出其不意、以劒傷割入鹿頭肩。入鹿驚起。子麻呂、運手揮劒、傷其一脚。入鹿、轉就御座、叩頭曰、當居嗣位天之子也、臣不知罪、乞垂審察。天皇大驚、詔中大兄曰、不知所作、有何事耶。中大兄、伏地奏曰、鞍作盡滅天宗將傾日位、豈以天孫代鞍作乎。(蘇我臣入鹿、更名鞍作)。天皇卽起、入於殿中。佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、斬入鹿臣。
(皇極(こうぎょく)天皇、即位4年)6月8日。中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は密かに蘇我倉山田麻呂臣(そがの・くらやまだの・まろの・おみ)に語って言いました。
「三韓(みつの・からひと)の調(みつき、つまり税)を献上する日に、必ず卿(いまし、つまり、お前)にその表(ふみ)を読唱させる」
それで入鹿(いるか)を斬ろうとする策を陳述しました。蘇我倉山田麻呂(そがの・くらやまだの・まろ)は許諾(きょだく)しました。
6月12日。天皇は太極殿(おお・あん・どの)に居ました。古人大兄皇子(ふるひとの・おおえの・みこ)も居ました。中臣鎌子連(なかとみの・かまこの・むらじ)は蘇我臣入鹿(そがの・おみ・いるか)の人となりをとても疑っていて、入鹿が昼も夜も剣を持っていると知り、俳優(ワザヒト、つまり、滑稽な動きで歌謡をする人)に教えて、方便を言って、剣を解(と)かせました。入鹿臣は咲(わら)って剣を解(と)きました。中に入って座(しきい)に居ました。蘇我倉山田麻呂臣(そがの・くらやまだの・まろの・おみ)は進んで三韓の表文(ふみ)を読唱しました。すると中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は衞門府(ゆけいの・つかさ、つまり、門を守る部署)に言って、一時的に12の通門を差し固めて、往来できないようにしました。衞門府(ゆけいの・つかさ)を一箇所に呼び寄せ集めて、褒美を与えようとしました。その時、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)はすぐに自ら長い槍(ほこ)を取って、宮殿の側(そば)に隠れました。中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)たちは、弓矢を持って、助け守りました。海犬養連勝麻呂(あまの・いぬかいの・むらじ・かつ・まろ)に、箱の中の二つの剣を佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)と葛城稚犬養連網田(かつらぎ の わかいぬかい の あみた)に授けさせて言いました。
「ゆめゆめ、あからさまに、あっという間にすぐに斬るのだ!」
佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)たちは水で飯をかき込みました。恐ろしくて、吐き出しました。中臣鎌子連(なかとみの・かまこ・むらじ)は叱咤激励しました。蘇我倉山田麻呂臣(そがの・くらやまだの・まろの・おみ)は表文(ふみ)を読みおえようしていましたが、子麻呂たちが来ないのを恐れて、流れ出る汗が全身を濡らし、声が乱れて手がわななきました。鞍作臣(くらつくりの・おみ、つまり、蘇我入鹿)は怪しく思って問いました。
「なぜ、震えてわなないているのか」
蘇我倉山田麻呂臣(そがの・くらやまだの・まろの・おみ)は答えて言いました。
「天皇のそばにいて恐れ多いことに、不覚にも汗が流れ出ているのです」
中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は、佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)たちが入鹿の勢いに恐れて、巡(めぐ)るばかりで進まないのを見て言いました。
「咄嗟(ヤア)!」
すぐに佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)たちと共に、不意に剣で入鹿の頭と肩を傷つけ、割りました。入鹿は驚いて、立ちました。佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)は手で剣を拭いて、一つの足を傷つけました。入鹿は御座(オモト、つまり天皇の元)へと転んでたどり着いて、頭を床に叩きつけて言いました。
「まさに嗣位(ひつぎの・くらい)においでになるのは天子である。私に一体何の罪があるのか。その訳(わけ)を言え。」
皇極(こうぎょく)天皇は大いに驚かれ、中大兄皇子に、「朕(ちん)にはわからぬ。どうしてこのようなことをしたのか?」とお尋ねになった。
中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)は地に伏して申し上げました。
「鞍作(くらつくり、つまり、蘇我入鹿)は天宗(きみたち)を全て滅ぼして、日位(ひつぎのくらい、つまり、皇統)を傾けようとしているのです。どうして天孫(てんそん)が鞍作(くらつくり)に代わるというのでしょうか」
蘇我臣入鹿(そがの・おみ・いるか)は別名が鞍作(くらつくり)といいます。
天皇はすぐに立って、宮殿の中に入りました。佐伯連子麻呂(さえきの・むらじ・こまろ)・葛城稚犬養連網田(かつらぎ の わかいぬかい の あみた)は蘇我臣入鹿(そがの・おみ・いるか)を斬りました。
山背大兄王(やましろの・おおえの・おう)をはじめ、上宮王家(じょうぐう・おうけ)を滅ぼしたくせに、
臣不知罪「私に一体何の罪があるのか」
はないと思いますが、人間とはこのようなものかもしれません。
是日、雨下潦水溢庭、以席障子覆鞍作屍。古人大兄、見走入私宮、謂於人曰、韓人殺鞍作臣、謂因韓政而誅。吾心痛矣。卽入臥內、杜門不出。中大兄、卽入法興寺爲城而備。凡諸皇子諸王諸卿大夫臣連伴造国造、悉皆隨侍。使人賜鞍作臣屍於大臣蝦夷。於是、漢直等、總聚眷屬、擐甲持兵、將助大臣處設軍陣。中大兄、使將軍巨勢德陀臣、以天地開闢君臣始有、說於賊黨令知所赴。於是、高向臣国押、謂漢直等曰、吾等由君大郎、應當被戮。大臣亦於今日明日、立俟其誅決矣。然則爲誰空戰、盡被刑乎。言畢解劒投弓、捨此而去。賊徒亦隨散走。
(皇極天皇 即位4年6月12日)この日に雨が降って、潦水(イサラミズ=出てきた水)が庭に溢れていました。席の障子(シトミ)で鞍作(クラツクリ)こと、蘇我入鹿(そがの・いるか)の屍(かばね)を覆い隠しました。古人大兄(ふるひとの・おおえ)はそれを見て、自分の宮に走って入り、人に言いました。
「韓人(カラヒト)が鞍作臣(クラツクリ・ノ・オミ)を殺した!我が心は痛い!」
すぐに寝室に入って、門を塞いで出てきませんでした。中大兄(ナカノ・オオエ)はすぐに法興寺(ほうこうじ)に入って、戦う準備しました。全ての諸々(もろもろ)の皇子(おうじ)・諸々の王(おう)・諸々の臣下たち・臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(ともの・みやつこ)・国造(くにの・みやつこ)はことごとく皆、随従しました。人を使って、鞍作臣(くらつくりの・おみ、こと蘇我入鹿)の屍(カバネ)を大臣蝦夷(おおおみ・えみし、こと、蘇我蝦夷(そがの・えみし)に与えました。漢直(あやの・あたい)たちは、一族を全て集めて、甲(ヨロイ)を着て、武器を持って、大臣(おおおみ、こと、蘇我蝦夷(
そがの・えみし))を助けて、兵隊を整えようとしました。中大兄は将軍の巨勢徳陀臣(こせの・とこだの・おみ)を使者にして、天地開闢(てんち・かいびゃく)より、君(きみ)と臣(おみ)は初めから有ることを、賊の党に説かせて、進むべき道を知らせました。高向臣国押(タカムク・ノ・オミ・クニオシ)は漢直(アヤノ・アタイ)たちに語って言いました。
「我等は、君主である大郎(タイロウ、こと蘇我入鹿(そがの・いるか))のせいで、殺されてしまうだろう。大臣(おとど、こと、蘇我蝦夷(そがの・えみし))も今日か明日にでも、待っていれば、間違いなく誅殺されるだろう。それならば、誰のために虚しく戦って、ことごとく全員が罪に問われて刑に処されるのか」
と言い終わって、剣を抜いて、弓を折って、これを捨てて去りました。賊の仲間は従って、散って走って逃げました。
韓人(からひと)とは誰を指すのでしょうか? これを見て、「中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)」は朝鮮人だ」と言う人もいますが、それはちょっと考えられません。
この暗殺は、「三韓の表文(さんかんの・ふみ)」を読んだ席での暗殺であり、百済・新羅・高句麗(こうくり)の使者がいたわけです。なので、「韓人が殺した」というのは「三韓の調(ちょう)」の席で起きたということを指しているだけ、という説もあります。またこの発言をした古人大兄が、自分が疑われるのを恐れて、韓人のせいにしたという説もあります。
本当のところはわかりません。
高向臣国押(タカムク・ノ・オミ・クニオシ)が去ったことで希望を失った蝦夷(えみし)は、自ら命を絶つのですが、死の前にとんでもない事をしました。
『日本書紀』には、このように記されています。
己酉、蘇我臣蝦夷等臨誅、悉燒天皇記・国記・珍寶。船史惠尺、卽疾取所燒国記、而奉獻中大兄。是日、蘇我臣蝦夷及鞍作屍、許葬於墓、復許哭泣。於是、或人說第一謠歌曰、其歌所謂、波魯波魯儞、渠騰曾枳舉喩屢、之麻能野父播羅、此卽宮殿接起於嶋大臣家、而中大兄與中臣鎌子連、密圖大義、謀戮入鹿之兆也。說第二謠歌曰、其歌所謂、烏智可拕能、阿娑努能枳々始、騰余謀作儒、倭例播禰始柯騰、比騰曾騰余謀須、此卽上宮王等性順、都無有罪、而爲入鹿見害。雖不自報、天使人誅之兆也。說第三謠歌曰、其歌所謂、烏麼野始儞、倭例烏比岐例底、制始比騰能、於謀提母始羅孺、伊弊母始羅孺母也、此卽入鹿臣、忽於宮中、爲佐伯連子麻呂・稚犬養連網田、所誅之兆也。
庚戌、讓位於輕皇子。立中大兄、爲皇太子。
皇極天皇 即位4年6月13日。蘇我臣蝦夷(そがの・おみ・えみし)は、誅殺されるだろうと思って、すべての天皇記(すめらみこと・の・ふみ)・国記(くにつ・ふみ)・珍宝(ちんぽう)を焼きました。船史恵尺(ふねの・ふびと・えさか)は素早く焼かれそうになった国記(くにつふみ)を取って、中大兄(なかの・おおえ)に献上しました。この日に蘇我臣蝦夷(そがの・おみ・えみし)と鞍作(くらつくり、こと、蘇我入鹿(そがの・いるか))の屍(かなね)を墓に葬ることを許しました。また、葬式で泣く事も許しました。ここのある人の謠歌(わざうた)を説明して言いました。
「その歌に
『遥遥に言そ聞ゆる、嶋の薮原』
はろはろに 言(こと)そ聞こゆる 嶋の薮原(やぶはら)
歌の訳:遠くかすかにひそひそ話をしているのが聞こえてくる。嶋の薮原で
というのは、これは宮殿を嶋大臣(シマノ・オオオミ、こと、蘇我馬子(そがの・うまこ))の家に接して建てて、中大兄は中臣鎌子連(ナカトミノ・カマコノ・ムラジ)と密かに大義を図り、入鹿(いるか)を殺そうと謀議した兆しです」
第二の謠歌(ワザウタ)を説明して言いました。
「その歌の
『彼方の、浅野の雉、響さず、我は寝しかど、人そ響す』
彼方(おちかた)の 浅野の雉(きぎし) 響(とよも)さず 我は寝しかど 人そ響(とよも)す
歌の訳:遠くの浅野で鳴いても雉(きじ)の声は響く。私は声も立てずに寝たのに人が騒ぐ
というのは、上宮(カミツミヤ)の王たちの性格は穏やかで素直なので、罪が有る、なんてことは無く、入鹿(いるか)のせいで殺害されました。報復はないと言っても、天が人を誅殺させる兆しです」
第三の謠歌(ワザウタ)を説明して言いました。
「その歌に
『小林(オバヤシ)に我を引き入れて、姧(セ)し人の、面も知らず、家も知らずも』
小林(おばやし)に 我を引入れて せし人の 面(おもて)も知らず 家も知らずも
歌の訳:小さな林の中に私を誘い込んで、した人の、顔も家も知らないのです
というのは、入鹿臣(いるか・おみ)が宮の中で佐伯連子麻呂(サエキノ・ムラジ・コマロ)・稚犬養連網田(ワカ・イヌカイノ・ムラジ・アミタ)のために誅殺された兆しです」
14日。皇極天皇は軽皇子(カルノミコ、こと、孝徳(こうとく)天皇)に位(くらい)を譲りました。中大兄を立てて皇太子としました。
聖徳太子は蘇我馬子に命じて、『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)と『国記』(くにつ・ふみ)という2つの歴史書を編纂させていたのですが、蘇我蝦夷(そがの・えみし)は『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)と『国記』(くにつ・ふみ)の全てを火の中に投げ込み、自らの命を絶ったのですが、聖徳太子の時代の歴史書ということは、『古事記』や『日本書紀』よりも古い訳です。『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)と『国記』(くにつ・ふみ)が編纂されたのは、推古天皇28(西暦620)年。現存する日本最古の歴史書である『古事記』の編纂は、和銅5(西暦712)年です。『日本書紀』が養老4(西暦720)年。『古事記』や『日本書紀』の100年も前に書かれた貴重な歴史書を蘇我蝦夷(そがの・えみし)は死ぬ直前に焼いてしまいました。
聖徳太子自らが編纂の指揮をとった貴重な歴史書である『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)や『国記』(くにつ・ふみ)が残っていれば、日本どころか人類の至宝になっていたと思われます。
前述のように『日本書紀』には、『国記』(くにつ・ふみ)だけは炎の中から救い出され、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)に献上されたとありますが、のことですが、『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)はもちろん、なぜか『国記』(くにつ・ふみ)も現存していません。
ということは、中大兄皇子や中臣鎌子(なかとみの・かまこ)による蘇我入鹿(そがの・いるか)暗殺が失敗に終わっていたら、『天皇記』(すめらみこと・の・ふみ)や『国記』(くにつ・ふみ)が後世に普通に伝えられた可能性があるわけです。上宮王家(じょうぐうおうけ)を滅ぼした蘇我入鹿が討たれたことにより、人類の至宝が燃やされてしまった。だからといって、蝦夷・入鹿の親子を放置しておくと、下手をすると日本の皇統が断絶してしまう可能性もあった。どちらの道を進んでも、「めでたし、めでたし」とはなりません。その時代を生きた人間の選択・判断の結果が歴史なのですが、どうすれば良かったのかなどという事は、結局、誰にもわかりません。よく「歴史が答えを出してくれる」などと言いますが、実際には答えなど、ありません。それでも各々の人生を精一杯生きて、歴史を積み重ね、語り伝えていかなければなりません。
それで、皇極(こうぎょく)天皇は退位を表明し、天皇の地位を同母弟の軽皇子(かるのみこ)こと、孝徳(こうとく)天皇に譲ることになりました。近年でも、平成の天皇陛下が、徳仁親王(なるひと・しんのう)こと今上(きんじょう)天皇に譲位(じょうい)されましたが、日本の歴史上、天皇が譲位したのは皇極天皇が初めてです。
皇極(こうぎょく)天皇は、なぜ孝徳(こうとく)天皇に譲位したのでしょうか。『日本書紀』には、このように記されています。
天萬豊日天皇、天豊財重日足姫天皇同母弟也。尊佛法、輕神道(斮生国魂社樹之類、是也)。爲人柔仁好儒。不擇貴賤、頻降恩勅。
天豊財重日足姫天皇四年六月庚戌、天豊財重日足姫天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望、不亦可乎。於是、中大兄深嘉厥議、密以奏聞。天豊財重日足姫天皇、授璽綬禪位。策曰、咨、爾輕皇子、云々。輕皇子、再三固辭、轉讓於古人大兄更名、古人大市皇子。曰、大兄命、是昔天皇所生而又年長。以斯二理、可居天位。於是、古人大兄、避座逡巡、拱手辭曰。奉順天皇聖旨、何勞推讓於臣、臣願出家、入于吉野、勤修佛道、奉祐天皇。辭訖、解所佩刀、投擲於地。亦命帳內、皆令解刀。卽自詣於法興寺佛殿與塔間、剔除髯髮、披着袈裟。
天万豊日天皇(アメ・ヨロズ・トヨヒ・スメラミコト、こと、孝徳(こうとく)天皇)は天豊財重日足姫天皇(アメ・トヨ・タカラ・イカシ・ヒタラシヒメ・ノ・スメラミコト、こと、皇極(こうぎょく)天皇)の同母弟です。仏法を尊び、神道を軽視しました。
生国魂社(イク・クニタマ・ノ・ヤシロ)の樹を切った事もありました。
人となりは、仁(じん)があり、儒教(じゅきょう)を好みました。貴賎を選ばず、頻繁に恩勅(メグミ)を下しました。皇極(こうぎょく)天皇の即位4年の6月14日。天豊財重日足姫天皇(アメ・トヨ・タカラ・イカシ・ヒタラシヒメ・ノ・スメラミコト、こと、皇極(こうぎょく)天皇)は位(くらい)を中大兄(なかの・おおえ)に伝えようと思って、詔(ミコトノリ)して言いました。うんぬん。
中大兄(なかの・おおえ)は退出して、中臣鎌子連(なかとみの・かまこの・むらじ)に語って言いました。中臣鎌子連は謀議して言いました。
「古人大兄(ふるひとの・おおえ)は殿下(きみ、こと、中大兄)の兄です。軽皇子(かる・の・みこ)は殿下の叔父です。今、古人大兄がいらっしゃるのに、殿下(きみ)が天皇の位(くらい)を継げば、人として、弟が慎み従う心を違(たが)える事になります。しばらく叔父を立てて、民の願いに答えれば、良いでしょう」
中大兄は深くその謀議を褒めて、密かに聞き入れました。天豊財重日足姫天皇(アメ・トヨ・タカラ・イカシ・ヒタラシヒメ・ノ・スメラミコト、こと、皇極(こうぎょく)天皇)は、天皇の位を象徴する神器を授けて、位を譲りました。策(オオ・ミコトノリ)をして言いました。
「あぁ、汝(なんじ)、軽皇子(カルノミコ)」と云々(うんぬん)。
軽皇子は再三、固辞して、何度も古人大兄(フルヒトノ・オオエ)に譲って言いました。
別名を古人大市皇子(フルヒトノ・オオチノ・ミコ)と言います。
「大兄命(オオエノ・ミコト)は前の天皇が生んだ皇子です。そうして年長となり年老いました。この二つの理屈から、天皇位に居るべきです」
古人大兄は座(しきい)を避け、尻込みして、手を合わせて、辞して言いました。
「天皇の聖旨(おお・みことの・むね)を受け賜わり、従いましょう。どうして、無理をしてまで、臣下に譲るというのでしょうか。私めは請い願います。出家して、吉野(ヨシノ)に入ります。仏道(ホトケノミチ)に勤めて、修行して、天皇を助けましょう」
辞し終わり、帯刀した太刀を解いて、地面に投げ捨てました。また、天皇・親族の舎人(とねり)に銘じて、皆、太刀を解かせました。すぐに自ら、法興寺(ホウコウジ)の仏殿と塔の間にもう出て、髪と髭を剃って、袈裟(けさ)を着ました。それで軽皇子は固辞できなくなって、壇(たか・みくら)に登って、即位しました。
孝徳天皇(軽皇子)は、神道を軽んじ、仏教と儒教を重んじました。「仁」というのは儒教では大事な人間の性質で、人の上に立つためには必要な「道徳」です。
不擇貴賤、頻降恩勅。
貴賎を選ばず、頻繁に恩勅(めぐみ)を下しました。
という文章があり、恩勅を「貴賎を選ばず」という事は、「生まれ」で人間を評価しなかったということです。
聖徳太子が冠位十二階を定めて、「能力がある人」を出自とは無関係に出世させた挿話と似たようなもので、単純に「能力主義」だったという意味ではないでしょうか。
蘇我入鹿(そがの・いるか)の専横を排除した功労者である中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)でしたが、兄と叔父を飛ばして天皇になるわけにはいかないと固辞しました。年長者である古人大兄(ふるひとの・おおえ)は、仏道に入ったから、と固辞しました。それで軽皇子が即位する事になります。儒教では「固辞」する事がお約束のようです。
また、孝徳天皇の御代に入った直後、孝徳(こうとく)天皇、当時は太上天皇(だじょう・てんのう)ではなくて、皇祖母尊(すめみ・おやの・みこと)と呼ばれていた皇極(こうぎょく)天皇、そして孝徳天皇の甥にして皇極天皇の息子で、更には皇太子の立場にあった中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ)の3名が揃って集まり、盟約が結ばれました。
『日本書紀』には、このように記されています。
乙卯、天皇・皇祖母尊・皇太子、於大槻樹之下、召集群臣、盟曰。告天神地祇曰「天覆地載。帝道唯一。而末代澆薄、君臣失序。皇天假手於我、誅殄暴逆。今共瀝心血。而自今以後、君無二政、臣無貳朝。若貳此盟、天災地妖、鬼誅人伐。皎如日月也。」改天豊財重日足姫天皇四年、爲大化元年。
19日。孝徳(こうとく)天皇・皇祖母尊(すめみ・おやの・みこと、こと、皇極(こうぎょく)天皇)・皇太子こと、中大兄皇子(なかの・おおえの・おうじ))は、大槻(おおつき、こと、けやき)の木の下に臣下たちを呼び集めて、盟約し誓って言いました。
天神地祇(てんしん・ちぎ)こと、天つ神(あまつ・かみ)と国つ神(くにつ・かみ)に申し上げて言いました。
「天は全てを覆い、地は全てを載せる。帝(みかど)の道は、ただ一つ。末代では薄くなり、君子と臣下の序列が失われる。幸い、天は我が手を借り、暴逆の者を誅した。今ともに心の誠を表してお誓いします。今から後、君に2つの政(まつりごと)なく、臣下は朝廷に二心を抱きません。もしこの命に背いたなら、天変地異、怒りや鬼や人がこれをこらすでしょう。それは日月のようにはっきりしたことです。
天豊財重日足姫天皇(アメ・トヨ・タカラ・イカシ・ヒタラシ・ヒメノ・スメラミコトこと皇極(こうぎょく)天皇)は、皇極天皇即位4年を改めて大化(たいか)元年としました。
聖徳太子・蘇我馬子(そがの・うまこ)・推古(すいこ)天皇という偉大な政治家たちがこの世を去り、蘇我蝦夷(そがの・えみし)・入鹿(いるか)の専横を許し、上宮王家が滅び、最後には入鹿が殺され蝦夷が自殺するという大混乱は、まさに末世という印象を当時の人々に与えたと思われます。というわけで、皇極天皇は混乱した世の中を一新したいと思われて、弟の孝徳天皇に譲位したのではないかと思われます。
専横を極めた蘇我蝦夷(そがの・えみし)・入鹿(いるか)親子を廃した最大の功労者は中大兄皇子ですが、「乙巳の変(いっしのへん)」のとき、中大兄皇子は19歳の若者でしたから。さすがに、いきなり母親の後を継ぎ、天皇に即位するには若すぎると思われたのではないでしょうか。今となっては、よくわかりませんが。
